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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 四章 かくれんぼでは鬼のことを
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■3 三年後の竜と語り部

●━━━━━━━━━━━━━━━━━━●


 長い物語は終わった。かたりを終えた物語師は立ち上がり、聴衆に向けて一礼する。

 その語り部に、しかし拍手や喝采を送る者は皆無だった。

 聴衆は皆、声を殺して泣いていた。



   ※



 この日、譚りの舞台となった酒場は日暮れ前から喧噪の極みにあった。

 街は恋愛と婚礼にまつわる盛大な祭りで広く知られており、その初日はいよいよ翌日に迫っていた。

 商機をかぎつけた隊商や旅商い、それに祝言を挙げに来た若き夫と新妻……店内はそれら多様な客層でごった返していた。

 まだ日の高い時間帯から、店内では酒焼けした声と愛の囁きとがてんでに入り乱れて夜を待っていた。


 そうした騒がしさはしかし、日没の頃を境にしめやかな静寂へと推移しはじめる。

 場末の活況は急速にその地位を失墜させ、代わりに場を支配したのは物語だった。

 そして真夜中を間近に控えた今、喧噪はその名残からして皆無となっていた。



 店の奥に設えられた演壇から、語り部はゆったりした足取りでこちらに歩いてくる。

 満席の沈黙を、啜り泣きの声を、己がもたらしたそれらをすました顔でやり過ごして。


 その姿を半ば呆れた心地で見つめながら、リエッキは思う。

 あいつはすごくなった、と。


 踊り子と別れて二人の旅を再開してから、既に三年が過ぎようとしていた。

 その三年のあいだに、彼女の親友は語り部としての力量をぐっと増した。

 雰囲気を出すための音楽などなくとも、あいつは話術一つで酒場の空気を一変させてしまう。ひとたび語り出せば、物語は結界のようにその場に張りつめる。

 声色は登場人物の数だけ存在し、酒場の薄暗がりに聴衆は情景を幻視する。


 魔法を使わずとも、それはあらかた魔法のような譚りだった。


 才能はもともとあった。それに能力も。

 しかし時と場数の洗礼を受けて、今では子供の頃には決定的に不足していた凄みや貫禄と呼ぶべきものがそれらに加わっていた。


 あいつはすごくなった。

 リエッキはしみじみと思う。


 あいつは、本当に変わっ……。


「ねぇねぇねぇ、どうだった? ねぇ、リエッキ」


 子供のようにはしゃいだ声が彼女の思考を遮った。

 視線をあげると、いましも向かいの席に親友が腰掛けようとしていた。

 ある種の神秘を感じさせる語り部の顔は、もはやそこにはなかった。

 席に戻ってきた瞬間にすべての虚飾が剥がれ落ちたかのように、彼は完全に普段の彼へと戻っていた。


「結婚のお祭りにちなんで今夜は姉さんたちの恋路を語ってみたんだけど、なんだか思いのほかウケが良かったみたいで……って、なに考えてたの?」

「……あんたはまるっきり変わらないなって、そう思ってただけだ」


 人懐っこい笑顔を向けてくる親友に、リエッキは情感たっぷりのため息で応じた。

 この年の春、今から半年ほど前に、彼女の親友は十八歳の誕生日を迎えていた。

 今や彼は近隣諸国に比肩する者のない……いや、あるいはそれよりもさらに広い世界を見渡してもなお類を見ない、無双の語り部となっていた。

 一流を凌ぐ一流、蜜の舌の物語師。

 その評判は二人の与り知らぬところにも広がっているらしく、稀には土地を支配する領主の館に招かれるというようなことまであった。


 しかし、語り部という対外的な仮面を外してしまえば……。


「物語ってる時とそうでない時とで、あんたはまるっきり別人だ。語り部の顔をしてるときは雰囲気からして引き締まってるのに、今のあんたの腑抜けた様と来たらまぁ……」

「腑抜けてるって言いぐさはひどいなあ。なにかほかに言い方ってもんがあるんじゃないの? たとえば悠然としてるとか、でなければ闊達が態度に表れてるとか」

「なんと言おうと腑抜けは腑抜けだ。言葉を取り繕って誤魔化そうとすんな」

「そんなこと言ったって僕は語り部だもの。言葉の修辞は職業病みたいなもんだよ」


 親友が頬を膨らませて不平を表現する。ほれみろ、まるっきりガキのまんまじゃないか。

 再びのため息混じりにそう指摘して、リエッキが「はん」と鼻を鳴らす。


 それから、二人はどちらからともなく口元を綻ばせる。


 少年期は終わっていた。いま、彼女の前には肩幅の広くなった青年の身体がある。

 柔和さはそのままに精悍さの強く兆したおもてがある。


 だけど、それだけだった。

 リエッキは思う。こいつは本当に変わった。

 けど、こいつは――ユカは、なにも変わっちゃいない。


 眼差しと眼差しのあいだにある、呆れるほど変わらないなにか。

 その変化の無さをこそ歓迎するように、ユカとリエッキは互いに笑みを向け合った。


「ともかく、お疲れ様でした」

「……ん、おつかれ」


 それぞれにジョッキを手に取り、こつんと打ち鳴らす。

 今夜の物語(二人の姉である踊り子の恋愛譚である)は常にないほどに長大だった。その間、二つの杯はリエッキと一緒にユカが一仕事終えるのを待っていたのだ。最初の一口は二人揃って乾杯をしてから。彼女が己に課した決まり事は踊り子が抜けてからも変わっていなかった。


「あの女、達者でやってるかね」


 言って、リエッキは酒杯を傾けた。

 酒精と馴染み深い甘みが喉を潤すと同時に、爽やかな柑橘の香味が鼻先をくすぐる。

 流石は婚礼の街の酒場だ、と内心で舌を巻く。


 新婚夫婦の飲み物でもある蜂蜜酒に、この店では檸檬の果汁を搾っているらしい。

 醸造の段階で加えられる水も最低限に抑えられているのか、極めて美味だった。


 良い夜だ、と彼女は思った。


「姉さんについては心配ないと思うよ。それより僕は兄さんが心配だな」


 ユカが同情的な笑いを浮かべながら言った。

 違いない、とリエッキも同意する。


 南から引き上げてきた踊り子と二人が再会したのは一年ほども前になる。

 二年ぶりに出逢った彼女は、一人ではなかった。


「あたしの弟と妹よ」と、そう踊り子に紹介されたユカとリエッキに対してその青年は「それじゃあ君たちは僕の義弟と義妹になるのか」と大真面目に言ったのだ。


 彼こそが踊り子の探し人でありまた思い人でもあった膚絵師、色の魔法使いその人だった。

 ユカが彼をどう呼ぶかはその瞬間に決定した。

 姉の夫なら、それは兄にほかならない。


「内省的というか大人しいというか、魔法使いにしちゃえらくうだつのあがらない男だったからな。あの女が相手じゃ尻に敷かれるのが目に見えてる」

「僕を含めて三人しか魔法使いを知らない癖によく言うよ。だいたい君、姉さんの前で兄さんをそんな風に言ってみろ。下手すりゃ僕は竜殺しの現場を目撃する羽目になるぞ」


 考えるだにおそろしいよ。苦笑しながらユカが身震いしてみせる。

 八割の冗談の中に二割ほど本気が含まれている気がした。

 僕の知り得る限り君と姉さんは世界最強の女性の三指に入るよ、いつだったかユカがそう言ったのをリエッキは思い出していた。


 それから、彼女は親友の口にした言葉をもう一度咀嚼する。

 竜殺し。竜、か。


 もう長いこと竜の姿に戻っていないな、と彼女は思う。

 この三年で、ユカは語り部としてだけでなく魔法使いとしても大いに成長した。

 あるいは語り部の彼と魔法使いの彼は表裏一体なのかもしれないが、とにかく本棚はぐっと重くなった。

 リエッキを変身させている物語もページ数を増やし、今ではほとんど時間の制限を受けずに彼女は人の姿のままでいられた。


 リエッキは考える。

 この三年でわたしは変わったのだろうか、と。

 変わったとしたら、それはいったいどんな風に?


 わたしは時に自分が竜であることを忘れるほど人間が板に付いた。

 わたしはごく自然に人として振る舞えるようになった。

 その必要もないのに食事を楽しむようになり、美味いとか不味いとか細かい感想を言うようになった。

 長く風呂に入らなければ不潔を感じるようになったし、たまには髪を結うようにもなった。


 そして髪型を変えたことに気付いてもらえると、その日一日はなんだかひどく気分が良いのだ。

 わたしは――


「ねぇリエッキ」


 そのとき、空になったジョッキを逆さにしながらユカが言った。


「さっき君は僕のことを変わらないって言ったけど、でも……君は随分変わったよね」


 口にされた言葉は、リエッキの内心を見透かしたかのように時宜を捉えていた。

 それはどんな風にと、リエッキは聞かなかった。

 それは良い変化なのか、それとも悪い変化なのか、とも。


 彼女はただ一言「そうか」とだけ言った。

 そして親友が次になんと言うのか、期待と、それに幾ばくかの不安を覚えながらただ待った。


「君は変わった」


 ユカがもう一度言った。

 そして、彼は真っ直ぐな瞳で彼女を見据えて、続けた。


「君はすごく変わった。……けど、やっぱりなんにも変わってないって気もするよ」


 にへらっと緩みきった笑顔で彼はそう言い、「おかわりする?」とリエッキに訊いた。


「はん、意味わかんないやつ」とリエッキは言った。「……うん、する、おかわり」


 親友と同じように自分がにやけていることに彼女は気付いていた。

 しかしどうしてそうなっているのかはわからなかった。


 理解の及ばぬ心理は迷いなく放棄して、彼女は残っていた蜂蜜酒を一気に呷る。

 婚礼の街の極上の蜂蜜酒が、心地よく喉を潤した。


 ああ、本当にいい夜だ。




「――もし」




 その男が二人の席にやってきたのはそうした時だった。


「もし、少しよろしいですか?」


 リエッキとユカは同時に声のした方に目をやった。

 そこにいたのは一人の青年だった。年の頃はちょうどユカと同じくらいの若い男が、薄く笑みを浮かべて二人の傍らに立っていた。


 最初、彼女は青年を店の人間だと思った。

 話を訊いていた給仕が気を利かせて注文を取りに来たのだと。

 あるいは、客たちから集めたおひねりを届けに来たのだろうと。

 踊り手や大道芸人に対しては直接おひねりを投げるものだが、物語師や歌手などの余韻もまた大事とされる演者については店側が集金を代行する。

 その通例はおよそいかなる土地の酒場でも共有される文化である。


 しかし青年は店の関係者ではなさそうだった。

 それに――リエッキはそのことに気付き、にわかに警戒を固める。


 ちょっとした仕草や物腰からそれはわかった。青年の利き手は左だったのだ。

 ――まじない使いだ。


 リエッキは目配せでユカにそれを知らせようとした。

 だが、それには及ばなかった。


「わたくしどもに、なにかご用がおありで?」


 そう訪問者に応対したユカは、既に仮面を付け替えていた。

 表情は一見して柔和な笑みのままで、しかしその笑顔に、先ほどまでの子供じみた風情は欠片もなかった。


 そこにいたのは語り部であり、語り部と表裏を接する顔を持つ魔法使いだった。

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