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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
◆ 譚章 色の魔法使いの挿話
41/141

◆7 黒

 こうして青年は恋に落ちました。

 いいえ、本当はもうとうの昔に恋の火は灯っていて、しかし自覚を得たことによってそれは炎と燃え上がったのです。

 胸焦がす業火へと。うちから彼をさいなむ紅蓮へと。


 相棒の少女への想いに焼かれて、彼は幸福を感じるよりもむしろ苦悩しました。

 あるいは皆様もすでにお気づきかと思いますが、彼はまったく不器用な男でした。

 己の中の恋情を意識して、息苦しいほどに自覚して、けれどもそれとどう向き合えばいいのかが彼にはわかりません。

 どのように行動すればいいのかが、どのように振る舞えばいいのかが。

 どころか、自分が相手に対してなにを求めているのか、それすらも。


 隠された真理を見通す特別な眼の持ち主は、他の誰もが、子供ですらが当たり前に知っている己の感情だけは見通すことができなかったのです。


 しかしそうした悩みには、それでも甘やかなところがありました。

 さながら上等の葡萄酒ぶどうしゅのそれにも通じて、渋みの中に甘きを賞味するが如く、苦悩の中の幸福を味わうという余地が。


 ですが、いま一面の苦悩には。


 恋の病とは別の側面に、青年はそれとは別の病を抱えていたのです。

 彼を真に懊悩おうのうさせたこちらには、いましがた述べたような愉楽ゆらくの風はわずかにも含まれてはおりませんでした。

 暗い感情に直結した苦悩。彼を恋の自覚へと導いた感情。

 世俗の正義たる民衆の意識に、魔法使いへの差別と偏見を疑わぬ心に、青年は絶望を直視したのです。

 それまではため息ひとつでやり過ごすことの出来ていた問題は、その正義の矛先ほこさきに自分だけでなく愛する人もまた立たされているのだという認識を得るに至って、ため息を悲嘆の絶叫へと変じさせたのです。

 諦念は去って、その不在に住み着いたのは深い失意と悲しみ、そして強い怒りでした。


 恋情と憎悪、属性は双極を極めながらも同じものを口火とする二つの炎に焼かれて、青年は心休まる暇もなく悩みます。

 疑念の箸休めにまた別の疑問に取り組み、苦悶くもんの疲れを煩悶はんもんで誤魔化すといったように。


 彼は少女を愛していて、その愛のあまりの深さにより自らを削り続けたのです。



 そうこうしている間にも時は過ぎゆきます。

 青年と少女の股旅またたびは続いて、二人だけの巡業は常に大成功をおさめます。

 しかしそうして数ヶ月が過ぎても、彼と彼女の関係に変化はありませんでした。


『そうだ、なにも変わってねぇ。なんにも進展がねぇんだ。なぁ、それって問題有りじゃねえかってこの兄ちゃんとしては思うんだけどな』


 そう指摘したのは青年の目に見えぬ兄でした。

 朴念仁ぼくねんじんを絵に描いたような弟と比べて、この兄は死んで生まれた生粋きっすいの死者(やっぱり奇妙な表現です)でありながら世間の成り立ちやら男女の関係やらに妙に明るいところがありました。

 その彼にしてみれば、まるっきり進展のない二人の関係はもどかしさの極み。

 なんの行動も起こそうとしない弟については、もどかしいを通り越していっそ腹立たしくすらあったようです。


 数ヶ月。短くない時間が過ぎ去ったこの頃も、青年は己の中の恋情に未だひとつの答えも出せてはおりません。

 一般的な恋愛がどのような発展を辿るのか、その定型の鋳型いがたに己を当て嵌めてみるなどという芸当も彼には不可能でした。

 だから彼は悩んで……ひたすらに、いたずらに悩んで、そうして夏の午後の犬のように同じところをぐるぐると回り続けていたのです。

 こうした青年の変調には少女の側もなんとなく気付いていたようですが、しかし彼がそれをひた隠しにしようとしていることもこの娘は察していて、だから自分からはなにも言い出しませんでした。

 皮肉なことに、少女のその気遣いもまた却って事態を膠着こうちゃくさせる要因となっておりました。


 それに。


『いいか? 俺が見るところ、あの娘は最初っからずっとお前のことがだな……』

「――そうだ、なにも変わらない。いかにもそれは大問題だ」


 兄の声を遮って青年が言いました。

 暗い暗い声音で、言いました。


 それに、青年はもう一方の問題――すなわち魔法使いの苦悩と絶望にこそ第一に心を砕いており、色恋の問題はまるっきり二の次にしてしまっていたのです。

 兄の忠告がなくても、彼はもう滅多に白の顔料を手に取らなくなっておりました。

 大混雑のお祭りで転んでべそをかいている子供を見かけても、老骨の痛みに悲鳴をあげる老人を眼の隅に留めても、あるいは、作業中の事故で大怪我を負った大工を目撃しても――彼は一切を見なかったことにしてしまうのでした。

 情景の中にある痛みの色から眼を逸らす為に、さながら常人が固く瞑目めいもくするのにも似て彼は両の瞳を見開きました。


 慙愧ざんきは常に彼の心を苛みます。

 良心は容赦なく彼を呵責かしゃくし、色への背信をことさらに意識させもしました。

 だが、と彼は思います。

 だが浅はかな善行は、果たしてなにを俺に、俺たちにもたらすんだ?


 近頃、青年は己の内側に悪を感じるようになっておりました。

 そしてその悪を、彼は否定しません。


「ああ……問題だよ。なにも変わらないことは、世の正義はあまりにも普遍ふへんで、そして不変に過ぎて……俺たち魔法使いにとってそれは、いかにも大問題じゃないか」


 彼にとって、いまや正義とは憎悪の対象にほかなりません。

 そして世の大半の人々は己の属する正義を信じていて、だから、青年にとって彼らは潜在的な敵でもありました。

 過剰な色が彼の内部から溢れだし、知らずのうちにその心を染めあげつつあったのです。



   ※



 そして、事件はついに起こります。


 それは夏のある一日のこと、船の起源を祝う祝祭の午後のことでございました。

 その日、少女は大勢の芸人たちを集めた大々的な催し物の、その大取おおとりを任されて出番を待っておりました。

 彼女の専属の膚絵師である青年もまた、いつものように完璧な化粧で相方を彩ったあとで、関係者として舞台袖で一緒に待機しています。


 とかくするうちに、いよいよ最後から二番目の芸人が出番を終えたようです。

 戻ってきた歌手をねぎらうと同時にあちらからは心のこもった激励げきれいを受けて、さぁ満を持して、東西とざい師の口上と拍手喝采に出迎えられて、少女は大観衆の待つ舞台へと登場します。


 そうして彼女が踊りだそうとした、ああ、そのときです!

 突如、十人ばかりの男たちがどかどかと舞台にあがり込んできたではありませんか。


 当然、観衆たちは無数の声をひとつに合わせてこの成り行きに抗議します。

 なにしろ彼女という舞姫は今回の行事の目玉、噂に名高いその舞いを一目見ようとわざわざ遠くから出かけてきた者も中にはいるのです。

 それをこんな風に邪魔されて、黙っていられようはずもありません。


 ですが、それらの声は次の瞬間、あえなく封殺されてしまいます。


「静粛に! せ・い・しゅ・く・に! ……ああもう、黙れよこの愚衆ぐしゅうども!」


 男たちの後方しりえから前へと進みでてそう叫んだのは、一目で高貴な身の上とわかる装いの若い男です。

 見るからに金のかかった衣服を金をかけて肥やした腹で押しあげながら、貴族の男は優越感もあらわに観衆を見下して笑いました。

 きっとこれもたっぷりとお金をかけて歪ませたものでしょう(まったく、人の品性と金とは密接に結びついて切っても切れない間柄でございます!)、豚のような内面が滲み出た下劣な笑い方です。


 その男を一目見た瞬間、少女は寄せていた眉根にさらに不快の情を上乗せします。

 近頃、彼女の演舞には熱心な愛好家と申しますか、信奉者じみた支持者が多数ついておりました。

 この貴族の若者はその内でもひときわ熱心な一人で、祝祭と縁日の渡り鳥を続ける少女を追って自分もまたお祭り渡りをしているほどの筋金入りなのです。

 もちろん、そういうお客様は本来、我々芸人にとっては有り難いことこの上ない存在です。が、この男は少々度が過ぎておりました。

 最初こそ少しは分別も備えていたものの、そのうちに一観衆であることに満足しなくなり、ついには少女を己一人で独占せんとしてしつこくつきまとうようになったのです。


「下々のみんなのお楽しみを邪魔しちゃって、こっちとしても心苦しいんだけどね」


 観衆たちの怒りの眼をどこ吹く風と受け流して、豚貴族は少女を指差し言いました。


「悪く思わないでよ。この踊り子さんにはね、いますぐ舞台を降りてご同行頂かないと」


 少女が、苦虫を大匙一杯分も噛んだ顔をして男を睨み付けます。

 事情のあらましは説かれなくとも飲み込めました。

 つまり、いくら口説いても首を縦に振らない少女にしびれを切らせて金と権力に物を言わせることにしたと、そういうことなのでしょう。

 なんともはや、わかりやすすぎて笑いも起こりません。


「一応訊くけど、あたしをここから引きずり降ろすまっとうな理由はあるわけ?」


 毅然きぜんとした、ほとんど不敵なまでに堂々とした態度で少女はそれを問いました。

 さて、これに応じたのはやんごとなき最低貴族本人……ではありませんでした。


「とぼけたことを申すでない!」


 ほとんど吐き捨てんばかりにそう言ったのは、最低貴族を取り巻く男たちの中、いかにも破落戸ごろつき然とした他の者たちとは印象の異なる初老の男性。

 相談役兼彼の権力の象徴として最低貴族に連れ回されている、お供の呪使いでございました。

 左手に握った杖を少女に突きつけて、まるで鬼の首でも取ったように、呪使いは言いました。


「貴様の正体はすでに知れているのだ、なぁ踊りの魔法使いよ! 邪悪な女狐めが!」




 舞台袖で、青年はすべてを見ています。そこで、彼は一部始終を目撃していたのです。

 我が身の内に燃えさかる炎を感じて、彼はそのあまりの冷たさに身震いします。

 氷の温度の炎が心の表面を炙って、そこから体温を奪い尽くしていくかのようでした。

 歯の根はがちがちと鳴って、視界は血を失いすぎたときのように明度を落としています。


「……これは、もしかして僕がんだのか? 僕の悪夢が現実になったのか?」


 ほとんど気を失いそうになりながら、呆然と青年は呟きます。

 無理からぬことでした。目の前にあるのは、彼の苦悩の具現化とでもいうべき光景だったのですから。


 もしもこのとき、成り行きを見守る彼を逆に見つめる視点があったならば、いったいその眼はなにを見たことでしょうか?

 もしも青年と同じ魔眼を持つ者がいたとしたら、このときの彼にいかなる色を視たでしょうか?


 邪悪な女狐めが! そういった呪使いの声が耳朶にこびついて離れません。

 踊りの魔法使い! 彼の愛する人をそう呼んだ、その敵意と悪意とが頭蓋ずがいの内で反響します。

 その瞬間、青年の内側で、くすぶっていた憎悪がいっぺんに煮えたぎります。


 ああ、そして。青年が懐に重みを感じたのは、そのときでした。

 乳白色の顔料を入れた懐の右側ではなくて、それとは逆の左側の物入れに。

 半ば忘我の状態に陥りながら、青年は操られるように懐に手を入れてみます。


 そこにあったのは、黒の顔料が入った小瓶でした。

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