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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
◆ 譚章 色の魔法使いの挿話
38/141

◆4 舞姫


 見るともなく舞台を眺めていた数名の観衆が、まずは居住まいを正します。

 次にその周囲の観衆たちも彼らの視線を追って舞台に眼をやり、そして、これもまた同様に緩んだ姿勢を正します。


 踊りはじめた少女の姿を一目とした者たちから、波のようにその空気は広がります。


 ああ、それは、まったくなんという踊りだったか。

 技術としてはまだつたなさがあって、洗練と研鑽けんさんの余地は多分に見て取れて。

 しかし、蹴りあげられたあの脚のしなやかさはどうでしょう?

 膚絵の施された腕が旋回して生み出すのは、残像か? それとも蜃気楼しんきろうか?

 なにより、共に踊る仲間も音楽もなく、さらには観客の声援すら得られてはいないというのに……あの毅然たる表情と眼差しは、いったいどこから来るのか?


 少女を健気だと感じた観衆はほとんどおりませんでした。

 その様があまりにも威風堂々としすぎていて。

 横顔が美しく輝きすぎていて。

 だから、観衆たちは哀れを感じる心などどこかに置き去りにして、ただ息を呑んでこの一人きりの舞台に釘付けとなります。


『……なるほど、あの娘がハブられてたのには嫉妬ってのも多分にあるんだろうぜ』

 感嘆もあらわにそう囁いた兄に、青年は少女から片時として瞳を逸らさぬまま……いいえ、逸らせぬまま、無言で肯いて同意を示します。

 確かに、と彼は思います。

 並の踊り子とは一線を画するなにか、彼女の踊りにそれがあることは、演芸のことなどなにもわからぬ門外漢の彼にも直観で理解できたのです。


「……とくと見たぞ。見せてもらったぞ。君は、確かにすべてを出し切っている」


 君は僕との約束を果たした、果たしてくれた――声には出さずにそう付け加えます。

 胸を満たす誇らしさに打たれながら、青年は舞台の上の少女に心からの賛辞を送ります。


 ――見事だ。僕の仕事など霞んで消え入ってしまいそうなほどに、実に見事だ。


 ああ、しかし。

 しかしこのときまだ、少女は彼女の持てるすべてを披露してはいなかったのです。


 いまや観衆は惜しみない声援を少女に送っています。

 羚羊かもしかの美脚が空を蹴るたびに、色彩の腕が蜃気楼かいやぐらを呼吸するたびに、口笛が飛んでどよめくような歓声が沸き起こります。

 彼女の舞姿に瞳を奪われているのは舞台袖の面々も同様、青年はもちろん、少女を苛めや仲間外れの対象としてきた座長や踊り子仲間たちもまた、一人残らずこの孤高の演舞のとりことなっています。

 この舞姫は人ではないなにかだ。

 少女の舞いのあまりの素晴らしさに、もはやそのような感想を抱いている者すら少なくはありませんでした。


 さて、そうした観衆たちの面前で、演舞は次の局面を迎えます。

 手足の挙動はいっときとして停止させず、まるでその動作までもが踊りの一挙動ででもあるかのように、少女は紐解きます。

 演舞の最中ずっと手にされていたそれを。


 一巻の羊皮紙を。


 さながら振り袖が舞うように、紐解かれた羊皮紙がふわりと宙に躍り、観衆はまたも息を呑みます。

 演舞の小道具には極めて不似合いと思われたそれが、しかし今はつるぎの舞いの円月刀もかくやと踊りを引き立てているのです。

 ああ、なるほどこういうことだったのか。人々はこの風変わりな小道具の活用に納得して、またまた口笛と歓声を少女に送ります。

 ですが、その納得は誤解の上に成り立った納得です。

 羊皮紙の霊験れいげんが発揮されるのは、まさにここからだったのですから。


 舞姫の指先が不思議に揺らめいたかと見えた次の瞬間、彼女がどこからともなく取りだしたるは三本の絵筆です。

 青年が少女に貸し与えた彼の仕事道具であり、あらゆる支援を無用と断じた少女が唯一肌身に持って舞台へとあがった、彼女の中のなにかを物語るかのような品物。


 その絵筆を、少女は己の頭上高く放り投げます。


 絵筆の持ち主である青年とすべての観衆たちが凝然ぎょうぜんとした視線を向けるのにも構わず、少女は踊りを再開させます。

 裸足の脚がり足で地面を滑り、半月を描いて蹴りあげられます。上下の反転した体勢から片手を足として、逆立ちになりながらぐるりと反転してみせます。

 ……とそこに、先ほど投げられた三本の絵筆が落下して参ります。


 飛ぶ鳥以外は吸い付ける大地の引力に、あわや青年愛用の品は無惨に砕けてしまうかと見えた――ああ、その刹那せつな

 地面に衝突する直前で、三本の絵筆が三本とも、空中にぴたりと制止したのです。


 そして絵筆は、踊り子の演舞に合わせて、自律して踊りはじめます。

 命を持たぬ道具が、さながら一つの生命であるかのように。どころか、その動きには表情すら存在します。

 一の絵筆は滑稽こっけいに、二の絵筆は幾分慎ましやかに、そして、三の絵筆はひたすら熱狂的に、踊ります。


 さあ、そこから先はさらなる不思議の連続です。

 楽しそうに踊る絵筆たちに誘われて、客席から帽子が、扇が、果てには一目で呪使いの物とわかる杖までもが、舞台上の演舞に飛び入ります。

 少女の持ち物ではないはずの道具と品物が、そのどれもが絵筆と同様に命を吹き込まれて、それぞれ異なった表情を見せて少女の踊りを盛り立てます。


『お、おい! こりゃ、お前……!』


 見えない兄の驚愕の声に、しかし青年はもはや肯くことすら忘れて、眼前で繰り広げられる光景にただただ眼を瞠るばかりとなっています。


 やがて演舞は終わりを迎えます。

 両手を頭上で交差させたあとで、あたかも降りしきる雪を表現するかのように、少女はゆっくりとしゃがみながらその手を地につけます。

 すると彼女のこの動作に応じるように、それまで宙に浮いていた品々もまた、静かに地面に落ちて動かなくなりました。

 神秘と呼ぶにはあまりにも浮かれた風情ふぜいの強い神秘の一番は、こうして幕を下ろしたのです。


 広場には沈黙が満ちています。口笛と歓声がにわかに去って、観客席には静寂が横たわっています。

 観衆は誰も、一言として言葉を発せずにおりました。

 演舞の終わりに気付かぬかのように。あるいは、終わってしまったことを受け入れられずにいるように。


 歓声は、ややあってから一気に破裂しました。

 万雷の拍手が、歓声に次ぐ大歓声が、たった一人の少女に向かって津波のように押し寄せたのです。


 この反響に少女はまず面食らった顔となりました。

 それから、ようやくその喝采が自分に向けられたものだと理解して、含羞がんしゅうと喜色を満面に咲き誇らせます。

 そして次の瞬間、降り注いだのは雨のようなおひねりです。

 数えても数えきれぬほどの金銀銅貨、中身ごとまるごと投げられた財布も数多あまたで、さらには輝石や宝石をはじめとした高価な品々までもが。


 総立ちとなった観衆たちにぺこりとお辞儀をして、少女はそそくさと舞台から退散します。

 その背中に再び熱狂の叫びが押し寄せましたが、彼女は振り返りませんでした。


 舞台袖には一座の人間が勢揃いしています。

 ついさっきまでの態度がウソのようにへつらいの笑みを浮かべている座長に、もはや嫉妬すらできずに憧れの眼で少女を見る踊り子仲間たち。

 それまで馬鹿にし仲間はずれにしてきた少女に対して、全員が恥も忘れてご機嫌取りの有り様。

 ですが、彼女はそうした者たちには目もくれません。


 一座の身内を素通りして少女が向かったのは、彼女という踊り子に舞うための色を与えてくれた膚絵師の元でした。

 早足で青年に歩み寄った少女は、まっすぐ立ち止まらずに彼の胸へと飛び込みます。


「見ていてくれた?」


 青年の胴に腕を回しながら、上目遣いに少女は問いました。


「み、見ていたさ。もちろん」


 しどろもどろになりながら青年もどうにか応じました。『おいおい、抱き返してやったらどうだ?』、見えない兄がそう囃し立てます。

 笑いの気配を含んだ自分にしか聞こえぬ声に、青年は珍しくこの兄をうとましく思ったものでした。


「そ、それよりも」


 回された腕が抱きしめる力を強くするのにあらがうように、青年は慌てて言いました。


「君に、一つだけ言っておくべきことがある。……言っておくべきだと思うんだが」

「なに?」


 いまやぴったりと青年に密着した少女が、うるんだ瞳で彼を見あげながら応じます。

 少女の眼差しと吐息にくらつきそうになる自分を自覚しながら、青年はやはり率直に告げました。


「おそらくわかなってないんだろうと思うんだが、いいか……君は魔法使いだ」

「……魔法使い?」


 少女が、きょとんとして問い返します。


「ええと……それって、あたしのこと?」

「だからそうだって言ってるんだ。だいたい、君以外に誰がいるっていうんだ」


 青年がそう断じると、少女はしばし考えを廻らせたあとで、


「わあお……それってたまげるなぁ。ここんとこ最近で一番のびっくりだ」


 そんな風に、深刻さの欠落した調子で呟いたのでした。



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