■6 リエッキと乳飲み子
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「次の日は朝から一日中街で過ごしたんだ。市場ってのはなにしろすごかった。目と鼻の先に首都が控えてるからかそれとも祭りが近かったせいか、ともかく、立錐の余地もないってのはきっとああいうのをいうんだろう。
あいつは平気な顔してたけど、あの混雑ひとつとったってわたしにはちょっとした見せ物だった」
図書館。百年後の図書館。友を失ってから百年後の。
在りし日の弥終たるその場所で、彼女はこの昼下がりもまた思い出に浸っている。過ぎ去った時間に心を遊ばせている。
だが、眠ってはいない。この日の追憶は、夢の中に求められたものではない。
リエッキは語っていた。
長椅子に掛けた身を、ゆらゆらと、ゆらゆらと揺らしながら。
「肉、魚、果物……甘いのも辛いのも、美味しいのもあまり美味しくないのも、とにかく片っ端から食べたような気がする。わたしの胃袋は人間の姿でも竜の大きさのままだったみたいだけど、もちろんあいつのはそうじゃない。
わたしに張り合ったばかりにあいつ、食い過ぎでぶっ倒れちまった。酔いつぶれたのを介抱してもらった礼を早速返す羽目になった」
彼女は語る。
そして、語られるからには聴衆がいる。
くぅう、と喃語の発音があった。
リエッキの腕に抱かれた赤子が、なにかを欲しがるように宙に手を伸ばす。
リエッキはその小さな手に自分の人差し指を握らせてやる。こうしてやるとこの子は機嫌が良いのだ。彼女はそのことを知っていた。
これが聞き手であった。満一歳に満たぬ赤子にリエッキは語っていたのだった。
「そうだ、髪飾りも買ってもらったな。人間の美意識なんてわたしにはさっぱりだったから、あいつに選んでもらったんだ。でも、あいつの感性はわたしよりひどかったけどな」
語り部はただ一人の聞き手に向けて微笑みを浮かべる。
もちろん、乳飲み子は言葉などひとつも理解しない。そのことは百も承知の上で、それでもリエッキは語り続ける。
そうすることで、彼女は夢を見ずとも大切な誰かに再会することが出来た。
語りは続く。赤子の機嫌はすこぶる良い。そしてまた、不思議なまでに大人しく静かにしている。
それはまるで、語り部と物語に敬意を示すかのように。
「実のところ、リエッキさんのなさりようは大いに正しかったのです」
赤子をあやしながら牛頭はそう力説した。
「赤ちゃんは周囲の言葉に耳を澄ませています。まわりの大人たちの会話を聞いています。彼らはそうやって言葉を獲得しようとしているんです。それは別に、必ずしも会話でなくても構いません。どんな形にせよ言葉を聞かせることが赤ちゃんの言語の発達に不可欠なんです。たとえば熱心に話しかけるとか、それに、あなたがしていたように物語を聞かせてあげるとか」
ああそうかよ、とリエッキは無愛想に応じる。手放しで賞賛してくる牛頭に、彼女はどんな顔をしたらいいものか決めあぐねている。
「実は少しだけ心配していたのです。なにしろこの図書館にはあなたと私の他に大人はいませんからね。吸収するべき言葉があまりにも不足しています。私も可能な限り話しかけるよう心がけてはおりましたが、しかし内心、この子はきちんと話せるようになるのかと不安に思っていたのです。
けれどどうです? 私の見るところ、この子は既に喃語期の終盤にさしかかっています。私たち二人がこの図書館に身を寄せてから八ヶ月、多く見積もってもこの子はまだ生後十ヶ月ほどです。言葉の発達は、遅れているどころか平均に比べても進んでいるほどです。
いや、これもすべてリエッキさんのおかげですよ」
「わたしは――」
気恥ずかしさに負けて反論が口をつく。しかし勢いそのままに発した言葉は二の句を失い、リエッキはそのまま少しのあいだ黙り込む。
「……わたしは、別にそんな風に細かいことまで考えてたわけじゃない」
「ですが結果はこのように必ずついて来るものです」
赤子を高く抱き上げてやりながら、牛頭はきっぱりとそう言い切る。
「あなたがいてくださって、本当に良かった。もちろん私にとっても。ですがそれ以上に、この子にとって」
机に頬杖をついたままリエッキはそっぽを向く。
視界の外から彼女を追うように喃語が発せられる。見えてはいなくとも、牛頭が微笑みを強めるのが気配でわかる。
彼女は隠した面を赤らめている。ああ、むずがゆい。
「そういえば、今日は髪飾りをつけているのですね」
まるで自分で突き落とした溺者に助け船を出すような時宜で牛頭が話題を変えた。
「その……なんというか、随分前衛的な意匠の」
「それも百年と半世紀も前の前衛的だ。時代はまだこの感性に追いついちゃいないらしいが」
言いながら彼女は振り向く。そして牛頭の視線を真っ向から押し返す。
「というかだ、前衛的なんて遠回しな言い方しないではっきり言えよ。『ひどい』って」
牛頭は曖昧に笑って誤魔化そうとする。その笑い方が肯定を告げていた。
リエッキはふっと視線を和らげる。
「ほんとに、侮りがたいひどさだ。……でも、このひどさがわたしにはいいんだ」
外した髪飾りを手の中で弄びながら彼女は言った。胸の裡に湧きだしてくるものがあった。
「……あの女にもバカにされたっけな。花だか魚だか虫だかちっともわからない形だって」
「あの女?」
「流しの踊り子で、あいつの魔法使いの先輩でもあった女だ」
リエッキはそう答え、いつになく多弁になっている己を自覚しながら続けた。
「こいつを買ってもらった前の晩に出逢って、それから二ヶ月くらいしてからまた再会したんだ」
司書王の先輩ですか、と牛頭が言う。理想的な相槌だとリエッキは感じた。語り手の言葉に興味を持っていると示し、その表現に偽りを少しも感じさせない、語りを促す相槌だと。
心の中で少しだけ牛頭に感謝しながら、リエッキはなおも続けた。
「別れたのとは別の酒場で偶然また顔を合わせた時、あいつもあの女も大喜びだった。でも、正直にいうとわたしは少しだけ複雑だった」
「嫌いだったのですか、その女性が」
「嫌いじゃなかったさ」
リエッキは迷いなく言う。決して嫌いではなかった。それだけは間違いない。
「嫌いじゃなかった。でも……うん、苦手ではあったかな。だってわたしのことをちゃんづけで呼ぶ奴なんてあとにも先にもあの女ひとりだけだったんだ。それに――」
そこでリエッキは言葉を詰まらせて硬直する。火のような熱を顔に感じて、覚えず大きく俯いた。
あの晩の酔態に最後のトドメを刺してくれた一言がまざまざと思い出されていた。
あれから百年と半世紀が過ぎて、それでもなおあの瞬間の羞恥は彼女の中で有効だったのだ。
「……とにかく、嫌いじゃなかった」
なんとか気を取り直してリエッキは続けた。
「天敵って喩えるのが一番近いかもしれないな。たまには鷹と小鳥が仲良くたって良いだろ?」
「あなたに小鳥の比喩を当て嵌めさせる女性とは、怖いもの見たさが刺激されますね」
そこはほっとけよ、とリエッキは笑って言う。牛頭は和やかに肩を竦める。
「わたしたちはそれからしばらく一緒に旅したんだ」
リエッキは続けた。
「踊り子と物語師、あの二人はどこの酒場でも歓迎されたよ。わたしは二人の仕事ぶりを見ながら蜂蜜酒を飲んでるだけ。
でも、一人の酒の味気なさを知ったのもその頃だ。結局、わたしはあいつらが戻ってくるまでゴブレットに口をつけなくなった。
そんなわたしにあいつらは口を揃えて言ったもんさ。先にやっててよかったのに、って。でもそういう時、二人とも決まって嬉しそうな顔してた。わたしが待ってるのを喜んでたんだ。
三人で乾杯出来るのが、三人とも嬉しくてさ」
楽しかったなとリエッキは思う。
嬉しかったなと彼女は思う。
楽しくて、嬉しかったな。
――その瞬間、思い出が牙を剥いた。
彼女の胸の裡で、追憶が嵐となって暴威を振るう。
彼女の親友が、彼女の嫌いではなかった女が――大好きだった二人が脳裡で彼女に笑いかける。
そして次の一刹那に、その二人とももうこの地上のどこにもいないのだという認識が襲いかかってくる。
踊り子だけでなく、彼女と親友に関わった無数の人々の像が、代わる代わるに現れては消えて行く。
そのうちの誰一人として今では存在していないのだ。
時という悪意がリエッキにのしかかった。思い出という呪いが彼女を責めさいなんだ。
衝動的にリエッキは念じている――わたしはわたしをやめてしまいたい。
「リエッキさん、リエッキさん?」
識閾の外から呼びかける声に、リエッキははっと我を取り戻す。
微笑みを絶やした例しのない牛頭が、深刻に案じる顔をして彼女を覗き込んでいた。
「……だいじょうぶですか?」
「……牛頭?」
リエッキは茫然と口にする。
「お前……生きてるのか? 今、ここに?」
「見ての通りです」
そう応じて牛頭は安堵の息をつく。
「……急に様子がおかしくなるから……ちょっと、心配しましたよ」
彼の腕の中で、それまで大人しかった赤子が熾ったように泣きはじめた。
「ほら、この子も安心したといっていますよ。あまりびっくりさせないであげてください」
それだけ言うと牛頭は赤子をあやしはじめる。泣き声はすぐに小さくなる。
リエッキは次第に正体を取り戻していく。
「あ――」
口をついて出そうになった言葉を彼女は咄嗟に飲み込んだ。
ありがとう。彼女はそう言おうとしていた。でもそれは、いったいなんに対するありがとうなのだろう。
「……少しだけ、図書館の奥に行ってくる」
代わりにそう言い置いて彼女は立ち上がる。
牛頭はなにも言わずに見送ってくれた。




