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◇◇◇◇◇◇
「ランドリック様のおかげで大分落ち着いたけれど、油断は許さない感じね」
モナさんの言葉に、わたしも頷く。
昨日はランドリック様が豊富な魔力を分け与えてくださったから、多くの患者を救うことができた。
けれど治療院の前には今日も朝早くから長蛇の列ができている。入院するほどではないけれど、クゼン病であるなら隔離しなければならない。通常の風邪でも喉の痛みが出ることもある。初期症状だとどちらであるか見分けがつかない。
(センナギ草があれば、解決したのだけれど……)
モナさんの部屋で育てていたセンナギ草は無事だったが、わたしの部屋で育て始めたセンナギ草はまだ薬として使うには早い。
盗まれたセンナギ草はどうなっているのだろう。もしもまだ捨てられていないなら、乾燥させて煎じれば、薬として使用できる。けれどそんなことはあり得ないだろう。売り物にならないなら、捨てられるだけだ。
「治癒の魔石でいったん落ち着いたのに、何だって自分の症状を隠す患者がいたんだか」
「隔離されるからでしょうか。働けなくなると、生活に支障が出ますから」
昨日の幼子の母親は言っていたのだ。仕事が忙しくてこれなかったと。
仕事を休みたくない人は大勢いるのだ。一日休んだだけで職を失うこともあるのだから。そんな人は、薬だけもらってあとはどうにかしようとする。
本来ならそれをしてもどうということもなかったが、クゼン病が質が悪すぎた。普通の風邪とも、ゼカ風邪とも初期症状が似ているから、軽く考えてしまうのだ。
「働くって言ったって、死んだら元も子もないっての。御触れを出してもらったのに、ちゃんと治療院にきてくれないだなんて」
「でも、クゼン病の恐ろしさはもう伝わっているでしょうし、油断せずに治療院へ来てくれると思いますわ」
門の前に並ぶ患者たちの長蛇の列がその証拠だと思う。
治療院まで来てくれた人々はすべて一命を取り留められた。けれど治療院に来ることができなかった人々もいる。
そしてそれは親しい人の悲しい別れと共に、クゼン病の恐ろしさを身をもって知ることになったはず。
「あぁ、愚痴ってたってしょうがないわね。今日もやり切りましょう」
腕まくりして気合を入れるモナさんと共に、わたしは調剤室に向かった。
調剤室からは、独特な匂いが今日も漂っている。
モナさんが軽く怯んだ気配がする。
「結構臭いきついわよね。今日はまた一段と臭いが籠ってない?」
「あ、モナさん交代に来てくれたんですか? ルピナさんまで!」
「ちょっとピッカ! 走らないの。しかもあんた薬草を持ったままっ」
「あわわ、モナさんごめんなさい、ついついやっちゃった。来てくれてうれしいなー」
「あんたしかいないの?」
「ちょっと処置室の患者さんが暴れちゃって、いまさっき二人が応援に走ったの」
思わずモナさんと顔を見合わせる。
わたしたちに連絡が来ていない。
もらっていたらもっと早く来ていたのに。
「連絡はあたしたちにもちゃんとしないと駄目でしょ。そしたらあたしたちがもっと早くこっちに来たんだから」
「あー、それ! ランドリック様が全員無茶するなって通達入れてたよー?」
「いや、それ、言ってる意味違うから……」
モナさんが軽く頭を押さえてため息をつく。
ランドリック様が言いたいのは、徹夜など限界を超える仕事をしないでほしいという意味だろう。今回のような急な出来事は対象外ではないのか。
「え、駄目だった?」
きょとんとしたピッカさんの頭を、モナさんはヴェール越しにわしゃわしゃ撫でて「いい、いい、あんたは頑張ってる」と慰めた。
「とりあえず、窓は少し開けましょう。薬草の匂いが充満し過ぎては、息苦しいでしょう」
わたしにとっては馴染んだ良い香りなのだが、濃厚な薬草の臭いは体調を崩す人もいる。現にモナさんも一瞬怯んだぐらいに、この部屋の空気は淀んでいる。
窓を開けると程よい風が入り、カーテンを靡かせた。
「で、どのぐらい進んでる? あんただけだったんなら、ほとんど出来てないんじゃない?」
「煮込むのはリーズルさんとルッテさんがやってくれてたの。わたしは丸薬に丸めてた」
「あぁ、あの子たちが当番だったのね。じゃあ各種薬草の配分量は大丈夫だし、あたしは薬湯を完成させるわ」
くつくつと鍋で煮込まれる薬草は、時折かき混ぜてあげればいい。段々と緑から紅茶色に変わっていくので、火を止める加減はわかりやすい。
「では、わたしは塗り薬の方を作成させて頂きます」
クゼン病の爛れは、塗り薬である程度までは回復させることができる。その後、わたしの治癒魔法であとを消せばいい。末期症状ではそう悠長なこともできないけれど、症状が落ち着いている患者になら、十分間に合う。
(ランドリック様が来てくださったから、皆助かったのだわ)
無尽蔵にあるかのように魔力を分け与えてくださったけれど、わたしにはわかってしまった。
あの魔力の供給量は、彼の身体に相当な負担をかけていたはずだ。
途中で何度断ろうと思ったことか。
けれどランドリック様は患者の治療と、わたしの体調を優先して下さっていた。
(今日も来ると言ってくださったけれど……)
出来れば、休んでいて欲しいと思う。
彼のおかげで、明らかに治療院に余裕ができた。昨日の治療であれほどの魔力を消費したのだ。いくら魔力の豊富な王族といえど、体調に支障が出る度合いのはずだ。
塗り薬をすり鉢で混ぜ合わせていると、嫌でも自分の指先が目に入る。
ランドリック様が寄付してくれた質の良い塗り薬のおかげで、ひび割れて血が滲んでいた手は、多少のかさつきがある程度まで回復した。このまま使い続けていれば、そう遠くない未来に完治するだろう。
昨日は魔力供給のためとはいえ、ランドリック様にぎゅっと強く、それでいていたわるように握りしめられていた手。
治療中はそれどころではなくて、少しも気にならなかったことが、いまになって恥ずかしくなってくる。
必然と至近距離にいた彼を思い出すと、どうしてか、心が落ち着かない。
なぜなどと、理由など考えてはいけないと思う。
(ここにいるわたしは、ルピナお義姉様なのだから。ランドリック様の大切な幼馴染を虐げた悪女なのだから)
彼からの優しさを受ける権利は、わたしにはない。
ランドリック様は、ただ患者を助けたかっただけ。それには、治癒魔法を使えるわたしに魔力を渡すしかなかったから、そうしただけ。
ならばその優しさにこたえるべく、わたしは治療院の患者をすべて救って見せる。
丁寧に、けれど素早く無駄のない動きを心がけながら、わたしは次々と薬草をすり鉢で混ぜ合わせて塗り薬を作り上げていく。
二時間ほど調合していただろうか。
リーズルさんとルッテさんが戻ってきた。
「うわ、ルピナとモナ……」
思わずといった感じで、リーズルさんが呟く。
その口をヴェール越しにルッテさんが片手で慌てて塞いだ。
二人とも、わたしたちがくることを知らなかったようだ。
モナさんからピキッと音がしそうなぐらい、怒りの気配が強まった。
「二人ともおっ帰りー! 暴れてた患者さんどうなったー?」
ふわふわっとしたピッカちゃんが、なにも気づかずに話題を逸らしてくれた。
「結構大変でしたけれど、何とかなりました」
「あそこまで暴れなくても、ねぇ……。おかげで治療が滞ってるわ」
「ルッテ。あんた怪我してない?」
「なによ。怪我ぐらいするわよ、悪い? 患者の暴れ方酷いんだもの。あんなの、男性にどうにかしてもらいたいわよね」
「そう突っかかってこないで。手当てするから腕を出して」
「別にモナにやってもらわなくたって大丈夫よ」
「あんた気付いてないの? 袖に血が滲んでるんだけど」
モナさんに言われてわたしも気づいた。
ルッテさんの修道服の袖に汚れがついている。修道服は黒を基調にしているが、袖口は白いカフスだ。汚れやすいから、そこだけを取り外せるようになっているのだけれど、ルッテさんのカフスには赤い染みが滲んでいる。
「えっ、ルッテったらいつの間にそんなところに傷を?」
「痛いなとは思ったけれど、血が出てるとは思わなかったの。ちょっとカフスを取り換えてくるわ」
「だからその前に包帯ぐらい巻かせなさいよ」
まったくと言いながら、モナさんはルッテさんを強引に椅子に座らせて、傷に効く塗り薬を塗布する。調剤室だから各種薬は揃っているし、引き出しには予備の清潔な包帯も当然置いてあるのだ。
手際よく、くるくるっとルッテさんの手首に包帯を巻いて、モナさんは笑う。
「ほら、一瞬だったでしょ。片手で治療するより早いっての」
「……一応、お礼は言うわよ。ありがとう」
「どういたしまして」
ルッテさんがカフスを変えに調剤室を出ていくと、残されたリーズルさんはどこか所在無さげになった。
(居づらいですよね……)
出来ればこちらは気にしていないと態度で示したいところだが、それをすれば火に油を注ぐことになるのは目に見えている。なので、わたしはできるだけ彼女を刺激しないように、心を無にして調剤を続ける。
「あー、あれ。あれがたりないわ」
唐突に、棒読みのようにモナさんが呟いた。
「あれってなんだろ?」
「あれはあれよ、ちょっとピッカちゃん、院長先生のところから、予備の包帯貰ってきてくれない?」
「そ、それならわたしが」
「あぁ、いいって。リーズルには他に頼みたいことあるし。ピッカちゃん行ってきてくれるでしょ。というか、そろそろ休憩じゃない?」
「そうだった、休憩時間忘れてたっ」
「そうだと思った。休憩終わったら、戻って来るときに院長先生のところ寄ってきて」
「りょうかーい! じゃあ、ちょっと休んでくるねっ」
にこにこ笑顔なのがヴェール越しにも分かるぐらい、元気にピッカちゃんは走り去っていく。
「さて、と」
扉をパタンと閉め、モナさんがリーズルさんを振り返る。モナさんがそこから移動しない限り、部屋から外に出られない。
じっと見つめられたリーズルさんは、数歩、後ずさった。
「リーズル。ちょうどいい機会だからあんたに聞きたいわ」
「な、なにをですか……」
「あんた達って、何でルピナを目の敵にしてるわけ?」
わたしがずっと知りたかったことだったから、驚いてモナさんを凝視してしまう。
「ルピナはさ。確かに随分な噂の持ち主よね。見目が良くて身分の高い男しか治療しないとか、傲慢で我がままで、平民なんて人として見做さないとか。王都でルピナの悪行の数々を知らない人なんていないぐらいよね」
「そ、そうです、悪女そのものですっ。そんな悪女がここに押し込められたのですから、誰だって関わりたくないでしょっ」
「そう、みんな、遠巻きに見るか、無視するか。関わろうとしないのよ。だけどあんたたちは積極的に絡んできてる。わざわざ嫌がらせの為にね。なんでそこまでするわけ?」
「あ、悪女だから……」
「そんな理由じゃないよね。大体ルピナはここにいたって伯爵令嬢よ? あんたが仕えるグリフェより爵位が上でしょ」
「修道院では身分は関係ないはずですっ」
「そんなものは建前。わかってるでしょ。だってあんた、ルピナに嫌がらせしてるときに指先震えてるじゃない。ほんとは嫌がらせなんてしたくないんじゃないの?」
モナさんに手を見られて、リーズルさんは隠すように胸元で手を重ねる。
わたしは彼女達の嫌がらせに多少困りはしていたけれど、彼女たちの様子をじっくりと見たことはなかった。
(何か、事情がある……?)
グリフェさんの侍女としてこの修道院へ来たリーズルさんとルッテさんは、本来ヴェールを被っている必要はない。
もしかしたら、その事とも関係あるのでは。
「ねぇ。グリフェに何を言われてるの?」
「……グリフェ様は関係ないわ。これは、わたしが自主的にやっているの」
「へぇ。じゃあもうあんたには聞かないわ。代わりにルッテの方を問い詰めとく。あの子は気が強そうに見えて問い詰められると弱いのよね」
「脅すつもりですか?」
「そうだけど?」
「モナさんに関係ないのでは」
「馬鹿言わないで。わかるでしょ? ルピナはあたしの大事な親友なの。その親友が理不尽に虐げられてるっていうのに、黙ってられるわけないでしょ」
こんな時なのに、親友という言葉に嬉しさがこみあげてくる。
「いい加減にしてください! なにもかも、ルピナの自業自得じゃないですか。貴方さえいなければ、グリフェ様は修道院に来なくて済んだのに! どうしてよりによってこの修道院なの? これ以上、グリフェ様を苦しめないで!」
ヴェール越しでもわかるリーズルさんの強いまなざしに、わたしは数歩後ずさる。
「あなたは、許されない人間なの。苦しみ抜くべきなんですっ!」
「あっ、ちょっと!」
叫ぶように言い切って、リーズルさんはモナさんを押しのけて部屋を飛び出していく。
肩をすくめてモナさんが苦笑する。
「ごめん、結局理由わかんなかったわ。さっさと解決してあんたへの嫌がらせを辞めさせたいんだけど」
「いえ、聞いて下さり、ありがとうございます」
ただの嫌がらせではなかった。
グリフェさんとルピナお義姉様の間に、きっと何かあったのだろう。
男爵令嬢と伯爵令嬢。
お義姉様は、下位貴族を虐げることに何ら疑問を感じないだろうから。
それに……。
「モナさんが親友といってくださり、嬉しかったです」
「え、そこ? だって事実だしね。あーもう、なんか照れてきちゃった。さっさと薬作り終えちゃおうか」
モナさんは照れくさそうに笑って、粉薬を薬紙で包みだした。
午後になると、約束通りランドリック様が治療院へ訪れた。
「すまない、遅くなってしまった」
詫びる必要など欠片も無いのに、ランドリック様はわたしに手を差し出す。何故差し出されたのかわからない。
「どうした? 俺の魔力が必要だろう」
「今日も魔力を分けて頂けるのですか」
「その為に来た。治癒の魔石も大分在庫が少ない。こちらに回せる量にも限りがあるからな」
治癒の魔石が少なく、センナギ草の在庫も少なくなっているいま、ランドリック様の膨大な魔力を使わせて頂けるのはありがたい。
「失礼します」
そっと、彼の差しだした手に自分の手を重ねる。
大きく武骨で、それでいて優しい手が遠慮がちに握り返してくる。
「午前中に暴れた患者がいたと聞くが」
「はい、痛みが強かったようです」
あの後、他の修道女の噂では、暴れた患者は足を骨折していたのに、薬だけもらって帰ろうとしていたらしい。
無理に歩こうとして、さらに骨が折れてしまい、絶叫していたのだとか。
そこまでの状態ならばわたしを呼んで欲しかったのだが、皆、昨日わたしが倒れかけたせいで遠慮させてしまったようだ。
午前中にわたしが治療にあたるのではなく、モナさんと一緒に調合担当だったのも、魔力を使い過ぎたことを院長も知っていて、配置を変えてくれたおかげだ。
ランドリック様が魔力を提供してくれたから重篤患者は治まったが、修道院にはまだまだ治療を待つ患者が大勢いる。
今日は、どの程度患者を癒せるだろう?
ちらりとランドリック様を盗み見る。精悍な横顔は、相変わらず眉間にしわが寄っている。本来なら、わたしと手を触れあうことなど汚らわしいに違いない。
けれど、患者の治療のためにその魔力を惜しみなく提供して下さることに、感謝の念が尽きない。
中庭に沿った大理石の廊下を、病室に向かって歩いていく。コツコツと、彼のブーツの足音が響く。
何部屋も回り、何時間ぐらい、治療し続けていただろうか。
「もう、治癒魔法での治療は十分だな?」
ランドリック様の確認に、わたしは素直に頷く。
本当に、彼の魔力量は多い。
今日は昨日よりも多くの患者を治療できたというのに、わたしの魔力はほぼ減っていない。ランドリック様から供給された魔力量が桁違いだったのだ。
「これほどまでにご協力いただき、ありがとうございます」
クゼン病の腫れが悪化した患者はすべて治療を終え、あとは薬湯で収束していくだろう。もしまた喉の腫れが悪化する患者が出始めても、その時にはセンナギ草が育ち切る。
深く頭を下げ、お礼を告げる。
繋がれたままだった彼の手が、びくりと反応した。
「どうかされましたか……?」
「な、なんでもない」
ぱっと振り払うように、手を離された。
(いつまでも繋いでしまっていたのは、申し訳なかったわ)
治療が終わったのになぜ握ったままでいたのか。無意識過ぎた。
ランドリック様はしまったと言わんばかりに片手で顔を覆い、軽くため息をついて頭を振る。
「俺はもう城に戻るが、何かあったらすぐに連絡をよこしてくれ」
「はい。院長先生からご連絡が行くと思います」
「あ、あぁ、そうだな。お前から俺に直接連絡を取る手段などないだろう。それでいい」
頷いて、ランドリック様が立ち去ろうとしたその時。
「騙されないでください! すべては、ルピナが仕組んだことなんです!」
――わたしを糾弾する声が響き渡った。





