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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
◆ 譚章 色の魔法使いの挿話
35/141

◆1 死んで生まれた兄と、生きて生まれた弟

 説話を司る神の忘れられた御名においてはじめましょう。

 今宵こよいわたくしが皆様に披露致しますのは、色をる青年の物語。そして、彼という名の荒野に咲いた、一輪の花の物語です。


 この物語の主人公はそめもの屋の一人息子、次男にして待望の初子ういごとしてこの世に生を受けた跡取り男児でございました。

 ……ああ、皆様の顔に書かれている文字が、わたくしには読めてしまいます。

『次男にして初子? 二人目なのに一人息子? おい、この語り部はなにをわけのわからぬことを言ってるのだ?』と。


 ええ、そう思われるのはまことにごもっとも。

 ですが皆様。わたくしのいまの言葉は、いくつもの矛盾を孕んでいるようでいてその実まったく筋が通っているのです。

 彼には兄がいたのです。

 しかし、この兄は生まれた時には既に死んでいた……すなわち、死産の子だったのです。

 そして、父と母とが正真正銘の初子である兄の死を嘆き悲しんだその場面からわずかに数分の後に呱々《ここ》の声をあげた、それこそが我々の主人公。

 誰にも、十月十日とつきとおかを腹に養っていた母にすらその存在を知られていなかった、双子の次男でございました。


 兄の不幸があったればこそでしょう、両親の彼への溺愛ぶり、過保護ぶりは並大抵ではありませんでした。

 患ってもいないのに事ある毎に薬を飲ませ、怪我などした日にはそれが転んで膝小僧をすりむいただけでも血相を変えるような始末。

 ですが、こうした両親の心配をよそ事に、生まれた子供は拍子抜けするほどに健康、これはもうまるっきり無病息災の申し子で、病気や危険はそっちの方からこの子を避けて通るかのよう。

 まるでこの子は目に見えぬなにかに守られているみたいだと、両親はそんな風に囁き交わしたものでした。


 ですが実を申せば、それは『まるで』でも『さながら』でもなかったのです。

 四六時中彼と共にあり、人知れず彼を守護している存在が、確かにあったのです。


 それは、死産の結末を迎えた双子の長男でございました。

 死者として生を受けた(なんとも奇妙な表現ですが)この兄は死んだまま成長して、幽霊となって弟に取り憑き、しばしば弟にだけ聞こえる声で彼と会話を交わしさえしていたのです。

 悪霊、では、断じてありません。

 自分と違いまっとうに命を享受きょうじゅした弟を、死者である兄は少しも妬んだりはしていません。

 むしろ自分の分までも幸せに生きて欲しいと、肉体のない心のすべてでそう願っていたのです。


 こうした兄の愛情は弟もよく理解しており、だから彼もまた、両親よりもなお深くこの目に見えぬ兄を慕いました。

 死んで生まれた兄と生きて生まれた弟。形は常識を逸していびつで、つながる血を流す肉体を片方は持ってはおらず……けれど、二人は固い絆に結ばれた正真正銘の兄弟でございました。


 さて、この兄が弟に影響して及ぼしたものが、一つだけありました。

 兄の加護のおかげか五体の頑健さに加えて視力もまた申し分なかった弟ですが、しかしある簡単な条件を満たしたとき、彼の眼は世にも稀なる特別な眼となるのでした。

 片方の眼を閉じてもう片方の眼だけでものを視るとき、彼の世界は輪郭ではなく色が主体の世界へと変じるのです。

 空気が色を帯び、風が色を帯び、人の感情までもが色を帯びる世界へと。


 四つの歳に偶然に導かれてこの能力ちからを発見したとき、幼子は背筋に寒さを感じて震えました。

 僕はこの世から眼をそらしてあの世を覗いているんだと、そう感じてふるえました。

 幼子特有の素直で率直なその感想はしかし、いみじくも正鵠せいこくを射ています。

 死者たる兄と霊感を交わらせるうちに培われた彼の眼は、まさしくかくり世の資質。目には見えない真理を色という概念で直視させる、とびきりの魔眼だったのでございます。


 無限に、夢幻に。

 こうして、色彩は少年の世界に溢れかえったのです。



   ※



 過保護な親のもと半ば外遊びを禁じられていた少年は、幼いときより家の生業なりわいを間近に見つめて育ちました。

 単純なものから複雑なもの、簡単なものから扱うのが難しいものまで、腕こきの染め職人であった父はおよそあらゆる色に精通したその道の大家です。

 家の中は作業場はおろか居住の空間まで多様な色に満ち満ちています。


 そのような環境に加えて前述した特別な眼のこともあり(余人に知られると面倒を招くとの兄の判断から、この眼のことは父にも母にも秘密にしておりました)、よわいが二桁に達する頃にはすでに、少年は色彩に対しての類稀なる才能を発揮するようになっておりました。

 晩年にさしかかってようやく授かった跡取り息子の天才に、父親はほくほく顔で大喜び。

 ああ、これで我が家は安泰だ、そう言って妻と手を取り合ったもの。


 しかし、運命は残忍な笑みを浮かべて忍び寄ってまいります。


 少年がいよいよ家業を継ぐための本格的な修行を開始した、これはその十三歳の夏のある日。

 朝から出掛けていた父親が、町の男衆により診療所に担ぎ込まれたのです。

 父はある特殊な萌葱もえぎ色に用いる蝸牛かたつむりを採集していて、その際に足を滑らせ樹上の高みから落下したのでした。

 寝台に横たわる父の意識は朦朧もうろうとしており、初老のしわには苦悶の涙が伝い、そして……ああ、見るも無惨! 左の足は絶対に曲がるはずのない方向へと曲がってしまっています。

 町の名士であった父の一大事には大勢の人が駆けつけてくれましたが、しかし彼らの励ましも、医者の処方する痛み止めも、それに呼ばれてやってきたまじない使いの唱える祝詞も、父の苦痛をいささか程度にも緩和したとは見えませんでした。


 少年はそっと片方の眼を閉じます。

 すると、開かれたままの彼のもう片方の眼は、黒い、黒い、どす黒い痛みの色を父の足に視ました。

 あたかも果物が傷ついた一点から腐敗を広げるように、折れたる部分から足全体へと広がり行く生々しい黒。眼をそらしたくなるような痛い痛い黒。


 あれを正しい色に塗り替えたい――少年はそう思います。

 兄には及ばぬものの彼は父親もまた愛しており、職人として尊敬もしています。助けたいと願うのは当然です。

 しかし、それにも増してこの少年の中に兆したもの……それは、色への衝動でし

た。

 ――不快な色。間違った色。善くない色……ああ、消したい。あの黒を消したい。


 僕には、と少年は思います。

 僕には、眼はある。だから、あとは正しい色さえあれば。


 そんな思いが頂点に達した、そのときです。


 ふところに、彼は突然違和感を覚えました。

 さっきまではなにも入っていなかったはずの懐に、明らかになにかが入っているような膨らみと重みが生まれているのです。


 少年が中をあらためてみると、はたして、出てきたのは見覚えのない顔料の小瓶でした。

 それは白の顔料です。それはどこまでも優しい乳白色です。

 不快な黒とは対照的な色彩――求めていた色が、そこに、忽然とあったのです。


 これはなんだろう?

 そう考えるよりも先に、その意味を理解するよりも先に、少年の心を一念が占めています。


 ――これがあれば、塗り替えられる。これがあれば、治せる。これがあれば……。


『おい、やめとけ』


 弟の考えを察して、見えない兄が少年を制止します。


『それは、なんだかまずい気がする。いまそれは、多分よくないことになる』


 ですが、普段はなにより重んじる兄の忠告に、少年はこのときはじめて背きます。

 横たわる父に近づき、その傍らに少年は膝をつきます。


 それから、片方の眼を閉じます。

 二つの眼では見えない色を、可視となった苦痛を見据えたのです。


 彼は先ほどの小瓶を取りだします。

 がちがちに凝固ぎょうこしていた顔料は少年の指先が触れた途端、水で溶いたのと同じように彼が望んだ通りの濃度の絵の具へと変化します。

 少年はその色を二本の指の腹ですくい取り、父を苦しめる黒を白へと塗り替えて消してゆきます。


 すると――ああ、なんという不思議。

 あたかもしなっていた枝が弾力に従って元に戻るように、曲がっていた足がゆっくりとあるべき方向に伸びてゆくではありませんか。


 すでに苦鳴くめいはやんでいます。

 父は正体を取り戻して身を起こし、骨折の完治した足と完治させた我が子とを、言葉もなく見つめます。

 父を運び込んだ男衆、手伝いに来ていた女房や娘たち、医者や、一緒に駆けつけた母もまた少年を凝視しています。

 それに、呪使いも。


 それらの人々の眼にあるものに、少年は気付きません。

 ああ良かったと、彼はただ安堵して父に笑いかけました。


 その笑顔を、手加減を忘れた拳が打ち据えます。


 横倒れになった少年がどうにか起きあがり眼を開けば、目の前には治ったばかりの足で立ちあがった父が、苛烈かれつな視線をこちらに向けています。

 大事に大事に彼を育ててくれた父が、自慢の我が子と彼を誇りにしてくれた父が、そんな過去などなかったかのように、汚らわしいものでも見るかのような眼で。

 どうして、と、そう口に出して問いかけることすら少年にはできませんでした。


「……魔法使いじゃ」


 呪使いが暗い呟きを発したのはそのときでした。


「……魔法使い?」


 少年は聞き返します。


「おお、おおお! 魔法使いじゃ!」


 呪使いは彼を無視します。


「この子の中で邪悪が目覚めたのだ! 紺屋よ、もはやせがれのことは諦めろ!」


 呪使いがそう告げた瞬間、母がわっと声をあげて泣きだします。

 集まった人々の視線が、瞳の数だけのとげとなって少年に突き刺さります。


 彼は片方の眼を閉じてみます。輪郭の眼を閉じて、色彩の眼を開きます。

 そして、目の当たりにしたのでした。

 父には怒りと羞恥しゅうちの色を、母には悲しみと嘆きの色を、集まったすべての男と女に渦巻く、おそれとさげすみの色を。


 彼にとって、色は真理でありけっして嘘をつきません。

 それまでひそかな誇りとしてきた特別な眼を、この日、少年ははじめて呪ったのでした。

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