◆10 こうすればよかったのか
本日は二度の更新をしています。七時台の更新をまだお読みでないかたはそちらからお読みください。
刻限は夕景の頃を迎えて。夏の日の遅い夜は、ゆっくりとその帳を降ろして。
刻々と、刻々と、運命の一日は終わりに向かいます。
刻々と、刻々と、二人の物語は幕引きへと向かいます。
皆様。長い物語も、もうすぐ終焉を迎えようとしています。
ああ、やはり皆様は素晴らしい聴衆だった。
今宵ここまでの皆様のご静聴のほどに、物語に対する真摯さに、わたくしは語り部冥利とでも申すべき想いを抱かずにはおられません。
日々旅に生き旅を住処とするこの身にはございますが、あるいは酒精と人いきれに満たされたこの静けさこそが、語り部たるわたくしにとっての安住の地であるのかもしれません。
それでは、いまひとときだけ、あとひとときだけ。
わたくしに……いいえ、彼と彼女におつきあいください。
※
「ヤサ男! ヤサ男! ヤサ男!」
繰り返し、繰り返し、少女は青年の胸を叩きます。
一打一打に込められているのは苛烈なまでの感情で、だから、一打を重ねられるほどに青年は惑いを深めます。
戸惑って、戸惑って、己の置かれている立場と状況の一切を忘我の境へと置き忘れてしまいます。
いいえ。
本当は頭の大部分ではしっかりと現実を認識していて、しかし、彼は意図的にそこから目を背けようとしているのでした。
胸を叩く拳は痛くて、甘いほどに痛くて、だから、胸板の先にある心が、泣き喚いて思考を拒絶するのです。
「ねぇ、わかってるの? あたし、すごく怒ってるのよ? あなた、あたしにすっごくひどいことしたのよ?」
「……すまない」
「簡単に謝るな! どうせなにがすまないのかだってわかってない癖に!」
「……僕は、君の晴れ舞台を……ここ一番の活躍の場をぶち壊しにしてしまった」
「ほら見なさいよ! やっぱりなんにもわかっちゃいないじゃない!」
そう叫ぶや否や、平手が鋭く閃きます。一切の遊びのない本気の怒りが、渇いた音を立てて青年の頬を打ち据えます。
「……舞台なんて、そんなのであたしが怒ってると思うなら、それだってひどいことの一つだよ」
「……ごめん」
「謝るなバカ! あなたの口から出るごめんもすまないも聞きたくない!」
もう一度だけ青年の胸に拳をたたきつけて、少女はこぼれる涙を拭います。ぐし、と、無造作に。
その仕草は舞台上の彼女が見せる洗練された美とは程遠いものでした。
いかにも俗っぽくて、いかにも生々しくて……ああ、だからこそ青年はその仕草から目が離せません。
やはり僕は浅ましい、と彼は思います。やはり僕は醜悪だ、と。
二度とは聞けないと諦めていた声が耳を打つたびに、二度とは触れられぬと信じていた体温が肌に触れるほどに、彼は自分の中の決意が崩れ落ちてゆくのを感じます。
僕は今日名実ともに邪悪になって、だから、その僕と一緒にいたら彼女にまで累が及んでしまうと、僕はそうわかっていて。
なのに、ああ、それなのに。僕は、僕は――。
「あのね、あなたは今日、あたしの一番大事な人を台無しにしちゃうとこだったのよ?」
涙の声が忸怩する思考を遮ります。
大事な人? と、そう問い返そうとした青年の胸に、少女が額をぴたりとつけます。
「……その人は筋金入りに鈍感で、他人のことどころか自分の気持ちもわからないほど鈍感で……そして、自分の優しさに気付かないくらいに、すごく優しいの。あたしは、だからその人が世界で一番大事で、世界で一番大切で……ねぇ、ここまで言ってもまだわかってくれないの?」
青年はなにも言い返しませんでした。
少女がなにを言わんとしているのか少しずつですがわかりはじめていて、だからこそ、彼はなにも言えなかったのです。
「あなたは、あんな風にひどいことはしちゃいけなかったのよ。だってそんなこと、ほんとはしたくなかったはずなのに。悲しくて苦しい色を嫌って、ずっと優しい色で世界を塗り替え続けてきたあなたが、あんな……ダメだよそんなの。あなたは優男でいてくれなきゃ、やっぱりダメだよ」
青年の胴に少女は両手を回し、逃がさないとでもいう風にぎゅっと力を込めます。
この瞬間、青年は己の中の憎悪と狂気とが完全に浄化されて消えるのを感じました。
「ったく、なにが『おひらきにする』よ。ふざっけんじゃないわよ」
「……だけど、僕は大勢の人たちが見ている前であんなことをしでかしてしまったんだ。僕と一緒にいたら、君までが邪悪とみなされてしまう」
「それがなんだってのよ? だいたい、今日のことであなたをどうこうしようって輩が現れたら、今度はあたしが踊りでやっつけてやるわよ。その代わりあなたはもう今日みたいなことはしちゃダメ、そのときはあたしの出番。ね? 二人一緒なら役割分担だって可能でしょ?」
「いや、しかし……それに、僕は僕自身知らなかった己の醜悪さに今日気付いたんだ。だからつまり、僕は邪悪なだけでなくて、浅ましくて、卑怯で……」
青年がそこまで言ったとき、自虐的な発言を制止するように、再び平手が頬を打ちます。
「それ以上あたしの愛する人を悪し様に言ったらただじゃおかないわよ」
真剣な怒りを込めて、少女が彼を睨み据えます。
「……愛する?」
頬を抑えながら煩悶する青年に、少女は盛大なため息で応じます。
どうしてそのくらいのことがわからないのよ、とでも言うように。
ああ、皆様。
皆様もご存知の通り、我々の主人公はあまりにも不器用な男です。少女がそうと評したとおり、筋金入りに鈍感な男です。
色という真理を通さぬ限りは目に見えているものの形すら掴めないような、情けない男です。
ですが彼はこの日、片方の眼を閉じずとも一つの解答を得ることに成功したのです。
長い間取り組んできた問題の答えを、彼はようやく掴んだのです。
呆れ顔の少女を、青年は前触れもなく抱きしめます。
この唐突な行動に、腕の中の小さな身体は小鳥のように跳ね、赤く染まった涙の瞳がそれとは別の紅さを湛えて青年を見つめ返します。
しかしそうした相手の反応には構わず、彼はいつかのような淡々とした口調で切り出しました。
「たとえば僕は君のこの髪が好きだ。顔料の映える白い肌も、黒瑪瑙を思わせる二つの瞳も、夜にも咲く日向の笑顔も好きだ。有形であり無形である君のすべてが、目に見える君のすべてが好きだ。……それに、目に見えない秘匿された部分に思いを馳せることも、正直しばしばだ」
事実を述べ揚げる調子で続く赤裸々な告白に、少女の美しい顔容がたちまち真っ赤に染まります。
赤くなりながら、しかし彼女は黙って青年の言葉に耳を傾けています。
なるほど、こうすればよかったのか。青年は心の中でしきりに肯いています。
なるほど、俺はこうしたかったのか、と。
不器用で、不器用過ぎて、世間一般の類型から答えを導きだすことすらできなかった彼は、しかし自分の愛する相手からならば学び取ることができたのです。
恋愛への向き合い方を。それに対してどう振る舞い、そこになにを求めればよかったのかを。
「舞台上の君が纏う健全な蠱惑にいつも胸が躍る。君が僕にだけ見せてくれる表情に胸が高鳴る。これは僕だけの特権なんだって、得意な気分になる。君のわがままに振り回されながら、君がわがままを言う相手が僕だけなのが嬉しい。
だからつまり、なにが言いたいのかというと……」
――なんだ、恋愛とは、こんなに簡単な行動を求めていたのか。
「……つまり、僕は君を愛してるんだ」
「ほんとにさぁ、なんであなたはそうやって大事なことを淡々と言うかなぁ……もっと気分を出したりとか、せめて言いにくそうにしたりとか、できないかなぁ……んもう!」
そんなのとっくに知ってたわよ!
そう叫んで、彼女は青年の胸に顔をうずめたのでした。




