◆2 色の魔法使い
十三歳、少年は迫害の痛手を知りました。十三歳、少年は故郷を逐われました。
十三歳、そして彷徨ははじまります。
目に見えぬ兄を伴って、目に見える色を読んで、流離いの人生は幕を開けたのです。
「魔法使い……悪い……邪悪な……」
少年は呟き、兄に問いました。
「……僕が、そうなの?」
『確かにお前は魔法使いになったんだ。そいつは違いない』
兄は答え、続けて断言します。
『だけど、邪悪ってのは絶対に違う。俺の自慢の弟が、邪悪でなんかあるもんかよ』
それからの日々、少年は一つところに留まることなく漂泊を住処とします。
剣呑な色を避けて、悪意の色から遠ざかって、安心や平和の色を目印に彼は歩みました。
幼さを残した旅人の行く先々で、土地の人々は慈悲深く彼を迎え入れてくれました。
しかしそうした温かな態度は、少年が魔法の顔料を取りだすに至って真っ逆様に硬化してしまうのが常でした。
恩に報いたい思いから、あるいはただ純粋な親切心から少年が癒しの白を手に取ったとき、怪我や病気の苦しみから解放してもらった誰かは、感謝ではなく恐れや蔑みを瞳に込めて少年を見遣りました。
そして、繰り返されるのは迫害です。
昨今は随分和らいできておりますが、この物語の主人公がまだ少年であったこの頃、魔法使いへの偏見と迫害は苛烈を極めておりました。
人々の健全であろうとする意思が、正しさを自負する心が、邪悪な魔法使いたる少年を情け容赦なく拒絶したのです。
暴言によって、暴力によって、そして時には懇願されて。
少年は街から荒野へと、昼から夜へと追い立てられました。
『……見てらんねえよ。助けた相手に傷つけられて、癒しの見返りに罵倒と暴力をもらって……お前はまるで、世の中の痛みを全部自分に集めてるようにすら見える』
もう人助けはやめとけよ。弟を案じて、見えない兄は幾度となくそう諭しました。
けれども、少年は魔法の色を手に取ることをやめはしませんでした。
その後も、彼は痛みの黒を癒しの白で塗り替え続け、そしてその対価として迫害を与えられ続けました。
自己犠牲に酔っていたわけではありません。卑近な自意識など、そこにはいっかなありません。
自分には色を視る眼がある。塗り替えるべき正しい色もある。少年の行動のすべては、その一念にのみ帰結していたのです。
そして一年が経ち、二年が経ち、三年が経ち……放浪の月日の中に、四年が経ちます。
故郷を逐われたときには十三歳だった少年は、十七歳の青年となっておりました。
見習いの染め物職人であった子供は、もはやどこにもいません。
その道はとっくの昔に閉ざされて、それに自分からも背を向けて、今では彼は膚絵師として身を立てておりました。
お祭りを股に掛ける膚絵師は流離いの身の上にはいかにも似合いの職業。
それに彼の備えた色彩の感性、その天才ぶりは対象物が布地から人間の肌に代わっても微塵の翳りも見せず、どころか、十人十色の生身を画布とするこの生業はものの実相を見抜く特別な眼の力を遺憾なく発揮して、その化粧の技術はほとんど神業です。
彼は客たちの纏う色をつぶさに読み取っては、客たちの持つ楽しさを倍増させる化粧を、憂いと悲しみを拭い去る化粧を、さらに仲違いをしている恋人たちには気持ちに素直になれる化粧なども施して、祭りという祭りにおいて常に人気を博しました。
十七歳となった少年の……いいえ青年の、表の顔はこのようなもの。
では、もう一方の顔は? 膚絵師ではなく、魔法使いとしてのそれは?
この頃、南部の交易都市から西方の地方にかけて、『色の魔法使い』という名が広まり囁かれるようになっておりました。
噂の分布する範囲は青年の旅してきた軌跡にぴたりと一致します。
言うに及ばず、この『色の魔法使い』というのが魔法使いとしての彼の二つ名でした。
先ほども申し上げた通り、魔法使いへの偏見は深く深く世に根ざしておりました。
しかし色の魔法使いの名を口にする人々は、誰もがみな自分の中の常識を疑いたくてたまらないという顔をしていたそうです。
――世の悪の象徴。邪悪なる魔法使い。
――だけど、あの男は怪我を治してくれた。涙が出るほどの痛みを消してくれた。
――だから……もしかしたら……本当は……。
皆様。時代を超えて悪ならぬ悪を生みだしてきた通念は、ここ数年で急速に消滅へと向かいはじめております。
己の正しさを信じたいが為に悪を他者へと押しつける、そうしたさもしい常識は、滅びて消えようとしているのです。
そして皆様。わたくしは、確信をもって断言致します。
魔法使いへの偏見の払拭、その嚆矢となったのは、この彼の行動に他ならなかったのだと。投げつけられる悪罵と差し向けられる白い眼の数々にも心を折らず、ただ色への信念を貫き続けた一人の青年。
その行いが昨今、十年を超える歳月を経てようやく結実しつつあるのだと。
閑話休題、譚りを青年の物語へと戻しましょう。
才気煥発の膚絵師にして優しき魔法使いでもあった彼は、ある日のお祭りで旅芸人の座長にその腕を見込まれ、これから舞台にあがる踊り子全員に化粧をしてやって欲しいとの大口の依頼を受けます。
一座は稀に見る大所帯で、踊り子の数は優に二桁を超えておりました。その一人一人に、青年はそれぞれ異なる化粧を施してやります。
南の血の黒い肌には黒の美を引き立てる白練りを、翻って陶磁のような青白肌には濃藍と深紅を複雑に絡み合わせ、日焼けした太陽の肌には縹の青により精緻な文様を描いて。
現世の眼と隔り世の眼を忙しなく切り替えて色を読み、想像と直観を駆動させて、そうして仕上げられた化粧の中に同じものは二つとありません。
設営された天幕の中、姿見鏡の前に人だかりを作った踊り子たちは互いの化粧を自慢し合って黄色い声をあげています。
己の仕事を恙なく終えた青年は、嬉しそうな騒ぎを横目に眺めながら仕事道具を片づけておりました。
と、その彼の傍を、未だなんの化粧も施されていない踊り子が一人、通り過ぎます。
「おい、君」
青年は慌ててその踊り子に声をかけます。
「すまない、君一人見落としたまま道具をしまいかけていた。さぁ、ちゃんと出番には間に合わせるから、こっちに来て」
呼び止めた踊り子が、ゆっくりと彼のほうを振り返りました。
そうして相手の顔が眼に飛び込んできた瞬間、青年は我知らず息を呑んでいます。
年の頃は青年より二つか三つほど下。ですが、色濃く残る幼少のあどけなさを裏切った、その容色のなんと秀でたことか。
彼を見つめ返す瞳は潤いを宿した二つの黒瑪瑙。
髪は豊饒の女神が紡いだ亜麻の糸。
一つに結ばれた唇は見目にも甘く、しかし同時に孤高の意気地を感じさせもする。
白鳥の美と子猫の愛らしさを併せ持ち、そしてどこかに夜鷹の気高さをも隠した、それはそうした少女でした。
青年の声は聞こえたはずなのに少女はその場から動かず、ただ曖昧に笑み返すばかり。
そんな彼女に、他の踊り子がわざとらしく肩をぶつけて通り過ぎてゆきました。
「ああ、その娘にはお化粧の必要はありませんや」
なにも答えぬ娘の代わりに、一座の座長が横合いから口を挟みました。
「なぜです? 私はすべての踊り子の膚を彩るようにと、そう依頼されたはずですが?」
座長の態度に少しだけむっとしながら、青年は問いました。
座長は不機嫌さをあからさまにして、違う違う、と応じます。
「あっしは舞台にあがるすべての踊り子に、と頼んだんです。その娘は舞台にはあがらんのです。踊らんのです」
「では重ねて問います。なぜこの子一人だけが仲間はずれにされているのです?」
こうなればもう意地でした。青年はほとんど挑むような調子で反問を重ねます。
ちっ、と座長が舌を打ちます。わざとらしくため息をついて彼は続けます。
「仲間はずれ? いかにも、その娘は仲間じゃありませんや。お情けで置いてやってるだけの厄介者、けっして表には出せねぇ一座の恥さらし。そんなのを一緒に舞台にあげた日には、他の踊り子が精彩を欠いちまうってもんです。……だいたい、そいつはいま足を挫いてるんです。踊るなんてのはもってのほかでしょう」
青年が真偽を問う視線を送ると、少女は悲しみの笑顔で肯定を示しました。
「さぁさぁ、そんなガキなんぞほっといて」
座長が勝ち誇ったような笑いを浮かべて言いました。
「お化粧の代金をお支払いしますんで、どうぞこちらにおいでなすって。そしたら先生、あんたが彩ってやった娘どもの舞台がもうはじまっちまいます。さ、こっちで一緒に見ましょうや」
料金ははずませてもらいますよ。馴れ馴れしく青年の肩を叩いて座長が言います。
「それはありがたい。なにしろ私は放浪の身の上、路銀はいくらあっても余るということはない。……ですが、お金は仕事が終わり次第こちらから貰いに参りますので」
固い口調でそう応じると、青年は素早く手を引いて少女を抱き寄せます。
「座長さん、あなたがどう仰ろうと、やはり全員に化粧をしなければ私は仕事をした気になれないのです。これは職掌と矜持の問題です。もちろん、この娘の分の料金はいりません。私が勝手にやる分にはあなたにも損はないはず……構いませんよね?」
青年のこの申し出に、座長は再度の舌打ちで応じます。
「そうですかい、なら勝手にすりゃいいやな」
そう捨て台詞を残して座長はその場から立ち去りました。




