■10 宿敵
長い生涯を通して、ユカというのは二つの意味で敵を作らない男だった。
その一つ目はまったく言葉通りのもの。
天下に比類なき譚りの技倆によって、そして、それ以上に生来備えた人好きのする人柄によって、ユカは旅先で出会った人々から好意と友誼ばかりをいつも山ほども集めた。
もちろん、時には彼に対して敵意や対抗心を剥き出しにしてくる者もあった。
しかしそうした者たちであっても、一言二言と彼と言葉を交わすうちにたちまちユカという人間性に絆されてしまうのだった。
血走った目つきでゴロを巻いてきた男が、数分後には笑顔で彼と酒杯を打ち合わせている、ユカはそういう魅力の持ち主だった。
そして意味の二つ目は、たとえ確固たる敵意を備えた相手であろうともユカの脅威にはなり得なかったということ。
百の物語を譚る語り部は、百の物語で武装した魔法使いでもあった。物語は護符のように彼を守護し、剣のように降りかかる災厄のすべてを断ち切る。
そして他の魔法使いと異なり、彼はその数ある魔法のすべてを旅歩く先々で自由に行使することができた。
やがて司書王と呼ばれることとなる一人の魔法使いは、その名で呼ばれる数年前から既に無敵の存在だったのだ。
そうしたユカの人生の中で、左利きという呪使いは――やがてそう呼ばれることとなる、その男は――極めて特殊な存在だった。
後年、ユカは左利きについて次のように発言している。
『僕とあいつは死ぬまで敵同士だ』と。
ユカがそのような言葉で認めた相手は、後にも先にも左利きただ一人だけだった。
そう、認めた相手。
二人を結ぶ関係は余りに複雑だった。
魔法使いと呪使い、決して相容れぬ立場で出会ったユカと左利きは、立場などまるっきり無効とした地平において見事に対立した。
そして同時に、他者には決して立ち入ることの出来ぬ領域で互いを認め合ってもいた。
※
ねぇリエッキ、僕の里帰りに付き合ってよ。
ユカがそう言った夜から数えて、帰郷の道行きは実に半年もの長きに及んだ。
その間、追う者と追われる者の二組は少なくとも二日に一度、時には一日のうちに二度以上もの接触を持った。
様式となって繰り返されるなにかが山路にはあった。
「おうおうおう、本の魔法使い及びそのツレ! ここで会ったが百二年目だ!」
「やあ呪使いさん、今日は馬には乗ってないんだ? 山道だしね、そのほうがいいよ」
「うっせバーカ! 馬なんぞいなくたっててめえ程度に遅れを取るもんかってんだよ!」
「どうして?」
「物覚えの悪い野郎だな! 前回俺の生い立ちを説明したろうが! 俺はな――!」
「こういう山中の育ち、なんでしょ? うん、覚えてるよ」
「おう、そうだ。だからたとえばだ、逃げ場を失ったてめえが山道から森に逃げ込もうとしたって、俺からは絶対に逃げ切れないってこった。地の利はこっちにあんだからな」
「ふうん。でもさ、僕はここよりずっと深い森で育ったんだよ? あ、そうだ、ならどっちが自然児として上か鬼ごっこで白黒つけよう! じゃ、三、二、一、行くよ!」
「え、あ、あっ!? ちょっ、てめぇ、まちやがれ!」
「おうおうおうおう、おう! ここで会ったが百三年目だぜこの野郎」
「ありゃ、今回は真っ昼間の村里の中で来たんだね。まったく、時と場所を弁えない人だなぁ。里の人たち、みんなこっち見てるよ?」
「うっせえバーカ! 前回は散々翻弄された上でどことも知れぬ山中で迷子にされたが、今回はそうはいかねえぞ! いいか、なにしろここは人間生活の営まれる人間の陣地だ! てめぇみたいな山猿には分が悪いなんてもんじゃねえぜ!」
「こないだまでは散々山猿自慢してた癖によくいうよなぁ」
「うっせバカバカ、ブワァーカ! とにかく、今日こそ憎いてめぇを捕まえて――!」
「捕まえて、どうするの?」
「……へ?」
「だって捕まえて終わりじゃないでしょ? そのあとは? どこかに連行するの?」
「あ……そうだな……ええと」
「連れてかれた先で僕、口に出せないような拷問されるの? それで最後は……殺す?」
「……あ……いや、そこまではしないけど……ええと……どうすっかな……」
「わあああ! 言葉を濁すのは図星だからだ! ぼ、僕は殺されるんだああ! 殺されて血を抜かれて、心臓をはじめとした五臓と六腑を暗黒の儀式に捧げられるんだああ!」
「ち、ちが……おい! 村の奴らが見てる前で人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ!」
「僕はなんにもしてないのに、それが呪使いのやり方なんだあああああああ!」
「だま、黙れ! な、頼むからひとまず黙れ! あの、旦那、どうしま――ンガッ!?」
「説話を司る神の忘れられた御名において……本の角っこってこれ充分に凶器だよなぁ」
「やっ、やめろ! 僕なら構わない! だけど彼女には……リエッキには手を出すな!」
「へへ……ここで会ったが百十八年目、思えば最初からこうすりゃ良かったんだ。ちと悪役くせえのが難だが、てめぇがダメならこの女を捕まえちまえばな!」
「やめろ! 頼むから彼女を離してくれ! でないと……でないと……!」
「くははははは! 今まで嫌ってほどコケにしてくれたてめぇのその慌てる面ぁ、ちと良心が痛むがおおむね気分がいいぜ! さぁ、大人しく両手を――ンゲハッ?!」
「あーあ、だからやめろって言ったのに……ねえリエッキ、頭に来るのは当然だけど、少しは手加減してあげてね……ほら、世の中に悪い人は滅多にいないんだしさ、ね?」
まさに茶番の魔法使いの面目躍如だなと、リエッキがそうひとりごちたのも無理からぬことだった。
毎度毎度登場と同時に突っかかってくる左利きの相棒を、ユカはその都度魔法の一つも使わずにあっさりと煙に巻いてしまうのだった。
相手の勢いを逆手にとって軽々いなすその様は、挑戦者の若者を翻弄する不滅の老賢者をリエッキに想起させた。
神話の賢者がそうであるように、年上の呪使いをあしらうユカに緊張は皆無、むしろ準備運動をしているような軽快な気楽さすらそこにはあった。
そう、準備運動。
後に控えている真打ちとの対決に向けたそれである。
様式となって繰り返される茶番のそのあとは、繰り返される真剣な対峙であった。
騒々しい呪使いが退場した後には、宿敵たる左利きとの対決がユカを待っていた。
彼らの戦いに暴力は介在しない。
それに、奇跡の顕現たる数々の魔法が持ち出されることもない。
どころか、激しい論争や罵声の応酬、それら激情を伴った言葉のぶつけ合いすらも。
ユカと左利き、二人の戦いはあくまでも対話という形式の中で行われた。
苛烈な感情の発露とは無縁のまま、二人の青年はあくまでもおだやかに言葉を取り交わした。
きっと、傍目に見れば友人同士の平和な語らいの時とでも映ったことだろう。
しかし実際には、そこにはリエッキをして立ち入ることを躊躇わせるほどの緊張が張りつめていたのだ。
「あいつは僕と同じ目を持ってる」
ある夜、ユカが唐突に言った。彼は珍しく神妙な顔をして焚き火の炎を見つめていた。
「見えてるものに惑わされずに物事の実相を見抜く目。あいつはそういう目の持ち主だ」
親友の言葉に、リエッキは黙ったまま小さく肯いた。
ユカに対して左利きが『貴様の本質は語り部だ』と断じたことを思い出していた。
それに戯れ言と笑いながらも、彼は人の姿のリエッキを山の神と結びつけて言及してみせたのだ。
あの時の緊張、強すぎて自覚すら出来なかったほどの極度の緊張をリエッキは思う。
我知らず薪山に手が伸びていた。忌々しい気分を舌打ちに込めて、彼女は焚き火に枯れ枝を投げ込んだ。
ああ、今夜は妙に冷え込む。
「でも、人里離れた森の奥でのびのび育った僕がそういう直感に優れてるのと、窮屈な呪使いの世界で育ったあいつがそれを持っているのとじゃ、その重みは全然違う。僕のはほら、ほとんど動物的な勘みたいなもんだからさ」
少しだけ悩んだあとで、リエッキはやはり黙したまま肯いた。
呪使いというのはとかく頭でっかちな奴らだ。彼女はその実際をこれまで無数に目にしてきた。
博識を自負する呪使いたちは、知識を妄信するが故に知識に溺れる。
そして自分たちの理解が及ばぬ状況に直面すれば、彼らは躊躇なく新たな迷信を生み出してしまう。
そんな賢くて愚かな連中。であればこそ、彼女と親友は何度も奴らを出し抜いてこられたのだ。
呪使いという人種は幼少からの徹底的な教育の上にようやく完成するのだという。利き手の矯正という馬鹿げた絶対条件を思えば、ほとんど物心つく前からそれははじまっているのだろう。
特にあの男――左利きほどの英才ともなれば、推して知るべしだ。
つまりあの男は、幼い頃から凝り固まった価値観にどっぷりと浸かり、偏見と迷信をたっぷりと呼吸しながら育ち、しかしそうした中でも自己を見失わずに今日まで鍛え上げてきたということになる。
それはどのような知性、どのような意思の成せる技なのだろうか。
あるいは、どのような信念の。
「あいつは手強いよ。話せば話すほどそれがわかるんだ。言葉を重ねるほどに、彼という人間の計り知れなさばかりが。……弱ったもんだよ、あんなのに目をつけられてさ」
「そんなに手強いか?」
「うん。あんな呪使いはまず他にいないだろうね」
「ふうん、そうかよ。じゃ、なんであんたはそんなに楽しそうな面してるんだ?」
「……楽しそう?」
僕が、と自分を指さしながらユカが訊いた。
あんたが、とユカを指さしてリエッキが応じた。
しばしのあいだ、ユカはひどく間の抜けた顔をしていた。
はん、リエッキはいつものように鼻を鳴らして呆れを表現した。
この様子だと本当に自覚がなかったらしい、と彼女は思う。
厄介な呪使いの話をするユカは、しかし言葉とは裏腹に妙に活き活きとした顔をしていたのだ。陽気さすら感じさせるほどに。
リエッキの指摘に対して、ユカは肯定も否定もしなかった。
彼はただ子供のように屈託のない笑顔を浮かべて彼女に笑いかけただけだった。
言葉に窮したり、なにかを誤魔化そうとしたりするとき、彼女の親友はいつもこうするのだった。
なにやら名状しがたい気持ちがリエッキの胸の中に膨らんでいた。
その感情の正体を彼女が知ったのは、それからずっと先、数十年を経てからようやくのことだった。




