第二十三章:脱出の号砲
サトシは、ドクター・ヒロカワに見送られ、「栄光の間」から手術室へと連行された。彼の腕時計とジャケットのカメラには、この国の支配者たちの真実を暴く『ブラック・ブラッド・リスト』のデータが、完全に収められている。
(リストは撮った。Kも外で動いているはずだ…)
サトシは心の中で、タカコの作戦の次の段階へと意識を集中させた。彼の任務はリストを盗撮することだった。その任務は完了した。
あとは生きて脱出するのみだ。
手術室は冷たく、蛍光灯の光が無機質にサトシを照らしていた。サトシは促されるまま、冷たい金属の手術台に横たわった。
「カオリ君の愛が、君を新しい世界へと導くのだ」
ドクター・ヒロカワが近づき、彼の腕に点滴の針を刺した。これが麻酔だ。
「さあ、楽になりなさい、サトシ君。目覚めた時には、君は血の階級から解放された『勝者』だ。」
看護師が麻酔薬の入ったボトルを点滴台にセットし、バルブを開ける。薬液がサトシの血管へと流れ込んできた。全身の感覚が、ゆっくりと遠ざかっていくのを感じる。
(ここで眠ってはいけない…)
サトシは必死に目を見開いた。タカコは麻酔が効き始めるまでの、ほんの数十秒の間に、自力で拘束を外し、混乱を作り出せと指示していた。彼の命は、外でKが仕掛けた「地上の混乱」が、この地下アジトに波及するまでの、数分の時間差にかかっていた。
その時、手術室の分厚い金属製の扉の向こう側から、微かな、しかし決定的な「衝撃音」が響いてきた。
それは、サイレン音や銃声ではない。遠くの地面が揺れるような、重い振動。
ドスッ…ドォン!
「何事だ!」ドクター・ヒロカワが顔色を変えた。
「ドクター、外で…純血監視隊の車両が建物を取り囲んでいます! 通報があったようです!」
慌てた様子の警備員が、手術室に飛び込んできた。
ヒロカワの顔から、優越の笑みが消え失せた。
「馬鹿な! 誰が通報した!? 我々と監視隊は…!」
その混乱こそが、タカコが計画した脱出の「号砲」だった。
サトシの意識が急速に低下していく。しかし、アドレナリンと使命感が、彼の理性をかろうじて繋ぎ止めていた。
(今だ…!)
サトシは、点滴台から麻酔の針を引き抜くほどの力は残されていなかったが、麻酔が完全に効く直前の、最後の力を振り絞った。
彼は、手術台の傍らに置かれていた金属製の器具盆を、麻酔で鈍くなった腕で力任せに払った。
ガシャアァン!
器具が床に散乱し、けたたましい金属音が鳴り響いた。
「このB型が!まだ抗う気か!」ヒロカワが怒鳴った。
しかし、その音はヒロカワに向けられたものではなかった。サトシが作り出した「地下の混乱」は、外部の「地上の混乱」と合流し、骨髄外科医のセキュリティと注意力を完全に分散させた。
サトシは急速に意識を失っていったが、彼の脳裏には、カオリの笑顔と、タカコの冷徹な命令だけが残っていた。
(頼む、K…)
サトシの身体が麻酔に沈む瞬間、手術室のセキュリティシステムが、一瞬だけエラーの警告音を発した。それは、Kが外部のサーバーノードへの侵入を完了させたことを示す、誰も気づかない小さなサインだった。
サトシの任務は完了した。彼の運命は、今やタカコとKの手に委ねられた。




