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アパショナータ

作者: 古数母守

「最優秀賞はケイ・コスモさんです。おめでとうございます!」

ホールを埋め尽くした観客が割れんばかりの拍手を送っていた。まだ十歳になったばかりのケイはステージの中央に歩み出て来て、ぎこちないお辞儀をした。天才的な技量とそのあどけない姿のギャップがさらにいっそう大きな拍手を呼び込んでいた。きっと世界でも指折りのピアニストになるだろう。辛口で知られる評論家も彼女に対しては好意的だった。


 そんな将来を嘱望されていたケイだったが、ある日、練習中に指の震えが止まらなくなった。そして微妙に狂いが生じた音がひときわ優れた彼女の耳に達した。ケイはそれが自分の出した音であるとは到底信じられなかった。彼女はもう一度、やり直そうとしたが、精確無比を誇ってきた彼女の指は言うことを聞かなかった。またしても不快な音が彼女の鼓膜を揺らした。彼女は腹を立てて鍵盤を思い切り叩いた。家の中を破壊的な音が響いた。驚いた彼女の母親が駆けつけた時、彼女は鍵盤に頬をすりつけながら泣いていた。母親は彼女の話を聞き、すぐに医者のところへ彼女を連れて行った。パーキンソン病という診断が下った。リハビリを続けることで病気の進行を遅らせることはできそうだと医者は言った。ピアノを弾くこともできるだろうと言った。だがそれは初心者が弾くレベルのことであって、プロのレベルではなかった。そして超絶的な技巧を誇った彼女にとっては、その診断は死の宣告に等しかった。

 音楽界は幼少の天才ピアニストを襲った悲劇を嘆き悲しんでいたが、しばらくすると忘れてしまった。ケイの代わりはいくらでもいた。世界中のピアニストがケイの手にした栄冠を欲していた。ライバルを襲った不幸については同情の余地があったが、次のコンクールで優勝するのは自分だという気持ちの方が強かった。誰かの心配などしている余裕はなかった。


 ケイは自室に引きこもり、誰とも会おうとしなかった。まだ十歳だというのにとてつもない絶望を味わっていた。だがコンクールで優勝するとか、演奏を褒められるとか、実はそんなことは彼女にとってはどうでも良いことだった。楽譜から作曲家の意図を汲み取り、自分が奏でようと思った音を紡ぎ出す。彼女はそうしたかっただけだった。かつて彼女の指は彼女のイメージした通りの音を奏でることができた。それが今では震えて言うことを聞かなくなってしまった。この先、病気が進行して日常生活にも支障が出るかもしれなかったが、彼女はそんなことはどうでも良かった。思い描いた音を紡ぎ出す。彼女が天から授かったその能力が今では彼女の手元にはないという現実にただ絶望していた。かつてピアノの音が絶えることのなかった家はひっそりとしていた。


 それから一か月が経った。ケイは塞ぎこんでいたが、彼女の心はいつも音楽と共にあった。激しい旋律が彼女の中を駆け巡っていた。彼女は心の中でベートーヴェンのアパショナータを弾いていた。楽聖の情熱的な音楽は彼女をすっかり虜にしていた。なんて素晴らしい音楽だろう。彼女は思った。もう一度、この曲を弾いてみたい。そう彼女が強く望んだ時、彼女が心の中で想像した通りの音が耳から入って来た。何が起こったのか彼女にもよくわからなかった。だがその音は空気を震わせ、彼女の素晴らしい聴覚に達していた。それは彼女が思い描いた通りの演奏だった。ケイの部屋から流麗なピアノの音が響いて来て、びっくりした母親が駆け込んで来た。そこで母親は鍵盤が勝手に動いているのを見た。


 それからケイは度々外出するようになった。彼女は自分の演奏を人々に聴いてもらいたいと考えていた。だが彼女が音を奏でる方法は、人々にとって刺激がありすぎた。彼女はピアノの販売をサポートするという名目でいろいろな場所に出向いた。ホテルのロビーに置いてあるピアノに彼女はそっと近付いた。やがて美しい音楽がロビーを満たした。鍵盤が勝手に動いているのを見て、人々はそれが自動演奏だと思った。だが何か違っていた。その場を通り過ぎようとしていた人々は自分でも何故だかわからずに足を止めて、その音楽に耳を傾けていた。

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― 新着の感想 ―
とっても不思議な話だったけど、なんか心にぐっときました。好きです。この話!!
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