■3 リエッキ
夜半には剣のような月光が頭上を照らした。平地で見るそれとは違う天空の迫力に、夜番の交代時には皆示し合わせたように星と月とを話題に出した。
そして朝。東雲とはいかなる色なのか、その実際を垣間見た素晴らしきこの朝は、部隊の全員が一列に並んで曙光に目を細めた。
澄み切った大気を揃って呼吸し、同僚同士肩をたたき合って朝の挨拶を交わした。
ようお前ら、今日も一日頑張ろうぜ!
兵士たちの憤懣を癒す種は、そこでいよいよ品切れとなった。
「……今日も一日? 冗談じゃねえ」
仲間の一人が吐き捨てんばかりに言ったのに対し、全員が心のうちで同意した。
山狩りも三日目を迎えて、動員されている兵士らの鬱憤は募りの上にも募っていた。
その第一の対象は領主、世にも稀なるドラゴンの首剥製に目の眩んだ彼らの雇用主にであった。
バカ殿め、と全員が思っている。我らの存在は平和を維持し民草の生活に寄り添う為にこそあるのだ。
実在も疑わしい竜探しになど付き合う暇があれば熊や狼への対策でも講じていたほうが何倍ましだろうか。
夜が完全に遠ざかった時間帯になって、ようやく呪使いどもが山道を登ってきた。
「……早いお出ましで」
誰かが皮肉たっぷりに言った。苛立った笑いの波が兵士たちのあいだに満ちた。
第一の領主にも勝る第二の憤懣の対象、それがこの呪使いたちだった。
使嗾の輩が、とこれもまた全員が思っている。
そもそも領主を唆して大がかりな山狩りに踏み切らせたのは他でもない呪使いどもなのだ。
幻獣の王たる竜、存在そのものが霊妙神秘の塊たるこの生物の肉体は、神秘を追い求める呪使いたちにとっては垂涎の代物。
だからこそ首剥製の魅力で田舎領主を焚きつけ、恩着せがましく助力を申し出て、そうして、首から下の部位は貰い受けるという約束を巧みに取り付けたのだ。その次第は談合を盗み聞いた使用人の口を経て兵士たちの知るところとなっている。
麓の村に宿を取った呪使いたちは昨夜の快眠のほどが血色に見て取れた。
交代の夜番で睡眠時間を削られていた兵士たちはまたも苛立ちを募らせたものだが、呪使いたちは気付いた風もなく本日のあれこれを彼らに指図する。
兵士らを二人一組に編成し、それぞれに持ち場を割り振っていく。
「では、民と山行く旅人の平穏の為、領主殿の名誉の為、兵士諸君よ、奮いたまえ!」
呪使いの激励におざなりな返事を残して、兵士たちはそれぞれの持ち場に散った。
それから一時間が経ち、二時間が経過する。
ドラゴン発見の報告は、しかしどの現場からももたらされない。
「ちきしょう! ほんとにいるのかよ! 猟師の見間違えだったんじゃねえのか」
北から南へ抜ける山道がちょうど折り返すあたり、本部から最も離れたその一帯を受け持つ二人の片割れが苛立ち紛れに叫んだ。相方も同意を示すように乱暴に藪を薙いだ。
もちろん、彼らとて竜の発見を望まぬわけではない。なにしろそれが見つからぬ限りこの馬鹿げた山狩りはいつ終わるとも知れぬのだ。
しかし目的意識を遥かに上回って彼らの胸に兆しているのは猜疑であり、そして時を追うごとに深まり続ける不満であった。
本部から遠い配置はむしろ都合が良かった。
やがて、二人は労働歌の代わりに高らかに不満を歌いはじめた。
ああ気に入らない、気に入らない。偉そうに命令するだけで疲れることはなにもしない呪使いども、奴らにうまうまと唆されたバカ領主。それに、山道で追い返された旅人たちの恨みがましい視線。あの眼を一身に浴びねばならぬのは領主でも呪使いでもなくこの俺たちじゃないか。
ああ気に入らない、気に入らない。気に入らないったら気にいら……。
と、そのときだった。
でたらめな節回しの歌を遮るように茂みが揺れ、なにかが飛びだしてきたのだ。
兵士たちはぎょっと口を閉ざす。
まずは疚しさが彼らを竦ませた。いまの歌、同僚ならまだしも呪使いに聞かれた日には気まずいなんてものじゃない。
警戒よりも先に去来したのはそんな平和な心理で、そのあとでようやく、思い出したように彼らは身構えた。
しかし、二人の前に現れたのは仲間の兵士でも呪使いでもなく、かといって猪や鹿でも、もちろん探していた竜でもなかった。
考えようによってはそのうちのどれにも勝って意外な存在だった。
少年だった。十三か十四の年齢の、幼少のあどけなさを多分に残した、普通の子供。
飛び出した体勢そのままに地に手をつき、おどおどした眼で少年は兵士たちを見上げる。
兵士たちは顔を見合わせ、言葉を用いずに視線だけで会話する。なんだこのガキ?
と、少年がいきなり地面に身を投げた。ひれ伏した。
「平らな土地に住まう二つ足の方々。この身は山を住処とする四つ足どもの代表です」
文字通り額ずいた形に平伏して少年は言い、おそるおそる汚れた額をあげた。
そうして二人の兵士を見上げた眼にあるのは、痛切さの極み、悲しみと嘆きの感情であった。
あたかも哀訴の声と眼差しで、山の神の使いを名乗った少年は兵士たちに訴えかけた。
「本日は火急お知らせせねばならぬ事情があり、こうして皆様と同じ姿となって参上致しました。……ああ、そこなお二方、どうかお仲間にお伝えください! ご無体を打ち切り、即刻山を降るように。皆様の無礼に山の神はお怒りです、お怒りなのです!」
兵士たちは言葉をなくし、ただ困惑の表情を互いに向け合う。
四つ足……つまり、動物の代表? 山の神? ……おい、頭おかしいのかこのガキ?
「やはり信じてはいただけませんか……いえ、信じていただけぬのも無理からぬこと」
戸惑うばかりの兵士たちを置き去りにして、使いの少年はなおも勝手に話を進める。
「ですが、お聞きください。皆様が矛を向けんとしている相手は、単なる獣ではない。ええ、お探しの竜はいかにも実在します。ですが実のところそれは、この山々を支配し司る山の神の化身した姿。人をはじめとするいかなる獣にも手向かうことのできぬ、あれはそうした超常の存在。
そして申しあげた通り、すでに神はお怒りです。もし皆様がこのまま狼藉を続けたならば、いったいどのような恐ろしき結果が招かれるや……」
そこまで解説が進んだ、まさにその瞬間。
少年の言葉を遮るように、突風がごうと吹いた。
不気味なまでに前触れもなく強烈な風だった。風は木々の合間から一直線に吹き抜けてその場にいた三人に吹き付けた。
「ああっ、やはりお怒りだ! 怒りが、神の瞋恚が風となって……ああっ、おたすけ!」
悲壮な叫びと共に、少年が亀のように縮こまる。心底から恐怖して震えだす。
しばらく震えていたあとで、顔を覆った指の隙間から兵士たちをちらと見て、告げた。
「ああ、これでも信じて頂けない……ならば、証拠をひとつ。これよりまもなく白雨がやってきましょう。その雨の礫の一粒一粒に怒りが宿っています。
お二方、急ぎお仲間にお伝えください。雨が降りだしたら、それこそ神の怒りの揺るがぬ証なのだと」
それだけ言い切ると、登場した時と同様、少年は茂みの中へと消えていった。
獣のように、四つ足で素早く駆け込んで。
取り残された二人の兵士は、やはりまじまじと互いの顔を見た。
互いに青ざめた顔を。
二人とも、すっかり恐ろしくなっていた。
少年の語った内容が。迫真そのものの語り口が。獣同然に四つ足で消え去った姿の記憶が。
それに、あの不気味な一陣の風が。
あらゆる要素が、得も言われぬ説得力を放って彼らになにかを迫っていた。
「……なぁ」一人が言った。「こりゃ、マジでやばいやつじゃねえか?」
「……だな」もう一人が応じた。「いますぐ戻って伝えんぞ。手遅れになる前に」
かくして意見は恐怖のもとにまとまった。
もともと不満だらけの仕事だった。彼らは迷いなく持ち場を放棄して駆けた。
※
二人の兵士の逃げ去る背中を、一人と一頭はすぐ近くの林に身を隠して見送った。
「ねぇ、ねぇ、どうだったリエッキ? 僕のあの迫真の演技!」
そうはしゃぐのは兵士たちをしこたま脅しつけたあの山の神の使い――ユカだった。
その隣ではリエッキが、呆れと感心の綯い交ぜになった複雑な表情を浮かべている。
「あ、君の起こしてくれた風も絶妙に時宜を捉えてたよ。言うことなし、完璧!」
「はいはいそりゃあどうも」
とリエッキ。
「……でも、ほんとにうまくいくのか? さっきの二人組みたいのはともかくとして、呪使いってのはたいした知恵者なんだろ?」
「だからこその山の神さ。彼らは知者であると同時にかなりの信心家……というか、迷信家なんだ。神とか神秘とかには簡単に飛びついて、そして簡単に踊らされる」
楽しそうに断言するユカ。
語り部ってより詐欺師みたいだな、リエッキはジト目で彼を見る。
「さ、まだまだこれからだ。行こう、リエッキ!」
ぴしゃりと頬を打って気合い一新、ユカは意気揚々と次の場面に向かって歩きだす。
その背中を追いながら、リエッキは心に疼きを感じている。
いやな疼きではなかった。昨夜からずっと、あらゆる不快さは彼女の心から遠かった。
前を行くユカの背中に、リエッキは言い知れぬ安堵を覚えている。
ふざけたやつ。でたらめなやつ。
だけどあいつの言う通りにしていれば、とりあえず後悔はしない気がする。
たとえうまくいかなくたって、きっと、全然。
いや、うまくいくような気さえする。
根拠はないけど、なぜかそういう気がする。
彼女自身気付かぬうちに、リエッキはユカを信頼しきっている。
「ん? リエッキ、どしたの? 困るなぁ、主役の山の神がもたもたしてちゃあ」
「うるさいなっ! いまいくよ!」
リエッキにユカが呼びかける。ぶっきらぼうにそれに応じ彼女は彼の後に続く。
リエッキはユカを信じている。そしてまた、ユカと同様に彼女もこの状況を楽しみはじめている。
求めていたのは悪意だったはずだ。求めていたのは暴力衝動の吐け口だったはずだ。
しかし一人血みどろの殺し合いに身を投じるよりも、きっと、これはよほど楽しい。
ユカと一緒のこれは。
それから、ユカの八面六臂の活躍は(あるいは暗躍というべきか)はじまった。
兵士たちの持ち場を順番に訪ねて、最初の二人組に語ったのと同じように警告を与え、しかるのちに忽然とその前から姿を消して見せる。基本の手順はこのようなものだった。
なにしろユカは速かった。
一つの場面が終わるとまた次の場面へ、彼はほとんど休みもせずに駆けた。山中を、ほとんど平地のように苦もなく疾走して。
また洞察の目にも優れていた。
周囲の物音、獣と鳥の声の調子、薙がれた木々や足跡などの痕跡から、彼は兵士たちのいる場所をたちまち割りだした。特定は正確を極めた。
そして、なにより想像の力に恵まれていた。
リエッキが翼で起こす突風はもとより、たとえば猿たちの甲高い鳴き交わしの声を、たとえば山颪の風が鳴く怪異に似た声を、ユカは即興で自分の語りに取り込んで演出となした。その効果は常に絶大だった。
この日、ユカは森の管理者だった。
しかし播種するのは、植物ではなく恐怖の種。
兵士たちの心に蒔かれたそれは、たちまち芽を出して彼らの行動を縛り上げた。
※
山道に置かれた天幕、山狩りの本部となったそこに兵士たちが続々と駆け込んでくる。
不思議な少年、山の神の使いを名乗る子供との遭遇報告を携えて。
そしてそこで、彼らは自分たちと同じように警告を与えられた同僚たちと鉢合わせる。
兵士たちは互いの体験を照らし合わせ、自分たちの前に現れた少年は間違いなく同一の人物であるとの確信を抱く。
「で、でもよ」
誰かが慄然たる声で皆に言う。
「こんなに短い間に、こんなに広範囲に、こんなに何人もの前に現れたってのかよ? そりゃ、人間には無理だぜ!」
この指摘に、兵士たちは揃って青くなる。
そして彼らの報告を受けた呪使いたちもまた、顔色は同様に青ざめている。
むしろ、呪使いたちの胸裡に発した畏れは兵士たちのそれを大きく上回っている。
神秘や迷信の類を度を超えて重視するのは、呪使いという人種全体が共有する悪癖だった。
やがて雨が降りはじめる。
予言されていた雨、神の怒りを宿した雨滴が天幕を叩く。
ことここに至り、撤収の気運はいよいよ極まる。
「……剥製は諦めて頂くほかあるまい。領主様には吾輩からご説明いたそう」
その場の最高位者、領主に山狩りを提言した呪使いの主任が、ついにそう決断した。
※
ちょうどそのとき、場所を移した山中では少年が竜に笑いかけている。
「さぁ、物語もいよいよ佳境だ」
ユカはリエッキに言う。
「いよいよ君の出番だ。説話を司る神の忘れられた御名において――ひとつ楽しんでこようじゃないか」
はん、と満更でもなさそうにリエッキは鼻を鳴らす。
それから、彼女は高々と吼える。
あらゆる生物を戦慄させる豪吼が、深山を貫いて谺を呼んだ。