◆4 本棚
Ⅲ
物語の糸を巻き取るように、季節をひとつ遡上致しましょう。
それは冬のある一日のこと、雪もよの白い夜のことでした。
こうして鑑みると、この三人の物語は重要な局面においては常にその背景に夜を所有していたように思われます。
その日、三人は街道を外れた森の中で終日を過ごさねばなりませんでした。
旅程を先に進めることはならず、かといって朝方発った宿場に引き返すことも叶わぬという、ひどくままならない状況に彼らは置かれておりました。
リエッキが原因不明の病に倒れてしまったのです。
その朝ユカと踊り子が目覚めたとき、寝台の中のリエッキは真っ青な顔をしてぶるぶると震えていました。
こごえたように毛布にくるまった様とは裏腹に、触らずともわかるほどの高熱を彼女は帯びていました。
右の瞳は人間のそれで、しかし左は既に竜のそれへと戻っており、そしてその両方に苦しみの涙がにじんでいます。
どう見ても尋常を大きく逸した病体です。
ひとまずユカと踊り子の二人はリエッキの変身が完全に解けてしまう前に取り急ぎ町を脱しました。
踊り子が荷物を持ち、ユカがリエッキを背におぶって。そうしている間にもしも変身が解けてしまったら、その時はユカなど一瞬でぺちゃんこです。
ですが、そんな危険の認識は彼の頭にはありません。それほどまでにリエッキの状態はひどかったのです。
そのようにしてどうにか森へと人目を逃れたあとには、しかし次なる問題がすぐさま出来します。
森という場所になれたユカが療養に適した空間を目聡く見つけだし、踊り子と協力して即席の草木の寝台を作りあげて……と、ここまで作業を終えたところで、さて、いよいよ彼らは途方にくれてしまいます。
なにしろ病気のドラゴン、しかも人間の姿をした病気のドラゴンなんて見たことも聞いたこともない二人です。
なにをどう看病したものか皆目見当もつかず、かといって人里の医者を呼んでくるというわけにももはや参りません。
「困ったなぁ」とユカがひとりごちて、
「困ったねぇ」と踊り子がそれに応じます。
そうこうしているうちに、ああ、弱り目に祟り目! ついには雪まで降りはじめます。
ともかく、ユカは薬草という薬草をそこら中から掻き集めて、ついでにリエッキの大好物である蜂蜜を巣ごと奪取して、彼女に寄り添いながらずっと森に居続けました。
対して踊り子はといえば、彼女は有り金のすべてを持って宿場と森を何度も往復して、必要なものから必要とは思えないものまで片っ端から買いそろえていきます(夜毎に二人が貰い受けるおひねりの多寡はそうした無駄遣いを可能とするほどには凄かったのです)。
そのように半ば現実逃避にも似て慌ただしくしながら、二人は手探りで看病を続けました。
ですが、やがて冬の早い夜がやってきてもなお、リエッキの容態は一向に上向きません。
よわりきった様子で、二人は重なり合う梢の向こうにある夜空を揃って仰ぎ見ます。
「……ねぇユカくん、あたし、もいっかい町にいってくるわ。ほら、酒は百薬のなんとかみたいな言葉もあった気がするしさ、とにかくお酒買ってくる。もちろん、蜂蜜酒ね」
そう告げると、踊り子は角灯を手に闇の森を宿場へと出発します。
いってらっしゃい、とユカはその背中に声をかけます。気をつけてね、と。
藁にも迷信にも縋りたい彼女の気持ちが、彼にはわかりすぎるほどよくわかりました。
ひとりになって、ユカはリエッキに目をやります。草の寝床で、踊り子が買ってきてくれた毛布に子供のようにくるまっている彼女に。
リエッキは人間の姿を保ったままですが、それでも身体のあちこちで鱗が出たり引っ込んだりしていて、薄く開かれたまぶたの向こうには人間では有り得ない青い虹彩が覗いています。
異様の極みにあるその様子を、しかしユカは不気味だとは感じません。彼はただ彼女の辛さと苦しさの度合いをそこに見て、こう思っただけです。
僕が代わってあげられたらいいのに。
梢の連なりを通過してきた雪のひとひらが、リエッキの赤い頬に落ちて溶けていきます。
力無く横たわる半身を少しだけもたげさせて、ユカはリエッキの後ろに我が身を滑り込ませました。
そして雪から、あるいは世の中のすべての苦しみから守ろうとするかのように、彼は彼女を背中からぎゅっと抱きしめました。
「君、随分熱いぞ」
少年は少女の竜にいいました。
ユカの腕の中で、リエッキの体温は危険な水準に達しています。
「ねぇ、だったらさ、こんなのはどうだろう? 君を苦しめてるこの荒熱を取りだしてさ、空気の層みたいにして僕らのまわりに張り巡らせるんだ。見えない屋根とか、じゃなければ霊気の障壁みたいに。そしたら冷たい雪は僕と君に届かないし、君も熱が引けて苦しくなくなるだろ? まさに一石二鳥じゃないかな」
どうだろう? とユカはリエッキに意見を求めます。
けれど彼女は朦然としていて、彼の問い掛けには答えません。
抱きしめる力をユカは強くします。
「さっき君、うわごとで僕の名前を呼んでたんだぞ。ユカ、ユカって。『さしものリエッキちゃんも病気の時はまっとうに素直なのね』って、お姉さんたらそう笑ってた。なおったらきっと随分からかわれるだろうから、覚悟しておきなよ」
リエッキは答えません。
それ以上はくっつけないほどぴったりとリエッキの背中に身体を合わせて、両方の足でしっかりと抱え込んで、ユカは身体全部で彼女の存在を包み込もうとしました。
このとき、ユカの意識のすべてはリエッキへと注がれていて、だから彼は気付きませんでした。
降りしきる雪が、さっきからただのひとひらも自分たちに舞い落ちてきていないことに。
「……僕が代わってあげられたらいいのに」彼はいいました。「君の病気を、僕が肩代わりしてあげられたらいいのに。……うん、そうだよ、そしたら全部丸く収まるんだ。だって僕は人間だから、君と違ってなんの心配もなく人間のお医者に見てもらえる。それに病気は人にうつすと治るなんて迷信もあるんだ。ねぇリエッキ、そうしようよ」
ほら、僕にうつしなってば。
親友の肩越しに、彼は彼女の頬に自分の頬を重ねました。
彼の全身を悪寒が走り抜けたのはそのときでした。暴力的なまでに強烈な悪寒が。
毛穴という毛穴から力が抜けていくような感覚をユカは覚えます。意思とは関係なしにまぶたがびくびくと震えはじめ、腕にも足にも、いいえ、指の一本にも力が入りません。
「な……なにこ――……ッふ!?」
なにこれ。そう発しようとした言葉は、にわかに暴走をはじめた鼓動と乱れた呼吸に圧されて潰えます。
全身が燃えるように熱くて、なのに氷のような寒気が身体の芯にあります。
目が眩む、
耳鳴りがする、
頭が痛い、
吐き気がする、
辛い苦しい泣きたい死にそう――。
と、そのとき。
「な、なんだ……? 急に楽になったぞ?」
少年のすぐ間近で、さっきまで虫の息だった少女が不思議そうにいいました。
ジィィィィと鳴り続ける耳鳴の向こうに彼はその声を聞きました。
戸惑いに満ちた声。ですが、病苦の陰など残滓も余さず消え去った、元気な親友の声を。
その一瞬、ユカはすべての苦しみから解放されて笑顔さえ浮かべていました。
深い安堵を胸に彼は背後に倒れこみます。かくして二人の密着はほどけます。
二つの身体が接していた部分から、二冊の本が気付かれることもなくこぼれ落ちました。
「……は? え? ええええ?! ユカ、なんでお前がこんなんなって……いや、とにかくしっかりしろよ! うわっ、すごい熱が出てる! おい、ユカ、ユカってば!」
ユカの記憶にあるのはここまでです。ここから先の事情は、すべてあとになって踊り子から教えてもらったことです。
たとえば彼女が戻って来た時、リエッキは涙目になりながら介抱とも呼べぬ介抱で事態をさらに悪化させようとしていたとか。
朝方とは反対に、今度はリエッキがユカをおんぶして宿場の宿に駆け込んだとか。
蜂蜜酒の入った水差しを見たユカが朦朧としながらも「僕はお酒より甘草の飴が欲しい」とお見舞いの注文をしたとか(これもユカにはまったく覚えのないことでした)。
彼はそれらを病床で聞きました。
甘草飴の皿と一緒に、寝台の脇には二冊の本が重ね置かれていました。
革張りの表紙にはそれぞれ『ほとぼりを手繰る見えない手』と『献身の夜』という表題が記されています。いわれなければ板と見まごうほどに薄いその二冊は、どちらも森での夜にユカが発現させた彼の新しい魔法でした。
前者は熱を操る魔法、そして後者は他人の怪我や病気を引き受ける魔法です。
この二冊目の効果によってユカはリエッキの患いを肩代わりし、ついでに二週間の療養もまた余儀なくされたのです。
「どこまでもたまげさせてくれるなぁ、キミって子は。いっぺんに二つも魔法を生み出しちゃうなんてさ」
やっぱり愛の力って偉大だなぁ。踊り子が何度も肯きながらそう呟き、それに反応してリエッキがしどろもどろになって……と、そんなところでこの事件はおしまいです。
一件落着して、めでたしめでたし。滑稽にも微笑ましく、そこそこに据わりの良い結末といえるでしょう。
……いえたでしょう。ここできちんと終わっていたならば。
残念ながら、物事には往々にしてつかなくてもいい後日談がついてくるもの。
そしてまた往々にして、全体を見渡した時にはその後日談のほうが本題よりも大きな比重を占めるもの。
読者よ。最初の頁で明言した通り、この物語の主人公は――ユカは、何一つ取り柄のない少年です。
リエッキという友がいたればこそ数々の幸運に恵まれ魔法使いとしても目覚めた彼ですが、しかし世の冒険譚に語られる英雄たちとは比べるのも虚しい情けない主人公です。
では、勇者でも賢者でもなかった彼は、はたして何者だったのでしょうか?
もちろん、物語師です。
それも、時として傍迷惑なほどの、筋金の入った語り部です。




