お嬢VS執事
ああーっ、もうイライラするっ!
お父さんの話が一段落して自分の部屋に戻ってからも、あたしの気分は最悪だった。
ポスンとベッドの上に座ってみても、当然落ち着くはずもない。
それもそのはず。
あのタレ目野郎がドアの横の壁にもたれかかり、腕組みなんかしながらあたしをジッと見ているのだから。
特に話を切り出すわけでもなく、ただ黙っている……これじゃあまるで我慢くらべみたいだ。
「……」
全く、何だって言うのよっ!
このままじゃ場が持たないから、とりあえずタレ目野郎に視線を向けると、そのまま成り行きで目が合った。
「……さっきは、旦那様の前で気持ち良いぐらいにハッキリと言ってくれたよな」
まるで目が合うのを待っていたかのように低い声でそう言うと、あたしを地平線のような細い目で睨んでくる。
は? 気持ち良いぐらい!?
何のことを言っているのか分からず首を傾げていると、
「俺のことをタレ目野郎と呼ぶとか言っただろうが」
お父さんの前で見せていた笑顔から一転、今は無表情だ。
ふーん……怒りを我慢してたってワケか。
「は?適当に呼んでくれたらって言ったのはそっちでしょ」
ただ見たまま呼んであげただけなのに。
「なるほど。そんな口の悪さが災いしているせいで、彼氏のカの字も出来ないんだろうな……可哀想に」
そう言いながら、わざとらしく両手を大きく広げて言い返してくる。
なっ、何ですってーっっ!?
「そ、それとこれとは関係ないでしょっ!」
そう言って、あたしはスッと立ち上がった。
「いーや、関係ありだ。俺のチャームポイントのタレ目ちゃんを、あんな小馬鹿にしたように言ったのはお嬢が初めてだからな」
「へっ?」
意外な答えにあたしは拍子抜けした。
少々、話の意図がずれてるような。
「タレ目は生まれつきだし、だからってこれが原因でイジメられた経験もなければ損した事もなかった」
そりゃそうでしょう。
「あたしは悪気があって言ったんじゃないけど?」
「は?他にどういう意味があるんだよ」
どうやら、このタレ目野郎も少し考え方がひねくれているようだ。
「あたしは、ただ寝ている部屋に勝手に入られてたから虫の居所が悪かっただけで、別に執事様のタレ目を完全否定するつもりで言ったんじゃないわよ」
せめてものお詫びのつもりで、タレ目野郎から「執事様」と呼んであげた。
ま、向こうもあたしのことを「お嬢」って呼んでるし。
「そんな言い訳、誰が信じるか」
仕事柄かも知れないとはいえ、疑り深い男だ。おまけに「様付け」で呼んであげたのに見事なまでに聞き流された。
お父さんには悪いけど、こんな調子じゃ仲良くなれそうにない。
「分かりました」
あたしは、さも残念そうに言いながらドアへと向かう。
「どこへ行くつもりだ?」
すれ違いざまに訊かれて、
「どこって……お父さんのところへ行くのよ」
あたしは前を向いたまま答える。
「何しに?」
「そんなの、あたしの勝手でしょ?」
お父さんには悪いけど、この人とは無理って伝えなきゃだし。
こんな事になるのなら、まだお父さん付き秘書の橘さんの方が厳しい人だけど数倍もマシだ。
銀縁眼鏡にクールな眼差しが人を寄せつけない雰囲気を漂わせているけれど、たまに見せる笑顔が素敵だってことをあたしは知っている。
年もまだ三十そこそこと若いけど、テキパキと仕事をこなすその姿には思わずドキリとする。
……おっと、今はこんなことを考えている場合じゃなかった。
あたしが気を取り直してドアノブに手をかけた時、横からガシッと腕を掴まれた。
その相手は、言うまでもなくタレ目野郎だけど。
「何すんのよっ」
「何しに行くんだって聞いている」
真剣な眼差しであたしの顔を見る。
「あたしがお父さんのところへ行くぐらいで、いちいち内容まで言わないといけないワケ?」
あたしも負けじと言い返した。
もうっ、またこれ!?
「時と場合によっては、な」
勘が良さそうだし、おおよその検討はついているのかもしれない。
「……ふんっ、お生憎様。もうあたしの決心は固いから」
そう答えて掴まれた腕を振り解こうと頑張ってみるものの、予想以上に力強くてビクともしない。
「俺の予想が当たっているとすれば、尚更お嬢を行かせる訳にはいかないな」
タレ目野郎は口の端を少し上げて笑う。
「何で?こんな状態でうまくいくと思う?」
あたしが再度振り解こうとしたその時だった。
「えっ……」
突然、タレ目野郎があたしの腕を引っ張ったかと思うと、身体をクルリと半回転させられた。
そして、そのまま後方に追い込むようにして身体を押され、じきに背中に何かが当たった感触がする。
それが壁だったと気付くのに時間はかからなかった。
「ど、どういうつもりっ!?」
あたしがキッと睨みつけると、
「鈍感なお嬢の為に、教えてやるよ……」
低い声で囁くように、だけど意志の強い口調で言われてドキッとしたのも束の間、あたしの唇が一瞬にして何かで塞がれた。
「!!」
う、嘘っ……。
たちまち頭の中が混乱して真っ白になる。
タレ目野郎があたしに……キ、キス……してるっ!?
ハッとして抵抗しようと試みるも、後ろが壁だから身動きが取れない。
そのうちにも、タレ目野郎の容赦ないキス攻撃が徐々にエスカレートしてきて……唇が触れるだけの状態からさらに強く押し付けられ、さすがに息苦しくなってきた。
「……んんっ……!!」
だ、だめ……もう息が続かないっ……。
両手で精一杯、タレ目野郎の身体を押し出して訴える。
と、そんなあたしの様子に気付いたのか、フッと唇が離れて自由になった。
「……っ、はああー……」
あたしは胸に手を当てて、何度も大きく深呼吸する。
し、死ぬかと思った……。
「何だ、もう限界か」
ふと、そんなあたしの頭上で溜め息混じりに呟く声がした。
その声にキッと見上げると、同時にシレッとした表情であたしを見下ろしている顔と目が合う。
こんな男に、あたしのファーストキスが奪われたなんて……。
そう思うと、ジワッと目頭が熱くなってきた。
そんなこみ上げてくるものを見せまいと、あたしは顔を背ける。
「……」
ふと、あたしの頬に大きくて暖かい手が触れた。
それは、当然タレ目野郎のものであることは分かっているのに何故だか振り解けない。
「……ど、どういうつもりっ!?」
やっとのことで声を出したあたしに、
「今のは、遊びじゃねえから……」
真面目な顔で答えるタレ目野郎。
は? あたしは耳を疑った。
「だから、謝らない」
遊びじゃないって……何を言ってるの?
あたしは、この状況が全く把握出来ないでいた。
そんな時、ふと携帯のバイブ音が聞こえてきて、タレ目野郎が上着の内ポケットに手を入れる。
「あ、旦那様からだ」
着信相手を確認しながら独り言のように呟くと、再びあたしの顔を見た。
ドキッと心臓が高鳴る。
すると、タレ目野郎は何を思ったのか、あたしにニコリと笑顔を向けながら、
「だから、ちゃんと考えといて」
と言い残し、そのまま部屋を出て行った。
はあ? 考えといてって何っ!?
一人ポツンと取り残されたあたしは、しばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。