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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 二章.誰かが語って、誰かがそれを聞く限り
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◆4 獣の少女の挿話

 最初の旅から、鯨は約束の日を一日と違えずに戻りました。

 二回目と三回目もぴったりと期日通りに。

 四回目は一日だけ遅れましたが、それでも彼はきちんと帰ってきてくれたのです。


 ですが、五回目の旅からは戻りませんでした。

 約束の日から二日が経ち、三日が経っても。


 予定された帰還の日から四日が過ぎ去ったその朝、海蝕洞の面々はついに居ても立ってもいられなくなります。

 我々の大切な家族の一大事、もはや座して待ってはいられない――全員が異口同音にそう言いました。

 そして、ともかくは出来るだけ見晴らしの良い場所で鯨を待とうと意見は一致して、皆で揃って岬の断崖の上へと出かけました。


 そしてそこで、海岸の砂浜に抛棄された、変わり果てた姿の鯨を発見したのです。


 砂浜には無数の靴跡が残されており、また幾本もの壊れたもりや荒縄が使い捨てにされていました。

 それら狼藉の痕跡が、鯨の死が単なる座礁の結果でないことを雄弁に物語っています。


 事情はこうでした。

 家族の住み着いた地方は代々仁君とほまれも高い貴族家に治められて来ました。しかし、さかのぼること五年前に家督を継承した八代目の領主は、当主の座に納まったと同時に大いに権力に溺れたのです。

 隠居した父親を邸宅から追放して贅沢の極みを尽くし、財産という財産は二年を待たずに底をつきます。奢侈しゃしのつけは領民の生活に年貢という形でのしかかり、しかしそれでもまだまだ経済を立て直すには到底足りません。

 そのような折に、先代からこの家に仕えていたまじない使いが、そっと囁いたのです。


「民の噂では、領主様。北の岬には何十年も前から鯨が姿を見せるとか」


 鯨とは竜と並ぶ幻想の生き物。その身体からは肉や油をはじめとした諸々の資源が大量に回収されて、捨てる部分は筋一本、髭の一本に至るまで一切皆無です。一頭分の身体の価値は一つの国の年間の予算に匹敵するほどで、座礁して死んだ鯨の死体は古来より有り難く用いられてきました。

 また、こうして獲得出来る資源の中には竜涎香りゅうぜんこうをはじめとする結晶物も含まれており、それらは呪使いにとって喉から手を伸ばしてでも手に入れたいくしびの品々でした。


 こうして、呪使いにうまうまと唆された領主は兵士と土地の漁師たちを動員。つきとめた回遊の経路に待ち伏せて鯨に襲いかかり、浜辺へと追い立てて次から次へと銛を打ち、そして見事、この巨大な生きる資産を討ち果たして手中に収めたのです。

 浜は祭りのような有様となり、領主も呪使いも、それに年貢から解放される民も、揃って快哉を叫んで大喜びしました。


 その裏側に涙が流されることなど、誰も知りもせず、誰も考えもせずに。


 鯨の遺体はその場で解体されて運び出されたものとみえ、一個の巨大な頭蓋骨以外はほとんど骨すら残されてはいませんでした。

 その頭骨の前に、少女はへなへなとへたり込みます。

 家族たちは一様に鯨の死を悼んで涙を流していましたが、少女だけは、単なる悲しみを越えた絶望の淵へと沈み込んでおりました。


 慟哭の絶叫が、海と空とをつんざきます。


 家族が揃って目を瞠り、妹が怯えて後じさるほどの凄まじい声をあげたのは、他ならぬ少女でした。

 血のように熱い涙を流して、言葉にならぬ言葉を叫んで、彼女は嘆じました。


 ――安住の地なんてどこにもないんだ。


 諦観を飛び越えた絶望の直視が、少女の心をたちまちのうちに黒く染めてゆきます。慟哭は海よりも深く、絶叫は空よりも高く響きます。束の間涙すら忘れさせるほどの戸惑いを家族に与えながら、しかし、少女はそのことに気付いてもいません。


 私はまた喪ったのだ、と彼女は泣きました。

 私はまた奪われたのだ。と彼女は叫びました。


 怒りが、憎悪が、失意に彩られた黒い感情の数々が――彼女本来の明るさや優しさを追い立てて、駆逐していきます。


 私は喪った。私は奪われた。私は、私は――守れなかった。


 怒りが、憎悪が、殺意が。灼々(ぐらぐら)と煮えて、沸々(ふつふつ)と滾って──。

 ……と、その時です。


 にゃあう、と寂しそうに鳴いて、愛する妹が少女に頬ずりをしたのでした。

 はっと我に返って、少女は家族を見渡します。

 すると、どうでしょう。妹だけでなく、家族の全員が心から案じる顔つきで少女を窺っているではありませんか。


 少女の心から、たちまち黒いものが払われてゆきます。

 そして代わりに、彼女が資質として備えていたものがこの瞬間、大きく花ひらいたのです。


 二つの母性により培われ、家族によって養われたそれが――すなわち、比類のない愛情が、


 少女は立ち上がると、鯨の頭骨にそっと身を寄せて、口づけをします。

 そのあとで、彼女は残された家族たちを順次に見つめました。涙を拭い去って、もう大丈夫だからという風に、全員に笑いかけます。

 それから静かに、しかし揺るぎのない口ぶりで、言葉を紡ぎはじめます。


「私は安住の地が欲しい。それは、もしかしたらこの世のどこにもないのかもしれない。だけどそれでも私はそれを求める。愛する者を二度と失わないように。馬鹿げた者の馬鹿げた欲に二度と奪われないように。暫定ではない、仮初めではない、永久に安寧が約束された場所が。誰も悲しまないように。誰も虐げられないように。行き場のないすべての者があらゆる不安や怯えから解放されて、ただ安らぎを享受出来る場所が、私は――」


 それは、祈りでした。本能と六感のすべてを解き放った、精神と魂のすべてを願いに染めた、あまりにも純粋な祈りでした。

 静かな涙を流しながら、さながら祝詞の結びを唱えるように、最後に少女は家族に告げます。


 愛してる、と。


 その瞬間、奇跡は現象したのです。

 海岸線からすべての音が失われ、すべての色彩が失われ、時間と空間が停止して凍り付きます。

 飛ぶ鳥は羽ばたきもせずに空に制止し、海の波は凝固したように形を保ったまま停止します。

 その止まった世界の中で、唯一身動きできるのは少女とその家族だけでした。

 そして最後に、混沌の奔流がやってきます。

 原色と極彩色の濁流がすべてを飲み込み、それから、縮尺された宇宙の創造にも等しい凄まじい情景が家族の眼前で展開されたのです。

 精神の許容を越える霊威の疾走に、全員がたちまち意識を失ってその場に倒れ込みます。


 昏倒から目覚めた時、はたして、少女は様変わりした世界をそこに目撃することとなります。

 無数の靴跡や放棄された銛など、浜辺に残された狼藉の痕跡はその一切が跡形もなく消え去っています。しかし、そんなのは変化のうちにも入らぬ些事に過ぎません。

 家族たちの眼前にある光景、見渡す限りの世界は一新されておりました。まるで大地が引き伸ばされたようにそれまで存在しなかったはずの広大な土地が生まれて、さっきまではもっと近くに眺められたはずの山々は遠景のさらに遠景へと去っています。


 そして、新たな領域を縁取って隔離するようにそこにあったのは、鬱蒼と茂った森です。

 忽然と現れた森林が、あたかも秘密の土地を覆い隠すようにそこには存在していたのです。


 この展開に、家族全員驚愕にとらわれて言葉もありません。

 状況を飲み込めず、各々が狼狽も顕わに視線をそちこちへ彷徨わせています。好奇心にとらわれた妹は止める間もなく探険に出発してしまい、母猫が慌てた様子でそれを追いかけます。


 場を支配する動揺と混乱の中、少女一人だけが不思議なほど落ち着いた気持ちでいました。


 自分の中でなにかが目覚めたのだという漠とした自覚が彼女にはありました。そしてそれがこの状況に影響していることも、彼女ははっきりと直観していました。

 ふとした思いにとらわれて、彼女は鯨の頭骨に手を伸ばします。

 奇跡そのものであった変容の刹那が過ぎ去ったこのとき、うち捨てられた鯨の頭骨は汚れという汚れを綺麗さっぱり落とされて、まるで洗い磨かれたように真っ白に輝いています。

 少女がそっとそれに触れてみると、そこには体温にも似た温かさが感じられました。


 瞬間、彼女は理解します。

 理解して、たくさんの涙を二つの瞳からぽろぽろと零します。


「これは、あなたの贈り物なのね」


 もういない家族に少女は語りかけます。

 そして、笑い声を伴った返事を、確かに耳にしたのでした。


 少女はその時はまだ知りません。しかし、やがて少しずつ知りはじめます。

 たとえば広大な土地を内部に抱いているはずの森は、外から見た場合には中の広さの十分の一の大きさにも満たない普通の森であることを。森の外観からは、その内側に秘匿された小世界の存在など予想することも出来ないのだということを。

 そして、邪心を抱いた者は決して、決してその森を通り抜けられぬということを。

 それは、少女が欲してやまなかった安住の地に他なりませんでした。



 のちに骨の魔法使いと呼ばれることになる少女の、これがその最初の魔法だったのです。

 以前にもご説明した通り、魔法使いとは純粋さと強い想いを資質に目覚める人種です。

 そして、彼女の場合のそれは愛情だったのです。

 純粋で強大な愛が、彼女を魔法使いとして覚醒めざめさせ、その能力の形と方向性を確定させたのです。


 やがて『鯨の頭骨の魔法』により創り出された聖域には行き場のない獣たちが集まるようになります。骨の魔法使いはそうした獣たちを例外なく受け入れてやりました。

 そんな彼女を彼らは地母とも女神とも崇めて、自らの肉体が滅びたあともなお彼女に仕えようとしたのです。

 骨の魔法使いの魔法は動物の頭骨です。それは、彼女を慕った動物たちの死してなお消えぬ感謝と愛の形骸なのです。頭骨に秘められた魔法を呼び起こす時、彼女はそれを優しく撫でてやりました。

 頭骨の持ち主たちが生きていた頃にそうしてやっていたように。



 森に捨てられていた赤子が彼女の妹に拾われたのは、聖域の発現から八年後のことでした。



 さて、長くなってしまいましたが、本筋を補足する為の挿話はここまでです。

 読者よ、物語の焦点を絞りなおしましょう。

 我々のふたりの主人公、ユカとリエッキへと。

前回の後半部分がどうにも気に入らず、大幅に書き直してしまいました。

前回分は少し置いたら今回分と統合しようと思います。

折角読んで頂いたのにすみません。

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