私を魔女として処刑するそうですが、悪魔と契約したのはあなたでしょう
「リディア・フェルネ。お前との婚約を破棄する」
私の婚約者は、火刑台の下でそう言った。
台の周囲には、薪が積まれている。
両手を柱に縛られた私を、広場に集まった人々が見上げていた。
「領民を呪った女を、公爵家に迎えるわけにはいかない」
オスカー・ベルゼは、よく通る声で続けた。
「私が守るべき人々を、お前は金のために苦しめた。病を治せると言って、患者へ近づき、呪いを植えつけたのだ」
「違います!」
群衆の中から、女の声がした。
「うちの子が倒れたのは、その方が来る前です!」
兵が女を押し戻した。
その足元に、毛布で包まれた小さな体が見えた。
ローラだ。
昨日、私が手首に白い糸を結んだ子供。
「病で混乱している者を下がらせろ」
オスカーが命じた。
兵は、女の前で槍を横にした。
私は縄を引いた。
昨夜も何度か試したので、手首はすでに擦り切れている。
「あの子は、あなたが連れてこいと命じたのでしょう」
「被害者の前で、自分の罪を認める機会を与えている」
彼は私を見ず、隣の司祭へうなずいた。
司祭が、火鉢から松明を取る。
「待ちなさい」
広場の入口で、馬車の扉が開いた。
灰色の外套を着た老女が降りてくる。
胸には、神殿の監察官を示す銀の輪があった。
シスター・ベラ。
私が三日前に使いを出した相手だ。
松明を持つ司祭の腕が止まった。
「監察官殿。本日の巡察は、礼拝堂からと伺って――」
「あなたの兵が火刑の準備をしていると、使いが街道まで知らせに来ました。何をしているのです」
オスカーが、一歩進み出た。
「領民を救うためです。この女が――」
「審理の記録は」
「証拠は、司祭が確認しております」
「記録を出してください」
彼は司祭を見た。
司祭は松明を持ったまま、立っていた。
神殿の巡察日は、ひと月前から決まっていた。
私を拘束したオスカーは、到着までに火をつければ済むと思ったのだろう。
広場を囲む兵も、薪も、すべて彼の領兵が用意したものだった。
「この領地を預かっているのは私です」
「魔女の処刑を、領主代行だけで決める権限はありません。兵を下げなさい」
ベラの後ろで、神殿の護衛が広場に入った。
領兵たちは、オスカーと銀の輪を見比べた。
ベラは司祭から松明を取り上げ、石畳に押しつけた。
焦げた匂いがした。
「フェルネ家のリディアですね。使いは届いています。呪いの調査中だと」
「はい。あの子を、先に診てください」
私はローラのほうを向いた。
ベラが合図をすると、槍が下がった。
母親は子供を抱えたまま、火刑台の下へ走ってきた。
「あなたを治せると、この女に言われたのか?」
オスカーが母親へ尋ねた。
「それが手口だ。皆も見ただろう。患者には同じ印が――」
「ローラの糸は、ほどかないでください」
私が言うと、ベラは子供の手首を取った。
白い糸の結び目を見て、私へ顔を向ける。
「留め結び。あなたが?」
「昨日です。移す先までは追えませんでした。吸い口だけを止めました」
母親が、ローラの髪を撫でた。
「昨日は少し、スープを飲めたんです。でも、糸を外せば呪いが解けると、兵の方が……」
「外してはいけません」
ベラは母親の手を糸から離した。
それから火刑台へ上がり、私の縄を護衛に切らせた。
「私は立ち会います。続きをできますか」
縄が外れた。
腕を下ろしたとたん、肩に痛みが走る。
「銀針を使わせてください。左の靴の中に一本、残っています」
兵に道具袋は取り上げられていた。
ただ、靴の裏革に縫いつけた細い針までは見つからなかった。
祓魔師の旅支度を教えたのは、母だった。
『袋を落としても、針だけは残るようにしておきなさい』
私は靴を脱ぎ、踵の縫い目から針を抜いた。
◆
ベルゼ領へ来たのは、五日前だった。
婚約した公爵家の跡取りが、病に倒れた父に代わって領地を預かっている。
その領地で原因不明の衰弱が広がっていると聞き、診察を申し出たのだ。
私の家は、代々祓魔師を出している。
父は北の神殿で長期の仕事に就いていて、今回の調査は資格を持つ私が引き受けた。
婚約相手の領地なら、話も通しやすいと思っていた。
オスカーは歓迎した。
『頼りにしている。必要なものは司祭に言えばいい』
『巡察で診察のことを聞かれるだろう。司祭と一緒に報告してくれ』
後に彼は、診察を断って監察官に怪しまれるより、婚約者に異常なしと報告させるほうがよいと思った、と供述した。
私が診察に出ようとするたび、司祭は別の予定を入れようとした。私はそれを断り、患者の家を一軒ずつ訪ねた。
着いた日、農夫の爪を調べた。
翌日には、鉱夫と料理人の息を聞いた。
三人とも職場も食事も違うのに、体から同じものが抜かれていた。
魔力ではない。
もっと深いところにある、生きるための力だった。
夜、患者が眠ると、踵から影が伸びた。
灯りを動かしても、その影だけは同じ方向へ伸びる。
私は影の向かう方角と、患者の名を書き留めた。
司祭に話すと、疲れから来る妄想だと言われた。
翌朝、神殿の監察官へ独立した調査を求める使いを出した。
昨日、ローラの影を銀針ですくった。
白い糸に結び留めると、衰弱はいったん止まった。
母親は私の両手を握って泣いた。
夕方、オスカーの領兵が来た。
持ち込んだ針と糸は呪いの道具だとされ、私は拘束された。
道具袋を押収され、調査手帳も取られた。
ローラの母親は、その夜、同じ村の若者を街道へ走らせたという。巡察の一行が泊まる宿まで、火刑の準備を知らせに行ってくれた。
手帳の中には、患者の名と影の方角しかない。
誰が寿命を奪っているかは、まだ突き止めていなかった。
◆
私はローラの手首の糸に、銀針を通した。
「少し熱くなるけど、動かないでね」
ローラは、薄く目を開けた。
「痛い?」
「痛かったら、止める」
母親が、子供の背中を支え直した。
私は糸の結び目に息を吹きかけた。
細い黒い筋が、白い糸の内側に浮かぶ。
群衆がざわめいた。
オスカーが声を張る。
「見ろ! やはり呪いを――」
「黙っていてください」
ベラが言った。
私から目を離さず、祈りの言葉を重ねる。
私は銀針を押し進めた。
筋の端がほどけ、ローラの足元へ逃げようとする。
針先で捕まえると、黒い糸のように長く伸びた。
子供の胸が、一度大きく上下した。
「お母さん」
さっきより、はっきりした声だった。
母親が何度も頷いた。
黒い筋を、ベラが取り出した銀皿に移す。
私が針を離すと、筋は皿の縁へ頭を持ち上げた。
礼拝堂のほうを向いている。
「溜め器があります。あそこに」
ベラは広場の西を見た。
公爵家が建てた礼拝堂。
半年前、オスカーが私の案内を断った場所だ。
『老朽化している。修繕が終わるまでは入れない』
今も扉には、立入禁止の札がある。
銀皿の中の筋が、壁をこする。
祓魔師の講義で、同じものを見たことがあった。
借りた力の代償を、他人から取り立てる呪い。
私はオスカーを見た。
彼はもう、私を見ていなかった。
「礼拝堂を封鎖しろ」
領兵へ命じる。
「あの女を近づけるな。穢される!」
「監察の対象です」
ベラが進み出た。
「領兵はここに留まりなさい。司祭もです」
オスカーは答えず、近くの兵から剣を奪い取った。
礼拝堂へ走る。
私は銀皿を母親に渡した。
「シスターの護衛のそばにいてください。皿は傾けないで」
ベラと護衛が走り出す。
私も後を追った。
礼拝堂の扉は、内側から閉じられた。
「裏口があります」
私は息を切らしながら、外壁を回った。
「修繕前、食事を運ぶのに使っていました」
幼いころ、この領地を母と訪れたことがある。
療養者に食事を配り、礼拝堂の裏で空の鍋を洗った。
母が帰り支度をする間、私は扉の横で待っていた。
その扉の隙間から、黒いものが出てきた。
犬ほどの大きさで、足が六本ある。
頭に目はなく、口だけが縦に開いていた。
「影喰い!」
ベラの護衛が剣を抜いた。
刃が影喰いの背に食い込む。
手応えがないまま抜け、黒い体が護衛の足首へ絡みついた。
「引いてください。切ると散ります!」
私は扉の横にかがみ、石に銀針を当てた。
礼拝堂の古い結界線が、苔の下に残っていた。
針で苔を削る。
影喰いが向きを変えた。
護衛が私の前へ盾を出す。
黒い口が盾を押し、鉄の表面がひしゃげた。
針を握る指が滑った。
火刑台の縄で傷ついた手首から、血が流れている。
「あと少し!」
私は袖で石を拭き、途切れた線をつないだ。
「シスター、火を」
ベラの祈りに、壁の線が白く光った。
影喰いが盾から離れる。
六本の足をばらばらに動かし、扉の敷居を越えた。
光に挟まれた体が、薄い板のようになる。
「押さえてください!」
私が針を敷居へ刺すと、護衛が盾を倒した。
黒い影が、結界線と盾の間に閉じ込められる。
甲高い鳴き声が止まった。
私は針を抜けなかった。
抜けば、また動く。
ベラが、その上から自分の銀の輪を置いた。
「行きなさい。ここは私が」
私は手を離し、護衛と扉を押した。
裏口は鍵が壊れたまま、棒を渡して塞いであった。
護衛が体重をかけると、棒を留めた金具が石壁から外れた。
◆
礼拝堂の中は、暗かった。
天窓が板で塞がれている。
長椅子は片側へ積まれ、祭壇の前に小さな鉄の箱が置かれていた。
オスカーが、箱へ剣を振り上げる。
「やめて!」
私は彼に体当たりした。
剣が祭壇の縁を削る。
肩から床へ落ち、息が詰まった。
護衛がオスカーの腕を取った。
「これは領主の財産だ!」
彼は叫んだ。
「壊して何が悪い!」
鉄の箱が、こつ、と鳴った。
誰かが内側からたたいたような音だった。
私は這って箱へ近づいた。
蓋の隙間から、白い光が細く漏れている。
ローラから抜いた筋と同じ匂いがした。
「これを壊したら、戻せなくなる」
私は箱へ手を置いた。
留め金には、破損したときに中身を貸し手へ送る印があった。器ごと壊せば、溜まった力は悪魔へ流れる。
「まだ、みんなの中へ戻せるのに」
オスカーは箱へ目を向けた。
「支払いを済ませるだけだ。どうせ明日には渡すものだろう」
私は箱を抱え込んだ。
オスカーは護衛の腕を振りほどこうとした。
「その女の言葉を信じるのか。魔女だぞ!」
護衛は剣を取り上げ、彼を祭壇から離した。
私は床に落ちた燭台を拾った。
残っていた蝋燭に火をつけてもらい、箱の留め金を照らす。
ベルゼ家の紋章の下に、オスカーの名が刻まれていた。
四十三年。支払いは明日の夜。
蓋の隙間をのぞくと、溜められた力から伸びる筋が、外へ続いている。まだ患者につながっていた。
外周の文字を指でたどる。
名前と代理印で力を吸い上げ、期限に渡す仕組みだ。領民が知らずに衰弱した理由も分かった。
ただ、印に不備があれば、期限前に本人や保護者、救護に入った神殿が返還を申し立てられる。
その一行を爪で押さえ、息を吐いた。
間に合った。
祭壇に手をつき、立ち上がろうとした。
肩が痛んで、途中で座り直す。
ベラが入ってきた。
胸の銀の輪は、少し黒くなっている。
「外のものは封じました。広場にいた司祭と領兵の指揮官も、神殿の護衛が拘束しています」
私は箱を示した。
ベラが蝋燭を近づけ、文字を読む。
「契約者の名がある。公爵ではなく、あなた自身の名ですね」
オスカーは、唇を噛んでいた。
「父上の印章を預かっている。領地のことは、私が決められる」
「代理の印で足りると、司祭に確かめた。領主が豊作を願うのに、いちいち百人以上の許しを取る必要はないと!」
ベラは箱の文字と、公爵家の印を見比べた。
「税や土地の管理に使う印を、本人の承諾の代わりにしたのですね」
オスカーはうなずきかけた。
「人の寿命まで?」
ベラが尋ねると、彼は視線をそらした。
私は箱の下に、折り畳まれた紙を見つけた。
神殿の書式を真似た、領民名簿だった。
名前の横に、指印を入れる欄がある。
どの欄にも、ベルゼ家の印が押されていた。
息が、喉で引っかかった。
領民の名は、祈りのために司祭が集めたものだ。
患者から聞いていた。豊穣祭で、家族全員の名前を奉納したという。
「この名簿を使ったのね」
オスカーは私をにらんだ。
「その豊作で、領民だって助かった。鉱山には仕事が増えた。何も返さず、恩恵だけ受け取れると思うほうがおかしい」
私は名簿を閉じた。
ローラの名も、そこにあった。
「寿命を渡すと、説明しましたか」
「領地全体の利益だ」
「説明したのですか」
彼は答えず、私の手にある名簿へ目を走らせた。
「封を解くな。契約を壊せば、何が起きるか分からない」
封に触れないよう、蝋燭を蓋の外周へ回した。中身を送る印を壊してしまえば、今度こそ取り戻せない。
「返還した分の不足は――」
ベラが、私の見ている場所へ蝋燭を近づけた。
「契約者が補う、とありますね」
オスカーは黙った。
私は箱から伸びる黒い筋へ、針を近づけた。
隣の筋が縮み、名簿の別の名前が明るくなる。針を引くと、元に戻った。
「一人分を外すと、残った人へ負担を移す仕掛けがあります」
私は針を下ろした。ローラの体で吸い口を留めるだけなら、こんな反応は出なかった。銀皿に移しても残っている、器とのつながり。それを切ると、ほかの患者へ負担が移る。
「箱を封じるだけでは、返せません。悪魔を呼んで、移し替えを止めさせます」
護衛が、ベラを見た。
「検分のための召喚を許可します。私が立ち会います」
悪魔との取り引きは禁じられているが、既存の契約を調べる召喚なら、監察官の許可で行える。
私は外周にある呼び出し印と、その横の条項を示した。
「返還の間は、貸し手が移し替えを止める。この約束を破れば、本人から取る印も失効します」
「なら、断ればあれも取り損ねる」
ベラが、呼び出し印から先の線を確かめた。
貸し手が勝手に支払時刻や方法を変えた場合も、同じ印を失う。
ベラは、祭壇を見た。
「囲いを作ります。準備ができるまで触らないように」
◆
外では、監察官に同行していた神殿の助祭が患者を診ていた。
ローラの母親に渡した銀皿も、助祭が引き取って封を施した。
ベラは護衛を広場へ戻し、礼拝堂の入口から人々を下がらせた。
押収した道具袋と調査手帳は、領兵から回収された。
袋を受け取り、中を確かめる。
針が七本、糸が三巻。
母から譲られた小さな銀鋏も、入っていた。
私は鋏を握り、手首の傷に当たらないよう持ち直した。
ベラと一緒に、祭壇の周囲へ囲いを描いた。
ここはかつて、病人のために祈りを捧げていた場所だ。
オスカーが塗り潰した結界の溝を、護衛たちが削り出す。
私はその溝に銀糸を通した。
窓を塞ぐ板を外すと、外の人々がこちらをのぞいた。護衛が戸口に立ち、中には入らないよう呼びかける。
準備が終わるころには、外に人垣ができていた。
「リディア」
オスカーが私を呼んだ。
祭壇から離れた柱に、両手を縛られている。
「二人で話そう。金なら出す」
私は糸の結び目を押さえた。
「黙っていてください。今、間違えると危ないので」
ベラが最後の溝を確かめ、うなずいた。
私は箱の呼び出し印へ針を当てた。
「契約者オスカー・ベルゼに力を貸した者。対価を受け取る者。ここへ来なさい」
火が一斉に青くなった。
箱の後ろに、黒い足が現れた。
靴ではない。
蹄だった。
長い上着を着た、背の高いものが祭壇に腰かける。
頭の左右に、羊のような角が曲がっていた。
「支払期限は明日のはずだが」
悪魔は、オスカーを見た。
同時に、オスカーの胸元が赤く光った。上着の下に、箱と同じ形の契約印が透けて見える。
「早く済ませたいのか?」
「違う!」
オスカーは首を振った。
「この女が勝手に呼んだ。私は知らない!」
悪魔が、ようやく私を見た。
それから床の囲いを見る。
「祓魔師か。面倒なところへ呼んだな」
蹄の先で、銀糸を踏んだ。
青い火花が散る。
私の針を握る手に、鋭い痛みが走った。
結び目が一つ、ほどけかける。
ベラが祈りを重ねた。
「第三者の寿命を集めていますね」
私は箱を指した。
「本人の承諾がありません。返してください」
「私は、そこの男から対価を受け取る。どこで集めるかまで面倒は見ない」
悪魔は、オスカーへ顎を向けた。
「豊作。鉱脈への道。政敵の醜聞。よく願ったものだ。四十三年で済ませてやったのに」
窓の外で、声が上がった。
「公爵様の鉱山……」
「あの豊穣祭からだ。うちの父さんが倒れたのは」
オスカーが柱へ背中を押しつけた。
「契約などしていない。その女が、お前を使って私を陥れようとしている!」
悪魔が笑った。
「しらを切るなら、次の願いは聞かんぞ。お前は若さを保ったまま、百年生きたいとも言っていたな」
「黙れ!」
オスカーが怒鳴った。
悪魔の笑いが止まる。
「借りたものを忘れたと言うのか?」
祭壇から身を乗り出した悪魔が、彼へ手を伸ばした。
銀糸のところで、黒い指が止まる。
私は箱を両手で押さえた。
「この人たちの力を受け取る権利はありません。取り立てるなら、契約者から」
悪魔の目が、箱の留め金に落ちた。
「不足は契約者が補う。そういう約束だ」
オスカーが、柱に縛られた腕を引いた。
「不足などない! 領民は私に従う。私が領地を預かっているんだ!」
ベラが名簿を掲げた。
「この百三十七人が、あなたに自分の寿命を差し出したのですか。印を押した本人を、ここへ呼べますか」
戸口で、ローラの母親が叫んだ。
「渡していません! 祈ってもらうために名前を書いただけです!」
助祭が、ほかの患者からも確認を取っていた。
首を振る人。声を上げる人。
領兵の槍は、もう彼らへ向けられていなかった。
名簿にあるのは、百三十七の代理印だけだった。寿命を差し出すことを承諾した本人の指印はない。
助祭は患者と家族の異議を記録し、ベラは名簿を箱へかざした。代理の権限を証明する欄が、どの名前の下でも空白のままだった。
私は箱から伸びる筋へ、銀鋏を当てた。刃を閉じる前に、移し替えを止めさせなければならない。
悪魔が箱へ手を伸ばした。
「その力は、すでに私の器にある」
私は鋏を止めた。
「受け取るのは明日の夜。あなたが決めた時刻です」
鋏を箱の上へ置き、失効の条項へ針先を当てた。もう片方の手で箱を引き寄せる。
オスカーの名を囲む契約印が、一瞬暗くなった。
「本人から取る印まで失います。それでも、今受け取りますか」
悪魔は、しばらく私を見ていた。
やがて、手を引いた。
「なら、全部返せ。そこの男から、まとめて取る」
「返還中の移し替えは止める。これも契約にあります。履行してください」
悪魔は眉をひそめ、箱を蹄でたたいた。
名簿につながる筋の根元に、青い環が浮かぶ。
「止めた。間違えて切るなよ。こいつに請求できる分を減らすな」
私は一つの筋へ針を近づけた。今度は、隣の名前に反応が出なかった。
オスカーの口が開いた。
「待て。待ってくれ。まだ明日まであるだろう!」
「明日までに、自分の四十三年を用意すればいい」
悪魔が、祭壇から降りた。
囲いの内側を歩き、柱に縛られたオスカーを眺める。
「もっとも、その印は消さん。支払うまではな」
オスカーは上着を胸元でかき合わせた。赤い光は布を透かしている。
召喚に呼応して浮かぶこの印を、講義では何度も確かめた。箱の印と同じ形だった。
ベラが箱と胸の印を、順に確かめた。
「器を壊しても、あなた自身の支払い義務は残ります。こちらの印に結ばれていますから」
オスカーは自分の胸を見下ろした。
背を柱へ押しつけても、赤い光は消えなかった。
ベラは印を見届け、助祭に記録させた。
「本人が払うなら、肉体の時間が四十三年進む。そういう支払いですね」
悪魔は、箱を指した。
「契約どおりだ。返しはせん」
◆
銀鋏を取り上げ、外側の筋を一本切った。
箱が鳴った。
白い光が留め金の隙間から流れた。
窓を抜け、戸口を通り、広場へ向かう。
外で、誰かが泣いた。
「立てる……」
次の筋を切る。
鋏を動かすたび、戻るべき人の名を確かめた。
銀皿に封じたローラの筋も、助祭が箱の前へ運んできた。
私は箱から伸びる同じ筋を見つけ、銀皿の封と一緒に解いた。
白い光が、母親に抱かれた子供へ戻る。
ローラが母親の袖をつかんだ。
「もう、眠くない」
母親がしゃがみ込んだ。
子供を抱えたまま、顔を伏せる。
私の手首も、ずきずき痛んでいた。
ベラが包帯を巻いた。
「代わりましょうか」
「あと十九人です。結び方が分かったので、続けます」
名前を確かめる声が、かすれた。
助祭が読み上げてくれるようになった。
百三十七人。
最後の一人へ光を返すと、箱は静かになった。
私は鋏を床に置いた。
手から離すだけなのに、うまく指が開かなかった。
「返しました」
悪魔に言うと、角のある頭が少し傾いた。
「見ていた」
箱の文字から、領民の名が消えた。
残ったのは、契約者の名と、四十三年という数字だった。
筋の根元にあった青い環も消えた。百三十七本、すべて切れている。
空の箱の向こうで、オスカーの胸だけが赤く光っていた。
ベラが箱を封じ直した。
助祭が条文と本人の印を写し取り、証拠の封を確かめた。
「期限まで、オスカー・ベルゼを神殿の監視下に置きます。ほかの者を巻き込ませません」
悪魔は、もう私たちに興味をなくしていた。
「構わん。払うものさえあれば」
ベラが呼び出しの印を閉じた。
悪魔の姿が消え、蝋燭の火が元の色に戻った。私たちは囲いを残し、箱をその内側で保管した。
オスカーが私の名を呼んだ。
「リディア」
私は鋏を拾い、袋へしまった。
「聞いてくれ。お前なら、代わりを用意できるだろう」
袋の口を結ぶ手が止まった。
「まだ病院には、先の長くない者がいる。全員から少しずつなら――」
ベラが彼の前へ進んだ。
「それ以上言うなら、口を塞ぎます」
オスカーは私を見ていた。
縄をほどこうとして赤くなった手で、必死にこちらへ手を伸ばす。
「私は公爵家を継ぐんだ。これから領地を立て直す。四十三年も取られたら、何もできなくなる」
私は、彼の手の届かないところで立った。
「ローラは八歳です」
「だから、子供から取れとは言っていない!」
「あの名簿に、あなたが入れたのです」
外で、ローラの母親が子供に靴を履かせていた。
脱げないよう、紐を結び直している。
「私を燃やせば、調べる人間がいなくなると思ったのですか」
オスカーは口を開き、閉じた。
「お前が、余計なことをしなければ」
声が震えていた。
「豊作は、何事もなく続いたんだ」
私は袋を肩にかけた。
傷に触れないよう、反対側へ掛け直す。
「そう。私が死ねば、あなたは困らなかったのですね」
彼の顔から、縋るような表情が消えた。
私はベラに頭を下げ、礼拝堂を出た。
背後から、何度も名前を呼ばれた。
◆
翌日の夜、オスカーの対価は徴収された。
私は立ち会った。
契約者本人以外へ呪いが流れないことを、最後まで確認する必要があった。
箱の封を、ベラと二人で検査した。
オスカーの手首には、神殿の拘束輪がある。
王都から来る調査官を待つ間も、逃げることはできなかった。
期限の鐘が鳴った。
彼は椅子の肘掛けをつかんだ。
「待て」
髪の色が抜けた。
肩が落ち、上着が急に大きく見えた。
肘掛けを握る指が細くなり、節だけが浮き上がる。
顔を上げようとして、彼は途中で息をついた。
二十七歳だった男が、七十歳の体になっていた。
「戻せ」
声も変わっていた。
「リディア、戻してくれ」
私は箱の文字を確かめた。
数字は消えている。
対価は、払い終わった。
「人の年を盗み直す方法しかありません」
彼は顔を上げた。
私が続きを言うのを待った。
「私はしません」
オスカーの手が、肘掛けから落ちた。
◆
悪魔との契約と、領民への加害、私を審理なしで殺そうとした企てについて、王都の裁判所が調べた。
箱、名簿、胸に浮かんだ契約印の記録、押収された私の手帳。
ベラと助祭、護衛、患者たちが証言した。
司祭は、オスカーの命令で名簿を用意し、患者を私のせいにしたと認めた。
役職を解かれ、オスカーとともに裁かれた。
オスカーは、公爵家の継承資格を失った。
領主代行の権限も取り上げられ、長期の服役が命じられた。
彼自身の財産は、被害者への補償に充てられた。
病床にいた公爵は、王国から派遣された監督官に領地の管理を預けた。
跡取りは、別の親族から選び直されることになった。
悪魔が示した鉱脈は、実際に掘り当てられたものだった。
収穫した麦も消えなかった。
その利益で、領地は患者の療養と生活の立て直しを支えた。
魔法で衰弱が止まっても、寝たきりで弱った足腰までは、すぐに戻らない。
ローラも、初めは母親と庭を一周するだけで疲れていた。
私は神殿の診療所に残り、呪いが戻らないか見届けた。
ある日、老いたオスカーを乗せた護送車が広場を通った。
診療所の窓から、私も見た。
彼は鉄格子に手をかけ、外をうかがっていた。
豊穣祭で彼に花を渡した人々が、道の両側に立っている。
「呪ったのは、お前だったのか」
誰かが言った。
オスカーは何か言おうとした。
車輪が石畳を鳴らし、声は聞こえなかった。
人々は道を開けた。誰も花を投げなかった。
私は窓を閉じた。
机の上では、ローラが白い糸を指に巻いていた。
「これ、持って帰っていい?」
「新しいのをあげる。使った糸は、焼かないといけないから」
私は袋から糸を出し、短く切った。
ローラはそれを母親に見せに行く。
手首の傷は、まだ少し突っ張った。
袖を下ろし、次の患者の名前を呼んだ。
~完~
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