■ その語り部の登場
開店後間もない酒場というのは、他のいかなる店よりも、あるいはこの地上のどんな場所よりも清浄な空間性を有している。
店内の空気は冷たく澄んでいて、人々の発する熱気や体臭、酒の匂いはまだそこにはない。
それはこれから一晩かけてじわじわ添加されるものだ。
秋の夕景は儚い。夕陽は沈みはじめればあっという間に地平に消える。
同様に、この時間の清浄さと静けさもまた儚い。
それになにしろ、明日からは年に一度の祭りの期間がはじまるのだ。おそらくあと一時間とかけずに客席は軒並み埋まるだろう。
歓声が静けさを押しやり、酒気と人いきれが空気を淀ませ、楽しさと陽気さが熟成されていく。
夜はそうしてはじまる。
そう、夜はこれからはじまるのだ。
その語り部が登場したのは、ようやく酒場が酒場らしくなってきた宵の口だった。
「ああ、なんという良い夜でしょうか。こんな夜は、そう滅多にあるものではございません」
店内奥に設えられた演壇から(芸人たちを迎えるため、だいたいの酒場にこうした演壇は設けられている)語り部は客たちにそう呼びかけた。
まだ若い男だ。
子供から大人への過渡期にある、少年のあどけなさを多分に残した青年。
「良いお店に良いお酒。それに、なんといってもよいお客さんたち……え、口が上手いですって? はは、いえいえとんでもない、今のはまったくの本心ですよ?」
さわやかな弁舌に気さくで魅力的な笑顔。
客たちはすぐにこの語り部に好意を覚えた。
「ねぇ、皆様。良い良い尽くしのこの宵に、もう一つ重ねて、良い物語はいかがでしょう? 少しばかり長くなってしまいますが、実は今夜のような夜にうってつけの一編があるのですよ」
――聞きたいですか? 聞きたい? ん、聞きたい? ならほら、もう一声!
語り部の術中にはまって……というよりは、喜んでそれに付き合って。聞きたい、聞きたいねぇ。うん、そりゃあ聞きたい、おう兄ちゃん、聞いてやるから聞かせてみろ――客たちは声を合わせて盛りあげる。
語り部は満足げに笑いながら言う。
あはは、本当に良いお客さんたちだなぁ。
「いやはや、これではわたくしも負けてはいられません。一つ気合いを入れ直して、精一杯良い語り部となって張り合わせていただくと致しましょう。素晴らしい聴衆たる皆様に、ね」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
語り部の纏う雰囲気が変化し、なにかが店内に張りつめた。
「それでは――」
そして彼は譚りはじめる。
物語の幕が開く。
語り部は口上を述べる。
昨今の流行りやいくつかある慣例のもののいずれとも異なって、しかしなぜだか奇妙に印象的な、その台詞はこうであった。
「説話を司る神の忘れられた御名において――はじめましょう」
その晩、夜が終わるまで酒場から静寂は失われない。




