■11 奇数と偶数にかけて、天穹の星の無限にかけて(1)
自分をつけねらう相手に居場所を伝えることになると知りながら、それでもユカは歌うのをやめなかった。
音痴な歌声は上達の兆しを少しも見せぬまま旅路を彩り続けた。
いや、本当はリエッキもとうに気付いていた。
山を行く者の陽気な安全策、見知らぬ者同士の歌による便り。
親友のそれが、本当は不特定多数に宛てられたものではないということを。
己を狙う追跡者、その、本来であれば隠れるべき相手に向けてユカは歌いかけているのだと。
わかっていて、しかしリエッキも歌うのをやめろとは言わなかった。
不思議なものだった。
繰り返される襲来、繰り返される茶番、そして、繰り返される対話と緊張の一時。その積み重ねのうちに、いつしかリエッキは敵手たる呪使いの二人組に親しみのようなものを感じはじめていた。
左利きが厄介な男であることにも、その相棒が鬱陶しい(本当に鬱陶しい)男であることにも変わりはない。
しかし、なにかの具合で丸一日以上彼らが姿を見せなかったりすると、頭の片隅で『今日は来ないのか』と考えている己に気付かされた。
別れ道を過ぎた後などには『あいつら、ちゃんとついて来てるだろうか』といらぬ心配を抱きつつ後ろを振り返り、振り返ったあとでわたしはなにをしているのだろうと自分に呆れた。
自分たちが四人で一組の旅の仲間であるような、そんな錯覚さえ心のどこかにあった。
そして、それは自分ひとりだけが感じているものではないのだという、そんな確信も。
この感覚はわたしたち四人が共に抱いているものなのだろう、と彼女は思う。
ただし、四人のうちの二人は、それよりもなお深遠なものを、ただ彼らだけで共有している。
前を行くユカの背を、リエッキは見るともなく見つめる。
そして親友の向こうに、彼の宿敵たる男の影を幻視する。
二人が互いに向けあう思いの強度は、余人をして計れるようなものでは到底有り得ない。
彼らには既に彼らだけの世界が存在している。
リエッキはそのことを理解していた。
理解していたから、彼女は歌うのをやめろとは決して言わなかった。
そのようにして帰郷の道行きは続いた。
いつしか山路は終わりを迎え、二つの二人組は平らな土地を行く旅人となっていた。
推移するのは季節もまた同様、秋の黄金は次第に褪色し、景色には冬枯れが目立ちはじめていた。
しかし、変化し続ける事象に反して、頑なに変わらない関係も旅路にはあった。
「おうおうおう! ここで会ったが……あーっと……何年目だっけか?」
「百九十四年目、だよ。そっちの数え方にならうならね」
「おう、そうだそうだ! ここで会ったが百九十四年目だぜこの野郎!」
たとえ旅路が目的地に近づこうとも、季節が移ろおうとも、対決の様式は変化とは無縁のままに繰り返され続けた。
それは、あるいは当事者たち自身がその様式をいつのまにか愛しはじめていて、それが為に意識的に守ろうとしていたからかもしれない。
ユカと左利き。
二人の青年は、やがて本人たちの意思とは無関係にその存在を世に認められ、後に訪れる時代の変転に大きく影響を及ぼすこととなる。
これから先の人生で、彼らは無数の名声と栄冠を得て、最終的には後世にまで名を残す史上の人物となる。
そんな二人にとって、この数ヶ月は彼らが最も彼らとしてぶつかり合えた期間であったのかもしれない。
幼稚なやりとりを交わすユカと左利きの相棒を横目にしながら、リエッキは自分と同じように傍観者を強いられている左利きをふと見遣った。
するといつかと同じように、左利きもまったく同時に彼女に視線を寄越した。
この日もまた、二人はしばらくのあいだ無言で見つめ合う形となった。
だが、結末だけが以前とは違っていた。
相手を凝視していなければきっとそうとは気付かなかっただろう。
しかし極めて曖昧にではあったものの、このとき、左利きは確かにリエッキに笑いかけたのだった。
お互いに苦労するなとでもいうような、含みの込められた苦笑いで。
やっぱりわからない男だと彼女は思った。
けれど、嫌な気分はしなかった。
※
緊張を内包しながら、しかしどこかに和気を帯びはじめてもいた、親密な敵対関係。
そんな風に築かれはじめていた彼らの関係に一石を投じる出来事は、左利きの相棒言うところの『ここで会ったが』、その『二百年目』を目前にしたある夜に起こった。
その晩、ユカは書き入れ時の酒場に出番を得て譚っていた。山内でも村民たちの酒の席に招かれたことは幾度かあったが、まっとうに酒場らしい酒場は本当に久しぶりだった。
円卓こそリエッキとは別にしているが、店内には左利きとその相棒の姿もあった。
魔法使いの物語を譚るユカに横槍を入れることもなく、彼らはそれぞれに聴衆の一人としてそこにいた。
物語は今まさに佳境を迎えようとしている。
この夜に譚られたのは百獣の姫君の物語、ユカが最も得意とする一説だった。
劇中の少女が流す涙は聴衆という聴衆に伝染し、陽気なはずの酒の夜をさながら弔いの一夜へと変貌させていた。
とりわけ盛大に泣き濡れているのは左利きの相棒で、向かいに座る左利きはひどく居心地の悪そうな表情をして酒杯を傾けていた。
物語は場に満ちる。魔法を使わずとも魔法のように、ユカのそれは空間を掌握する。
しかし、後に骨の魔法使いとなる少女がその強大な愛を開花させようとしたとき。
物語は、無惨にも寸断される。
重厚な設えの扉が音を立てて開き、複数の男たちが酒場に雪崩れ込んできたのだ。
「やめろやめろ、やめろっ! おい、不届き千万な作り話は今すぐ中止しろ!」
そう声を荒げたのは保安吏を引き連れた呪使いだった。
四十絡みの見るからに尊大な男で、しかしその尊大さと表裏になった卑屈さもまた態度の端々に見て取れた。
ようするに、リエッキのよく知る呪使い、その典型とでもいうような男だった。
「前から噂には聞いていたが、よもや人違いということもなかろう。そなただな、街から街へ、人心を惑わすデタラメを流布して歩いておる語り部というのは!」
吐き捨てるように、あるいは勝ち誇るように呪使いは言った。
リエッキはため息をついて頭を振った。
こういう展開にはもう慣れっこだったし、だからとりたてて戸惑うこともない。けれど街場に下りてきた早々にこれかと、うんざりする思いは強かった。
卑劣、捏造、扇動、そして邪悪……それら苛烈な言葉を並べ立てて、呪使いはユカを糾弾する。
ユカは基本的には言われるままとなっておいて、相手が言葉を途切れさせた時などの隙をついて、やんわりと論理の綻びや矛盾点を指摘した。
そうした対処法は、しかし対話以前に結論を固めている相手には通じず、却って相手の怒りと敵意に油を注ぐ。
呪使いは次第に冷静さを失い、しまいには文脈の一切を無視して言葉尻だけを捉えわめき立て、狂った犬のように彼女の親友に噛みつきはじめる。
端で聞いているだけでも疲れるやりとりだった。
呪使いの連れてきた保安吏たちも一様に辟易した顔をしていた。彼らが権柄尽くに駆り立てられたのだろうことは、推察せずとも一目で見て取れた。
年若の一人が、バカらしい、帰りてえ、と小声で言った。仲間たちは誰も彼を窘めなかった。
そろそろ終いだな。そう判断して、リエッキは放置していた蜂蜜酒を一息に呷った。
もうそろそろ、あの呪使いは保安吏たちにユカの捕縛を命じるだろう。これまでにも同じようなことは数限りなくあった、だから彼女には頃合いが掴めたのだ。
呪使いに不満を感じながら、それでも保安吏たちは不承不承命令に従うだろう。
彼らは遠慮がちにユカに迫り、すまねえな語り部さん、などと詫び言を口にするのだ。そんな彼らにユカはすべてを許すような笑顔を向けるはずだ。
それから、あいつは本棚から一冊選んで手に取る。
そして、誰一人傷一つつけることなく状況を脱してみせるのだ。
すべてがわかりきっていた。考えてみればこれもまた一つの様式だな、とリエッキは思う。
しかし、そんなある種の予定調和が、この夜は破られた。
リエッキが撤収を意図した時、彼女より先に立ち上がった者があったのだ。
気まずい沈黙に支配された店内を横切り、その男はユカと呪使いのところまで歩いていった。
それから、まるっきり身体全部を使うようにして、全力で呪使いを殴り抜いたのだ。
呪使いが転倒し、派手な音を立てて近くの卓席に突っ込む。円卓がひっくり返り、杯や皿が床に散らばる。杯の中身がぶちまけられ、強い酒気があたりに立ちこめる。
殴られた呪使いが、尻餅をついた体勢から自分を殴った相手を見上げた。
信じられないという顔で。
けれど、殴られた当人よりも一層強い驚愕を浮かべている者が、すぐ近くにいた。
ユカだった。
彼は唖然とした表情で呪使いを殴り倒した人物を凝視していた。
そして自覚はしておらねど、リエッキもまた親友と同じ驚きを顔中に貼り付けていた。
にわかに騒乱の巷となった店内で、それをもたらした男は呪使いを睥睨して、叫んだ。
「貴様のような者が……貴様のような者がいるから我ら呪使いは――ッ!」
左利きだった。




