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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 二章.誰かが語って、誰かがそれを聞く限り
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■7/了 語り手と聴き手

 図書館。百年後の図書館。友を失ってから百年後の。理想の図書館の、その形骸。

 在りし日の弥終いやはて

 燦然たる日々の終着。

 記憶と存在の袋小路。


 その時間と空間の中を、人の姿をした一頭の竜は彷徨っている。

 それは、さながら幽鬼の足取りであった。書架と書架の狭間を、リエッキは確たる意思も持たぬまま歩み続けている。

 寂しさが胸を満たしていた。悲しみが心を刺していた。

 もう親友に会えないことが死にたいほど寂しく、時間に置き去りにされたこの身が呪わしいほど悲しかった。

 どうしてわたしは竜なんだろう、と彼女は思う。どうしてわたしは人として死ねなかったのだろうと。

 宝を貯め込むドラゴンの習性、その理由の一説に『死を求めるが故に』というものがある。定命を持たず、しかしその気高さ故に自ら死を選ぶことも出来ぬドラゴンは、自分を殺してくれる存在をおびき寄せるために宝を貯め込んでいるのだと。

 いま、リエッキにはその奇説が理解出来る。


「……寂しいよ」


 無音の闇に呟きの火が点る。涙の声だった。


「……あんたに会えないのが、寂しいよ。あんたがもういないのが、悲しいよ――ユカ」


 リエッキは立ち止まる。

 書物の宇宙の直中で、彼女はもう一歩も歩けない。

 牛頭と赤子が図書館にやってきてから季節は既に一巡しようとしている。

 騒がしい日々の中で、リエッキは悲しみを忘れかけていた。最初は強引に巻き込まれていただけの子育てに今では渋々を装いながらも自ら参加して、そうして赤子の世話に追われるうちに、彼女は夢を見ることから遠ざかっていた。


 しかし今日、悲しみは覚醒の日向から堂々と彼女に襲いかかった。


 どうして、と彼女は声には出さずに叫んでいる。どうしてわたしは人間じゃなかったんだ。そして、どうしてあんたは竜じゃなかったんだ。

 彼女の親友は人の平均を超えて長く生きた。そしてその長い人生の中で、彼は一人の人間が生涯に成し得る限界を超えて多くのことを成し遂げた。

 最強の魔法使い。

 深きの森の司書王。

 その名は人の世の伝説として永劫に語られ続けることだろう。


 だけど、それがなんだというのだ?


 親友がこの世を去ってから数ヶ月後、どうやってその死を聞きつけたものか、どこぞの王侯だか教主だかいう連中が訪ねてきたことがある。

 人間世界の代表を気取ったそいつらは一人残されたリエッキに言った。


 司書王の死は人の世全体にとって大きな損失です、と。


 彼らの弔意がそれなりに本物であることはリエッキにもわかった。

 しかしそれでも彼女は我を忘れるほどに怒り狂った。


『司書王なんか知ったことか! わたしはユカを喪ったんだぞ!』


 人間たちの前で竜の本性をむき出しにして彼女はそう怒鳴り散らした。

 偉大なる司書王。最強の魔法使い。

 そんな肩書きは彼女にとってどうでも良いことだった。いくら人間どもがそれを重視しようとも、彼女にとって親友はただ彼でしか――ユカでしかなかった。

 彼が子供の時からずっと。彼が年老いてからもずっと。そして、彼が死んでからも。

 人の世に語られるのは司書王の伝説だ。それはユカという個人に焦点をあてた物語ではないのだ。

 だから、そんなものがなんだというのだ。


 弔問団を追い返したその出来事が原因かどうか、ともかくそれ以降、図書館を訪れるものはぷっつりと絶えた。

 時折やってくる、希覯書と司書王の遺産狙いの盗賊どもを除いては。

 リエッキはそれら歓迎すべからぬ侵入者たちをその都度追い払い、あるいは皆殺しにして書物の安寧を守る。

 そして、血に酔ったあとにはひどく虚しい気分だけが残される。

 それでも彼女は図書館を守り続けた。

 理想の司書と理想の読者、その二つを失って、享受するものを失った静寂はただ沈黙へと堕して、それでも彼女は番人であることをやめなかった。


 この図書館が番人の為に用意された場所であることを知っていたから。


「でももう、挫けそうだ。……もう、わたしはわたしをやめてしまいたい」


 百年のあいだに幾度繰り返したかわからない呟きを彼女は再び口にした。

 親友がもしも竜であったなら、一緒に無限の時を生きてくれたなら。

 ……いいや、たとえもう二度と会えなくとも、この地上のどこかに生きていてくれたなら、それだけでわたしは――。


「……寂しいよう……悲しいよう……ユカ、ユカぁ……」


 図書館の床に背中を丸めて蹲り、子供のように泣きはじめる。

 いまの彼女と恐ろしき暴力の化身たるドラゴンを結びつけられる者が、はたしているだろうか。

 華奢な肩は小刻みに震え、啜り泣きの声は夜半の雪のように切ない。その様は余りにも儚くてたよりなかった。


 リエッキは再度呟く――わたしはわたしをやめてしまいたい。


 と、彼女がそう口にしたのとほとんど同時に、すぐ近くでなにかが落ちる音がした。


 ひとりでに書架から落ちた一冊の本が、開かれた書面を下にして転がっていた。


 リエッキはそれに手を伸ばす。伏していた頁に指を入れて持ち上げ、そのまま開いた状態で膝の上に置く。

 不思議な本だった。外観を見ただけでは厚みはそれほどでもないというのに、本文を一目みた途端、それが途方もなく長い物語であるという事実が理解された。


 物語。


 それは物語だった。

 しかし、そうとわかることがまた一つの不思議であった。

 なぜならその本は読まれることを拒否していたのだから。書かれている内容のすべてが記号めいていて、判読をことごとく許さないのだ。

 まるで、本自体が意思を持って読み手を拒むかのように。

 開かれていたのは一番はじめの頁だった。

 読めない本に、リエッキは自分でもどうしてそうしているのかわからぬまま視線を走らせる。

 そして、記号の羅列の中にたった一カ所だけ読み取れる箇所があるのを発見する。まるでその部分だけが光を放っているかのような印象を彼女は抱く。


 視界を曇らせる涙を拭い去って、彼女はそれを読み取る。



『読まれる限り、物語は不滅です。読み手のある限り、物語は死にません』



 瞬間、涙すら凍り付いた。


 無数の記号に埋もれるようにしてそこにある一説を、リエッキはただ失語して凝視する。

 これが平素であれば、きっと変哲のない言葉として気にも留めなかったに違いない。

 けれどこのとき、リエッキにとってそれは天啓にも等しかった。


「……読まれる限り、物語は死なない」


 リエッキはその部分を読み上げる。


「だったら、あんたも不滅なのか? 読まれる限り……いや、別に本じゃなくてもいいんだ。たとえば誰かが語って、誰かがそれを聞く限り、あんたも……ユカ」


 手にした本を胸に抱きしめてリエッキは声をあげて泣きはじめる。

 今度のそれは悲しいだけの涙ではなかった。彼女はなにかを感得していた。


 このとき、リエッキはいくつかのことに気付いていなかった。

 たとえば抱きしめているその本と自分が、百年の昔にただ一度だけ出逢ったことがあるという事実に。そして、記号めいて判読を拒むその内容――なぜそれが読み解けないのか、彼女はその謎に思い至らない。


 書架に目をやるとすぐに一冊分の空きが出来ているのが認められた。

 リエッキは手にした本をそこに戻し、愛撫するように背表紙をなぞる。なぜだか愛おしいその本を。

 彼女は深く瞑目する。自分がなにをすればいいのか、彼女はそのことを思う。

 やがて目を開けたとき、書架に戻したはずの本は忽然と姿を消していた。指が触れていた背表紙はまったく別の、それこそなんの変哲もない一冊に変わってしまっていた。

 リエッキはその不思議に拘らなかった。

 渇きかけていた涙を拭うと、清々しくすらある笑顔を浮かべて彼女は言った。


「寂しくて、悲しいよ。だけどさ、最近のわたしは孤独ではないんだ。……なぁ、ユカ」




 言いたいこと、問いたいこと、それは山ほどあっただろう。

 けれど牛頭は戻ってきたリエッキになにも言わなかった。彼はただゆったりした口調で「おかえりなさい」とだけ言った。

 ただいま、とリエッキはそれに応じる。

 それから、彼女は嘘のない笑顔で嘘をついた。


「少し昔の荷物をあさりにいってたんだ。懐かしい物がいっぱいあってさ、びっくりしたよ」

「なるほど」


 深くは言及せずに牛頭は肯く。それにリエッキの言葉はすべてがすべて嘘ではなかったらしい。


「それで、それが掘り出し物ですか?」


 牛頭はリエッキの手にしている物を指さした。ひどく意外な顔をしている。


「踊り子と旅をしてたってさっき言ったろ?」


 得意半分、照れくささ半分の笑顔でリエッキは言った。


「わたしたちは小さな一座みたいなもんだったんだ。で、ある日あの女が言ったんだ。踊り手と語り部、これで弾き手がいれば完璧だ、なんてさ」


 言いながらリエッキはそれを抱えなおす。

 楽器だった。ギターともリュートとも違う、古来より語り部の持ち物とされてきた、不滅の老賢者により考案されたという神話をもつ奇妙な形の弦楽器。


「演奏にあわせて踊ってみたいってわがままいいやがってさ。でまぁ、消去法ってやつだ。なにしろ、あいつは楽器のほうはからっきしだったからね」


 白い指が弦を爪弾く。時の彼方からやってきたその音色に、リエッキは満足そうに一度だけ肯く。


「そういえばさ、戻ったらあんたに言おうと思ってたことがあるんだ」

「はい、なんですか?」

「ありがとよ」


 唐突に礼を言われて、牛頭がぽかんとした顔をする。


「いったいどうしたっていうんです? それに、いったいなにに対するお礼なんですか、それ?」

「さぁな、自分でもよくわからないんだ。でもさ、語り部は聴衆に感謝を示すもんだろ?」


 ほら、あんたにもありがとうだ。

 そう言って牛頭に抱かれている赤子に指を握らせる。乳飲み子がきゃっきゃっとはしゃいだ声をあげる。


「……よくわかりませんが」


 牛頭が笑みを浮かべる。


「ともかく、なにか吹っ切れたみたいですね」


 それにはただ笑顔だけで応じて、リエッキは演奏をはじめる。

 曲調は指が覚えていた。地味な曲だったが、それでいいのだ。

 だって、これは背景楽なのだから。


「それじゃ」と彼女は言う。照れを払うように咳払いをする。


 そして、かつて何百回、何千回と耳にしてきた口上を、幾分ぎこちなく模倣して言った。


「説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう。これは、最も幸福な竜の回想記だ」




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「だから、それはまた明日でいい。……明日、またつれてってくれよ」


 リエッキのその言葉に、ユカはやっと引いた涙が再び溢れそうになるのを感じました。

 素直じゃない彼女が精一杯素直になろうとした結果がその言葉なのだと彼は理解していたのです。


「うん! 行こう! 明日も、明後日も、それから先も、ずっと、ずっと一緒に!」


 ユカが勢い込んでそう言うと、リエッキは照れを隠すようにそっぽを向いてしまいます。だけどユカにとってはその仕草までもがなんとも嬉しくてなりません。


 僕は幸せものだ、と彼は思います。リエッキがいるから、僕は幸せものだ。

 冴えないユカ。取り柄なしのユカ。だけどそんなユカが魔法使いになってしまったのです。

 もちろん、それはリエッキのおかげです。リエッキが彼を魔法使いにしてくれたのです。


 僕は幸せだ。僕は世界一の幸せ者だ――ユカは何度も心にそう念じます。


 だけど、もしも僕がそう言ったらリエッキはどう言うかな。

 ユカはそう考えて、笑顔の中の嬉しさをさらに大きくしました。

 きっとリエッキは、『わたしのほうが幸せだ』って言うんだろうな。ユカはそう思っていました。けれどそれについてはユカだって譲るつもりはありません。僕のほうが幸せだ。いいやわたしのほうが。いや僕だ――そんな風にしてお互いがお互いに一番を主張するのでしょう。


 ですが読者よ。これこそが、これこそが一番の証明ではありませんか。

 自分との友情、その幸せを、世界でいちばん大好きな友達が誇ってくれるなんて……こんなに幸福な男が、ほかにいるわけはありません。

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