第三十一章:集合意識の胎動
タカコは、サトシの絶望的な視線と、プロフェッサー・イワクラの名を噛みしめる沈黙を無視し、エンターキーを押した。
カチッ――
その音は、世界中の何十億という人々の意識が、個としての存在を終える、静かで決定的なトリガーとなった。
タカコの目の前のモニターに、赤いアラートが一斉に点滅した。
《認識制御システム:コア・アセンション・フェーズへ移行》
システムは起動された。
タカコの隠れ家の中央に設置された、巨大な制御盤が、低く、重々しい駆動音を響かせ始めた。それは、地下深くに埋め込まれた大規模なサーバー群が、全能力を稼働させたことを示していた。
すべての人類の脳に組み込まれた装置を通して、すべての人類の心が、魂が吸い上げられ始めた。
サトシは、何も見えないはずなのに、その恐ろしい事態を肌で感じた。
頭の奥、心臓の鼓動とは別の場所から、巨大な吸引力が働いている。それは、彼の「意思」や「記憶」といった個を構成する要素を、無理やり根こそぎ引き剥がそうとする、耐えがたい圧力だった。
ゴオオオオ……
部屋全体が、低周波の唸り声のような音に包まれた。
タカコのモニターには、都市から都市へと、世界地図上に張り巡らされた青いラインが、一斉に中央のコアシステムへと向かって、膨大なデータストリームを送り込んでいる様子が表示された。
それは、憎しみ、愛情、後悔、希望、嫉妬、喜び――全人類が数千年かけて蓄積してきた、雑多で矛盾に満ちた意識の奔流だった。
「感じるでしょう、サトシ?」タカコは、恍惚とした表情で言った。「人類の醜さ、そして美しさが、今、一つに凝縮されていく。分離した『個』は消滅し、『集合意識』という名の、新たな調和の存在が、今、誕生しようとしているわ」
サトシは、激しい頭痛に襲われ、耳鳴りが鳴り響いた。彼の個としての自己が、溶解していく恐怖に直面していた。
「やめろ…やめろ…!」
彼は叫んだが、その声は、システムの駆動音にかき消された。
タカコのモニターでは、吸い上げられた意識の中で、タカコの理論通り、激しい憎悪や対立する感情のストリームが、互いを激しく打ち消し合い、まるでノイズのように消滅していく様子が示されていた。
プロフェッサー・イワクラが設計したこのプログラムは、人類の業を自ら浄化させる、恐るべきフィルターとして機能し始めていたのだ。
そして、残った穏やかで建設的な意識の光が、徐々に統合され、巨大で単一の、輝く存在を形成し始めていた。
サトシは、自分が愛したカオリの意識、Kの偽りの献身の記憶、そしてタカコの冷徹な信念、それらすべてが、大きな流れの中に飲み込まれていくのを感じた。
「これで…終わりだ…」
サトシは目を閉じた。彼の「個」が消滅するまで、もはや時間は残されていなかった。
彼らの視界の、さらに外側。
この隠れ家の、どこにも物理的に存在しない。
だが、確かに「いる」第3の視点が、そのすべてを、冷徹に見つめていた。
その視点は、モニターに映し出される世界の終焉も、タカコの狂喜も、サトシの絶望も、そしてKの残骸も、すべてを無感情に観察していた。
まるで、最初からすべてを知り尽くし、この結果を予期していたかのように。




