■3 乳飲み子
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そして図書館は二人の新たな住人を迎え入れた。
牛頭と、彼の手によって狂王たる父から救い出された乳飲み子を。
それは望月すら欺くばかりに愛らしい女の赤子だった。
「小さな子供というのはお世話をさせる天才です」
泣き喚く赤子をあやしながら牛頭がにやけ顔で言う。
「彼らは無力さと無垢さを武器に大人たちを籠絡し、あらゆる面倒を見させ、そして最終的にはすべてを許させてしまうんです。ことに赤ちゃんはその最たる能力者だ」
机に頬杖をついて眺めるリエッキの前で、牛頭は熱心にいないいないばぁを繰り返す。
ほとんどすべての時間を赤子の世話に追われながら、しかしこの悪魔が不満など欠片も感じていないことは傍目にも明白だった。
世の母親たちが金切り声をあげる面倒ごとの数々を、牛頭は面倒とは感じていない。どころか、それらすべてを健やかな発育の証拠と喜んで彼は微笑みを絶やさない。
赤子を見つめる眼差しは慈愛に満ちており、それは昼夜を問わぬぐずり泣きまで余さず愛するかのように暖かかった。
日差しの眼差し、体温を持つ眼差しであった。
「やっぱりお前はまるっきり悪魔らしくない」
リエッキが呆れたように言う。
「しかし、面倒を見させる天才、か。……人間じゃないわたしにはあまりピンと来ないな」
「私だって人間ではありませんよ?」
「お前は例外中の例外だって言ってるだろ。……にしても、全然泣きやまないな」
立ち上がって牛頭の元まで行くと、リエッキはその腕の中を覗き込む。
泣き疲れたのか小さな目をさらに小さく細めながら、それでも赤子は断続的にぐずり声をあげ続けている。
「いったいこの子はなにをうったえてぐずってるんだ? 飯か? おしめか?」
「いえ、お乳は先ほどあげたばかりでおしめも確認済みなのですが……どうちたのかなぁ?」
牛頭が幼児語でそう問うと、赤子は火のついたように泣き出してそれに応じた。
「……よわりましたね」
「ともかく、もう一度乳をやってみたらどうだ?」
「そうですね。しかしあげようにも、生憎いまはお乳をきらしておりまして」
「なんだよ。それじゃ町まで買いに行かないとダメなのか?」
「いえ、それには及びません。図書館の森に住む精霊山羊の一群と仲良くなりましてね、雌たちから乳を搾らせてもらえるよう話をつけてあるんです。どれ、ちょっと行って参ります」
そう言うと、さも当然の流れというように、牛頭はリエッキに赤子を差し出した。
「……いや、なんだよそれ?」とリエッキ。
「なにって、この子を抱いたまま乳搾りは出来ないでしょう?」
「だったら出かけてるあいだは揺りかごに戻しておいたらいいだろ。なんでわたしが……」
リエッキの言葉に、赤子を抱いたままの牛頭がやれやれとばかりに肩をすくめる。
「いいですか。赤ちゃんは大人に抱かれることでその体温を感じて安心を得るのです。いま揺りかごに戻したらぐずりはおさまるどころかさらにひどくなり、なにより、この子の小さな胸は不安に押しつぶされてしまうでしょう。ああ! そんな悲劇があっていいものか!」
「悲劇だかなんだか知らないが」
芝居がかった調子で言う牛頭にリエッキも負けじと言い返す。
「いいか? ここに住むのは承知したけど、わたしは子育てにまで参加するつもりはないんだからな」
リエッキと牛頭、ふたつの視線がしばし真っ向から衝突する。
それから不意に、片方のそれ、牛頭の視線がふっと和らいだ。
「リエッキさん、砂漠の民は古来から次のような言い回しを所有しております」
牛頭は言って、続けた。
「『我らの未来は子供らの笑顔の中にこそある』。実に素敵な言葉です。しかしここには字義におさまらぬ深淵な真理もまた隠れています。その秘密、あなたにはわかりますか?」
謎かけは唐突だった。
しかし生来が生真面目なリエッキは問われるままに考え込む。
そしてしばしの思考の間の後で苦々しげに、「……わからない」と降参を告げた。
牛頭の笑みにひそんでいたたくらみの影がにわかに色を濃くする。彼は言った。
「その答えはこの重みの中にあります。さぁ、この子の体重を感じてみてください。軽くて重い命のそれを。さすれば、あなたはたちどころに私の問いかけの答えを得ることでしょう」
再度差し出された赤子を、今度はリエッキも促されるままに抱き受ける。
「どうです?」
「……思ったより重い。それに体温が高い」
リエッキはそう感想を述べた。腕の中の生命の重みは彼女をして厳粛な気分にさせた。
「……それで、謎かけの答えはなんなんだよ?」
「わかりませんか? では、ひとつヒントを差し上げましょう。いいですか、ちょうど肘を曲げたあたりに赤ちゃんの頭が来るように抱くんです。そうすると首と頭が安定しますから」
「うん、ええと、こうか? ――って、あぁッ?!」
顔をあげた彼女が見たのはいましも奥まった通路に消えて行く牛頭の姿だった。
「……いっぱいくわされた」
追おうにも赤子が邪魔で立ち上がることすらままならず、リエッキはひとり途方に暮れた顔となる。
腕の中の稚い命だけが、小さな瞳をすぼめてその表情を見上げていた。
リエッキは深々とため息をつく。
それから、彼女はこの一週間ほどに思いを馳せる。
一週間。赤子と牛頭がこの図書館にやってきてから経過した時間がそれだった。
まだ一週間と考えるべきか、それとももう一週間と捉えるべきか、彼女には判じることが出来ない。
図書館が新たな住人を得た前と後では、それほどまでに時間の質が異なっていた。
百年一昔、自分が牛頭を相手に用いた表現をリエッキは思い出す。
もちろんそれは旧友を前にした強がりだった。
この百年は彼女にとって千年にも万年にも等しかったのだ。一昔などと軽く言い表してしまうには、そこにあった孤独と懊悩はあまりにも重く、烈しかった。
だけど、と彼女は思う。だけどこの一週間は、ちょっと違ったな。
騒々しい一週間だった。静寂はけたたましい泣き声に一掃され、百年ぶりに火を飲んだランプが夜にも闇を追い立てた。図書館はまったく様変わりしてしまった。
しかし、リエッキは不思議とそれが不快ではなかった。昼夜を弁えぬ泣き声も、彼女はうるさいとは思わなかった。
――もしもこの一週間が百年続いたら、それは本当に一昔になるかもしれない。
物思いに耽るリエッキの腕の中で、赤子が少しだけ身をよじった。
牛頭がなにをしてもやまなかったぐずりはいつのまにか完全に収まっていた。
「牛頭の奴、無駄足だったな」
苦笑しながらそう呟いて、リエッキは赤子の顔を覗き込む。
細められていた目蓋はひとつにくっついており、唇の隙間からは小さな寝息がゆるゆるとこぼれだしている。
赤子を揺りかごに戻すためにリエッキは立ち上がる。
しかし少しだけなにか考えたあとで、再び元の椅子へと腰掛けなおした。
揺りかごは冷たいだろうな。彼女はそんなことを思っていた。
「……たしかにあんたは天才だ」
愛らしい林檎色の頬をリエッキは一度だけそっとつつく。それから、彼女は牛頭がそうしていたのを思い出しながら、ゆっくりと自分という揺りかごを揺すりはじめた。
牛頭が戻ってきたのはそれからまもなくのことだった。
山羊の乳が入った水差しを丸卓においたあとで、彼はリエッキに抱かれたままの赤子が静かな寝息を立てているのに気付く。
「いや、大したもんです」
感心しきった様子で牛頭は言った。
「この子は完全にあなたに心を許している。まるっきり安心しきっている。いったいどうやってこんなに仲良しに?」
賞賛と驚きを綯い交ぜに言う牛頭に、リエッキは「さぁな」と素っ気なく応じる。
「それよりもお前、よくもわたしをペテンにかけてくれたな」
「はは、詐術と口車。どうです? 私にもきちんと悪魔らしい面はあったでしょう?」
今回のこれは貸しにしとくからな。リエッキが念を押すようにそう言う。牛頭はなおも軽口でそれに応じる。それは弱った、なにしろ悪魔は契約や貸し借りには律儀な存在ですから。
そして二つの人外は笑いあう。赤子を起こさぬように声は出さずに、笑みだけを広げて。
「あなたが今でも人の姿でいてくれたことは僥倖としか言いようがありません。なにしろ育児は大変な難事ですからね。そこにこれほど強力な助力を得られるとは思ってもみなかった」
「だから、わたしは子育てに参加するつもりはないっていうんだ。変な期待すんなよな」
リエッキの反論を牛頭は微笑みで受け流す。
それから、彼は言った。
「魔法が消えた世界で、あなたは未だ人の姿を失っていない。それは、確か司書王の最初の魔法でしたね? 彼の魔法の源泉となった感情、その揺るがぬ強さを見せつけられる思いです」
伝説の魔法使いを覚醒に導いた一念とはなんだったのでしょうね、と牛頭は締めくくる。
知るもんか。無愛想にはぐらかして、リエッキはいつものように鼻を鳴らす。はん。




