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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
◆ 譚章 色の魔法使いの挿話
43/141

◆9 夢の終わり

 それは、ほとんど無意識の反応でした。

 少女の視線を受け止めた数秒後、青年はあらゆる思考を逸した衝動に突き動かされてその場から逃げだします。

 己の手により生みだされた無惨むざんに背を向けて、元凶である貴族と呪使いには結果としての慈悲を与えて、舞台から客席へと分け入ります。

 未だ状況の把握には至らず、それが為に混乱とも無縁でいる観衆たちを押しのけて。

 そうして広場を脱したその後は、二つの足を止まらず転げる車輪と変じさせて、無我夢中で走ります。


 昼下がりは黒く染まって。

 祝祭の活況は惨憺さんたんたる色調に沈んで。

 しかしそれをなしたのは、他の誰でもない彼自身なのです。


 混雑する市場を、青年は無我夢中で駆けました。行き交う女房や旦那らと幾度もぶつかり、生魚の泳ぐ水樽を危うく倒しかけ。荷運びの軽子についてはとうとう突き飛ばしてこれを転倒させ、しかしそうした一切をまるっきり気にもかけずに。

 迷惑に対する抗議の声がそこここからあがりますが、もちろんこれも一顧いっこだにしません。

 もはや形振り構っている余裕はなくて、またそうしている猶予もありません。


 遠ざけなければ、と彼は思います。

 引き離さなければ、と彼はおもいます。

 僕という邪悪から、彼女を、少しでも遠くに。


 どこをどう辿ったものか自分でもわからぬまま、いつしか彼は逗留とうりゅう先の宿屋へと帰り着いておりました。

 形振り構わぬ遁走は、そこでようやくひとまずの終わりを迎えました。


 乱れた呼吸を整える為の暇も惜しんで、青年は木戸口へと通じる扉を押し開けます。受付で午睡に微睡まどろんでいる店主の前を素通りして、数日分を先払いして借りている客室へと戻ります。


 朝には二人で出発した部屋に、ただ一人で。

 無人の部屋に孤立した瞬間、彼を襲ったのは暴力のような喪失の実感でした。

 この日に限らず、今までは出掛けるときも帰ってくるときも、常に二人一緒だったのです。

 彼の隣にはいつでも日向の笑顔が咲いていて、片方の腕には絡まる別の腕の体温がありました。

 ですが、それらはつい先刻、永久に失われてしまったのです。


 憎悪は既に成りをひそめて、狂気は静まって、心は奇妙なまでに落ち着いていました。

 平静を超えた、なぎの夕方のような心境。

 その精神のしずかの中で、あらためて彼は己の失ったものについて思いを馳せます。


 耳から離れないのは制止の声。最初の『やめなさい!』は引きつった叫びで、次の『やめて!』は強い調子の命令で、最後の『やめよ?』には、(こん)(がん)の響きすら宿っていて。

 網膜に焼き付いているのは表情です。戸惑いの表情。眼前の光景を受け入れられずに我が眼を疑っているあの表情。信頼と驚愕の狭間に揺れている表情。

 ああ、そして。

 繰り返し脳裏をよぎるのは視線です。真っ直ぐに彼を捉える一対の目。彼の行いを非難する、無言にして雄弁な目。

 少女の、愛する人の悲しみの瞳です。


 俺は、私は……僕は、彼女を失ったんだ。

 理解は人格と存在のすべてを貫きます。

 膚絵師はだえしとしての彼を、魔法使いとしての彼を……そして、そうした肩書きの一切を無効とした、剥きだしの彼という人間を打ちのめします。

 失意はあまりにも深くて、悲しみはあまりにも烈しくて、だから、青年は一人嘆じます。


 ――ああ、よかった、と。


『良かった? 良かっただと? いったい、なにが良かったってんだよ?』


 弟の呟きを聞きとがめて、見えない兄が怪訝を極めた声を発しました。

 兄はひどく怒っているようでした。


『……最近のお前は、良い方向に向かってたんだ。あの娘と出会って、お前はようやく報われようとしてたんだ。俺にはそれが、それが、どんなにか……おい! なのに、ついさっきそれは台無しになっちまったんだぞ! それなのに、それのいったいなにが良かったって……!』

「良かったんだよ」


 声だけの声を荒げさせる兄に、青年はもう一度はっきりと言いました。


「あの舞台で、彼女は僕を退ける役目を担ったんだ。邪悪な魔法使いの前に敢然かんぜんと立ちはだかり、間一髪で貴族様および呪使い様を救った……構図としてはこんなとこだ」


 彼は事実を述べあげる口調で淡々と語り、それから、笑顔さえ浮かべて先を続けます。


「僕と彼女の対立は大勢の観衆が目撃している。彼らのすべてが証人だ。だから、あの場の悪は僕一人に限定されていて、彼女にるいが及ぶことはけっしてない。むしろ彼女のさらなる評判に繋がるかもしれない。いや、きっとそうなるはずだ。ああ、まさにこれこそ最善の結果だ。ねぇ兄さん? これが最善じゃなくて、いったいなにが――」

『なにが最善なもんかよ!』


 青年の言葉を、今度は兄が遮ります。

 口さがないところは多少あれど常に優しかった兄。

 その兄がこんなにも怒りをあらわにしたことなど、これが初めてでした。


『お前――てめぇこの野郎! そんなのは後付けの強がりじゃねえか!』

「強がり? まさか。僕は本気でそう思ってるよ」

『だったらなんでお前は泣いてんだよ!』


 言われて、青年は打たれたように頬に手をやります。

 そこは確かに濡れていました。

 濡れていて、あとからあとから伝うもので渇く暇もありません。


 自覚した瞬間、涙は勢いを増して流れはじめます。

 鼻の奥につんとした痛みがあるのに彼は気付き、瞳の奥で熱が疼くのを感じます。

 突きあげるなにかで、呼吸が詰まりそうになります。


『……お前は、あんまりに不器用すぎるよ』


 再び兄が言いました。

 弟を思っての怒りは、やはり弟を思っての嘆きへと変じています。

 兄弟はしばし無言となり、沈黙のうちに悲しみを共有しました。


「……ねえ兄さん。でも僕はさ、これで良かったって、少しは本気でそう思ってるんだ」


 しばらくして、先に言葉を発したのは青年のほうでした。

 なおも止まらぬ涙を拭って、彼は笑います。笑いながら、続けました。


「僕はさ、もう責任を果たしたと思うんだよ。僕の化粧がなくたって、今の彼女は自信に満ちている。僕の化粧がなくても、彼女は十分以上に美しい。彼女は日に日に魅力を増してさ、いつの間にか僕なんて必要なくなってたんだ。……ねぇ兄さん、僕はそれを、心底嬉しいと思ってたよ。でも正直に白状してしまうと、僕はそれを嫌だなあとも思ってたんだ。彼女が僕を必要としなくなってしまうのが嫌だって。

 ……ねぇ、これだけじゃないんだよ。たとえば大観衆の前で踊る彼女を誇りのように感じながら、同時に心のどこかで、今すぐ舞台から引きずり降ろしてしまいたいと考えることがあった。彼女をどこかに隠して、僕だけのものにしてしまいたいって。……まいったな。これじゃあ、まるっきりあの豚みたいな貴族と一緒じゃないか」


 自嘲の笑いが午後の客室に満ちました。

 兄はなにも言いませんでした。そこにいるのかいないのかわからなくなってしまうほど静かに、彼はただ弟の告白を聞いています。


「こんな風に、彼女に関する限り僕は本当に浅ましい人間だった。いや、浅ましい人間なんだ。今日より以前から、僕はもうずっと自分の内側に悪を養い続けてた。そして多分、これから先もずっと。……そう思えば、今日の出来事は良いきっかけだったんだ。

 だからさ、だから――」


 彼はそこで少しだけ言葉を詰まらせます。ですが、どうにか最後まで続けました。


「……だから、ここらでおひらきにしよう」


 そう言いきって、彼は無理矢理口角を持ちあげます。涙の笑顔を虚空に向けます。


『……お前は、本当になんにもわかってない』


 見えない兄が、絞りだすようにして言葉を発しました。


『そんなのは……そんなのは悪なんて言わねえよ……! それが悪だってなら、人が人を想うってのは、それそのものが……!』


 兄はそこで言葉を途切れさせました。室内には再び沈黙が満ちます。


『……それで、これからどうするつもりだ?』


 ややあってから、兄は諦めたような声で弟に問いました。

 青年は、すぐには答えません。答えられません。

 いくら自分の内側を眺め渡してみても、そこにはもはや展望と呼べるものなど何一つ見あたらなかったのです。


 やはり自分にとっては彼女こそがすべてだったのだ。

 己の中にある空虚を見つめながら青年はそれを再認したのでした。

 そして、自分がそれを失ってしまったことも。


 彼は懐に手を入れてみました。

 相も変わらず、そこには二つの小瓶が収まっています。

 少しだけ考えたそのあとで、彼は左側の胸元に入っている色を取りだしてみました。


 この日発現したばかりの、二つ目の魔法。

 彼の中のなにか過剰なものを象徴する色。


 この色があれば――小瓶の中に凝っている真っ黒い苦痛を眺めながら、彼は考えます。

 この色があれば、塗り治すのではなく塗りつぶすこの色があれば、報復は可能だ。

 そして、魔法使いは報復それをしないと高をくくっている連中に思い知らせてやることは、これもまた可能だ。

 白ではもたらすことのできなかった変化は、しかしこの黒でならば、あるいは。


 ――本当に、本気で、邪悪な魔法使いをやってみようか?


 鎮まっていた憎悪と狂気が、再び青年の心で鎌首かまくびをもたげます。


「……とりあえず、先のことはこれから考えよう」


 己の内側に兆したものを追い払うように頭を振って、彼は部屋を見渡します。

 そこにあるのは少女との共有財産で、終わってしまった夢の残骸です。

 それらの一切を彼は残していくつもりでした。

 品物はもとより、一枚の銅貨も、一袋のかても持ちだすつもりはありません。


「なんにせよ、先立つものは必要だ。それは膚絵師稼業の再開で解決できるだろう」


 そうだ、僕にあればいいのは商売道具だけで。

 他にはもう、思い出すら不要だ。


 と、そこで青年は、その商売道具を入れた革袋がないことにようやく気付きます。

 ああ、そりゃそうだ、彼は苦笑混じりに嘆じました。なにしろ僕は舞台からそのまま逃げ出してきたんだから、道具は舞台袖に置きっぱなしだ。

 もちろん、取りに戻るつもりなどさらさらありません。

 常に肌身に帯びている絵筆も乱闘の最中に失われてしまっていたので、彼には本当に、我が身の他には一つの財産もない状態です。


「……はは、文字通り一から出直しってことか」


 どこか清々しさすら感じる口調で彼が呟いた、そのとき。


「――おいヤサ男、忘れもんだぞ」


 背後から、青年に呼びかける声がありました。

 反射的に彼は振り返り、そして振り返った瞬間、ついいましがた諦めたばかりの仕事道具が収められた革袋で、横っ面をしたたかにぶん殴られます。

 容赦のない不意打ちに青年がよろめいたのもつかの間、相手は全体重をかけて胴に組み付いてきました。


 がむしゃらな突進は、しかし青年を押し倒すには及びません。

 なぜなら、体格も身長も、相手は青年よりもずっと小柄だったのです。


「全部置き去りで、あたしまで置き去りで……あたしのヤサ男はなにをやってんのよ!」


 永久に失ったはずの愛しい人が、抱き留めた胸の中から彼を怒鳴りつけたのでした。

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