断罪ブーメラン! 「被害者がそう言っている」が正義なら、こちらも言わせてもらいます。ブーメランを打ち返すのは、あなたの姉です!
開幕
「――エリザベート! マリアに対し、数々の非道な真似を行った貴様を許せん! よって貴様との婚約を破棄し、国外追放を言い渡す!」
王城を舞台とする大夜会の最中、エドワード王子の怒声が響き渡った。優雅なバイオリンの調べは喉をかき切られた鳥のように無残に途切れ、何百という招待客たちの凝視が怒声を上げた殿下と、その相手である私に集まった。
断罪劇が、幕を開けた。会場に居合わせた貴族たちは息を呑み、驚きと不安、そして幾ばくかの好奇の混じった囁きが湖面に広がる波のように広がっていく。
その瞬間、私の頭をよぎったのは、ヴィクトリア王女殿下からの「警告」だった。
『エリザベート。愚弟が相談女にそそのかされて、夜会であなたに婚約破棄を宣言する気よ。しかも何の捻りもない冤罪を理由にね。あの子、本当に救いようのない馬鹿だわ。』
まさか一国の王子が、それも公衆の面前で「断罪」なんて愚かな真似をするはずが……、いくらなんでも常識的にそんなことはしないだろう……、そんな私の考えは浅かったようだ。
……本当に、「警告」の通りになりましたわね、王女殿下。
私は心底呆れ果て、だけれども、最強の味方の存在を背に感じて、覚悟を決める。
『もしものときは、私が盾になる。』
ヴィクトリア王女殿下は、そう言って下さった。
王女殿下の姿が夜会になくとも、私は、心強かった。王女殿下は、隣国との紛争を解決するため、国境沿へ派遣された。おそらくその隙を狙っての、エドワードの謀なのだろう。
視線を令嬢へ向ける。すると彼女は「ひっ!」と小さく悲鳴を上げ、大げさに身をすくませて殿下の背後に隠れた。
「怖い……怖いですわ、エドワード様! あの鋭い目……エリザベート様が私を睨んでいます! ああ、身体が震えて……!」
「おお、マリア! なんとかわいそうに。聞いたかエリザベート! この可憐なマリアを、これ以上怯えさせるな! 睨むのを止めろ、今すぐその不遜な目を伏せろ!」
男に媚を売る計算された甘え声。夜会のドレスコード無視の、ひらひらフリルの装い。そして何より、婚約者であるこの私を眼前にしながら、堂々とエドワードに身体をピタリと寄せる厚顔無恥な振る舞い。
淑女の慎みを持つ令嬢であれば、マリアの姿に自然と眉を顰めようというもの。けして睨んだわけではないが、たとえ彼女を見る目がきつくても責められる謂れはないのでは?
そんなつまらない自身の思考を頭から追い出し、胸の底から深く息を一つ吐き出してから、言葉を発した。
「エドワード殿下、お言葉ですが、非道な真似と言われても、私には身に覚えがないのです。その――マリア様、でしょうか? ――に対する非道な真似とはいったい、どのような事実を指しているのでしょうか?」
私はヴィクトリア王女殿下の助言どおり、あえて「相手を見下す高慢な淑女」を思い浮かべ、問いかけた。
『あなたは「高慢な悪役令嬢」を完璧に演じるのよ?』
悪役令嬢という耳慣れない言葉に戸惑ったものの、王女殿下の助言どおり悪役令嬢を演じると決めた。あらかじめ心構えが出来ていたおかげで、冷静に対処できそうだ。
だが、もし。突然、何も知らずに大勢の貴族の前でこんな仕打ちを受けたとしたら――。沸いた怒りを心の奥底へ押し殺すため、ドレスの裾を強く握りしめた。
「はっ、白々しい! 自分がしたことを忘れたというのか! それとも貴様にとっては他人をいたぶることなど、息をするのと同じほど当たり前で覚えていないのか! どこまで腐りきっている!」
エドワードは声を張り上げ、私を非難する。彼の目には、私という人間はどう映っているのだろう。本当に私がやったと信じているのか。それとも存在しない罪だと理解しながら、私に着せようとしているのか。
「申し訳ありません、本当に身に覚えがないのです。ですが、もし私が至らぬばかりに不快な思いをさせてしまったのであれば謝罪いたしますので、非道な真似とはどのような事実か、お聞かせください」
「フン……そこまで言うなら聞かせてやる!
貴様は陰湿な悪口で彼女を辱め、人前で罵倒を繰り返し、大切な思い出の品を隠して壊した! それだけではない!
庭園の池に突き落とし、挙句の果てには階段から突き落としただろう!」
エドワードが並べ立てた罪状は、陰湿な誹謗中傷から、思い出の品の損壊、そして庭園の池や階段からの突き落としというものであった。
「悪口に罵倒……池に、階段、ですか?」
告げられた罪状に驚き、目を見開いた。まさかそんな稚拙なことを、私がやったと本気で思っているのか。
一方で会場の貴族たちからは「階段から……?」「やり過ぎでは?」「それはもはや殺人未遂ではないか」という声が囁かれる。
だが、私が自ら手を汚したと主張するのであれば。日時と場所さえはっきりさせることで、私の疑いを晴らすことができるかもしれない。
王子妃教育、社交、さらには殿下の公務の代行……。王子の婚約者である私は、王宮の侍女や文官によって、己の行動を記録されている。
「殿下、それが事実であれば、事件があった日時と場所をお教えください。疑いを晴らすことができるかもしれません」
私の問いかけに対し、エドワードは顔を紅潮させて怒鳴り散らした。
「黙れ! 『事実であれば』とは何だ! 貴様、俺の愛するマリアが嘘を吐いているとでも言うつもりか! 犯人は貴様だろうが! 謝罪はどうした! この卑怯者が!」
エドワードは聞く耳を持っていなかった。目の前の女の言葉が全てで、私の言葉は届かない。
では、マリアに尋ねよう。
自作自演でなく本当に嫌がらせや殺人未遂に怯えているのであれば、犯人を野放しにした場合の危険性に怯えなければおかしいが――。
「マリア様は、私をお疑いでしょう。ですが、私は犯人ではないのです。私が犯人でなかった場合、真犯人を野放しにすることになりますわ。
……よろしいですか? あなたは何度も狙われているのでしょう? 野放しにされた真犯人は、きっとまた、あなたを狙います。
マリア様自身のためにも、いつ、どこで、犯人に襲われたのか、お話し頂けませんか?」
私が詰め寄ると、マリアは一瞬、嘘のつきどころを探すように泳いだ目で私を見つめ、それから救いを求めるように隣の男を見上げた。
そしてエドワードは――。
彼は私の話など一言も理解することなく、愛する女が問い詰められているということだけに、頭が占拠されたようだ。
「黙れ! マリアは思い出すだけでも震えるほど傷ついているのだぞ! それを脅かすようなことを言って無理やり話させようとするなど、どこまで血も涙もない悪女なのだ! 貴様のクズさには反吐が出る!」
「そうは言っても、見間違いや勘違いの可能性もあるのでは? 私に似た人物が犯人かもしれません」
「しらばっくれるか! 目撃者はマリアだけではないのだぞ! 何人もの令嬢や侍女たちが貴様の罪を証言しているのだ!」
「……左様でございますか。では殿下、その方々に直接お話を伺いたいので、お名前を教えていただけますか? 私の記憶と齟齬があるようですので、確認をさせてください」
「ふん、断る! 公爵家の権力を笠に着て、裏で圧力をかけ、口封じをするつもりだろう! そんな卑劣な真似をさせるわけにはいかない。証人の安全を守るのも、俺の役目だ!」
やはり私の言葉には聞く耳を持たない。他者の言葉は盲信し、私の言葉には泥を塗る。
私が王家に捧げてきた十年以上の献身は、何だったのか――。
公務を顧みない王子の尻拭いをし、王子妃としての責務を全うしてきた私の努力は、いったい何のためにあったのか――。
視界が白くなるような虚しさが、胸の奥に広がっていく。
「マリアはあまりに心優しく、貴様の嫌がらせをずっと耐えていた。だが、命に危険が及び、ついに耐えきれず思い詰めた様子で俺に打ち明けてくれたのだ! この優しく清らかな彼女の言葉が、真実でないわけがない! 」
エドワードがマリア様の腰に腕を回すと、彼女は待ってましたとばかりに、顔を覆って泣き声を上げた。だが、ハンカチで隠す隙間から涙ではなく、薄く笑みを浮かべた表情がこぼれ落ちた。
「ううっ……本当につらかったですわ……。冷たい池の中で息ができなくて、階段から突き落とされた時は、もうお父様やお母様にお会いできないかと……。……死の恐怖で夜も眠れませんのっ……!」
「ああ、可哀想なマリア! よく頑張った、よく頑張ったな、もう大丈夫だ。私がこの悪女を裁いてやる!」
彼はマリアの戯言を聞くと、感極まったように抱きしめた。私は何を見せられているのだろう?
そもそも――。
私とエドワードの婚約は、王家から持ちかけた政略。公務を放り、婚約者の務めも果たさず、側近たちと遊び歩く男に呆れることはあっても、愛情の一片も沸くわけがない。
エドワードが誰と何をしようが、正直、私の関心の外になっていた。
「殿下、一つ伺ってもよろしいでしょうか。……私がそのような罪を犯す『理由』は、どこにあると仰るのでしょう?」
だからこそ本心から湧き上がった疑問を口にすると、エドワードは此処ぞとばかりに胸を張り私を指さした。
「知れたこと! この俺という至高の身分、誰もが見惚れるこの美貌! 貴様が欲して止まず、どうしても手に入らなかったもの……それが俺の『真実の愛』だろうが! 貴様は、マリアに嫉妬したのだ!」
――え?
その瞬間、私の胸を支配していた虚しさは、一瞬でどこかに消え去った。
嫉妬? 私が? ……誰に?
怒りの感情も、一瞬にして霧散した。エドワードに、こんな才能があるとは知らなかった。
誰もが見惚れる美貌……?
真実の、愛……!?
エドワードの笑撃的な発言に感情が崩壊する。 いけない、これは笑いの魔物だ。
厳かな教会の礼拝中、しんと静まり返った聖堂で祈りを捧げている最中。国王陛下の御前で行われる騎士の叙任式、誰もが息を呑んで見守る沈黙の最中。そんなふとした拍子に、どうでもいいことが面白くなり、喉の奥から笑いの衝動がせり上がってくることがある。
そういった、笑ってはいけない場面に現れるのが、笑いの魔物。
意識すればするほど、耐えようと念じれば念じるほど、全身を駆け巡り理性を激しく揺さぶるのが恐ろしい。
至高の……、見惚れる……!
「……んっ、……くっ……」
必死で息を止め、横隔膜の痙攣を気合いでねじ伏せる。エドワードの口から放たれた言葉が、脳内で木霊のように繰り返され、顔を上げれば鼻を膨らませて悦に入っている彼の顔が目に入る。だめだ、我慢できないかもしれない。
慌ててエドワードから視線を外し、俯いた。両手で自分の身体を抱きしめ、爪を肩に食い込ませて声が出るのを耐える。
私が俯き肩を震わせているのを、嗚咽をこらえていると勘違いしたのか。マリアがエドワードの胸元ですり寄ると、口角を上げ、煽るように呟いた。
「まあ……愛する人から愛されないなんて、かわいそうですわ……」
……っ、く、ふふ。いけない。
これ以上、ここにいたら淑女としての仮面が砕けてしまう。王女殿下、早く……。
私は酸欠になりそうな肺を必死に宥め、震える肩を「悲しみに耐える健気な女」の演技に見せるべく、渾身の根性で耐えた。私はこみ上げる笑いを、なんとかして「マリアへの問いかけ」という形に変換して吐き出すことにした。
声が震えたのは、笑いを堪えているから。涙目なのは、横隔膜の限界だったからだ。
「……っ、ふ、……最後、に……」
私は震える声で、マリアに向けて最後の台詞を放った。
「もう一つだけ。……マリア様、……ふっ、今さらですが。私、あなたの顔を存じ上げなかったのですが……。どこでお会いしたこと、ありましたか?」
マリアの顔が一瞬でこわばった。しかし、彼女はすぐに絶叫した。
「ひどい……! 私のような低位貴族のことなど覚える価値さえないと仰るのですか!? あれほど何度も冷たい言葉を浴びせられたのに……存在そのものを無にされるなんて!」
エドワードの怒りは臨界点に達し、爆発した。
「エリザベート! どこまで傲慢になれば気が済むのだ! 貴様のその冷血な本性、もはや一刻の猶予も置けぬ! 衛兵! 構わん、この女を引きずり出せ!」
私は背筋を伸ばし、エドワードを見据えた。心に満ちたのは、怒りでも悲しみではない。笑いの魔物を気合でやり過ごし、悪役令嬢を演じきった達成感だった。
全身を怒りで震わせるエドワード。儚い弱者を演じるために震えを披露するマリア。そして体内で荒ぶる笑いの魔物を抑えつけるために肩を揺らす私。
そこには三者三様の震えが交差する、地獄のような喜劇空間があった。
「衛兵、何をしている! 早くそいつを捕らえてしまえっ!」
エドワードの再度の怒声に、衛兵たちは顔を見合わせながらも、ためらいがちに一歩を踏み出した。彼らはまるで「自分たちは仕事をしているだけだ」と言い聞かせるように、視線を泳がせながら私を包囲していく。
若い衛兵の指先がわずかに震えながら、私の細い腕を掴もうと無骨な手を伸ばし――。
※
衛兵の無骨な汗ばんだ手が、私の肩に触れようとしたその瞬間――。 会場を支配していた粘りつくような熱狂が、一瞬にして凍りついた。
入り口から吹き込んできたのは、夜風などという生易しいものではなかった。それは、真の「強者」のみが身に纏う、魂の芯までを凍てつかせるような、圧倒的なまでのプレッシャーであった。
「――楽しそうね、エドワード」
低く、しかし鼓膜の奥へと峻烈に響く、凛とした声。 その場にいた群衆が、あたかも不可視の巨人に押し退けられるように道を開け、深々と頭を下げた。現れたのは、第一王女ヴィクトリア――戦場において数万の軍勢を采配し、王者の風格をその身に宿した、この国で最も苛烈にして最強の女性。
ヴィクトリアは、弟であるエドワードよりも頭一つ分ほど背が高く、騎士顔負けの堂々たる体躯を誇っている。幾多の戦場を血に染めて駆け抜け、国王陛下からの信も篤い彼女は、実質的にこの王国の「武」の頂点に君臨する神のごとき存在であった。
カツ、カツ、と、軍靴のような冷ややかなヒールの音を響かせながら、彼女はエドワードの前まで歩み寄る。その傍らには、まだ幼さの残る侍従見習いの少年を連れていた。少年は怯えたように彼女の背後に隠れ、小刻みに肩を震わせている。
「なっ、姉上……!? なぜここに。姉上は今、紛争地帯で軍を指揮しているはずでは……!」
不意打ちを食らったエドワードの声が、滑稽なほどに裏返った。軍務で不在のはずの天敵が現れたことに、その顔面は隠しようのない動揺で引き攣っている。
「今は私の、この悪女への断罪の最中でして……! ちょうど今、エリザベートのこれまでの悪辣な行動を非難し、罪を認めさせているところなのです!」
「騒がしいわね、そんなことはどうでも良いわ。それより――」
エドワードは、突然現れた姉上の真意を掴みかねて立ち往生していた。その圧倒的な威圧感に気圧され、蛇に睨まれた蛙のように震えながらも、彼は虚勢を張るように必死に声を張り上げる。
たじろぎながらもマリアの肩を抱き寄せ、自らの正義を叫ぼうとするエドワード。しかし、ヴィクトリアの氷の双眸は、弟の思惑などまったく歯牙にもかけず、ただ冷酷に彼を射抜いていた。
「エドワード。あなた、私が軍務で留守にしている間に、この大切なマルクになんという惨いことをしてくれたのかしら?」
そう言って、ビクトリアは背後の少年の肩に手を置き、エドワードと対面させた。
「は……? マルク……? 姉上、突然、何を仰っているのです。私はこの数日間、マリアを励ますのに忙しく、そんな小僧に構っている暇など――」
エドワードの思考は完全に機能不全に陥っていた。姉から投げつけられた、全く身に覚えのない言いがかり。驚きと困惑に目を剥き、金魚のように口をパクつかせる。そもそも彼はマルクの名さえ、今初めて聞いたのだ。
エドワードが訝しげに目の前の少年に鋭い視線を向けた、その時だった。
「ひっ! こ、怖い……! ヴィクトリア様、助けてください! エドワード様が、あんなに怖い顔で僕を睨んでいます! きっと、あとでまた酷いことを……!」
マルクは過剰なまでにびくびくと身体を震わせ、今にも泣き出しそうな表情でヴィクトリアの背後に隠れた。まだあどけなさが残る可愛らしい少年が見せるその様子は、先ほどマリアが見せた弱者の態度よりずっと自然な反応に見えた。
「よしよし、怖かったわね、マルク。エドワード、この子をこれ以上睨むことは許さないわ。今すぐその顔を背けなさい!」
ヴィクトリアの一喝に、エドワードは言葉を失った。彼女は半歩下がってマルクの隣に立つと、守るようにマルクの肩を抱いた。その姿はエドワードがマリアを守った構図を、トレースしたような鏡合わせの情景であった。
「……姉上、一体、私が何をしたと仰るのですか!? 私は何も、そこの小僧に手を出すような真似はしていません!」
あまりの理不尽な言葉に、怒気をはらんだ声で、エドワードが反論した。しかし周囲からは、こそこそとエドワードの言動を疑問視するような囁きが漏れ始めた。 「……これ、さっき殿下がエリザベート嬢を断罪したことを、殿下もあの少年にやっていたってこと?」「エドワード殿下は気づいていないのか……?」 「酷いな……」
批判の矛先は手のひらを返したようにエドワードへと向かい、立場は完全に逆転してしまった。
「いいわ。これ以上マルクを怯えさせぬよう、私が慈悲の心で、お前のしたことを教えてやるわ。
お前はマルクの道具を隠して嘲笑い、冷水を浴びせ、挙句の果てには階段から突き落とそうとした。
……そうね、マルク?」
ヴィクトリアに声をかけられると、マルクはポロポロと真珠のような涙をこぼした。その大きな瞳から溢れ落ちる雫は、会場にいた者、とくに令嬢や貴婦人といった女性の胸を撃ち抜いた。それは「こんなに愛らしい少年を傷つけるなんて!」という母性と庇護欲を、激しく沸き立たせるものだった。
「はい……エドワード様は、僕のような平民上がりの侍従は不愉快だと……。マリア様と一緒に、僕の顔にワインを……」
「なっ、馬鹿な! そんなこと、一度だってやっていない! 捏造だ、そんなのデタラメだ!」
「わ、私も知りませんわ! 殿下が仰る通り、こんなの全部嘘ですわ!」
顔面を蒼白にしたエドワードとマリアが金切り声を上げ、必死に否定を試みる。しかし、彼らが顔を紅潮させて叫べば叫ぶほど、ヴィクトリアの唇には、残酷なまでに美しい笑みが刻まれる。その笑みは、先ほどエドワードが私に向けたものと、戦慄するほどによく似ていた。
「あら、白々しい。自分がしたことも忘れたというのかしら? それともお前にとっては平民をいたぶる悪事など、息をするのと同じくらい当たり前になっているのかしら? 」
ヴィクトリアは、先ほど私が言われた皮肉を、そのままそっくりに叩き返した。エドワードはその屈辱に、わなわなと震えて叫んだ。
「証拠は!? いつ、どこで私がそんなことをしたというのですか! 」
「黙りなさい! マルクは思い出すだけでも震えるほど傷ついているのよ? それを無理やり思い出させようとするなど、どこまで血も涙もない!」
「そうではありません! そのマルクという奴が、嘘を吐いているのです!」
「このマルクはあまりに心優しく、お前の嫌がらせをずっと耐えていた。だが、ついに耐えきれず思い詰めた様子で私に打ち明けてくれたのよ!
そんな優しい子が、嘘を吐くわけがないでしょう! ?」
「そんなバカな! 被害者の証言だけで決めつけるなんて横暴にも程がある!」
「そうかしら?」
「オレはやっていない!」
「そうなの? マルクだけでなく、何人もの侍女たちも『見た』と証言しているのよ?」
「で、では。その侍女の名前を教えてください! 今すぐここで確認を――」
「させないわよ? 権力を笠に着て、裏で圧力をかけ、口封じをするつもりでしょう?
そんな卑劣な真似をさせるわけにはいかないわ。証人の安全を守るのも、王族である私の役目よ」
ヴィクトリアは、エドワードが私に突きつけた「無茶苦茶な理屈」の全てを、さらに巨大な権力という暴力を以て彼自身に突き返した。
ヴィクトリアが、エドワードの一つ一つの言動を完璧にトレースし、鏡合わせの断罪を繰り返していくうちに――。
困惑と不安に満ちていた会場内に、腑に落ちたような明るい声が増え始めていった。
「……待て。これは、もしかして……」
「ブーメランというやつか……?」
「ああ、そういうことか! 王家の趣向を凝らした『余興』だったのか!」
できすぎた喜劇のような罵倒の応酬、そして、あまりにも稚拙で杜撰な論理。王子と王女の救いようのない口論に、貴族たちは、これが王家による高度な余興、即興劇だと理解していったのである。
「なるほど! 自虐ネタで笑いを誘う演出か。さすがはヴィクトリア様だ」 「エドワード殿下のあの狼狽ぶり、なかなかの名演技ではないか!」
会場の空気は、私の想像だにしない奇妙なうねりを見せ始めていた。
笑いの魔物の後遺症でその場に立ち尽くしていた私は、予期せぬ方向へと舵を切った群衆の熱狂に、ただただ唖然とするばかりであった。
「……くっ、そんな、理屈が通るか……!」
「理屈? お前がエリザベートに押し付けた理屈を、私がお前に押し付けて何が悪いの?
……見苦しいわよ、エドワード。罪を認め、マルクに跪き謝罪しなさい。そうすれば、死罪に相当する貴様の罪を、特別に北の離宮への幽閉だけで許してあげるわ」
「あ、謝罪……!? この僕が、こんな小僧に跪けるわけないだろう!」
「そう、じゃあ仕方ないわ。近衛兵、この愚かものを捕らえなさい! 私のマルクがこれ以上怯えないよう、光の届かない場所へね」
ヴィクトリアが力強く右手を高く掲げると、背後に控えていた軍服姿の近衛兵たちが、獲物を狙う鷹のような鋭敏さで一斉に動いた。
「そんな横暴、父上が認めるわけがない!」と、涙目になりながら鼻水を垂らして叫ぶ殿下の姿も、今や貴族たちにとっては「最高の道化」による締め括りの口上にしか聞こえていなかった。
マリアが「おかしいわよ、こんなの!」と金切り声を上げながら兵に引きずられていく様も、まるで計算された舞台の退場シーンのように、華やかな喝采の中に呑み込まれていく。
それは、本来ならば王家のスキャンダルとして歴史に刻まれるべき凄惨な一場面であった。しかし、会場からは割れんばかりの拍手と、あちこちから陽気な口笛が吹き鳴らされたのである!
「ブラボー! 素晴らしい断罪劇だったぞ!」
「いやはや、ここまで徹底した『ブーメラン』を見せられるとは! 実に愉快だ!」
「見て見ろよ、殿下の涙と鼻水の出し方! なんか……汚ないな!」
ヴィクトリアは、そんな狂乱の渦の中心で、冷ややかに、しかし優雅に一礼して見せた。
「あらあら、皆さま。お楽しみいただけたかしら?」
その彼女の余裕に満ちた仕草が、貴族たちに『余興』であるという確信を決定的なものにした。
※
その、数日後――。
私は王宮の最上階にあるバルコニーで、この国で最上級の優雅なティータイムを享受していた。
テーブルを囲むのは、第一王女ヴィクトリア殿下と、つい数日前まで「悪役令嬢」の無惨な烙印を押されかけていた、この私――公爵令嬢エリザベート。そして、私たちの傍らで甲斐甲斐しく、かつ完璧な所作で茶を淹れているのは、あの「可哀想な被害者」を演じきった、マルク少年である。
「お疲れ様、マルク。あの子、最後になんて言ったのかしら?」
ヴィクトリア王女殿下は、スコーンに濃厚なクロテッドクリームを山のように――もはやスコーンの本体が見えなくなるほどたっぷりと乗せながら、少女のような無邪気さでマルクに声をかけた。
「はい、ヴィクトリア様。『姉上は狂っている!』だそうです。
……あ、お茶をお注ぎしますね、エリザベート様」
マルクは淀みない動作で、白磁のティーポットを傾けた。高い位置から注がれる琥珀色の雫は、一滴の飛沫も立てることなくカップを満たし、立ち上る湯気と共に華やかな香りを解き放つ。その洗練された手つきは老練な執事のそれをも凌駕するほどに美しく、完成されていた。
私は微笑みを返し、最高級のダージリンを一口含んだ。喉を滑り落ちる琥珀色の液体が、張り詰めていた神経を甘美に解きほぐしていく。
「それにしても、ヴィクトリア様。スッキリはしましたけれど、あんな強引なやり方で大丈夫だったのですか?」
「いいのよ。証拠なんて、後からいくらでも、私が権力で捏造――いいえ、真実にしてあげるから、大丈夫よ」
ヴィクトリアは、慈しむような、しかしどこか底知れぬ熱を孕んだ瞳でエリザベートの手を取った。
「それに、あの子は『自分の言葉は絶対であり、下々の者はそれに服従しておけばよい』という、愚かな支配感に酔い痴れていたわ。だからこそ、同じ土俵に上がって、客観性など微塵もない剥き出しの暴力で殴ってやるのが、何よりも一番の教育だったのよ 」
私は、彼女の口から漏れた「ドヒョウ」という奇妙な響きに、思わず首を傾げた。それは今まで学んだどの国の言語にもない、奇妙な響きのように聞こえたからだ。
「エリザベート、あなたが私のところに相談に来てくれて、本当によかった。あんな愚鈍な弟と結婚してあなたの類まれなる才能を無駄に使い潰されるのは、この国にとっての致命的な損失ですもの」
実を言えばあの大夜会の「ブーメラン断罪」は、ヴィクトリア王女殿下の提案で計画された逆断罪劇であった。
「あの愚鈍な弟がいつ、どんな罪を捏造するかなんて、捻りがないのですもの、予測も容易だったわ」
ヴィクトリアは扇で口元を隠し、くすりと、毒を含んだ笑いを零した。
「……鏡合わせの罪状を紡ぎ出してあの子を責めるコミカルな役、とても楽しかったわよ?」
ヴィクトリアは極上の獲物を仕留めた後のように満足げな吐息を漏らすと、クリームたっぷりのスコーンを一口、優雅に口へと運んだ。サクリとした心地よい音をさせながら、豊かな小麦の風味と甘みを堪能し、紅茶をゆっくりと喉に流し込む。
その一連の動作には、戦場を駆ける苛烈な将軍の面影はなく、ただ平和な午後を慈しむ一人の淑女の余裕が漂っていた。
「エリザベート……。あなたが遊びたい盛りの時間をすべて削り、歴史や法学、経済学に外国語、それに過酷な王子妃教育に身を捧げてきたこと、私は充分に分かっているわ。
あなたはエドワードの愛なんか、欲していなかった。ただ公爵家としての責務を、家と家との契約を全うしようとしていただけ。
……それなのに、エドワードはあろうことか『嫉妬』などという低俗な感情でマリアとか言う売女を害したと、あなたを貶めた」
ヴィクトリア王女殿下のその言葉に、私の心は微かな喜びに震えた。
「愚鈍な弟はあなたを理解していなかった。もしあなたが本気であの売女を排除しようとしたのなら、池に突き落としたり、階段から突き落とすなんて稚拙な真似なんか絶対にしないもの。
あなたなら、公爵家が抱える『暗部』を使い、跡形もなく証拠も残さず、文字通りこの世から消し去るわよね?」
ヴィクトリアが愉快そうに笑う。私は扇で口元を隠し、静かに頷いた。
そうなのだ。あの男の身勝手な振る舞いや、浮気そのものが不快だったのではない。
長年婚約者として、彼のために己のすべてを捧げてきた私の本質を――その能力も、矜持も、冷徹なまでの合理性も――、何一つ理解しようともせず、あまつさえ「恋に狂う女」という矮小な枠に嵌めて見下したこと。その傲慢なまでの無知こそが、私にとって何よりも許しがたい侮辱だった。
対して、目の前で微笑むヴィクトリア王女殿下は――。
彼女は私の汚い部分も、容赦のない才覚も、すべてを正しく見抜き、認めてくれている。
私の欲しかったものは、甘い愛の言葉などではない。
ただ、私という人間を正しく理解し、その存在価値を認めてくれる理知的な眼差しだったのだ。
「あなたが王家のために捧げた十年以上の時間が、あの愚鈍な弟のせいで泥を塗られた……。その無念は、私が必ず女王としての治世で雪いでみせるわ。あなたは嫉妬に狂う悪女などではなく、この国を支えていく、唯一無二の賢女なのだから」
「……ヴィクトリア様」
私の胸を塞いでいた重い塊が、ヴィクトリア王女殿下の言葉によって溶けていく。
視線をヴィクトリア王女殿下に向けてみれば、テーブルの上に並んだスコーンを眺め、次にどれを手をつけるか真剣に悩む様子を見せてから、ふわりと私に微笑んだ。
「それにね? あんな暴挙に真面目に対応していたら、王家の威信は地に落ちて国のメンツも丸潰れだったわ。でも、私があの子と同じ理屈で『ブーメラン』を投げ返したから、夜会の参加者はあまりのバカバカしさに『ああ、これはきっと、私たちを楽しませるための余興なのだ』と納得してくれたでしょ?
……ねえマルク、エリザベートにお茶のお代わりを」
促されたマルクは、「お任せください」とばかりに、いそいそと手慣れた手つきでお茶を淹れ直してくれる。幼さが残るものの、陶器のような肌と理知的な瞳を持つその容姿は、苛烈なヴィクトリア王女殿下が彼を寵愛し、片時も離さず側に置く理由を雄弁に物語っていた。
「 エリザベートは、悪役令嬢役を楽しめたかしら?」
ヴィクトリア王女殿下が、選んだスコーンを口に放り込んでから、いたずらっぽく私を見つめた。
「……いえ、とても辛かったですわ。あんな大勢の前で、愛する人から婚約破棄を告げられる役でしたから」
だから私も茶目っ気たっぷりにそう言って片手をそっと胸元にあて、伏し目がちに溜息をついて見せた。あの大夜会でのマリアを彷彿とさせる、いささか過剰で芝居がかった仕草である。
ヴィクトリア王女殿下は、そんな白々しい演技を楽しげな表情で眺めてから「本当のところはどうなの?」と、愉快そうに続きを促した。
「……エドワード様が『この俺という至高の身分、誰もが見惚れるこの美貌!』と叫んだときは、危うく淑女の仮面が剝がれ落ちそうになりました。吹き出しそうになるのをこらえるのに、大変苦労しましたわ」
「良かったわ、エリザベート。あなたがあの場で『浮気だの不貞だの』と泣き喚くような女なら、ただの醜聞に成り下がって、あなたも支持を失っていたに違いないから」
ヴィクトリアは、次のスコーンにこれでもかとクロテッドクリームを盛り付けると、為政者の表情に変わった。
「あの場を『王家の余興』という形で終わらせられたからこそ、エドワードに付いていた王子派の貴族たちも、逃げ道を見つけられたのよ。『今すぐ王女殿下に乗り換えれば反逆にはならない』ってね。
……わざわざ全員を敵に回して、政争を泥沼化さたせる必要はないわ。取り込める毒は、薬として使ってあげるのが効率的でしょう?」
「国王陛下への配慮も、完璧だったと思います。エドワード様が暴挙を理由に追放されるのではなく、秘密裏に再教育(幽閉)されるという逃げ道を用意しておけば、承諾するしかありませんもの」
「そうね。エリザベートの悪役令嬢の好演もあって、すべて上手く行ったわ。感謝してるのよ?
ようやく邪魔なゴミを排除できて、かつ、政争による混乱も回避できた。未来が明るくなったようだわ」
ヴィクトリアは紅茶の香りを楽しみ、さらりと今後の「公式発表」について口にした。
「あの愚鈍な弟は、明日にも『急な病による長期療養』と発表しましょう。婚約は解消。あくまで円満な合意という体裁だから、あなたの経歴にも一切の瑕疵はつかないわ。暴挙で婚約者の公爵令嬢を傷つけた王子としてではなく、ただの療養者として処理するのが、一番波風が立たないもの」
「……何から何まで、計算通りでしたわね」
「当然よ。父上に、私が正式に次の王太子になることも認めさせたわ。しばらくしたら、退位してもらう。そうしたら、名実ともにこの国は私のもの。――いいえ、私たちのものよ」
私は口角を上げた口元を扇子で隠し、小さく頷く。
「さて、エリザベート。これで邪魔立てする者はすべて消えた。次はあなたが私の『宰相』として、この混迷極まる国を整える番よ。あんな『真実の愛』という名の感情で物事を判断する王子ではなく、論理と法、そして揺るぎなき意志で動く女王の治世を築くの」
「喜んで、お仕えいたしますわ」
ヴィクトリア王女殿下の力強い宣言に、私は立ち上がり、深く、優雅に一礼を捧げた。その背筋には、かつて感じたことのない高揚の震えが走っていた。
「……さて、堅苦しい話はこれくらいにしましょうか」
と、ヴィクトリアは憑き物が落ちたような顔をすると、心地よい風に目を細めた。その場の空気が、穏やかな午後の密談へと静かにほどけていき、女性たちの穏やかな語らいの場へと形を変えた。
「……ところでマルクに聞きたかったのだけれども。あの時の身体の震えは、あれも、演技なの?」
マルクは、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。
「いいえ。ヴィクトリア様の怒鳴り声が予想を遥かに超える迫力でしたので、そちらに本気で腰を抜かしかけたのです。お陰で、これ以上ないほど最高の『怯えた瞳』をお見せできましたよ。
……ああ、ヴィクトリア様! クリームをそんなに盛ったら、口の周りが真っ白になります!」
「あら、はしたなかったかしら?」
「はい。ヴィクトリア様、戦場では無敵でも、スコーンを前にすると隙だらけなんですから」
マルクの軽口に、ヴィクトリアは柔らかな笑い声をあげた。
マルクに、クリームまみれの口元をナプキンで拭われるヴィクトリア王女殿下の姿は、戦場の死神と恐れられる御方とは思えぬほど可愛らしくて、私は思わず吹き出してしまった。
楽し気な笑い声が、陽光溢れるバルコニーの空気に溶け、輝きとなって霧散していったー。
※
王都の喧騒から遠く離れた、霧の深い北の離宮。
かつては王族の静養地として花々の香りに満ちていたはずのその場所は、今や「生きたまま葬られる場所」へと、禍々しく姿を変えていた。
埃の舞う冷え切った一室で、エドワードは窓の外の荒野を眺めていた。隣の部屋からは、マリアの金切り声がひっきりなしに聞こえてくる。
「こんなはずじゃなかった!」「全部、エドワードのせいよ!」
……かつてあれほど睦まじく愛を囁き合っていたはずの女の声は、今やただ不快な騒音として彼の精神を削っていた。
そこへ重々しく三度、扉をノックする音が響いた。
「……姉上」
現れたヴィクトリアは、軍服の上に豪奢な毛皮を羽織り、この世の春を体現したような、傲慢なまでの美しさを纏っていた。
エドワードは縋るように立ち上がった。
「姉上! 罰ならもう十分でしょう!? それに姉上だって、同じことをしたじゃないですか!? どうしてオレだけ――」
「同じじゃないから、貴方は罰を受けているのよ」
「同じでしょう!? オレはマルクなんて奴は知らない! 」
「あら、やっぱり貴方、エリザベートが何もしていないって分かっていて、あんなことをしたのね? 」
「だとしても! 証拠もなしに罪を被せるやり方は姉上も同じじゃないか!」
「……違うわよ?」
ヴィクトリアは腰に差した軍刀を無造作に引き抜いた。
コツ、コツと、軍靴の音を響かせながらエドワードに近づく。彼の目と鼻の先――けれど、わずかに逸れた虚空に向けて、二度、三度と電光石火の速さで刀を振り抜いた。
空を切る音とともに刃がエドワードの頬をかすめ、彼はその場に固まった。
「まだ自分が何をしたのか、本当の意味で分かっていないようね、エドワード」
ヴィクトリアは刀を鞘に収めると、再度エドワードに向き直った。彼はきょとんとした、毒気のない顔で私を見上げた。その無自覚な罪悪感の欠如こそが、何よりも王族としての彼を救い難くさせている。
ヴィクトリアは深い溜息をつき、わざとらしく両手を広げて天を仰いで見せた。
「ああ、嘆かわしいこと。教育係は何をしていたのかしら。王族として、いいえ、統治者としての基礎すら貴方の脳には定着しなかったのね。これほどまでに何も身についていないとは、もはや教育の敗北だわ。
あなた、公衆の面前でエリザベートとの婚約破棄を宣言したけれど、あれ、元々は国王陛下が下された『王命』によるものなのよ、理解出来ていて?」
「え……あっ……」
エドワードは、まるで今初めてその事実を突きつけられたかのように、間の抜けた顔で口を半開きにした。
「王命によって定められた婚約を、王の許可なく独断で破棄する。それはすなわち、王に対する明確な王命違反。
……いいえ、立派な『反逆罪』よ、エドワード」
「は……はんぎゃく……?」
「そうよ。貴方が王子でなければ、今頃はその首、広場で晒し台に乗っていたところだわ。反逆者に弁明の余地なんてないもの。本来なら斬首刑に処されても、文句の一つも言えない立場であることを自覚しなさい」
「そんな……! 姉上、父上に……父上に話してくれ! オレはそんなつもりじゃ……っ。父上なら、父上ならきっと許してくれるはずだ!」
必死に私の毛皮に縋りつこうとするエドワード。その必死な懇願を、ヴィクトリアは冷ややかに遮った。
「あら、勘違いしないで頂戴。父上に懇願するのは自由だけれど、そんなことをしても、意味がないわよ?」
「え……?」
ヴィクトリアが軽くエドワードの両脚を払うと、音を立ててその場に転がった。そして優雅に椅子に腰を下ろし、哀れな虫けらを見る目で愚かな弟を見下ろした。
「父上は退位し、母上と共に隠居されたわ。今、この国の全権は私と、そして私の信頼する宰相――エリザベートにある」
「姉上が!? それにエリザベート……!? あんな女を要職に就けたのですか!?」
「ええ。彼女は完璧だわ。あなたが捨てた彼女の知性と献身こそが、私の王国を支える不滅の柱なのよ」
ヴィクトリアはふっと瞳を細め、秘められた前世の記憶に浸るように呟いた。
「ねえ、エドワード。教えてあげるわ。あなたがもし、あの夜会で予定通りエリザベートを追放していたら、どうなっていたと思う?」
「え……?」
「彼女は隣国と手を組み、この国を滅ぼしていたわ。あなたは民衆に引きずり出され、父上も母上も、そして私も……ギロチンで首を落とされていた。それが本来、あなたが辿るはずだった『真実の結末』よ」
――そうなのだ。実のところ、ヴィクトリアには前世の記憶があった。
かつて日本という違う世界の地で、ヴィクトリアは「ざまぁ小説」を愛読するごく普通の人間だった。この世界が、死の間際に読んでいた小説『真実の愛と断罪の乙女』の世界だと彼女が気づいたのは、十四歳の時。馬術の練習中に、派手に落馬して頭を打った瞬間だった。
「エリザベートは本当に恐ろしい女なのよ? 私が手を貸さずとも、自分を傷つけた相手を完膚なきまでに叩き潰す、凍てつくような才能の持ち主。本来の物語では、その矛先が王家すべてに向かったわ」
エドワードの仕打ちに怒り狂ったエリザベートは、腐りきった王家そのものに牙を剥く。公爵家の権力と隣国の軍事力を背景に、王家は文字通り解体され、愚鈍な父王も、弟を甘やかした母妃も、そして「王家の人間」という血を背負うだけのヴィクトリアまでもが、民衆の罵声を浴びながら処刑台へ送られる。
元の物語では、エリザベートがたった一人で、完璧にエドワードを逆断罪する。それは読者にとっては痛快極まる展開だが、王家にとっては救いようのない破滅への序曲であった。
そしてマルク。彼は可愛らしいだけの侍従ではない。隣国の王子であり、幼い頃に我らの父、国王が人質として隣国に差し出させた少年だった。
物語の中では、エドワードの八つ当たりの末に殺され、それが隣国の侵攻、すなわち戦争を招く決定的な理由の一つになった。
それが、この物語の「真のエンド」――血塗られた幕切れなのだ。
(冗談じゃないわ。無能な弟と心中なんて、真っ平ごめんよ)
だからヴィクトリアは、運命の歯車に手をかけた。
まず最初に、王宮の奥で幽閉同然の暮らしをしていたマルクを見つけ、手元に置いた。泥の中に沈んでいた原石を拾い上げてみれば、彼は驚くほど可愛らしく聡明で、今やヴィクトリアの意図を瞬時に察して動く最高の侍従へと成長した。
次に、エリザベートが孤独に苛まれ王族に怒りを募らせる前に、彼女に接触した。
彼女の孤独を癒やし、過酷な教育に疲弊する彼女に極上の茶を差し入れ、その魂の深淵に触れることで彼女の信頼を勝ち取った。
「もしもの時は私が盾になる」――その一言が、エリザベートを繋ぎ止める楔となった。
あの断罪劇もヴィクトリアが全ての図面を描いた。エドワードが口走るであろう屁理屈は全て知っていたから、同じ刃で叩き潰せるよう準備を整えることができた。
巨大な恩を売る。一生消えないほどの、呪縛にも似た恩を。
(そうすれば、エリザベートは王家を滅ぼそうとはしない。)
(いや、彼女という物語の主人公を味方につければ、私が女王となり、この国を統治することだってできるのだ)
エドワードは目を大きく見開いた。姉の言葉が真実であると、その瞳の奥に宿る冷徹な熱量が物語っていたからだ。
「私はね、死にたくなかったの。だからあなたには、その身勝手な『真実の愛』を演じ切ってもらったわ。あなたが馬鹿を晒して自爆してくれたおかげで、私はエリザベートの絶望を救い、彼女を最高のパートナーとして手に入れることができた。
……感謝しているわ、エドワード。あなたの無能さは、私の王冠を飾る最高の宝石になったわよ」
「そんな……オレを、捨て石にしたのか……」
「捨て石? 心外ね。私はあなたの『真実の愛』を尊重してあげただけよ?
愛する女の涙が証拠で、事実確認すら不要の断罪劇。……そんな茶番一つ演じるだけで、あなたは処刑されずに済んで、『真実の愛』と永遠に暮らせる。自分が望んだ世界を永遠に享受できるなんて、幸福でしょう?」
ヴィクトリアは立ち上がり、出口へと向かう。
「さようなら、可愛い弟。『真実の愛』と死ぬまで二人で、お互いを呪い合って過ごすといいわ」
扉が閉まる直前、エドワードは崩れ落ちた。 自分の放った言葉のすべてが、逃げ場のない檻となって、彼を闇の中に閉じ込めていく。
ヴィクトリアは扉の向こうで待っていたマルクと視線を合わせると、微笑みかけた。
「終わったわ。戻りましょう、わが王都へ」
「はい、陛下」
ヴィクトリアの口元には、前世で読んだどの小説のヒロインよりも、傲慢で、そして美しい勝利の笑みが浮かんでいた―。
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