↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

私を魔女として処刑するそうですが、悪魔と契約したのはあなたでしょう

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/15

「リディア・フェルネ。お前との婚約を破棄する」


 私の婚約者は、火刑台の下でそう言った。

 台の周囲には、薪が積まれている。

 両手を柱に縛られた私を、広場に集まった人々が見上げていた。


「領民を呪った女を、公爵家に迎えるわけにはいかない」


 オスカー・ベルゼは、よく通る声で続けた。


「私が守るべき人々を、お前は金のために苦しめた。病を治せると言って、患者へ近づき、呪いを植えつけたのだ」


「違います!」


 群衆の中から、女の声がした。


「うちの子が倒れたのは、その方が来る前です!」


 兵が女を押し戻した。

 その足元に、毛布で包まれた小さな体が見えた。


 ローラだ。

 昨日、私が手首に白い糸を結んだ子供。


「病で混乱している者を下がらせろ」


 オスカーが命じた。

 兵は、女の前で槍を横にした。


 私は縄を引いた。

 昨夜も何度か試したので、手首はすでに擦り切れている。


「あの子は、あなたが連れてこいと命じたのでしょう」

「被害者の前で、自分の罪を認める機会を与えている」


 彼は私を見ず、隣の司祭へうなずいた。

 司祭が、火鉢から松明を取る。


「待ちなさい」


 広場の入口で、馬車の扉が開いた。

 灰色の外套を着た老女が降りてくる。

 胸には、神殿の監察官を示す銀の輪があった。


 シスター・ベラ。

 私が三日前に使いを出した相手だ。


 松明を持つ司祭の腕が止まった。


「監察官殿。本日の巡察は、礼拝堂からと伺って――」

「あなたの兵が火刑の準備をしていると、使いが街道まで知らせに来ました。何をしているのです」


 オスカーが、一歩進み出た。


「領民を救うためです。この女が――」

「審理の記録は」

「証拠は、司祭が確認しております」

「記録を出してください」


 彼は司祭を見た。

 司祭は松明を持ったまま、立っていた。


 神殿の巡察日は、ひと月前から決まっていた。

 私を拘束したオスカーは、到着までに火をつければ済むと思ったのだろう。

 広場を囲む兵も、薪も、すべて彼の領兵が用意したものだった。


「この領地を預かっているのは私です」

「魔女の処刑を、領主代行だけで決める権限はありません。兵を下げなさい」


 ベラの後ろで、神殿の護衛が広場に入った。

 領兵たちは、オスカーと銀の輪を見比べた。


 ベラは司祭から松明を取り上げ、石畳に押しつけた。

 焦げた匂いがした。


「フェルネ家のリディアですね。使いは届いています。呪いの調査中だと」

「はい。あの子を、先に診てください」


 私はローラのほうを向いた。

 ベラが合図をすると、槍が下がった。

 母親は子供を抱えたまま、火刑台の下へ走ってきた。


「あなたを治せると、この女に言われたのか?」


 オスカーが母親へ尋ねた。


「それが手口だ。皆も見ただろう。患者には同じ印が――」

「ローラの糸は、ほどかないでください」


 私が言うと、ベラは子供の手首を取った。

 白い糸の結び目を見て、私へ顔を向ける。


「留め結び。あなたが?」

「昨日です。移す先までは追えませんでした。吸い口だけを止めました」


 母親が、ローラの髪を撫でた。


「昨日は少し、スープを飲めたんです。でも、糸を外せば呪いが解けると、兵の方が……」

「外してはいけません」


 ベラは母親の手を糸から離した。

 それから火刑台へ上がり、私の縄を護衛に切らせた。


「私は立ち会います。続きをできますか」


 縄が外れた。

 腕を下ろしたとたん、肩に痛みが走る。


「銀針を使わせてください。左の靴の中に一本、残っています」


 兵に道具袋は取り上げられていた。

 ただ、靴の裏革に縫いつけた細い針までは見つからなかった。

 祓魔師の旅支度を教えたのは、母だった。


『袋を落としても、針だけは残るようにしておきなさい』


 私は靴を脱ぎ、踵の縫い目から針を抜いた。


     ◆


 ベルゼ領へ来たのは、五日前だった。

 婚約した公爵家の跡取りが、病に倒れた父に代わって領地を預かっている。

 その領地で原因不明の衰弱が広がっていると聞き、診察を申し出たのだ。


 私の家は、代々祓魔師を出している。

 父は北の神殿で長期の仕事に就いていて、今回の調査は資格を持つ私が引き受けた。

 婚約相手の領地なら、話も通しやすいと思っていた。


 オスカーは歓迎した。


『頼りにしている。必要なものは司祭に言えばいい』


『巡察で診察のことを聞かれるだろう。司祭と一緒に報告してくれ』


 後に彼は、診察を断って監察官に怪しまれるより、婚約者に異常なしと報告させるほうがよいと思った、と供述した。

 私が診察に出ようとするたび、司祭は別の予定を入れようとした。私はそれを断り、患者の家を一軒ずつ訪ねた。


 着いた日、農夫の爪を調べた。

 翌日には、鉱夫と料理人の息を聞いた。

 三人とも職場も食事も違うのに、体から同じものが抜かれていた。


 魔力ではない。

 もっと深いところにある、生きるための力だった。


 夜、患者が眠ると、踵から影が伸びた。

 灯りを動かしても、その影だけは同じ方向へ伸びる。


 私は影の向かう方角と、患者の名を書き留めた。

 司祭に話すと、疲れから来る妄想だと言われた。

 翌朝、神殿の監察官へ独立した調査を求める使いを出した。


 昨日、ローラの影を銀針ですくった。

 白い糸に結び留めると、衰弱はいったん止まった。

 母親は私の両手を握って泣いた。


 夕方、オスカーの領兵が来た。

 持ち込んだ針と糸は呪いの道具だとされ、私は拘束された。

 道具袋を押収され、調査手帳も取られた。


 ローラの母親は、その夜、同じ村の若者を街道へ走らせたという。巡察の一行が泊まる宿まで、火刑の準備を知らせに行ってくれた。


 手帳の中には、患者の名と影の方角しかない。

 誰が寿命を奪っているかは、まだ突き止めていなかった。


     ◆


 私はローラの手首の糸に、銀針を通した。


「少し熱くなるけど、動かないでね」


 ローラは、薄く目を開けた。


「痛い?」

「痛かったら、止める」


 母親が、子供の背中を支え直した。


 私は糸の結び目に息を吹きかけた。

 細い黒い筋が、白い糸の内側に浮かぶ。


 群衆がざわめいた。

 オスカーが声を張る。


「見ろ! やはり呪いを――」

「黙っていてください」


 ベラが言った。

 私から目を離さず、祈りの言葉を重ねる。


 私は銀針を押し進めた。

 筋の端がほどけ、ローラの足元へ逃げようとする。

 針先で捕まえると、黒い糸のように長く伸びた。


 子供の胸が、一度大きく上下した。


「お母さん」


 さっきより、はっきりした声だった。

 母親が何度も頷いた。


 黒い筋を、ベラが取り出した銀皿に移す。

 私が針を離すと、筋は皿の縁へ頭を持ち上げた。


 礼拝堂のほうを向いている。


「溜め器があります。あそこに」


 ベラは広場の西を見た。

 公爵家が建てた礼拝堂。

 半年前、オスカーが私の案内を断った場所だ。


『老朽化している。修繕が終わるまでは入れない』


 今も扉には、立入禁止の札がある。


 銀皿の中の筋が、壁をこする。

 祓魔師の講義で、同じものを見たことがあった。

 借りた力の代償を、他人から取り立てる呪い。


 私はオスカーを見た。

 彼はもう、私を見ていなかった。


「礼拝堂を封鎖しろ」


 領兵へ命じる。


「あの女を近づけるな。穢される!」

「監察の対象です」


 ベラが進み出た。


「領兵はここに留まりなさい。司祭もです」


 オスカーは答えず、近くの兵から剣を奪い取った。

 礼拝堂へ走る。


 私は銀皿を母親に渡した。


「シスターの護衛のそばにいてください。皿は傾けないで」


 ベラと護衛が走り出す。

 私も後を追った。


 礼拝堂の扉は、内側から閉じられた。


「裏口があります」


 私は息を切らしながら、外壁を回った。


「修繕前、食事を運ぶのに使っていました」


 幼いころ、この領地を母と訪れたことがある。

 療養者に食事を配り、礼拝堂の裏で空の鍋を洗った。

 母が帰り支度をする間、私は扉の横で待っていた。


 その扉の隙間から、黒いものが出てきた。

 犬ほどの大きさで、足が六本ある。

 頭に目はなく、口だけが縦に開いていた。


「影喰い!」


 ベラの護衛が剣を抜いた。

 刃が影喰いの背に食い込む。

 手応えがないまま抜け、黒い体が護衛の足首へ絡みついた。


「引いてください。切ると散ります!」


 私は扉の横にかがみ、石に銀針を当てた。

 礼拝堂の古い結界線が、苔の下に残っていた。


 針で苔を削る。

 影喰いが向きを変えた。


 護衛が私の前へ盾を出す。

 黒い口が盾を押し、鉄の表面がひしゃげた。


 針を握る指が滑った。

 火刑台の縄で傷ついた手首から、血が流れている。


「あと少し!」


 私は袖で石を拭き、途切れた線をつないだ。


「シスター、火を」


 ベラの祈りに、壁の線が白く光った。

 影喰いが盾から離れる。

 六本の足をばらばらに動かし、扉の敷居を越えた。


 光に挟まれた体が、薄い板のようになる。


「押さえてください!」


 私が針を敷居へ刺すと、護衛が盾を倒した。

 黒い影が、結界線と盾の間に閉じ込められる。

 甲高い鳴き声が止まった。


 私は針を抜けなかった。

 抜けば、また動く。


 ベラが、その上から自分の銀の輪を置いた。


「行きなさい。ここは私が」


 私は手を離し、護衛と扉を押した。

 裏口は鍵が壊れたまま、棒を渡して塞いであった。

 護衛が体重をかけると、棒を留めた金具が石壁から外れた。


     ◆


 礼拝堂の中は、暗かった。

 天窓が板で塞がれている。

 長椅子は片側へ積まれ、祭壇の前に小さな鉄の箱が置かれていた。


 オスカーが、箱へ剣を振り上げる。


「やめて!」


 私は彼に体当たりした。

 剣が祭壇の縁を削る。

 肩から床へ落ち、息が詰まった。


 護衛がオスカーの腕を取った。


「これは領主の財産だ!」


 彼は叫んだ。


「壊して何が悪い!」


 鉄の箱が、こつ、と鳴った。

 誰かが内側からたたいたような音だった。


 私は這って箱へ近づいた。

 蓋の隙間から、白い光が細く漏れている。

 ローラから抜いた筋と同じ匂いがした。


「これを壊したら、戻せなくなる」


 私は箱へ手を置いた。


 留め金には、破損したときに中身を貸し手へ送る印があった。器ごと壊せば、溜まった力は悪魔へ流れる。


「まだ、みんなの中へ戻せるのに」


 オスカーは箱へ目を向けた。


「支払いを済ませるだけだ。どうせ明日には渡すものだろう」


 私は箱を抱え込んだ。


 オスカーは護衛の腕を振りほどこうとした。


「その女の言葉を信じるのか。魔女だぞ!」


 護衛は剣を取り上げ、彼を祭壇から離した。


 私は床に落ちた燭台を拾った。

 残っていた蝋燭に火をつけてもらい、箱の留め金を照らす。


 ベルゼ家の紋章の下に、オスカーの名が刻まれていた。

 四十三年。支払いは明日の夜。

 蓋の隙間をのぞくと、溜められた力から伸びる筋が、外へ続いている。まだ患者につながっていた。


 外周の文字を指でたどる。

 名前と代理印で力を吸い上げ、期限に渡す仕組みだ。領民が知らずに衰弱した理由も分かった。

 ただ、印に不備があれば、期限前に本人や保護者、救護に入った神殿が返還を申し立てられる。


 その一行を爪で押さえ、息を吐いた。

 間に合った。


 祭壇に手をつき、立ち上がろうとした。

 肩が痛んで、途中で座り直す。


 ベラが入ってきた。

 胸の銀の輪は、少し黒くなっている。


「外のものは封じました。広場にいた司祭と領兵の指揮官も、神殿の護衛が拘束しています」


 私は箱を示した。

 ベラが蝋燭を近づけ、文字を読む。


「契約者の名がある。公爵ではなく、あなた自身の名ですね」


 オスカーは、唇を噛んでいた。


「父上の印章を預かっている。領地のことは、私が決められる」


「代理の印で足りると、司祭に確かめた。領主が豊作を願うのに、いちいち百人以上の許しを取る必要はないと!」


 ベラは箱の文字と、公爵家の印を見比べた。


「税や土地の管理に使う印を、本人の承諾の代わりにしたのですね」


 オスカーはうなずきかけた。


「人の寿命まで?」


 ベラが尋ねると、彼は視線をそらした。


 私は箱の下に、折り畳まれた紙を見つけた。

 神殿の書式を真似た、領民名簿だった。

 名前の横に、指印を入れる欄がある。


 どの欄にも、ベルゼ家の印が押されていた。


 息が、喉で引っかかった。


 領民の名は、祈りのために司祭が集めたものだ。

 患者から聞いていた。豊穣祭で、家族全員の名前を奉納したという。


「この名簿を使ったのね」


 オスカーは私をにらんだ。


「その豊作で、領民だって助かった。鉱山には仕事が増えた。何も返さず、恩恵だけ受け取れると思うほうがおかしい」


 私は名簿を閉じた。

 ローラの名も、そこにあった。


「寿命を渡すと、説明しましたか」

「領地全体の利益だ」

「説明したのですか」


 彼は答えず、私の手にある名簿へ目を走らせた。


「封を解くな。契約を壊せば、何が起きるか分からない」


 封に触れないよう、蝋燭を蓋の外周へ回した。中身を送る印を壊してしまえば、今度こそ取り戻せない。


「返還した分の不足は――」


 ベラが、私の見ている場所へ蝋燭を近づけた。


「契約者が補う、とありますね」


 オスカーは黙った。


 私は箱から伸びる黒い筋へ、針を近づけた。

 隣の筋が縮み、名簿の別の名前が明るくなる。針を引くと、元に戻った。


「一人分を外すと、残った人へ負担を移す仕掛けがあります」


 私は針を下ろした。ローラの体で吸い口を留めるだけなら、こんな反応は出なかった。銀皿に移しても残っている、器とのつながり。それを切ると、ほかの患者へ負担が移る。


「箱を封じるだけでは、返せません。悪魔を呼んで、移し替えを止めさせます」


 護衛が、ベラを見た。


「検分のための召喚を許可します。私が立ち会います」


 悪魔との取り引きは禁じられているが、既存の契約を調べる召喚なら、監察官の許可で行える。

 私は外周にある呼び出し印と、その横の条項を示した。


「返還の間は、貸し手が移し替えを止める。この約束を破れば、本人から取る印も失効します」

「なら、断ればあれも取り損ねる」


 ベラが、呼び出し印から先の線を確かめた。

 貸し手が勝手に支払時刻や方法を変えた場合も、同じ印を失う。


 ベラは、祭壇を見た。


「囲いを作ります。準備ができるまで触らないように」


     ◆


 外では、監察官に同行していた神殿の助祭が患者を診ていた。

 ローラの母親に渡した銀皿も、助祭が引き取って封を施した。


 ベラは護衛を広場へ戻し、礼拝堂の入口から人々を下がらせた。

 押収した道具袋と調査手帳は、領兵から回収された。


 袋を受け取り、中を確かめる。

 針が七本、糸が三巻。

 母から譲られた小さな銀鋏も、入っていた。


 私は鋏を握り、手首の傷に当たらないよう持ち直した。


 ベラと一緒に、祭壇の周囲へ囲いを描いた。

 ここはかつて、病人のために祈りを捧げていた場所だ。

 オスカーが塗り潰した結界の溝を、護衛たちが削り出す。

 私はその溝に銀糸を通した。


 窓を塞ぐ板を外すと、外の人々がこちらをのぞいた。護衛が戸口に立ち、中には入らないよう呼びかける。

 準備が終わるころには、外に人垣ができていた。


「リディア」


 オスカーが私を呼んだ。

 祭壇から離れた柱に、両手を縛られている。


「二人で話そう。金なら出す」


 私は糸の結び目を押さえた。


「黙っていてください。今、間違えると危ないので」


 ベラが最後の溝を確かめ、うなずいた。

 私は箱の呼び出し印へ針を当てた。


「契約者オスカー・ベルゼに力を貸した者。対価を受け取る者。ここへ来なさい」


 火が一斉に青くなった。


 箱の後ろに、黒い足が現れた。

 靴ではない。

 蹄だった。


 長い上着を着た、背の高いものが祭壇に腰かける。

 頭の左右に、羊のような角が曲がっていた。


「支払期限は明日のはずだが」


 悪魔は、オスカーを見た。


 同時に、オスカーの胸元が赤く光った。上着の下に、箱と同じ形の契約印が透けて見える。


「早く済ませたいのか?」

「違う!」


 オスカーは首を振った。


「この女が勝手に呼んだ。私は知らない!」


 悪魔が、ようやく私を見た。

 それから床の囲いを見る。


「祓魔師か。面倒なところへ呼んだな」


 蹄の先で、銀糸を踏んだ。

 青い火花が散る。


 私の針を握る手に、鋭い痛みが走った。

 結び目が一つ、ほどけかける。

 ベラが祈りを重ねた。


「第三者の寿命を集めていますね」


 私は箱を指した。


「本人の承諾がありません。返してください」

「私は、そこの男から対価を受け取る。どこで集めるかまで面倒は見ない」


 悪魔は、オスカーへ顎を向けた。


「豊作。鉱脈への道。政敵の醜聞。よく願ったものだ。四十三年で済ませてやったのに」


 窓の外で、声が上がった。


「公爵様の鉱山……」

「あの豊穣祭からだ。うちの父さんが倒れたのは」


 オスカーが柱へ背中を押しつけた。


「契約などしていない。その女が、お前を使って私を陥れようとしている!」


 悪魔が笑った。


「しらを切るなら、次の願いは聞かんぞ。お前は若さを保ったまま、百年生きたいとも言っていたな」


「黙れ!」


 オスカーが怒鳴った。

 悪魔の笑いが止まる。


「借りたものを忘れたと言うのか?」


 祭壇から身を乗り出した悪魔が、彼へ手を伸ばした。

 銀糸のところで、黒い指が止まる。


 私は箱を両手で押さえた。


「この人たちの力を受け取る権利はありません。取り立てるなら、契約者から」


 悪魔の目が、箱の留め金に落ちた。


「不足は契約者が補う。そういう約束だ」


 オスカーが、柱に縛られた腕を引いた。


「不足などない! 領民は私に従う。私が領地を預かっているんだ!」


 ベラが名簿を掲げた。


「この百三十七人が、あなたに自分の寿命を差し出したのですか。印を押した本人を、ここへ呼べますか」


 戸口で、ローラの母親が叫んだ。


「渡していません! 祈ってもらうために名前を書いただけです!」


 助祭が、ほかの患者からも確認を取っていた。

 首を振る人。声を上げる人。

 領兵の槍は、もう彼らへ向けられていなかった。


 名簿にあるのは、百三十七の代理印だけだった。寿命を差し出すことを承諾した本人の指印はない。

 助祭は患者と家族の異議を記録し、ベラは名簿を箱へかざした。代理の権限を証明する欄が、どの名前の下でも空白のままだった。


 私は箱から伸びる筋へ、銀鋏を当てた。刃を閉じる前に、移し替えを止めさせなければならない。


 悪魔が箱へ手を伸ばした。


「その力は、すでに私の器にある」


 私は鋏を止めた。


「受け取るのは明日の夜。あなたが決めた時刻です」


 鋏を箱の上へ置き、失効の条項へ針先を当てた。もう片方の手で箱を引き寄せる。

 オスカーの名を囲む契約印が、一瞬暗くなった。


「本人から取る印まで失います。それでも、今受け取りますか」


 悪魔は、しばらく私を見ていた。

 やがて、手を引いた。


「なら、全部返せ。そこの男から、まとめて取る」


「返還中の移し替えは止める。これも契約にあります。履行してください」


 悪魔は眉をひそめ、箱を蹄でたたいた。

 名簿につながる筋の根元に、青い環が浮かぶ。


「止めた。間違えて切るなよ。こいつに請求できる分を減らすな」


 私は一つの筋へ針を近づけた。今度は、隣の名前に反応が出なかった。


 オスカーの口が開いた。


「待て。待ってくれ。まだ明日まであるだろう!」

「明日までに、自分の四十三年を用意すればいい」


 悪魔が、祭壇から降りた。

 囲いの内側を歩き、柱に縛られたオスカーを眺める。


「もっとも、その印は消さん。支払うまではな」


 オスカーは上着を胸元でかき合わせた。赤い光は布を透かしている。

 召喚に呼応して浮かぶこの印を、講義では何度も確かめた。箱の印と同じ形だった。


 ベラが箱と胸の印を、順に確かめた。


「器を壊しても、あなた自身の支払い義務は残ります。こちらの印に結ばれていますから」


 オスカーは自分の胸を見下ろした。

 背を柱へ押しつけても、赤い光は消えなかった。


 ベラは印を見届け、助祭に記録させた。


「本人が払うなら、肉体の時間が四十三年進む。そういう支払いですね」


 悪魔は、箱を指した。


「契約どおりだ。返しはせん」


     ◆


 銀鋏を取り上げ、外側の筋を一本切った。

 箱が鳴った。


 白い光が留め金の隙間から流れた。

 窓を抜け、戸口を通り、広場へ向かう。


 外で、誰かが泣いた。


「立てる……」


 次の筋を切る。

 鋏を動かすたび、戻るべき人の名を確かめた。

 銀皿に封じたローラの筋も、助祭が箱の前へ運んできた。


 私は箱から伸びる同じ筋を見つけ、銀皿の封と一緒に解いた。

 白い光が、母親に抱かれた子供へ戻る。


 ローラが母親の袖をつかんだ。


「もう、眠くない」


 母親がしゃがみ込んだ。

 子供を抱えたまま、顔を伏せる。


 私の手首も、ずきずき痛んでいた。

 ベラが包帯を巻いた。


「代わりましょうか」

「あと十九人です。結び方が分かったので、続けます」


 名前を確かめる声が、かすれた。

 助祭が読み上げてくれるようになった。


 百三十七人。

 最後の一人へ光を返すと、箱は静かになった。


 私は鋏を床に置いた。

 手から離すだけなのに、うまく指が開かなかった。


「返しました」


 悪魔に言うと、角のある頭が少し傾いた。


「見ていた」


 箱の文字から、領民の名が消えた。

 残ったのは、契約者の名と、四十三年という数字だった。


 筋の根元にあった青い環も消えた。百三十七本、すべて切れている。

 空の箱の向こうで、オスカーの胸だけが赤く光っていた。


 ベラが箱を封じ直した。

 助祭が条文と本人の印を写し取り、証拠の封を確かめた。


「期限まで、オスカー・ベルゼを神殿の監視下に置きます。ほかの者を巻き込ませません」


 悪魔は、もう私たちに興味をなくしていた。


「構わん。払うものさえあれば」


 ベラが呼び出しの印を閉じた。

 悪魔の姿が消え、蝋燭の火が元の色に戻った。私たちは囲いを残し、箱をその内側で保管した。


 オスカーが私の名を呼んだ。


「リディア」


 私は鋏を拾い、袋へしまった。


「聞いてくれ。お前なら、代わりを用意できるだろう」


 袋の口を結ぶ手が止まった。


「まだ病院には、先の長くない者がいる。全員から少しずつなら――」


 ベラが彼の前へ進んだ。


「それ以上言うなら、口を塞ぎます」


 オスカーは私を見ていた。

 縄をほどこうとして赤くなった手で、必死にこちらへ手を伸ばす。


「私は公爵家を継ぐんだ。これから領地を立て直す。四十三年も取られたら、何もできなくなる」


 私は、彼の手の届かないところで立った。


「ローラは八歳です」

「だから、子供から取れとは言っていない!」

「あの名簿に、あなたが入れたのです」


 外で、ローラの母親が子供に靴を履かせていた。

 脱げないよう、紐を結び直している。


「私を燃やせば、調べる人間がいなくなると思ったのですか」


 オスカーは口を開き、閉じた。


「お前が、余計なことをしなければ」


 声が震えていた。


「豊作は、何事もなく続いたんだ」


 私は袋を肩にかけた。

 傷に触れないよう、反対側へ掛け直す。


「そう。私が死ねば、あなたは困らなかったのですね」


 彼の顔から、縋るような表情が消えた。


 私はベラに頭を下げ、礼拝堂を出た。

 背後から、何度も名前を呼ばれた。


     ◆


 翌日の夜、オスカーの対価は徴収された。

 私は立ち会った。

 契約者本人以外へ呪いが流れないことを、最後まで確認する必要があった。


 箱の封を、ベラと二人で検査した。

 オスカーの手首には、神殿の拘束輪がある。

 王都から来る調査官を待つ間も、逃げることはできなかった。


 期限の鐘が鳴った。

 彼は椅子の肘掛けをつかんだ。


「待て」


 髪の色が抜けた。

 肩が落ち、上着が急に大きく見えた。

 肘掛けを握る指が細くなり、節だけが浮き上がる。


 顔を上げようとして、彼は途中で息をついた。

 二十七歳だった男が、七十歳の体になっていた。


「戻せ」


 声も変わっていた。


「リディア、戻してくれ」


 私は箱の文字を確かめた。

 数字は消えている。

 対価は、払い終わった。


「人の年を盗み直す方法しかありません」


 彼は顔を上げた。

 私が続きを言うのを待った。


「私はしません」


 オスカーの手が、肘掛けから落ちた。


     ◆


 悪魔との契約と、領民への加害、私を審理なしで殺そうとした企てについて、王都の裁判所が調べた。

 箱、名簿、胸に浮かんだ契約印の記録、押収された私の手帳。

 ベラと助祭、護衛、患者たちが証言した。


 司祭は、オスカーの命令で名簿を用意し、患者を私のせいにしたと認めた。

 役職を解かれ、オスカーとともに裁かれた。


 オスカーは、公爵家の継承資格を失った。

 領主代行の権限も取り上げられ、長期の服役が命じられた。

 彼自身の財産は、被害者への補償に充てられた。


 病床にいた公爵は、王国から派遣された監督官に領地の管理を預けた。

 跡取りは、別の親族から選び直されることになった。


 悪魔が示した鉱脈は、実際に掘り当てられたものだった。

 収穫した麦も消えなかった。

 その利益で、領地は患者の療養と生活の立て直しを支えた。

 魔法で衰弱が止まっても、寝たきりで弱った足腰までは、すぐに戻らない。


 ローラも、初めは母親と庭を一周するだけで疲れていた。

 私は神殿の診療所に残り、呪いが戻らないか見届けた。


 ある日、老いたオスカーを乗せた護送車が広場を通った。

 診療所の窓から、私も見た。


 彼は鉄格子に手をかけ、外をうかがっていた。

 豊穣祭で彼に花を渡した人々が、道の両側に立っている。


「呪ったのは、お前だったのか」


 誰かが言った。


 オスカーは何か言おうとした。

 車輪が石畳を鳴らし、声は聞こえなかった。

 人々は道を開けた。誰も花を投げなかった。


 私は窓を閉じた。

 机の上では、ローラが白い糸を指に巻いていた。


「これ、持って帰っていい?」

「新しいのをあげる。使った糸は、焼かないといけないから」


 私は袋から糸を出し、短く切った。

 ローラはそれを母親に見せに行く。


 手首の傷は、まだ少し突っ張った。

 袖を下ろし、次の患者の名前を呼んだ。


~完~

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


面白かった、読んでよかったと思っていただけましたら、ページ下部の評価から応援していただけると嬉しいです。

感想やブックマークも、今後の執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。