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GLOOMY

作者: ANOIA

注意・スプラッタでバイオレンスな描写あり。

 ――自殺しようとした。


 理由。そんなことすら分からない。

 考えるのも億劫だ。


 高いビルの屋上、僕はフェンスをよじ登ってビルの縁に居た。

 立っていると下から見えてしまうため、僕はしゃがみながら下を見ている。


 下を見れば、おかしいところなどどこもない。

 足を棒にして歩く人たち。

 せかすように排気音を響かせる車。


 おかしいのは、僕のほうだ。


 それでも、敢えて考えた。

 その理由を考えた。


「…………」


 なんてことはない。

 嫌になったのだ。


 仕事になじめず、社会に適合できない自分。

 社会を受け入れず、僕を一人にする世界。

 それらが、どっちも嫌だった。


 ……それでも、僕に死ぬ勇気なんてなかった。


 僕はだらだらと生き延び続け、おじいさんになるまでこうしているだろう。

 結局、僕なんてそんなものだ。


 ……帰ろう。家に帰って、残業をしなければ。


 僕は立ち上がる。

 その時――


 背中が押されたように、体が前へと突き出された。


「え?」


 間抜けな自分の声。

 前には何もない。

 何もないから、落ちる。

 落ちたら、死ぬ。

 そして死んだら、何もない。


 僕は抗うこともできず、ただ落ちた。



 一番◇幽霊という存在について



 地面に倒れている男が居た。

 男の体は歪み、そこからどくどくと大量の血が流れている。


 僕は、その様子を眺めていた。直視はできない。

 そして、僕と同じようにその男を眺めている人たちが居た。

 その声がやけに煩くて、僕はずれた眼鏡を掛けなおした。


 その傍らに転がった。

 ひしゃげた眼鏡のフレームが。

 僕のと同じものだった。


「僕は、死んだのか?」


 僕は呟いた。

 顔は良く見えない。

 けれど身に着けているものから、その体が僕であるということが分かった。


 今の僕は、幽霊とかいうものなのだろうか。

 試しに、血がついているはずの靴を上げる。

 そこには、磨り減った靴底があるだけだった。


「あれ?」


 死体に触れようとしても、誰も咎めない。

 それどころか。


 触っても。

 触っても、

 触っても、手は見えない壁に防がれる。


 まるでそこに壁があるように、服の感触も肉の感触もそこにない。

 ただ、冷たい壁に触ったような感覚。


「死ん、だ?」


 その時、一人の男が前に出た。

 誰も僕の死体には近づかず、垣根を作りながら騒ぐ中。

 一人の男が、僕の隣に立った。


「なあ、お前……自殺したんだよな?」


 その男は、僕の姿が見えているように言った。

 僕は、ことに進展についていくことができず、何もできなかった。


「捨てたんだよな?自分の命」


 男は確認するように、再度僕に向かって尋ねた。

 男は無表情で、淡々としていた。

 僕が二の句を告げないでいると、男は再度口を開く。


「お前の心は体を離れてるけど、肉体はまだ死んでいない」


 それはつまり、僕が幽霊ということだろうか。

 魂、心だけの存在。

 それでも、体は生きているという。


 男は僕と同じように死体に触れる。

 べたべたと確認するように、何度も触る。

 しかし、そこに衣服の乱れはなく、触ったという形跡すらない。


「だから、コレ……俺がもらうな」


 その途端、光が起こった。

 ライトとかの人工的な光ではなく、もっと深い光。

 目を潰し、脳内を壊して犯すような光の本流。


 その中で、僕の死体と男の体が、重なっていくのが見えた。


 なんてことはない。

 その男も、幽霊だったのだ。


 その幽霊は、俺の体に入っていった。



   ◇◆◇◆◇



 仏教でいうところの成仏。

 それが僕にはできなかった。


 未練などはない。

 ただ一つ気になること、それは僕の体がどうなってしまったのかだ。


 この部屋は集中治療室とかいう、病院の一室だった。

 さまざまな器具が並び、僕の体に繋がったりしている。


 僕の体は、一命を取り留めていた。


 あの後きた救急車にしがみ付いて、手術のときも、こうした部屋に運ばれたときもずっとついていた。


 そこまでする意味は本来ない。

 さっさと成仏して、消えてなくなればいい。


 救急車にしがみ付いてまできた理由は、気になったからだ。

 僕はこうしているのに、体の中には確かに命を感じる。


 それが誰も命なのか、僕は気になった。

 予想はついている。

 恐らく、幽霊だったあの男だろう。


 見たのはほんの数分にも満たない時間だったが、あの男が入っているような気がした。


 僕の体、僕の人生をどう扱うつもりなのか。

 それと同時にムカついていた。


 勝手に僕の体に入ってきたのだ。

 そして、我が物顔で僕を使おうとしている。


 それが許せるほど自己犠牲の精神が高いわけじゃないし、人生を捨てたわけじゃない。


 そうあれは事故だ。

 戻ろうとしたら足が滑って、それで落っこちちゃって。


 ?


 何か、違和感がある。

 でも、自殺しようとしたがアレは僕の意思ではなく事故だった。


 なんとなく、その見下ろした顔を殴りつけたくなった。

 包帯をぐるぐるに巻きつけ、表情は見えない。

 呼吸器で、口元もあまり見えない。


 そこで、殴りたくなった理由が分かった。


 クリアーの呼吸器からその口が見えたのだ。

 その口元は、薄っすら笑っている。

 表情は見えない、けれど笑っているような気がした。


 僕は勢いをつけて顔を殴る。


 その拳は、冷たい壁に阻まれる。


『だから、コレ……俺がもらうな』


 その言葉が、頭の中でリフレインする。



  結論◇幽霊は存在しました



 二番◇幽霊の存在意義について



 病室、そこには一人しかない。

 それは、僕の体。ベッドに横になって、包帯を縛られるように巻いている。

 それは手を伸ばし、自分の手を確認するように眺める。


 口元には、笑み。

 それが、異様にムカついた。


「いつまで笑ってるんだ。早く僕の体を返せ」


 僕は意思を言葉にする。

 僕の体はその言葉を気にした風もなく、僕の居る方向を見た。


 どうやら、僕の体を持っているそいつには僕が見えるみたいで、時折僕を見る。

 その目は侮蔑するような、嫌悪に富んだ視線だった。


「何言ってんだ。コレはもう俺の体だ」


 僕の体はそう呟いた。

 その自分のものであるかのような佇まいが、嫌だった。


 僕は、こんなやつじゃない。


「ふざけるな」


 僕は言葉を荒げることもなく、激情をぶつける。


 僕はそいつに触れることができない。

 だから、言葉でしか繋がることはできない。


「お前はさ、自分で捨てたパンを食ったやつに対して、自分が腹減ったから返せって言ってるようなもんだぜ。自分勝手にもほどがあるぜ」


「何度も言ってるだろ、アレは事故だった」


 僕は食って掛かった。

 そいつの理論なんてどうでもいい。

 ただ、そいつが僕という位置に居るのがひどく居心地悪かった。


「大体、お前は誰なんだよ」


「俺?俺の名前なんて決まってるだろ、観槻貴矢みつき・たかやだ」


 僕は殴った。

 目の前の僕の体を殴った。

 顔はまだ包帯を巻いていて、僕の顔は見えなかった。


 だから殴れた。

 その歪んだ口元しか見えなかった、だから殴った。


 それでも、僕の手は僕の体に届かなかった。

 薄い膜に隔たれたように、僕は僕の体に触れない。


 なんでもそうだ。

 幽霊になった僕には、何も触れない。

 人も。物も。壁も通り抜けることだってできない。


 それに、殴った拳の感覚もない。


「……満足か」


 それは壁を殴っているような感覚。

 腕には痺れも痛みもない。

 ただ虚しさだけがあった。


「取り合えず、僕は貴様の傍に居る。その体を返してもらうまで」


 僕は腕を引いた。

 握った拳を解いても、そこに汗はない。

 それに、もう息を荒げる必要もない。


 俺は、『幽霊』だったから。


「は、お前にできることなんて何にもないしな。うざいだけだ」


 そいつは詰まらなそうに吐き捨てた。

 諦めたといった感じだ。


「まぁ、お前はこの俺様の邪魔なんかできないわけだしな」


 男は、歪に笑った。



   ◇◆◇◆◇



 家族との面会すら許されない状態から体調を直した僕の体は、だいぶ安定していた。


 最初は男も苦しそうにしていたが、それもあまりなくなった。

 面会が許されてからも、僕に会いに来るものは少ない。


「兄さん、生きてますか?」


 ドライな声と共に入室してきたのは、双子の妹の紫苑だった。

 顔を見たのは久しぶりだった。

 その顔は無表情で、何を考えているのか分からない。


 その変わらない姿に安堵し、

 その僕の体を見る視線に不安を覚える。


「あ、ああ、紫苑」


 その顔の包帯はだいぶ取れており、表情は伺える。

 その表情は僕を真似たものだった。


 僕の体は、不気味なまでに僕を演じきっていた。

 表情、仕草、言葉遣い。


 そのどれもが、僕を真似たものだった。

 それが不気味で、そして怖かった。


「生きていますね。兄さん」


 紫苑は何も違和感を覚えていない。

 僕の異変に気づく様子は、微塵もない。


 紫苑はその美しい顔を動かさない。

 動かすのは口だけで、眉一つ顰めない。


「うん、相変わらずだね、紫苑」


 男は僕が紫苑にいうであろう台詞を再現して見せた。

 ぎこちなさは残っているが、もう俺になりきっているといっても良かった。


「兄さんもご容態も、それなりのようで」


 僕は紫苑に声を掛けようとして


 やめた。


 この数日で、僕の体以外に僕の声が聞こえることはないと悟った。

 声を出すだけ無駄だということは、既に分かっていた。


「はは、そう。でもないかな」


 それはニセモノの会話だ。

 そいつは僕じゃないのだ。


 だから気づいてくれと、心に願う。

 少しでも変だと思ってくれと、願う。


 僕の願いは届かない。


 目の前の光景は歪だった。


 僕以外の誰かと誰かが、僕と会話している。

 まるで僕がそこに居るように、僕がそこに居た。


 頭が可笑しくなりそうだった。

 僕はゆっくりと窓辺に寄り添う。


 出来るだけそのおかしな会話が聞こえないように。

 そんな変な会話を聞いて、馬鹿にならないように。


 狂ってしまいそうだった。

 胸が焼け焦げた。


 僕は耳を塞いだ。


 二人の声が聞こえないように。



   ◇◆◇◆◇



 それから何ヶ月経っただろうか。

 俺に月日という感覚ももうないし、必要もない。

 夜寝ることも、もうない。


 僕の体が退院する日がやってきた。

 僕は常に僕の傍に居ないと、閉じ込められたり締め出されたりするのを学習した。

 だから、僕の体の容態も良く聞いていた。


 どうやら事故の障害で走れないようだが、歩くのに補助も必要ないようだ。

 あの事故からしてみれば奇跡的だと、医者は言っていた。

 僕の体はもう、普通に動いて何の支障もないという。


 僕の体は荷物を纏めながら、俺のほうを見た。


「なぁ」


 男から話しかけてくるのは極稀だった。

 いつもは僕の事なんか無視しているくせに、たまに愚痴を言ったりする。

 要は、都合のいいときの話し相手程度ぐらいでしかないわけだ。


「お前って彼女とか、好きな奴は居ないのか?」


 僕と話すときだけ、この男は地を表す。

 僕と居るとき、つまり一人のときだ。


「いないけど、それがどうし」


「兄さん、準備は出来ましたか」


 僕の言葉の途中で、紫苑が病室に入ってきた。


「ああ、紫苑。後少しだよ」


 男の豹変ぶりは見事だった。

 僕ですら僕と見間違えるくらい。


 それほど、男は僕の真似を練習していた。

 発声から歩き方にいたるまで、全てを練習してきた。


 僕という存在を完成させていた。


 この数ヶ月間で、まるで僕が二人になったように。


「下にタクシーを待たせてあります。早々に」


 紫苑はそう短く告げると、さっさと引っ込んでしまった。

 例え入院していた人のでも、荷物を持ってやるという思考はないらしい。


「へぇ、寂しい男だねぇ」


「お前に言われる筋合いはないよ」


 僕は叩きつけるように言うと、ドアに寄り添った。

 こいつが外に出たとき、締め出しを食らわないようにだ。


「そうだ、これから面白くなるからな。お前に一ついいことを教えてやる」


 僕の体は、そう楽しげに言葉続ける。


「俺の名前はカイト。良く覚えとけ」


 カイトは楽しげに、そう言葉を躍らせた。


 僕にはカイトが今になってなぜ名前を教えたのか。

 不思議でしょうがなかった。



   ◇◆◇◆◇



 退院してから、カイトは何もしなかった。

 自宅で療養しながら、本を読んだり、体を動かしたり。


 そんな中、カイトが行った一番の変化といえば。

 眼鏡をコンタクトにしたことだろうか。


「……」


 僕は部屋の隅でじっとしている。

 カイトも僕に構うこともない。

 もう僕のことは不快ではないのか、楽しげに料理している。


 カイトの包丁捌きは手馴れており、本職の板前を思い起こさせる。


「さぁて、出来た」


 カイトは手際良く皿を並べていく。

 上には彩り豊かな料理。

 僕には、もうそれがおいしそうと思うことすら出来ない。


 食べ物なんて、もう何日も口にしていない。

 水だって飲んでいない。

 でも、僕の体はもうない。

 だから、食べ物をほしがったり水をほしがったりすることはない。


「良し!改心の出来!」


 カイトは僕の体を使って楽しそうだった。

 僕は生前すら、こんなに楽しそうと思ったことはないのに。


 憎くて

 妬ましくて


 しょうがなかった。


 他人の幸せというのは、見るべきものではない。

 自分が幸せと思えない限りは。

 カイトは、僕という幸せの上に立っている。


「カイト」


 僕は口を開いた。

 この光景を目にしていたくなかった。


 この手が彼に触れられるなら、殴りかかってでもその位置に居座ろうとするだろう。

 でも、それは出来ない。


「あ?何だよ。貴矢か」


 カイトは不機嫌でもない、妙に曖昧な表情をしていた。

 その顔は知っている。

 僕を見るたびにたまにする顔。


 どうしようか迷っている顔だ。


「外に出たい。少し出てくる」


「ああ、そうか。ここに、お前の居場所はないもんな」


 納得したように頷くと、カイトは玄関のほうへと歩く。

 カイトがドアを開くと、そこには紫苑が居た。


「あ、兄さん」


 紫苑は、カイトと暮らすようになっていた。

 事故での一件以来、心配だからとついてきてくれたのだ。


 僕のときは、そんなことなかったのに。


「どうしたんです。出迎えなど」


 紫苑はさも驚いた様子もなく、静かにカイトを見る。

 当然、後ろに居る僕に目など向けない。


「おかえり、なんか予感がして、ね。ご飯できてるよ」


 カイトはドアを開けたまま、紫苑を促す。

 オーバーなまでに大きく開けて、僕が通れるような幅を作る。


「ただいまかえりました」


 紫苑は屈んで靴を脱ごうとする。

 その隙に、僕は外へ出た。


 不自然に見えないタイミングで、カイトが扉を閉める。

 締め出されるように、僕は外に躍り出た。


 空は暗い。

 時刻は宵の口。

 日は没して、見えない闇が覆う時刻。


 僕は、迷子のようにどこへ向けていいかも分からない足を出す。


 軽いはずの足は重い。

 一歩ずつ、深みにはまるような気がする。


 石畳は音を立てもしない。

 モノさえ、僕を無視する。


 僕は振り返る。


 そこにはわりとモダンなアパート。

 そのうちの表札の一つは『観槻』。


 そこには、もう僕の居場所はない。


 どうしようもない。

 どうしたって、僕は救われない。


 悔しかった。

 正直に、羨ましかった。


「だってそうだろ?親の奴は会いにくるし!紫苑だって心配してくれるし!嫌な仕事をしなくても誰も責めない!ご飯も食べられるし!ちゃんと布団だってあって寝られる!」


 僕は言葉を叩きつける。

 誰にでもない。

 僕は僕に向かって言葉を吐き続ける。


「……ぐっ、貯金だって、僕が一生懸命貯めた奴だ。……あの部屋だって、名義は僕のだ。服だってそうだし、家具だって……あの場所は、僕の……なのに」


 分かっている。

 そんなこと分かっている!

 言われなくたって分かっているさ!!


 どんなに僕が貴矢を主張しても、それもうカイトのものなのだと!


 もう、僕には存在意義なんてなかった。


 それでも、おかしいのは僕じゃない。

 狂っているのは僕じゃない。


 おかしいのは、カイトの方だ。


 そうどんなに主張しても、僕の声は誰にも届かない。

 カイトだって、もう僕を見はしない。


「ぐ……うぅ、ぐう……ひぐ」


 どうしてだろう、涙が止まらない。息が詰まるわけでもない。涙が出るわけでもない。

 呼吸が乱れて、涙が止まらない気がする。


 どうしてだろう?


 殺意が、止まらない。



 結論◇幽霊は存在意義を見出せませんでした



 三番◇体を乗っ取った幽霊について



 僕は、いた。

 家を出て何日か、それすらも曖昧。


 自分の手を見る。


 自分の手を意識してみたことなんてなかったが、なんだか枯れているように感じた。

 まるで、老いて枯れてしまったような。


 僕の心も枯れていた。

 何も感じられなくなってしまったように。


 思うことも、何もない。

 いっそのこと、全てを投げ出してしまいたい。

 もう、失うものは余りない。


 それをいまさら失ったところで、大したことではない。


 幽霊って、自殺できるのだろうか。


 日の光は柔らかだ。

 僕は塀づたいに電話ボックスに登って、そこで胡坐をかく。

 全身に日の光を浴びるように、僕は体を伸ばす。


 この体に暖かさは伝わらないが、それでも僕は太陽を感じる。

 まるで、まだ生きていることを証明したいかのように。


 僕は一体何なんだ?

 なんで僕はまだ幽霊なんだ?

 僕は、何をするべきなんだ?


 問いは無為。

 僕に答えを見つけることは出来ないし、答えを聞くことも出来ない。


 僕には絶望しかない。

 希望と背中を合わせたような絶望が、僕を取り巻く。


 体は光を浴びて。

 心は闇を帯びる。


 相反する魂を持ちながら、僕はそこに居た。

 存在する意味なんかなかった。


 ゆえに僕はそこに居た。

 意味をもたないからこそ、意味をもてるように。


 偶然でもいい。

 ただ一欠片でも、この僕に存在の意味を。


 出来得ることなら体を。


 僕の、体を。



   ◇◆◇◆◇



 夜でも、僕はそこに居た。

 意味はまだ見つからない。


 人通りも絶え、道さえ見失ってしまいそうな時間。

 外とは落ちそうなほど暗く、道を黒に染める。

 アスファルトは踏み出すと足を吸い込みそうで、僕はまだ電話ボックスの上に居た。


 僕が消える気配は、まだない。


 安堵なのか失望からなのか、僕はため息をつく。

 呼吸は必要としなくても、呼吸の真似事ぐらいは出来る。


 ふと、耳を澄ます。


 足音だった。

 今までは耳を傾けることすらしなかった足音。

 それが今は、僕にはないものだった。


 歩いてくる人影を見て


 絶句した。


 『僕』だった。


 それは僕の体だったけれど、異様な雰囲気だった。

 眼鏡を掛けていない眼光は、射抜くように鋭く。

 口元は押さえきれない笑みで歪んでいる。


 体から放っているのは、人を嫌悪する異様な気。

 禍々しくて、まるで人のものではない。


 その姿は肉食の捕食動物とか、

 例えば飢えたトラみたいな、

 そういう欲望をむき出しにした人間だった。


 それでも、その体が僕

 カイトということは分かった。


「まだ、本調子じゃないな」


「カイ、ト?」


 掛けてはいけないと分かっていながらも、僕は声を掛けた。

 言ってしまってから、僕は慌てて口を噤んだ。


 咄嗟に塀の内側に下りて、身を潜ませる。

 音は立たないので、隠れるのに苦労はなかった。


「……貴矢か?」


 声が聞こえる。

 僕は口を塞いで息を止め、身動きをやめた。

 そうすると、まるでモノのようになった自分になる。


「……居るわけないか、こんなところに」


 足音が遠ざかる気配。

 それが聞こえなくなってから、僕は塀を登る。


 まだ、カイトの後姿は見えた。

 僕は塀を降りて、気づかれないように歩いた。


 なんとなく、怖かった。

 それは今までのカイトではないと、本能的に分かってしまっていた。

 だから、『それは見てはいけないもののように感じた』。


 僕は歩き出す、見失わないように。

 どんなに僕が暴れても、音は立たない。


 僕の人生を奪ったやつがどんなやつなのか、知りたくなった。

 どんなに最低のやつなのか、その秘密を暴いてやる。


 恐怖はあった。

 死んだとしても僕は所詮凡人。その目の前の異常な人間に、恐怖しないわけがない。


 あの目は、人の瞳ではない。


 でも、僕にもう失うものなどない

 恐怖なんてない。

 でも、なんで足が震えているのだろうか。



  結論◇保留



 裏四番◆行方不明になった殺人鬼について



 体が火照る。

 心臓を圧迫する熱。


 だいぶ欲求不満だ。

 もう我慢など出来ない。

 もう何年もしていない。

 もう、ヤることしか思いつかない。


 手に汗を握った。

 呼吸が荒い。

 酒に酔ったように体が熱くて、息苦しい。


 俺は一人。

 獲物を探して、夜の街を歩く。


 この町を歩くのは初めてだが、記憶には貴矢が歩いた記憶がある。

 それを頼りにすれば、迷うこともない。


 今までは貴矢が邪魔でしょうがなかった。

 例え幽霊が何も出来ないといっても、俺の行為を見られるのは致命的だ。

 目撃者というのは厄介だ。


 それが死んでいるというのだから手に負えない。

 もしかしたら、俺みたいに体を乗っ取ることが出来るかもしれない。


 だから、俺はやつを完璧に演じきった。


 『幸せな観槻貴矢』を演じきった。


 自分の痛い地にいる人間が幸せそうにして、自分をのけ者にしている。

 それがどれだけ辛いものなのか、そんなもの味わったものにしか分からない。

 俺はそんなの味わったことがないから分からない。


「かははっ、良い月だぜ」


 一人呟く。

 地面を覆うアスファルトは冷たく。

 電信柱は月に向かって突き立ち、

 電信柱の影が長くアスファルトを走り、

 暗闇が、夜を支配していた。


 この肌触り、

 この匂い、

 この空気、


 全てが懐かしい。それも全て我慢してきたせいだ。

 やはり、俺が居るべきはこの舞台だ。

 生ぬるい平穏などは、俺には合わない。


 ここは夜。

 ここは俺の、

 殺人者のステージだ。



   ◇◆◇◆◇



 目の前に女が居る。

 女が歩いている。

 飲んだ帰りなのか足元はふらついていて、危なっかしい。


 たまにブロック塀に肩をついて、眠るように休んでいる。

 呼吸は荒く、耳が赤いことも後ろから伺える。


 茶色に染めた長い髪が揺れる。

 服の上からでも、その華奢な体が分かる。


 酒に酔った女というのは、いやに扇情的だ。

 その色香に集まる蛾のように、俺は足を速めた。


 そうすると、女は街灯のようなものか。

 無数の蟲に集られたように、光を失い落ちてしまう。

 それもまた美しいまでの悦楽だ。


 今すぐ飛び掛りたかった。

 飛び掛ってその体を蹂躙し、女というものを貪りたかった。

 だが、今は時ではない。俺は必死に耐えた。


 頭の中に地図を思い描く。

 そこまであと少しだ。


 俺の股間はとうに充血していた。

 ズボンを押し出して、自らの頭を出そうと隆起している。

 興奮も、もう頂点だ。


 女はふらふらになりながら、そこを通り過ぎようとしている。

 そこは公園だ。

 間違いがなければ、そこは俺にとって理想の場所だった。


 俺は女に急いで近づいて、その肩を軽く叩いた。

 女性は振り返る、その目は虚ろで俺を見てなった。


「誰?」


 吐き出される酒くさい息。頬は桃色に染まり、目元も潤んでいる。

 相当酔っているのだろう、前後不覚に陥っている様子だった。


 俺は改めて女を見る。

 肌寒そうな服を着て、その体のラインを露にしている。

 見たところを、商売系の女だ。


 張り裂けそうな肌は血色が良く、美味しそうだった。

 体が資本のためか、体型も中々に均整が取れている。

 顔も合格点だ。


「お姉さん、暇」


 俺は昔の調子で、陽気に声を掛けた。

 前は元々顔が良かったから良く引っかかったが、貴矢もそれなりに女をそそる顔をしている。


「どうしたの?坊や。子供はお家で寝ている時間よ」


 女は嘗め回すよう俺の体を嘗め回すように見る。

 そして、股間で目が止まる。


「いや、お暇だったら相手をしてくれないかな、ってさ」


 女は妖しげに呼吸を荒げ、うっとりとした様子で俺を眺める。


「ふふっ、おかしな坊や。私があんたなんか相手にするわけないじゃない」


 女は誘うように俺の顎に手を当てて、甘く囁く。


「でも、少しだけ、ね?」


 女は、俺の肩を抱いて、首筋に甘く息を吐きかける。

 肩から抱き寄せて、その体を密着させる。


 酒の匂いと、女の臭いがこんなにも近くにある。

 俺はそれに惑わされるように、足を公園へと向ける。


 それほど茂みもなく、そういったことをするのには向かない公園。

 それでいい。

 邪魔されるなど、イラつくだけだ。


「楽しませてもらうぜ」



   ◇◆◇◆◇



「うっ!……ぁう、ぐ!」


 女は身を捩じらせて、喘ぐ。


 甘い吐息は既になく、

 見開いた目は俺をじっと見つめている。


 必死に、首を絞める俺の手から逃げようとする。


 逃げられるはずもなく、逃がすつもりもない。


 顎は無理に外して、発声は奪った。

 上着は腕半ばまで脱がし、動けないように結ぶ。

 パンストは足首まで下ろし、結んで足を固定する。


 口はだらしなく開き、縁からは涎が垂れている。

 呼吸は荒く、小刻みに震える。

 瞳孔開きっぱなしで、瞼の淵には光るものが見える。


「はっ、はっ!……ば、がっ!」


「ごめんねぇ。俺、こうしないと燃えねーんだ」


 肌蹴た胸に指を這わせ、顔を覗き込む。

 柔らかい感触、すぐにでもイってしまいそうだった。


 公園のトイレ。

 周りに人の気配はなく、女を助ける人は居ない。


 この時間では、こんな公園でコトするカップルも居ない。

 だからこういう公園がいいのだ。


 俺は服の内側からレインコートを取り出す。下も履いて、靴を出さないようにすると完璧だ。

 こうすることで、血が服につくこともない。


「よし」


 俺がレインコートを着終えると、懐からそれが滑り落ちる。

 無音のまま降り立ち、トイレの床のタイルにぶつかって高い音を立てる。


「……っ!!!?」


 女は叫ぼうとして声が出ない。

 叫ぶ前に、俺は女の声帯を踵で潰す。さっき触ったときに位置は確認したので、ひどく容易なことだった。


「あ、ごめ〜ん」


 俺は落ちたそれを拾い上げる。

 美しく光を返す線。それは暗闇の中でも、自ら光を放っているようにすら見えた。


 大型のナイフ。


 女の恐怖の質が変わる。

 今まではレイプされる恐怖だったのが。


 殺される恐怖に、変わる。


 その表情で俺は笑ってしまう。

 間抜けな恐怖に呆けて、いやいやするように首を振る姿は壊れたおもちゃのようだ。


「……ひゅっ……ひゅぅ、ゅうっ」


 最早声すら出ない。

 本当に壊れたようだ。その姿も滑稽で愛らしく、ますます殺したくなってくる。

 俺は笑顔を抑えて、優しく語り掛ける。


「ん? 死にたくないか?」


 無様に涎と涙を流し、女は首を激しく縦に振る。

 心から助かることを願い、そのためならば何でもすると。

 そのためだけに首を振る、哀れな人形。


 人形というのは、優しく愛でる物だ。

 優しく、優しく。


「……!」


 痣になり、へこんだ白い首筋に指を這わす。

 味わうようにゆっくり滑らせ、頬を手のひらで覆う。

 唇を指でなぞり、淵に突いた唾液をふき取る。


「俺……」


 左手に強く握る。


 外れた顎を指で固定し、親指を使ってもっと開けさせる。

 喉の奥からひゅうひゅうと鳴る音が、耳障りだった。


 左手に握ったナイフを、彼女の前に突きつける。

 じっくりと、じっくりと眺めさせる。

 これから自分の中に入るものを、明確にイメージさせる。


 女は目を話すことが出来ない。

 これは恐怖を煽るそういったプレイで、そんなことはしないと心の中で思っているせいか。


 彼女の涙は止まらない。

 頬は涙でふやけ、目は充血している。呼吸も短く、しているのかしていないのかも曖昧。

 体を動かして、体を暴れさせる。


 それでも、俺の腕から逃れることは出来なかった。

 それが楽しくて、俺は女にナイフを向ける。


「でも」


 口の中へと、そのナイフを突きつける。


 女は必死に抵抗するが、その度に鋭利な刃で口の中が切れていく。

 まるでまな板の上の魚だ。

 自分が生き残るために、傷ついても必死に暴れる愚かな魚。


 食べて……いや、その前に


 殺してしまいたい。


 ずぶりと、ナイフが肉にめり込んだ。


「こうするしかできねぇから」



   ◇◆◇◆◇



 肉にナイフを突き立てた。感触がたまらない。血がどくどくとあふれ出てくる。生暖かくて気持ち良い。女が痙攣する。手足が痺れたように跳ねる。ビクンビクンと無様に跳た。もっと血を吐き出せ。喘いでもがけ―


 ナイフはめり込む。一気に下ろす。鯵の開きのようにぱっくり割れた。手が血でぬるぬるする。ほうら綺麗に顎がごきんと割れる。瞳が見開かれる。まだ死んでいないのか、既にショック死したのか―


 目玉に突き刺せ脳漿を抉り取れ脳髄を見せて見る。

 髪は邪魔だ。

 頭蓋も邪魔だ。取り除こう。


 両手に持った。

 ナイフを持った。


 下ろせ。

 下ろせ

 おろせ

 オロセ


 ナイフを下ろせ。

 殺意を下せ。

 息の根を止めろ。


 オロセ


 いや、


 殺せ。


 ナイフを下ろせ、ではない


 ナイフで殺せ


 その瞬間が、もっとも愛しい。

 俺が俺である瞬間。陳腐な世界に似合わぬ最高の快楽。


 俺はナイフを下ろす。

 ナイフで卸す。


 肉を裂いた骨を砕いた。硬い骨は骨同士を組み合わせて梃子の原理で破壊する。

 赤い血が出る。ぬらぬらとした紅に目が奪われる。

 美しく血化粧をしたそいつは綺麗だ。


 生を踏みにじる。

 奪い殺す。

 そこに尊いものなど一遍もない。


 血が赤い。

 潰れたそれから滲み出るそれを、右手で掬い取る。


 指に絡まる生ぬるい感触。

 糸引くように粘っこく、生臭い臭いが鼻を刺激する。


 俺は指を口の中へ放り込む。

 ちゃぷちゃぷと舌を動かし、指ごとその血を口腔内で転がす。

 自分の唾液とそれを絡ませ、一気に嚥下する。


 そこで、血の味を味わって、俺はようやくそれを認識する。


 俺は、人を殺したのだと。



   ◇◆◇◆◇



「……ふぅ」


 トイレは血だらけだった。

 もちろん俺の血ではなく、見も知らない女のものだ。


 体の火照りは収まった。

 もともと、俺は殺人という行為をマスターベーションくらいにしかとらえていない。

 俺の生理現象のようなものだ。


 俺は俺という人間を認識するのに他人を殺すことでしか認識できない。

 そのため人を殺し、その時の自己認識の快楽を性的快楽に変換している。

 つまり、俺は壊れた人間なのだ。


 快楽と安心を、こういう形でしか感じ取れなくなってしまった人間。

 殺すことで快楽を貪り、

 殺すことで自分を知って安堵する。


 それでも一般常識はあるし、警察に捕まるのは嫌だ。

 だから


「コレくらいで良いか」


 俺は女の体をミンチ状にし、改めて眺めた。

 キツイ体液の臭いの中、だんだんと意識が麻痺してくる。


 肉は数種類のナイフを使って細かく切り刻み、骨はハンマーで粉々に砕く。

 それだけで重労働だ。

 それでも、コレだけのことを短時間でこなせるというのは、慣れというのは恐ろしい。


 俺は女だったものを便器へ落とし、水洗する。

 塊がないことを確認した肉塊は、糞のように水に流されていく。


 タンクに水がたまるのを待つ間、他の便器でまた肉を流す。

 ぶよぶよと水っぽいミンチは生臭く、まるで本物の汚物のようだった。


 何分か掛けて、全て流し終える。


 その後は女の服を丸め、そこにレインコートを巻きつける。

 そのままでは発火するのも弱いので、新聞紙を丸める。

 引火性の強い液体をたっぷりと掛け、ライターで火をつける。


 ビニールは燃え辛いが、新聞とたっぷり含んだ液体によって黒焦げのカスになる。

 それも、トイレに流した。


 掃除用具が置いてあったので、古いながらもそれを使った。

 ホースで水を撒いて、ブラシでこびりついた血を落とす。

 赤い液体を便器に落とし、落としきったらまた水洗する。


 道具をかたし、俺は人心地ついた。


 自分でも手馴れていると驚愕する。

 さっきまで50キロ近くあった肉が、数時間で見当たらなくなる。


 問題は臭いだが、もうそれほどきつくもない。

 どちらかといえば、俺の肌についたほうが臭うだろう。

 それに、多少なら血の臭いがついても大丈夫なように、女子トイレにしてある。


 俺は余韻に浸りながら、持っていたナイフの一本を見た。

 そこにもう先ほどまでの鋭利さはなく、凹みガタガタになったナイフ。

 もう使い物にならない。


 血は落としてある。

 その鈍く光る刀身に、自分の顔を映す。


 俺は、笑っていた。


 久しぶりに殺して勘を取り戻した。次はもっとうまく出来る。

 貴矢もいないし、これからは思う存分殺すことが出来る。


 初めはあいつの女でも殺してやろうと思ったのだが、やつに聞いても自分で探ってもそういった女性は出てこない。

 だから、あいつを殺してやろう。


「次は、紫苑でやってみるか」


 決して仲が良い訳ではないが、貴矢は紫苑のことを家族として大事に思っている。

 これまで俺を苦しめた罰として、これくらいは当然だ。


「あいつもいい女だしな」


 俺は紫苑を想像し、欲情する。


「帰ったら殺してみるか」



 裏結論◆行方不明の殺人鬼は死んでいた



 五番◇幽霊が人間に対して感じる恐怖について



 嘘だ。

 嘘だよ


 よりにもよって、カイトがこんな、殺人狂だったなんて。

 でも、覚えがある。


 そう、何年か前に日本を基点として何十人と殺し、またソレを上回る何百人を警察に知られることなく葬り去ったといわれている。

 ワニジマ カイト。

 一時期巷を騒がせた殺人鬼、鰐島海斗。


 確か行方不明になっていたはずで、数年は海斗の犯行と思われる事件はなかったはずだ。

 まさか、死んでいたなんて。


 僕は丁度トイレの中から見えない場所で、一部始終を見ていた。


 カイト。

 鰐島海斗が人を殺し、それを処理するさまを全て。


 もうないはずの身の毛がよだつ。

 こみ上げてくるものがないのに吐き気がする。

 なぜか足が震えて、声が出ない。


「次は、紫苑でやってみるか」


 海斗は、僕の心臓をえぐるように言葉を言った。

 何気なく。本当に自然に。

 明日は散歩でもするか、っていうように自然に。


「あいつもいい女だしな」


 何なのだろう。

 海斗は当然のように紫苑を殺すと宣言している。

 それが怖くて、憎くて、仕様がなかった。


 海斗は楽しそうに微笑む。

 いやソレは微笑みと呼べるほど安らかなものではない。

 狂気に駆られた、壊れた笑顔だ。


 声は静かに語る。

 僕の心臓を、抉る言葉を。


「帰ったら殺してみるか」


 僕は逃げた。

 そこに居てはいけないと逃げた。

 逃げようと駆け出して、足が縺れた。


 無痛のまま、壁に叩きつけられる感覚。

 肺を圧迫するように、無自覚のままに声が出た。


「グゥッ!」


 僕は声を出してしまった。

 まだトイレを出たばかりで、トイレから顔を出せばすぐに見えてしまう。


「誰だ!?」


 僕は立ち上がる間も惜しくて、地を這って進む。

 爪に土が入ることもなければ、服を土で汚すこともない。

 プラスチックの床を這っているような、妙なもどかしさがあった。


 海斗の足音が妙に近くに聞こえる。

 それでも、さらに近づいてくる気がする。


 焦る。

 手が湿っている。

 息が荒い気がする。

 自分の体を操り糸で操って、必死に逃がそうとする。


 茂みまで間に合わない。

 手が焦ってうまく前へ出ない。


 ああもう!なんでたったソレだけができないんだ!


 僕は願う。願いながら振り返る。

 僕は海斗がそこに居ないことを願って


 顔を上げる


 顔は見下す


 海斗の目は僕へ向いている。

 視線が絡まった。


 心臓が止まって、全身の毛穴がキュッとしまる感覚。

 噴出した汗は止まり、背筋は杭を打たれてピンと張る。


 もう駄目だ


 と思ったとき、海斗はプイッと横を向いた。

 反対側を向き、そしてまた反対側を向いて、後ろを見た。


 ソレは何かを探すような、そんな仕草だった。


 もしかして、海斗には僕が見えていないのだろうかと、都合のいい解釈が頭に浮かぶ。

 僕は息を吐き出しそうになる口を押さえ、鼻も止めて我慢する。

 息苦しさはないが、肺からこみ上げるような圧迫感はあった。


「貴矢」


 名前を呼ばれた。

 僕は声を出そうとするのどを無理矢理抑え、口も鼻も止める手を強める。

 死んででも声を出さないように、しっかりと。


 海斗は首を傾げ、辺りを再度睨みつける。

 途中何度も僕と目が合ったりしたが、海斗はそれに気がついてない様子だった。


「気のせい?いや、人の声だ。まだここに居る!」


 海斗は辺りの茂みを虱潰しに漁っていった。

 海斗は狂ったように何度も舌打ちをしながら呟く。


「チッ!……油断しすぎたぜ、畜生、目撃者残すなんて!」


 海斗は草木を叩きながら、そこに何か居ないか確認する。

 何度も何度も、舌打ちしたり畜生と呟いたりしていた。

 それは演技には見えず


 本当に、僕が見えていないようだった。


 僕はそれが分かり、立ち上がるって走った。

 海斗が居るほうとは逆へ走る。

 声を出さないよう、口と鼻は押さえたままだ。


 走る。

 いや走るのではなく逃げる。


 地面を蹴る度に足が浮き、前のめりになりそうなところを踏ん張ってまた地面を蹴る。

 繰り返す。

 倒れそうになっても走って、倒れそうになっても走る。


 まるで無様な玩具。

 僕は何度も足を前に出して、逃げた。


 地面を蹴り、建物をすり抜け、とうとう僕は転んだ。

転んで、手が塞がっていたので受身は取れなかった。

 どてんどたん、と大きな音を聞いたような気がした。


 道路の中央に寝転がる。

 街灯が照らし、星空が見える。

 聳え立つ電信柱は、空に食い込むように高い。


 僕は、空を見上げて

 やっと、自分の口を塞ぐ手を放した。


「ハァ……ハァ、ハァ――」


 呼吸はしても意味がないはずなのに、やけに空気が新鮮に感じた。

 僕は深く呼吸をして、落ち着かせる。


「何で怖がってるんだよ。僕、もう死んだじゃないか」


 口に出して呟いても、分からない。

 あの時、僕は自分が死んでいるということも忘れていた。

 忘れて、殺されると思った。


 例え死んでいても、見つかったら殺されると本気で考えた。

 そんな自分が変で

 あの海斗の姿を忘れたくて


「は、なんだよ……はは、はっははは」


 僕は、不器用に笑った。

 潤いなどない乾いた声で、カラカラ。


 でも、もう大丈夫だ。

 海斗に僕は見つけられない。もう逃げたのだ。


 僕は幽霊だった。

 殺されもしないし、見えもしない。そして、いつの間にか壁だってすり抜けられるようになっている。

 ここで転ぶまで必死だったが、その間に俺は何軒と家の中をすり抜け走ってきた。


 僕は幽霊だ。

 そのうち声も聞こえなくなるだろう。


 だから、無理矢理あいつのことを思い出す必要もないし。

 会う必要もない。


『次は、紫苑でやってみるか』


 唐突に、その言葉が脳内に反芻される。

 明確に、克明に照らし出される。


 胸が、ずきりと痛む。


 頭を振った。

 それは考えてはいけないことだ。


『あいつも良い女だしな』


 紫苑を愛玩のように見下した言葉。

 それがイラっときたのは気のせいだ。


 僕は幽霊だ。

 もう物に触れることも出来ないし、喋ることも出来ないし、他人に知ってもらうことも出来ない。

 だから、それは考えていてはいけない!


『帰ったら殺してみるか』


 だから、『紫苑を助けることが幽霊としての僕の存在意義』なんて考えてはいけない。


 僕は何も出来ない。

 何もする必要がないのに、

 何でこうも、泣きそうになるんだろう。


 家族の一人も助けられないなんて、馬鹿にもほどがある。

 だから泣きそうなのだ。自分が情けなくてたまらないのだ。


 体が勝手に起き上がる。


 このまま寝ていれば海斗とも、そして紫苑とも、もうかかわらない。

 それで良いのだ。

 それしか僕に選択肢はないのだ。


 でも、それでも


「ああ、何で体が勝手に動いちゃうんだよ!怖がりの癖に」


 死んでいても怖がるくらい情けないのに

 自殺しちゃうくらい馬鹿なのに

 死んでも生きていたいって思うくらい意地汚いのに


 紫苑を助けてやりたいと思ってしまう自分が居た。


 僕は立ち上がった。

 足は少し震えている。僕は腿を叩いて震えを消す。


 僕は辺りを見た。この場所なら知っている。

 僕のアパートからもそう遠くない。むしろさっきの公園よりは近い。


 一回思ってしまったら、それはさっきの恐怖のように消えなかった。

 だから僕は走る。

 家に向かって全力で走る。


 そして紫苑に何とか危機を知らせて、逃げさせる。

 それで十分だ。


 出来るかどうかわからないけど、さっきまで海斗には僕の声が聞こえていた。

 だから、出来るまでやるしかない。

 出来ることを願うしかない。


 僕は、恐怖を退かして走る。


 どうしようもなく、助けたいと思ったから。



   ◇◆◇◆◇



 僕のアパートは、直線距離にするととても近かった。

 塀をすり抜け壁をすり抜け、自分でも信じられないくらいの速さで走りぬけた。


 僕はドアも開けずに家に入る。

 表札を確認するまでもない。

 ここはもともと、僕の家なのだから。


 家の中に入る。

 暗くて様子は窓辺のあたりしか分からない。それでも、自分の家だったのでなんとなく分かる。


 僕は最近用意された、紫苑の部屋へと入った。

 僕はもともと結構物を買い込む性質だったので、物置専用の部屋があった。

 そこを紫苑用に整理し、彼女の部屋とした。


 紫苑の部屋は、とても女の子とは思えないほど簡素なものだった。

 ベッド。そして何個かのトランク。テーブル。

 それくらいのものだった。


 そこに、紫苑という人間性はないように感じた。

 紫苑は布団を深く被り、寝顔さえ見えなかった。

 僕はそこに紫苑が居ることを確認すると、駆け寄って手を伸ばす。


「紫苑!」


 紫苑を触ろうとする手は、すうっと突き抜けた。

 突き抜けて、紫苑に触ることが出来ない。

 それでも、僕は紫苑の体をゆするように手を動かす。


「紫苑!起きてくれ!逃げてくれ!」


 僕は必死にそう繰り返す。

 壊れた蓄音機が、同じところを何度もなぞってしまうように。


 何度も、何度も


 そして段々と、意識が持っていかれた。


 それがここ何ヶ月か忘れていた、睡魔だということを。

 なんとはなく、感じていた。



 結論◇恐怖は本能的なもので死には関係しない



 六番:無題



 僕は、どうしたのだろうか?


 ゆっくりと体を起こし、衣擦れの音を聞く。

 肩から落ちる髪の静かの音を聞きながら、枕元にある時計を見た。


 そこで、違和感に気がついた。

 僕は、布団の中で寝ていた。

 それどころか、その風景はどこかで見たことのあるようなもので、僕はそれらに『触る』ことができた。

 掛けていた布団を掴む。


 それはさっきまで見ていた、紫苑の体にかかっていた布団。

 僕は自分の体を確認する。

 それは、紛れもない女の体だった。


 僕はベッドから降りて姿見に姿を映す。


 そこには黒髪清楚な女性、観槻紫苑が映っていた。


「そんな」


 出る声も僕の声ではなく、紫苑の声でもない。

 僕は体が動くことを確認すると、急いで服を取り出した。


 混乱している暇はない。

 紫苑が生きているのなら、いち早くこの家から逃げなくてはいけない。

 僕の頭は急に紫苑になってしまった頃についていけなかったけど、逃げなくてはという思いはあった。


 寝間着を着替え、出来るだけ動きやすい服を選ぶ。

 初めて着る服だったけれど、思ったよりもスムーズに着替えることができた。


 紫苑には申し訳ないと思ったが、それでも寝間着のまま外に出るのも恥ずかしいだろう。

 嫁入り前の妹の裸を見るのは、少し気恥ずかしい。

 そんなことも言っていられない。


 海斗が来る前に、早く逃げなくては。

 そう思って、僕は紫苑の財布を引っ張り出してドアノブに手を


 ―ガチャ―


 僅かな音。

 本当に小さな音だった。聞き逃さなかったのは奇跡に近い。


 僕はまだドアノブに触れてすらいない。

 それはドアの向こう側からかすかに聞こえてきた音。

 こんな時間に帰ってくるのは、僕の体を持つ鰐島海斗に他ならない。


 耳を凝らす。

 靴を脱ぐ音。


 どうしたらいい?

 どうすればいい?


 窓から逃げる?いや、紫苑の体では走って海斗から逃げることは出来ない。

 迎え撃つ、しかできない。


 僕は音を立てないようにゆっくりと歩いて、比較的小さなトランク、アタッシュケースを一つ手に取る。

 紫苑の力では、それさえも重たく感じた。


 両腕でアタッシュケースをしっかりと握り、ドアから死角の位置に立つ。

 直立不動。呼吸する量すら抑えて、文字どおり息を殺して待つ。

 アタッシュケースを握る手が汗ばみ、僕は何度も握りなおした。


「……ッ……」


 唾液を飲み込む音さえ聞こえないよう、ゆっくりと。


 電気はつけなかった。感づかれるとそれでお終いだ。

 タイミングが全てだった。


 トストスと、フローリングの床を歩く音。

 まるで死刑宣告を待つように怯え

 その時を、待った。


 海斗は乱暴にノブを掴むと、急に開け放った。


「紫苑!」


 僕はその声を合図に、一歩踏み出した。

 下から打ち上げるように、アタッシュケースを振り切る。


 それは丁度顔を出した僕の体にあたり、その体を吹っ飛ばした。


「グッ!」


 ドアを巻き込みながら海斗は倒れこみ、派手な音を立てる。

 僕はトランクを勢いのままに投げっぱなし、深く息を吐いた。


「ハァッ……ハァッ……ハァ――」


 僕は部屋の中を見渡す。

 あまり重いものは駄目だが、鈍器がいい。


 さっき海斗を殴ったトランクの中身がこぼれて散らばっている。

 それは主に書類で、文具も転がっていた。

 僕は一応の保険にと、その中で大刃のカッターナイフを手にとってポケットへしまう。


 残念だが、この部屋には灰皿も花瓶もなくて、あったのはテーブルの上のマグカップぐらいだった。

 僕は藁にも縋る思いで、それを利き手にとった。


「紫苑!お前っ!」


 いつの間にか、部屋の入り口には起き上がった海斗が立っていた。

 ドアを掴んでふらつく足を抑え、もう片手にはナイフを握っていた。


「僕に何てことするんだ」


 それでも、僕の真似をする海斗が馬鹿らしくて

 恐怖も感じず、僕は海斗と睨み合う。


「僕の演技はやめなよ。僕の演技は僕には意味がない」


 海斗は目を見開くと、薄っすらと笑った。

 それは殺人鬼の目で、殺意に満ち溢れていた。

 僕だって、これ以上引くことは出来ない。


「貴矢か。そう、さっきのはお前か。だったら散々探しても見つからないはずだぜ」


 舌打ちすると、不満げに片目を瞑る。


「畜生! だからお前は嫌だったんだ! 生きる意味もないくせに、未練がましくて生き汚い!」


「僕はもう生きてないよ」


 間合いは互いに空いている。

 一足一刀。どちらかでも踏み出せば射程距離。

 だが、それは決して対等なものではない。


 相手はナイフ。

 僕は陶器のコップ。

 それに、僕は紫苑の体だ。僕の体とは力も体格も劣っている。


「ふん、本当は女を殺すのが趣味なんだが。この際構わない」


 今の僕では海斗に勝つことは出来ない。

 だったら、逃げるべきだ。


「待て、これ以上騒いだら隣が押しかけてくる」


 海斗はその言葉にびくんと身を震わせる。

 さっき目撃者を探すときの執着を見ていたら分かる。

 こいつは、自分の反抗を知っている人間が一番怖いのだ。


 だから、そいつにはそういう恐怖を想像させればいい。

 海斗は不愉快そうに舌打ちして、半身を返す。

 ナイフを懐にしまい、手をひらひらとさせる。


 僕はまだ緊張の意図を解さず、マグカップを強く握り締める。

 陶器の冷たかった質感は失せて、鋭敏になった感覚のせいで鼓動を陶器が反射して体に返ってくる。


 呼吸は短く荒い。

 汗の湿った感覚が背中を覆う。


「分かったよ。今はお前を見張るだけにとどめておいてやる。逃げたら即殺す」


 海斗は捨て台詞のように叩き付ける。


「朝になったら殺してやるからな」


 海斗は完全に向こうを向いて足を出した。

 その瞬間、僕は全身の緊張を解いた。

 意図的にではなく、無意識にそうしてしまった。


 それを見切っていたかのように、海斗が踊るように身を反転させながら肉薄する。


「バーカ」


 後悔した。実際は後悔する暇すらない。

 かわそうとするには遅い、顔面を覆う、刈り取るような廻し蹴り。


 乾いた音が脳内に響く。

 音が脳を貫通する。


 側頭部に当たったそれは、容易く紫苑の体を吹き飛ばす。


「……………ッ!!」


 脳味噌か頭蓋骨に逆様に収まって、手足の感覚が反転したような痺れ。

 声を上げることも適わず、紫苑の体は床に転がった。

 ガラスが割れたような音が聞こえて、脳内に反芻する。


 天井を見る。


 黒い何かが蠢いているのが見える。

 何かは分からない。

 痛みというのか痺れというのか、理解できない苦しみに頭を囚われていた。


 その黒いのは紫苑の体にのしかかる。

 圧迫感に喉にあった空気が押し出される。


「くふぅ……!」


 喉が枯れたように熱い。

 全身が熱くて、肌が燃えている。


 僕は手足をバタつかせる。

 それを押さえるかのように、喉を暖かい何かが押さえる。


 苦しかった。

 何度も叫んだ。

 助けて、止めてと。


 そう言う度、抑える力は強くなる。

 苦しくて、僕はその首を押さえている何かを殴った。

 殴っても、その指の力が弱まることがない。


 意識が遠のいたとき、

 何かが手に当たった。


 僕はそれをポケットから取り出し、半ばまで刃を出してロックする。


 両手を使って


 勢いを乗せて


 不審がるそいつに向かって


 思い切り、突き立てる。


「――――ッ!!」


 全力でそれを突き立てる。

 体重を掛けるように深く食い込ませる。カッターナイフの刃が折れても、さらに押し込む。


「――――――――ッ!!!」


 それは叫ぶ。

 耳を劈く言葉は人のものではない。

 知性の欠片もない、獣の絶叫。


 その声を聞いて、僕は目が覚めた。


 目の前には僕にのしかかる海斗。

 その手は首にかけられ、紫苑の体を殺そうとしていた。


 僕は、その海斗の背中にカッターナイフを突き立てていた。

 どれぐらいの力を加えたのかわからない。

 だが、それは感触だけでも、柄の半ばまで埋まっている。


 僕が力なくだらりと手を下ろすと、海斗の

 僕の体はゆっくりと横に倒れた。


 指を伝う。

 痺れるような温もり。


 ぬるぬるしていて、キモチガワルイ。

 鉄の、匂いがする。


 殺したの、だろうか。


 薄れていく両手の感覚。

 倒れた僕の体。


 それは助けたのか、助かったのかわからない。

 でも確かにいえることはたった一つ。

 それは僕の手に滴る、赤い血液。


 僕は、僕を殺そうとした。


 何がショックなのか分からなかった。

 何を考えればいいのか分からなかった。

 何を知ればいいのか分からなかった。


 考えることも出来ず、僕は乱れた呼吸を抑えようとした。


 何度深呼吸しても、荒い呼吸は止まらない。

 乾いた肌には、汗一つかいていない。

 なのに、頬だけが濡れている。


 泣いているのだろうか。

 何で泣いているのか、僕には分からなかった。


 僕には理解できない。


 玄関のドアを乱暴に叩く音が、頭の中を回っていた。




 終番◇



 観槻貴矢は死んだ。


 カッターナイフは肺までを貫通し、気絶させた後肺から流れ込んだ血が食堂を塞ぎ

 窒息死した。


 死んだ。

 その事実は、僕にとってはとっくに受け入れたはずのことだった。

 僕が墜ちた、あの日から。


 僕は海斗が生きていることが羨ましくて、未練がましく生きているふりをしていたのだと思う。

 でも、僕が羨ましがる体はもうない。


 風が気持ち良い。


 絹のように滑らかな髪は風にさらわれ、隙間を縫う風に肌を撫でられる。

 ロングスカートが風でばたばたと激しい音を奏でる。

 手を当てて髪を押さえる。風の音が妙に煩く感じたからだ。


 僕は、紫苑の体から出られなかった。

 助けたはずなのに、紫苑の姿はどこにもない。


 あの後、アパートの隣室の人が入ってきて警察と救急車を呼んだ。

 僕、観槻紫苑は警察に保護され。

 観槻貴矢の体をもった鰐島海斗は病院に運ばれた。


 僕は警察で事情聴取の最中に、僕の死亡通知を聞いた。


 僕は嘘を交えずに、真実を語らずに喋った。


『襲われそうになったので、必死で抵抗した』


 細かいところを聞かれると、覚えていないとか気が動転していたとか

 嘘ではない本当のことを言った。


 両親が迎えに来て、僕は一時釈放となった。

 着替えて、気分を落ち着けたいと願って僕はここへ来ていた。


 始まりの場所へ。


 僕が堕ちた、あの場所へ。


 フェンスの外側。

 僕はフェンスに寄りかかって、空を見上げた。


 何でここにきたのかは分からない。

 気分を落ち着けたかったのは本当だ。

 警察に聞かれたことすら覚えていない。


 結果的に紫苑を助けることは出来た。


 警察の話では、過剰防衛に当たるかもしれないが正当防衛とみなされているらしい。

 精神鑑定の必要もないとされ、極めて普通の状態とされた。


 そんなはずはない、僕は僕を殺したのだ。


 それが理解できていないで、そのほかのことも分かっていない。


 僕は一歩踏み出す。


 自殺する勇気なんてない。

 せっかく助けた紫苑の体を、そんな風にすることは出来ない。


 何で僕は紫苑になってしまったのだろうと、ふと思った。


 また一歩


 その時、背中を押された。

 後ろには誰も居ない。


 紫苑の体が倒れる。

 その下にはない。


 その下には、何もない。

 墜ちていく体を止めるすべも知らず、僕は声を上げることも忘れそこを見上げた。


 この風の中、髪すら靡かせずに彼女はそこに居た。


 助けたはずの、紫苑がいた。


「兄さん」


 呟く




「その体は私のものだから、返してください」



  ――・了。


人の体を乗っ取ってはいけません。恨みを買います。例え、それが善意であっても。

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― 新着の感想 ―
[一言] かなり良かったです。表現がうまくて、私も見習いたいです。話もなかなか面白かったです。これからも期待してます。
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