■8 悲しみを悲しんで
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親友の物語を、彼女は順序立てて語るわけではなかった。
その日の気分に応じて、または日常のささやかな出来事から連想を得て、あるいは聴衆にせがまれて……数々の挿話は心の赴くままに断絶して語られ、時系列はむしろ徹底して無視された。
少年時代が物語られた翌日には壮年期が、そしてその翌日には青年の時代が語られると、そういった次第である。
奔放な語りは、さながら対話であった。
語り手と聴き手の。
そして、過ぎ去った日々との。
その日にリエッキが語ったのは遠く砂漠の国を旅した時の一件だった。
その国で、彼女と親友はとある二つの部族の抗争に巻き込まれ――というか積極的に首を突っ込み――、白刃が閃き鏃が飛び交う中をくぐり抜け、そして、最後には両部族のあいだを取り持ち世代を超えた対立に終止符を打つ役割を果たした。
彼女と親友の数ある冒険譚の、これはそのほんの一つである。
この話を、リエッキは既に三回も繰り返し語っていた。聴衆の一人がこの話をいたく気に入り、別の話をしようとしても「きょうもあれがいいの!」と譲らないのだ。
親友のそれと比べればあまりに拙いリエッキの語り口に、しかしカルメは毎度食い入るように聞き入った。
話しの筋はもう知っているはずなのに、それでも瞳の中の爛々とした輝きは一向に弱まる様子がない。親友が魔法を使う場面では牛頭が玩具を使って劇中の状況を表現してみせるのだが、図書館の寵児はこの演出もまたお気に入りだった。
悪魔の膝の上できゃあきゃあと黄色い声をあげる幼子の様子に、これは明日もまたこの話だな、とリエッキは苦笑する。
彼女が物語の終わりを告げた瞬間、カルメは牛頭の膝から飛び降り、わずかな距離を全力のかけっこで駆け抜けてリエッキの膝に抱きついた。
物語の余韻に満ちた二つの瞳が彼女を真っ直ぐに見上げる。そして幼子は言った。
「かるちゃん、ゆかにあいたい。あってみたい」
それはあまりにも無邪気で、あまりにも他意のない要望だった。
すぐに言葉を返すことが、リエッキには出来なかった。
視界の外で牛頭が息を呑んだのがわかった。
「残念だけど……それは出来ないんだ」
しばしの沈黙のあとでようやく彼女はそう言った。
「どうして?」とカルメが首を傾げながらさらに言った。
好奇心に満たされた幼子は、大人たちの空気の変化になど気付いてもいなかった。
「……死んじまったからだ」と、リエッキは言った。
「しんじゃったから」
確認するようにカルメが繰り返した。
「しんじゃうと、もうあえない?」
「そうだ。死んじゃうともう会えないんだ。死んじゃった奴には、もう」
「ぜったいに?」
「……絶対に。もう二度と」
死んでしまった奴にはもう会えない。絶対に、もう二度と。
リエッキはその答えを己で噛み締める。
それは、なんていう厳しい決まり事だろう。
「さっ、お話の時間はこれでおしまいです」
そこで、牛頭が陽気な声を出して手を叩いた。
「ねぇカルメ、ちょっと一緒に森を散歩してきましょうよ」
「うちあたまとふたりで? んん、でも……りえっきはいっしょじゃないの?」
なにかをうったえるように、カルメがぎゅっとリエッキの服を握りしめる。
「もちろんリエッキさんも一緒で構いませんよ。でも……困りましたね。それだと二人だけの秘密がばれてしまうかも……ほら、このあいだ一緒に仕掛けた蜜蜂の――」
「わあああ! いっちゃだめなの! それりえっきにはないしょなの!」
大慌てで言葉を遮ってカルメが牛頭に突撃する。
「はは、というわけでリエッキさん。私たちは森の散策を楽しんできますよ」
言いながら姿勢を下げた牛頭にカルメが無言でよじ登る。
背中を伝って頭にしがみついた幼子を肩車にして、貴人の姿をした悪魔はエントランスに向かって歩きはじめた。
二人を見送ったあとで、リエッキは一人図書館の奥に向かった。
※
親友が死んでしまったあとのことを、彼女はいつか死ぬ日まで忘れないだろう。
自分のことを、まるで実体を失った影であるかのように彼女は感じた。己という存在の頼りなさに愕然とし、何度も両脚が傾いだ。
あいつがいたからわたしはわたしでいられたのだ、そう強烈に自覚すると共に、親友と過ごした一分一秒を余さず愛していた自分をあらためて痛感した。
そして自分は今後、あいつのいない一分一秒を憎みながら生きていくのだと、そう悟った。
最初の盗賊が図書館に現れたのは、親友の死から数年が経ったころだった。
『司書王の遺産を貰い受けに参った』
夢見る瞳で書物の海を眺め渡しながら、男たちはそう宣言した。
こいつらは司書王の不在を知ってここを襲った――理解は彼女の内面において即座に、『こいつらはあいつが死んだのを喜んでいる』との結論に変換された。
瞬間、怒りが沸騰し、憎悪が煮えたぎった。
そしてすべての憎悪がそうであるように、彼女のそれもまた復讐を求めた。
自分が図書館の番人であることを、そのときようやく思い出した。
親友が生きていた頃には一度として使わなかった――使う必要のなかった――力と衝動を、彼女はこのときはじめて解放した。
そして我に返った時、目の前には血まみれになったエントランスと、もはや何人いたのか判別不能なほどにばらばらに散らばった賊どもの手足とがあった。
虚しさに彼女は泣いた。
しかし自分にはもうこれ以外なにもないのだと、そう理解もしていた。
それから百年、彼女は図書館の番人という役目にしがみついて生きた。
親友と駆け抜けた日々を夢に見て、目覚めた時には火のような喪失感に涙を流した。
そして時折やってくる賊どもには、親友の語った『理想の図書館』の理念の、その最後の一柱として立ちはだかった。
百年間、彼女は一度として賊に情けを与えなかった。
彼女にとって、彼らは殲滅すべき悪意であり、暴力と殺戮の教材であり、憎悪の源泉でありまたその吐け口だった。
しかしその賊に、一月前、彼女は確かに情けをかけたのだった。
「こちらにいらっしゃいましたか」
片膝を抱えて無限の書棚を見上げていると、そんな声が降ってきた。
視線を向けると牛頭が一人で傍らに立っていた。カルメは連れていなかった。
「あの子ならいまは休んでますよ。子供っていうのは後先を考えずに全力で遊びますからね。それで疲れ果てて、燃料が燃え尽きたみたいにばたんと寝てしまうんです」
そう説明しながら、牛頭もリエッキとおなじように書架に背を預けて腰を下ろした。
「隣に座っていいとは言ってないぞ」
「隣じゃありませんよ。だいたい一人分の余地は取ってあります」
まぁ我慢してください、あなたを見下しながら話すというのはあとが怖いですからね。
牛頭のそんな軽口に、リエッキは応とも否とも言わずにはんと鼻を鳴らした。
それから、彼女は自分からそれについて切り出した。
「悪かったな。子供の言うことに動揺したりしてさ」
彼女の謝罪に対し、牛頭はなにも言わず、ただやんわりとした笑みで受け止めた。
「最近は、随分平気になったつもりだった。でも、嫌気が差すほど弱いな、わたしは」
「平気になったのは、あの子のおかげですか?」
自虐めいた言葉は優しく受け流して、牛頭はその部分にだけ反応した。
「そうだな、あの子のおかげだ」
彼女は言った。
「あんまり手がかかりすぎて感傷に浸ってる暇もない。まぁ、こんな場所で元気に成長してくれて、それはすごく嬉しいけど」
「それもこれも私とあなたがいたからですね。いいですか、私も重要なんですよ?」
「ああ、そうだな。わかってるよ」
冗談の中にひそむわずかな真剣さがおかしくて、リエッキは少しだけ笑う。
「ほんとにさ、これで母親がいてくれたら、きっともう言うことなしなんだけど」
「またそれですか? あなたって人は、ほんっとうに自覚のない――」
「まぁそう言うな。別にないものねだりで鬱々としようってんじゃないんだからさ」
呆れた調子の牛頭の言葉を遮って、リエッキは言った。
「ただ、少しだけ思い出したんだ。母親ってのはいいもんだってさ」
ぽかんとした顔で自分を見る牛頭を無視して、リエッキは過去に思いを飛ばす。
彼女は思い出す。
世界最強の三人目。彼女が出会った、四人目の魔法使いのことを。
――ああそうだ、母親ってのはいいもんなんだ。
「……安心しました。その顔なら、もう心配はなさそうですね」
「ん? なんか言ったか?」
小声でなにか呟いた牛頭に、リエッキが追憶を振り切って問い掛ける。
「先に戻っている、と言ったのですよ。そろそろお夕飯の準備に取り掛からないと」
そう答えて牛頭は立ち上がった。
カルメが乳離れしてからこのかた、図書館の台所は彼の領域となっていた。
幼子の摂取する栄養にこの悪魔は常に細心の注意を配っているのだった。
「では、リエッキさんもできるだけ早く戻ってくださいね」
あなたがいないとカルメは食が細いんですから。
そう口やかましくいいながら歩き出した牛頭に、はいはいわかったよ、とリエッキもおざなりに返事をする。
そのまま歩み去るかに見えた牛頭は、しかし、少しだけ離れた場所で立ち止まった。
「ねぇリエッキさん。悲しいと感じるのは、弱さではないんですよ」
牛頭は言い、そして続けた。
「その悲しみは、あなたが彼と一緒にいたことの証明なんです。その悲しみを失ったら、きっと、あなたは今よりももっと深い喪失を抱くことになるはずです」
それは価値のある悲しみなんです、と彼は言った。
それは意味のある悲しみなんです、と。
リエッキはなにも言わなかった。なにも言えない状態になって、膝に顔を埋めた。
「では、先に行きます。カルメがね、明日はあなたとかくれんぼをするって言ってるんです。だから、ゆっくり戻ってきてください。……しっかりと悲しみを悲しんでから」
それだけ言うと、彼は今度こそ本当にその場を去った。
リエッキがずっと泣いていたことに、牛頭は最後まで一言も触れずにいてくれた。




