◆6 三人
些か長くなりすぎましたが、本棚にまつわる顛末は以上のようなもの。
読者よ、物語の時間の針を再びあるべき時点へと戻しましょう。そして先へ、さらに先へと進めましょう。
ユカと踊り子、そして本棚を背負ったリエッキ。
三人の旅は、もはやあらゆる恙と完全に切り離されて順風満帆。
無数の夜を聴衆たり観衆たる酔客たちの涙と喝采で彩り、あるいは露宿の星の下に三人だけの遊宴を催し、かくて快然の季節はたけなわとなって最高潮です。
さて、その宵は新月、月のない夜の中の夜でした。
荒野に露宿していた三人を、二〇人からなる盗賊の一党が囲み込んだのです。
立派な本棚をはじめとした旅の大荷物に加えて、それぞれ趣の異なる美を備えた美女と美少女。
今宵の戦利品の絢爛なる様に、盗賊たちは早くも舌なめずりなどはじめています。
ですが、彼らの下卑た笑顔は、数瞬の後には驚愕に、さらに数瞬の後には恐慌に、そして重ねて数瞬を経ては狂態へと、めまぐるしく変化を遂げることとなるのです。
抜き身の曲刀を恐れるでもなく年嵩の女が踊り出せば、無法者どもの得物は彼らの手を離れて舞踏に飛び入り、その後には踊る女を新たな主人と認めたかのように古い主人たちに襲いかかります。
円月刀に追い立てられる男たちの、その先にあるのは川。
しかし、この夜の被害者の(被害者であるはずの三人組の)白一点である小僧がなにやら物語るのが聞こえたかと思えば、河水は水で出来た竜もかくやと立ち上がり、飛沫の咆吼をあげて彼らに襲いかかります。
さぁ、恐懼に駆られて狂気に噛まれて、無法者どもの半分以上が既に失神して、残った者たちも半ば正気を失って逃げ惑います。
踊る円月刀に水の竜、俺たちは悪夢を見ているのだ。そう呪文のように繰り返しながら夢の出口を探す彼らの前に、いざ、悪夢の最後の一押しです。
ろくすっぽ前も見ずに逃げていた先頭の男が、どん、となにかにぶつかります。
はて、と、一同が揃って視線を、上へ、上へとあげてみれば……。
巨大な翼に赤い鱗。水の竜ならぬ本物の竜が、男たちを獰猛に睨め据えておりました。
最後まで意識を保っていた数名も、これが決め手となって泡を吹いて倒れたのでした。
こうして悪名で鳴った盗賊団を造作もなく壊滅させてしまった三人は、まるでそれが余興の一環ででもあったかのように談笑を再開させます。
ほどける緊張など最初からなくて、安心は当たり前過ぎて自覚すらされません。
無法者どもは自身の持ち物だった長縄で縛り上げられ翌日に街の保安吏へと引き渡されましたが、その際の役人衆の瞠目も三人には何処吹く風です。
彼らの旅はなにものにも阻害されず、そして、なにものにもとらわれず自由でした。
季節は巡ります。春から夏へと、夏から秋へと。秋の終わりから、冬のはじめへと。
既にその島で見るべきものはあらかた見尽くしていた三人は、そろそろまた大陸に戻ろうかとの意見をまとめておりました。
従ってその頃、彼らの道程は上陸の際に踏んだ港を再び目指している途上にありました(目的地である港街への到着は冬の最中となりそうでしたが、先にも記述したように大陸は目と鼻の先、加えて南からの海流によって海峡は年間を通して氷に閉ざされることは皆無なので、冬でも天候さえ良ければ船はいくらでも見つかるはずでした)。
その魔法使いの話を聞いたのは、港街の間近まで旅程を消化したある夜の酒場ででした。
いつものようにユカと踊り子が一仕事終えてリエッキの待つ円卓に戻ると、すぐに客のひとりが三人の元にやってきました。
壮年のその羊毛商はまず踊り子の演舞の華美なることを褒め称え、続いてユカの話術と物語にいかほど引き込まれたかを熱っぽく語りました。
「毛深きものたちの聖女(とはこの夜に語られた物語における骨の魔法使いの二つ名でした)に幸いあらんことを」
そんな祈りで感想を結んだとき、彼は少しだけ涙ぐんでおりました。
「ところでな、語り部さん」
冬物の袖で涙を拭って男はいいました。
「俺はな、あんたの語りを聞くまでもなく魔法使いにゃ好意的なのさ。奴らのひとりに助けられたことがあるからな」
そして羊毛商は語りはじめました。
数年前、原毛の買い付けで遠出をしていた彼はふとしたことから馬の制御を失い澤へと転落した。
不幸の中の幸いで命に別状はなかったものの、馬の足は折れ、彼自身も額からひどく出血している。
壊れた荷馬車からてんでに放り出された羊毛袋を目に彼は途方にくれた。
と、そこにひとりの男がやってきた。
男は羊毛商に見舞いの言葉をかけたあとで、自分は魔法使いだと告げた。そしてぽかんとする羊毛商を尻目になにやら絵筆を取り出し、馬の骨折部に模様を描きはじめる。
すると馬は何事もなかったかのように立ち上がった。
男は次に羊毛商の傷も同じように治してくれた。
こうして、荷馬車は諦めねばならなかったものの、羊毛商は命と馬を失わずに済んだ。
彼の話はこのようなものでした。
これに、ほとんど血相を変えて食いついたのが踊り子でした。
半ば詰め寄るような烈しさで羊毛商に迫り、とにかく根掘り葉掘りと質問を浴びせます。
羊毛商は狼狽の極みとなり、ユカとリエッキもまた普段の彼女からは考えられぬこの様子に顔を見合わせます。
この夜以降、踊り子はそれまでとは目に見えて調子を異にしました。
憂いに沈む、というわけではないのですが、なんだか考えに耽ることが多くなり、彼女特有の陽気さや饒舌さは港湾の活況が海霧に沈むが如く閉ざされがちになってしまいました。
そんな酒場での出来事から三日後、ついに三人は目指していた港街へとたどり着きます。
この年の春に降り立った時と比べれば少ないものの、それでも出航に向けて準備をしている船はいくつかありました。
ユカはその一つを訪ねて、船乗りらしくやたらと声の大きな船長と直接交渉して、そして、瞬く間に乗船の許可を勝ち取ってしまいます。
「美人が二人もいたからすぐだったよ。美女は船旅には縁起がいいからね。だからどの船も船首像には女神を採用してるんだ。さ、行こう。ちょうどもうすぐ出航らしいよ」
ユカに促されてリエッキが船へと歩みはじめます。
ですが、なぜか踊り子は一歩も動きませんでした。
「……? おい、なにやってんだよ。船が出ちまうぞ」
リエッキが怪訝な声で踊り子に呼びかけます。ですが、やはり彼女は動きません。根が生えたように波止場に立ちつくして、踊り子はただ寂しそうに二人に笑いかけました。
「なんとなく、わかってた」
やがて、ユカが優しくいいました。
「ここでお別れなんだね?」
リエッキが、愕然とした表情となってユカと踊り子を順次に見ます。
踊り子は頷きます。肯いて、ごめんね、と二人に告げます。
「謝らないで」とユカはいい、続けました。「このあいだの魔法使いを追うんだよね?」
「そうよ」と踊り子は答えます。「だから、あたしは二人とは別の船に乗るの」
そっかぁ、とユカは応じます。
彼のその反応に少しだけ笑顔を見せて、踊り子はいいました。
「彼は南にいったんだと思う。向こうはいま危険だから、人助けにね。そういう人なんだ」
「わかるの?」
「わかるわ」と踊り子は即答します。「だって、彼のことだもの」
踊り子の眼差しに、ユカは恋の熱を感じました。
ユカは微笑ましいものを見た顔となりながら、一応聞くけど、と前置きして聞きました。僕らが一緒に行くのはダメなのかな、と。
「ありがとう」
踊り子は答え、それからゆっくりと横に首を振りました。
「でもね、ダメなんだ。あたしひとりでいかないと、また逃げられちゃうような気がするから」
そう応じた踊り子の瞳には、揺るがぬ意思がありありと見て取れます。
予想通りのその答えに、ユカはもう一度「そっかぁ」と呟きます。
それから、彼女にとっては突然に過ぎるこの成り行きに度を失っているリエッキに笑いかけて、いいました。
「ねぇリエッキ。僕たちの姉さんの恋路をさ、ひとつ応援してあげようよ」
それはずっと前に、ある蜂飼いの家族の父親がいったのと同じ台詞でした。
リエッキはしばらくなにかを言いたそうにしていましたが、やがてそっぽを向いていつものように「はん」と鼻を鳴らしました。
その仕草が了承を示しているのだということがわからぬほど、ユカも踊り子も彼女との付き合いは浅くありませんでした。
三人は髪がふれあうほど近くまで集まりました。最後の別れを交わすために。
「二人のおかげですごく楽しかった」、まずはじめにそういったのは踊り子でした。
リエッキはやはり鼻をならして、それからぼそっと、「こっちの台詞だ」、といいました。
「そういう時はこちらこそっていうんだよ」、とユカが笑って訂正します。
踊り子の瞳に、霞がかかります。
「友達、仲間、ユカ君とは同志でもあるのかな。……でも、あたしにとって二人は、そのどれよりも大事な存在よ」
にじむ涙の上に強引に笑顔を作って、踊り子は二人にそう告げました。
「僕も同感だよ」とユカは応じました。「でもさ、僕らの関係を表す言葉なら、一つあるよ」
ユカは踊り子とリエッキに陽差しのような視線と笑顔を向けました。
人と人との関係は、交わした言葉に、共に過ごした時間に、そして互いになにを与え合ったかに表されます。
気負いのない言葉を交わしあい、くつろいだ時間を過ごし、そして互いに限りのみえない親愛と信頼を与え合った。そうした彼らの関係は、紛れもなく――。
「僕らは家族だよ。だからね、離れていても、悲しく思う必要なんてちっともないんだ」
「……ユカくんったら、残酷だなぁ」
二つの瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、踊り子の笑顔をくしゃくしゃにします。
「離れるのが辛くなること、いうんだもんなぁ。残酷だよキミは。……ほんと、残酷だ」
踊り子はそれだけいうと涙を隠すようにリエッキへと抱きつきました。
彼女の抱擁に、リエッキはこの日はじめて抵抗しませんでした。
抵抗せず、どころか遠慮がちにではあるものの、自分からも相手の背中に手を回したのでした。
踊り子はとうとう声をあげて泣きはじめます。残酷なのは、ユカだけではなかったのです。




