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散月記

作者: 八田里

 私はこれは夢だと思った。こんな荒唐無稽なことがあってたまるか、と思ったからだ。しかし3,4回寝直したところでやっと現実だと気づいた。


 どうやら私は犬になってしまったらしい。

 朝を起きたら毛がふさふさのポメラニアンになっていた。

 何を寝ぼけたことを言っているのだと思う人もいるだろう。


 でも、信じてくれ。

 試しに声を出そうとしたら情けない鳴き声しか出なかったし、窓ガラスには短いあんよのプリティーな姿が映っている。この丸っこい足では革靴も履けないだろう。


 しかも、信じられないことに尻尾も自分の思うがままに動かせるのだ。腰とお尻の間の尾てい骨辺りに意識を集中させるとガラスの中の犬が左右に尻尾を振る。耳もほんの少しだけ意識を割くことで小さく震わせることができる。




 何ということだろう。28年の人生の中でここまで気がふれてしまったのではないかと思ったことはない。なぜこうなったのか原因を考えても冷静さを欠いた頭ではとんと見当もつかぬ。


 日頃から動物になりたいと願っていたわけでもないし、今の仕事にも満足している。

 唯一、未だに恋人がいないのは残念だがそれも大して気にしていない。私の心の問題が表に出てしまったとしても自分の姿を変えるような強い衝動はなかった、いやあったかなぁ、まあないはずだ。



 そうこうしているうちに時計は8時のチャイムを鳴らした。普段は7時半までには家を出るようにしており、8時はギリギリ遅刻をしないボーダーラインである。今日は入社初めての無断欠勤になってしまった。あと一時間ぐらいしたら上司や先輩方は安否とお叱りの念を込めた電話かメールを送ってくるだろう。憂鬱だ。

 

 このちっこい体では家を出るどころか部屋を出ることさえもできない。ベランダの柵越しから見える通行人達は頭上に犬に変身した人間がいるなんて思いもしないだろう。時折、学生と目が合うがそのまま手元のスマホに目を戻したり、犬好きなのか手を軽く振るなどの反応しかしない。



 詰んでしまった。非日常的な問題にぶつかったらむやみやたらに行動すると却って問題を悪化させてしまうのが物語の定積だが、かといってじっと耐えることを選んだらジリ貧だ。小型犬が何日飲まず食わずで生きていられるのか知らないが一週間も経ったらだいぶ弱ってしまうと予想される。


 カフカの『変身』を思い出す。

 いやだ。グレゴール君みたいになりとうない。


 私には二つの選択肢を前にしてもどちらかを選ぶ決断は下せなかった。

 やけくそになってキングサイズのように感じるシングルベットに飛び込んだ。体重が軽くなったせいでスプリングの軋む音がしなかった。

 まだ、ほのかに温かい。


 もういいや。寝てしまおう。果報は寝て待てというし、いざというときのために体を休めておいて損はないだろう。ほうら、眠気にあがらうことをやめたら次第に瞼が重くなってきた。



 ガタン。

 玄関のほうから聞こえた物音に目が覚めた。ドアが開いた後こちらに近づいてくる足音がある様子からして何者かがこの6畳の部屋を目指しているらしい。


 時計を見ると既に12時を回っている。一番確率が高いのは無断欠勤をしたことを会社から連絡をされた家族の誰かなのだが、犬の鳴き声を聞きつけた大家さんの可能性も高い。このアパートはペット禁止の物件なのだ。必死になって声を上げ助けを請う姿も他人から見ればキャンキャン吠える喧しい犬がいるだけだ。


 またこれは最悪な想像だが空き巣という可能性もある。小型犬でもせめて柴犬ぐらいであれば攻撃できそうだがただ愛嬌をふりまくだけのポメでは無理だ。可愛いは最強だけど、そのためには可愛いと思ってもらわなくてはならない。

 万が一に備えてベットの下で息をひそめる。


 ドアのすりガラス越しに黒い人影が見えた。小柄なシルエットだから両親ではないだろう。では、大家さんか。あのお婆さん、猫は好きだけど犬はどうかな。

 ドアノブが下がるのがやけにゆっくりに見えた。





 「お兄ちゃん。大丈夫?会社から連絡きたんだよ。」

 部屋に入ってきたのはブレザーの制服を着た今年高校生になる妹だった。そういえば今日は終業式だと言っていたな。会社勤めの両親に代わって様子を見に来たのか。


 「もう、また脱ぎ散らかして。シャワーでも浴びているのかな。」

 違うぞ妹よ。兄は今ベット下にいます。


 「あれ、布団に動物の毛がついてる。」

 ベットの側でしゃがんだ妹と目があった。

 「え、嘘。ワンちゃん。お兄ちゃん犬飼い始めちゃったの。」

 アパートがペット可出ないことを知っている妹は慌てている。そして、そのまま私のほうに手を伸ばしてきた。


 「そんなところにいないでお外にでてきなよ。埃っぽいでしょ。」

 実は先程から鼻がムズムズしていた私は従順にその言葉に従った。休日に掃除機をかけていたつもりだが元の姿に戻れたら隅々まで丁寧にかけるように心がけよう。


 「わあ、ポメちゃんだ。お兄ちゃん、可愛い動物が好きだからなあ。」

 脇の下を抱えられて目線を合わされた。ここまで顔を近づけたのはいつ以来だろう。やっぱり、妹は母さん似だな。なんだが照れくさくなってそっぽを向くと更に顔をよせてきた。

 「ホントに可愛いなあ。」

 やめい。

 「わっ。」

 短い手を精一杯伸ばして目の前の頬を斥けようとした。

 だけど、逆にギュッと抱きしめられた。驚いても抱いた犬を投げ出さないのは立派だと思うぞ。動物は優しく接しないとな。

 「ごめんね。」

 そんな申し訳なさそうな顔をするな、妹よ。ただ恥ずかしかっただけだ。中身はポーカーフェイスが似合う成人何だから仕方がないだろう。


 本人に聞かれたら鼻で笑われそうな冗談だな。

 「お兄ちゃんが戻ってくるまでの間掃除でもしてあげようかな。」

 そういうと妹はおもむろに立ち上がってその辺に散らかった服を集め始めた。いつもなら私だってキチンと畳んでしまうくらいするさ。

 でも、この可愛いあんよではどう頑張ってもできない。毛の付いた服を集めて綺麗にしてくれる姿は将来いい母親になる予感をさせる。甥っ子か姪っ子が出来たら会わせてくれよ。

 まあ、最近は結婚しないという選択肢もあるし、どっちでもいいけど。

 幸せならオーケーです。


 「このまま仕舞うのはまずいよね。洗濯機で洗っちゃうか。」

 服を抱えてドアを足で開けようとする未来のかかあ。


 いや、ちょっとまてくれ。

 そう言えば今、洗濯機の中には見られたら不味いものが。

 「え。」

 

 ああ、時すでに遅しか。

 私もトコトコと洗面所のほうへ近づいていく。さて、いったいどのような反応をしてどんな表情を浮かべているのか。


 そーっと除くと赤のドギツイ女ものの下着を前に硬直しているJKがいた。なんというミスマッチ。お前に大人の世界はまだ早かったようだな。


 ほら、早く家にお帰り。今日、見たことは全て忘れるのだ。もちろん、プリティなポメのこともな。

 あ、コラっ摘まむんじゃない。

 「もしかしてお兄ちゃんに恋人が。噓でしょ。」

 嘘とは何だ。嘘とは。

 「お父さんとお母さんにはなんて言えば。」


 兄想いの我が愛しの妹よ。案ずるな。それは先日家に泊まりに来た香苗のものだよ。お前も知っている腐れ縁の変態の幼馴染のものだ。

 そう伝えられたら妹の誤解も解けるだろう。

 「それともお兄ちゃんが履いたのかな。」

 そんなとんでもないことを言うんじゃありません。


 「まあ、違うか。多分、趣味が違うだろうし。香苗ちゃんが悪戯したのかな。」

 正解だ。流石県内有数の進学校に通っている出来のいい頭は違うな。お兄ちゃんは鼻が高いです。エッヘン。


 内心威張っていると妹は下着を洗濯機の中に戻して呟いた。

 「でも、彼女さんだといいな。」

 それは。


 「お兄ちゃん、今までずっと我慢してきたもん。きっと素敵な恋人さんだって欲しかったはずだよね。」

 死角からのクリティカルヒットに涙腺が悲鳴をあげる。

 そんなことはない。私はずっとやりたいことをずっと貫いてきた。

 短い前足を膝のうえにポンとおく。

 「ふふ、どうしたのかな?」

 なあ、今だから言えるけどさ。私はお前にとても感謝しているんだ。

 お前のほうがずっと我慢を強いられてきたんじゃないか。私と両親の板挟みになったことだって少なくないだろ。


 「ポメちゃん。君は彼女さんの連れ子かな。不束者のお兄ちゃんをよろしくお願いします。」

 相変わらず順応性の高い妹だこと。親不孝な息子に孝行娘。私の家は上手いこと釣り合いがとれているな。




 女の身でありながら男の心を持つ兄のことを、お前はよく受け入れてくれたよ。実の親でさえ理解してくれるまで数年の月日が必要だったというのに。


 「お兄ちゃんは優しいからね。一緒になった人はきっと幸せ者にしてくれるよ。」

 自分のことしか考えられない兄よりお前のほうがよっぽど優しいよ。

 カミングアウトした後もお前は呼び方をお姉ちゃんからお兄ちゃんに変える程度で態度は微塵も変えることはなかった。

 そのことにどんなに救われたことか。


 ああ、早く人間姿に戻りたいな。戻ってこの可愛い妹を力いっぱい抱きしめてやりたい。

 「え。」

 強く願ったせいか熱も伝わるほどリアルな想像が脳内で再生されている。腕のなかの36度のあたたかさ。確か、小さい頃はあたまをなでられるのが好きだったっけ。


 「ねえ。」

 目に入れても痛くないというのは決して大袈裟な表現じゃないんだな。目の前の妹が可愛くて可愛くて、もっと近くで愛でてやりたい思いがむくむくと湧きおこる。



 「お兄ちゃん!」

 「え」

 私の腕の中には顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいる妹がいる。制服のごわついた固い生地が素肌にはっきりと伝わっている。

 全裸で女子高生を抱きしめる成人。客観的にみるとなんて酷い絵面だ。犯罪だ。


 「ちょ、ちょっと着替えてくる。」

 「う、ん。」


 急いで部屋に戻り適当な服を着た。

 ズボンをはいたタイミングで妹も戻ってきた。

 「ねえ、ポメちゃんて。」

 「言うな。それ以上は言ってはいけない。」

 深掘りしてはいけないことも世の中にはあるのだ。


 開きかけた口を塞ぐと先程までのセンチメンタルな雰囲気は消え、何処かギクシャクした空気が二人の間を満たす。

 「あのー。」

 「なんだ。」

 「体調は悪くない?」

 「いたって健康だ。」

 「そう。」

 「そうだ。」

 わざわざ訪ねてくれた妹に気の利いた言葉をかけてやりたいのに上手いことが思いつかない。


 「じゃ、じゃあ、帰るね。」

 「ちょっと待って。」

 玄関で靴を履きドアノブに手をかけた妹を引き留めた。


 「その、ありがとう。今まで色々と。」

 「ふふ、何それ。兄弟なんだからお礼なんて、面と言われると照れくさいよ。」

 振り返らずに帰った。








 「バカ。こっちだって恥ずかしかったんだぞ。」 

 私は鞄からスケジュール帳を取り出すと次の休日の欄に「帰省」と小さく書いた。


 「もっと恥ずかしがらせてやる。」

 手始めにさっきよりも強く抱きしめてやろうか。

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