第八章:診察室の誘惑
サトシはタカコと行動を共にして数日が経ち、彼女の指示で、工場の地下にある薄暗い隠れ家で待機していた。タカコは、カオリの居場所につながる手がかりを探るため、闇の情報網を駆け回っているという。
しかし、サトシには、カオリを失った絶望感と、自分を支配する血液型の呪いへの怒りが渦巻いていた。
そんな折、政府から通達が届いた。B型階級の労働者には定期的な健康診断が義務づけられている。サトシは失職していたが、戸籍上の所在を確認される良い機会でもあり、タカコは「逆に堂々と診断を受ければ、政府の追跡から一時的に身を隠せる」と判断した。
サトシは指定された、市の外れにある古びた診療所へと向かった。そこは監視が厳しく、重々しい空気が漂っていた。
サトシの番になり、診察室に入ると、白衣を着た一人の医師が座っていた。
「座りなさい。B型、サトシ君ですね」
医師は穏やかな笑顔を浮かべていたが、その瞳の奥には、どこか冷たい計算高さが潜んでいるようにサトシには見えた。彼の名札には「ヒロカワ」と書かれていた。
ヒロカワはまず、形式的な問診を終えると、サトシの血液検査の結果用紙をじっと見つめた。
「ふむ…B型。健康状態は良好です。しかし、心因性のストレスを強く抱えているようだ。それは、君の心臓の鼓動が語っている」
ヒロカワはペンを置き、声を潜めた。
「カオリ君の件ですね?」
サトシの体が硬直した。診察室は完全に密室で、外の騒音も遮断されている。
「なぜ…それを?」
「心配しなくていい。私は君の敵ではない」ヒロカワは身を乗り出した。「我々は『骨髄外科医』。君が愛した女性、カオリ君…彼女は単なるA型ではない。彼女の真の血液型はAB型。非常に稀少な血だ」
サトシは愕然とした。タカコからは「政府の陰謀に巻き込まれている」としか聞かされていなかったが、具体的な血液型の秘密までは知らされていなかった。
「彼女のAB型の血液は、今の政府にとって、最も重要な『資源』だ。だからこそ、彼女は隔離され、真の目的のために利用されようとしている」
ヒロカワは引き出しから、極小の高性能通信機を取り出し、机の上に滑らせた。
「君の愛は本物だろう。だが、B型の君が、A型(あるいはAB型)の彼女を救うには、限界がある。この血の制度の下では、B型の努力や愛など、ゴミ同然だ」
彼の言葉は、サトシの心の奥底にある絶望と怒りに深く刺さった。
「しかし、我々は違う。『骨髄外科医』は、この腐った血の社会構造を、裏側から変える力を持っている。我々は、血液型さえも変更できるのだ」
ヒロカワはサトシの目を見つめた。
「我々に協力しなさい。君に、特権階級の血液型…A型の骨髄移植手術を施す。君はA型として、カオリ君と同じ階級に入り込み、堂々と彼女を救い出すことができる」
「血液型を…変える?」サトシは信じられない思いで、自分の腕を見た。
「そうだ。君の血液型を変え、君を『支配者の血』の持ち主にする。それは、君がカオリ君を救うための、最も確実で迅速な方法だ。愛する者を救うためなら、君は自分の血を変える勇気があるはずだ」
ヒロカワは立ち上がり、診察室のドアを開けた。
「決断は急がなくていい。だが、考えておきなさい。この通信機で、いつでも私に連絡が取れる。時間が経てば経つほど、カオリ君のAB型の血は、政府の支配に深く組み込まれていく」
「君の愛は本物だと信じている。その愛のために、君は血を捨てる覚悟があるか?」
サトシは動けなかった。ヒロカワの接触は、彼に絶望ではなく、血の階級を超越する「力」という、新たな選択肢を与えたのだった。タカコに全てを話すべきか、それともこの誘惑に乗るべきか。サトシの運命は、今、極めて危険な岐路に立たされた。




