【電子書籍化】愛していただけるのでしたら、それで構いません
────誰かに愛されたい。
それがブルーメル侯爵家の娘、アリーチェの願い。
五歳の少女のたった一つの切実な願いである。
アリーチェは長いピンクブロンドの髪に大きな緑色の瞳が宝石のように美しい少女だ。
裕福な家に生まれ、何不自由のない暮らし。
望めば何でも手に入る誰もが羨むような環境だが、自由と家族からの愛情だけは手に入らなかった。
父である侯爵と元伯爵令嬢の母は完全なる政略結婚である。
母は自分が美しくあるためだけに時間とお金を使う女性で、夫や子供達に関心はない。
表向きは夫を献身的に支えるよき妻、子煩悩な母を演じているが、積極的に触れ合うことはない。
仕事人間であり家族のことは二の次にしている父は不規則な生活をしているため、食事は家族と別室で摂っている。
浪費家の妻にいい感情は抱いておらず、時たま気にかけるのは跡取りであり自分によく似た息子のことだけ。
娘のことは使用人や家庭教師に任せきりだ。
アリーチェの兄は幼いころはそれなりに妹を愛していたが、自分より美しく頭のいい妹への嫉妬心が徐々に育っていった。
虐げることはなかったが自分から進んで妹と触れ合おうとせず、いつしか壁を作るようになっていた。
「さみしい家族……」
自室で一人、アリーチェは消え入りそうな声を上げた。
せっかく恵まれた環境にいるのに、全然幸せじゃない。
彼女には誰にも愛してもらえずに孤独に生きていた前世の記憶がおぼろげにあった。
名前もどんな容姿だったかも覚えていないが、とにかく愛を求めていたことだけは覚えている。
今世こそ誰かに愛されたい。彼女は切実に思っていた。
生まれ変わった世界は絵本の中のような不思議な世界。
小さな花のような可愛らしい精霊が存在し、今も虹色の鱗粉を振り撒きながらアリーチェの近くを飛び回っている。
本来なら自然と共に在るはずの精霊は、なぜかたまにこの部屋を訪れた。
風魔法が使えるアリーチェが指先から小さな旋風を出すと、わざと風に巻き込まれながら楽しげにくるくると舞った。
精霊が棲む緑豊かな土地と、便利な魔道具によって発展した都市。
お城や舞踏会、華やかなドレスに色とりどりの宝石が身近に存在する、物語の中のように美しい世界。
せっかく素敵な世界に転生したのに、自由のない貴族の娘として生まれ、誰からも愛情を与えてもらえない。
家族の気を引くために我が儘を言ったりわざと困らせたり、そんなことは決してしなかった。
目に涙を浮かべて寂しい気持ちを伝えてみたことなら一度だけあるが、全く相手にされなかったのだ。
五歳にして、何をしても無意味だと諦めた瞬間である。
「愛されたい……」
一人になると、いつも口癖のように呟いていた。
***
六歳になると、この国の王子との婚約話が舞い込んできた。
第二王子であるランベルトが、パーティーでアリーチェに一目惚れしたという。
『王子』という肩書きに萎縮しながらも、誰もが憧れる存在からの婚約の申し出に胸が高鳴る。
(王子様……そんな方が私を好きになってくださるなんて、夢みたい)
アリーチェはまだ一度しか顔を会わせたことのない王子との幸せな未来に想いを馳せた。
婚約が成立した翌日、ランベルトはアリーチェに会うために侯爵家にやってきた。
アリーチェは長い髪を耳の上の高さでツインテールにし、フリルやリボンがふんだんにあしらわれた水色のワンピースで出迎える。
前世、大人であった記憶がおぼろげにありながらも、今世の肉体年齢に準じた精神年齢も持ち合わせているため、自分が一番可愛いと思える格好をした。
「やぁアリーチェ。僕を受け入れてくれて嬉しいよ」
「こちらこそ身に余る光栄です、殿下。よろしくお願いいたします」
高貴な光を放っているかのような美しい王子スマイルに負けじと、完璧な淑女の礼をとって挨拶をした。
二人でサロンに移動してテーブルを囲む。
「君は本当に美しいね」
「ありがとうございます。ランベルト様のお美しさには敵いませんが、お言葉はとても嬉しいです」
そう答えると、彼は吊りぎみの黒い目を満足そうに細めながら、鮮やかな赤い髪をかきあげた。
「僕ほどの人間には君みたいに美しい子じゃないと釣り合わないよね」
「……? 恐縮です」
「もちろん見た目だけじゃなくて行いも、僕の婚約者として恥ずかしくないように気をつけてくれるかい」
「承知いたしました」
やたらと偉そうなランベルトの言葉に、アリーチェは笑顔で答えた。
この日話して分かったことは、ランベルトは自分が一番大好きな、自慢話ばかりする少年であるということだ。
(まだ子供ですからね……それに自分に自信があることは素敵なことだわ)
紳士的に振る舞う場面や優しさもほんの少しはあり、所作は惚れ惚れするほど美しかった。
今はまだ自分勝手なお子さまとしか思えないが、きっといつか好きになれる。
そう信じながら交流を続けた。
***
「愛されたい……」
九歳になったアリーチェは、変わらず愛を求めていた。
ランベルトと婚約して三年。
喧嘩したことは一度もない。よい関係を築けているはずだが、彼からの愛情は少しも感じたことがなかった。
ランベルトは自分自身が大好きすぎて、いつも自分のことばかり話す。
アリーチェの趣味や好みを知ろうともしない。
そんな婚約者をなかなか好きになれなくて、幸せを感じられずにいた。
彼に相応しい婚約者でいられるように、マナーは完璧にマスターしている。
美しい文字に美しい歌声、その他にもとにかく自分を磨くために様々な努力を続けているけれど、容姿を褒めること以外は少しも気にかけてもらえない。
「どうやったら愛してもらえるのかしら……ほんの少しでもいいから愛されてみたい」
アリーチェの側を飛び回る精霊達に話しかけるように、小さく願いを口にする。
一瞬だけ、精霊達が振り撒く虹色の鱗粉が自分を包み込んだ気がした。
その日を境に、日常のふとした瞬間に、アリーチェの頭の中に不思議な映像が流れるようになった。
目の前で食事を摂っている母が、廊下で父と口喧嘩をしている映像。
中庭を歩いている兄が、足に包帯を巻いてベッドに横たわっている映像。
最初は気にすることなく過ごしていたが、数日後、数週間後に映像と同じ光景を実際に目にすることが増えていき、ただ事ではないと思うようになる。
同じ時期に、通っている学園の授業で天恵について学ぶ機会があった。
人は生まれながらに魔力を持っていて魔法が使える。
扱える魔法は人によって違い、アリーチェは風の魔法が使えた。
魔法とは別に存在する天恵と呼ばれる能力。
精霊の気まぐれで極稀に発現するもので、その特性は様々だ。
授業で天恵について学んだ翌日に、図書館で文献を読み漁った。
そうして自分が持つ能力が何なのか判明した。
(未来視だわ……)
頭の中に流れる映像は、目の前にいる人物の未来。
自分が授かったものは未来を視ることができる能力だと確信する。
授かったばかりの未熟な能力であり、視える未来は数分先から数日先まで幅広い。
相手やタイミングは選べない。
この国では過去にも未来視の天恵を授かったものが存在する。
王妃となって王を支え、国の発展と安寧に務めた者もいたようだ。
未来視の天恵を授かっていることが他者に知られれば、アリーチェは王太子である第一王子と結婚することになってしまうかもしれない。
王太子にはすでに婚約者がいる。
その仲睦まじさは周知の事実で、二人はアリーチェの憧れでもある。
(お二人の仲を引き裂くような存在にはなりたくないわ)
彼女が授かったのは、自分にだけ未来の映像が視える能力。口に出さなければ誰にも気付かれる心配はない。
天恵のことは生涯隠し通すことに決めた。
しかしアリーチェはお人好しであった。
目の前の人物にとってよくない未来が視えてしまった時には、どうにかして不幸を回避できないかと思うようになる。
それとなく口添えしたり、不自然でない程度に手を回したり。
そうやって周りの不幸回避に努めているうちに、未来視の精度はどんどんと上がっていった。
いつしか自分の言葉や行動によって、どのように未来が変わるのかが分かるようになっていた。
今も目の前の令嬢が不慮の事故に遭わないように声をかけ、その未来を変えようとしていた。
「レイシア様、西の庭園より東の方が今の季節は珍しい花がたくさん咲いていておすすめですよ。明日しか見られないものもあるかもしれません」
「まぁ、そうなのですね。アリーチェ様、いつもためになる情報をありがとうございます」
「いいえ。楽しんでいらしてください」
不快感を与えないように、ごく自然に相手の行動を変えられるように気を付けながら過ごした。
この力があれば誰とでも上手くやっていける気がする。
そう信じながら過ごし、アリーチェは十歳になった。
家で開かれた誕生パーティーで、アリーチェはランベルトと二人でテーブルを囲んでいた。
婚約して四年が経った今では、僅かにあった彼の優しさや紳士さはすっかり消え失せていた。
彼は気遣いの令嬢と謳われるアリーチェが気にくわない。
その他にも気に入らないところがいくつもあるようだ。
「君、この前の学力テストで一位になってたよね」
「はい。ランベルト様の婚約者として恥ずかしくないよう、勉学には特に力を入れております」
「うん。そういうのはいらないから。自分より優秀なのは気に障るんだよね」
「そう、ですか……」
「あとさ、この前声楽コンクールで優勝してたよね。僕より目立たないでほしいんだけど」
「……申し訳ありません」
アリーチェは彼の気を悪くしてしまったことに落ち込んだ。
辛い。悲しい。
どこまでも深く落ち込んで、俯いてしまった。
しかし、冷静になった頭でふと考える。
(私はなぜ怒られているのかしら……?)
婚約者として恥ずかしくないようにいてほしいと言われたから、自分を磨く努力を続けてきた。
人として恥ずべきことは何一つしていないのに、なぜ怒られているのだろう。
静かな怒りを覚えた。
「せっかくのパーティーなんだから、もっとフリルやリボンが付いた可愛いドレスの方が良かったんじゃないかな」
ランベルトはアリーチェの行動に文句を言うだけでなく、今日のドレスについても物申してきた。
「このドレスにもフリルが付いています。これで十分なように思いますが」
「僕の隣に並ぶにしては華やかさに欠けるんだよね。色も地味すぎるし」
「そう……でしょうか」
「うん、そうだよ。裾のあたりもさ、もっとこう可愛らしくフワッと────」
「……」
アリーチェが着ているドレスは、デザイナーに自分の好みを取り入れてもらい、この日のために作ってもらったもの。
褒めるどころか延々と文句を言われて、何ともやるせない気持ちになった。
裾に控えめに付いた上品なフリルも、落ち着いたアッシュブルーの色味も、アリーチェはすごく気に入っているのに。
(もっとフリルやリボンと言われましても、私は幼子ではありませんよ)
反論したい気持ちを堪えて、彼の言い分は笑顔で受け流した。
(目立つなと言ったり華やかにしろと言ったり、自分勝手にも程がありますね)
うんざりしながらも、気に障る言葉を言ってしまわなければ険悪になることはない。
目の前のティーカップに視線を移して手に取り、複雑な心境をお茶と一緒に流し込んだ。
気持ちを落ち着けてからランベルトに再び笑顔を向け、そこで目にした未来に絶句する。
映像の中のランベルトは今よりも大人びていて、高等学園の白い制服を着ている。五〜七年後の未来のようだ。
『やだぁランベルト様ったら。こんなところでいけません』
『ふふふ、少しくらいいいだろう』
『少しだけですよ? 続きはもう少しきちんとした場所じゃないと嫌ですからね』
『分かっているさ』
学園の一室で触れ合う一組の男女。
かろうじて衣服を身に着けているが、どう考えても婚約者がいる男性が他の女性とする行為ではない。
楽しげな二人の声が不愉快に耳にまとわりつく。
(……え、どういうことでしょう? この方は私の婚約者ですよね……?)
疑問と共に絶望が一気に押し寄せる。
今はまだお子様なだけで、大人になればまともになると期待していた。
それなのに、数年後の彼は今以上にろくでもない男になっているようだ。
(この方が私を愛することはないのですね……それならこんな関係を続ける必要なんてあるのでしょうか)
彼の一目惚れから成立した婚約だが、今、婚約の解消を申し出たら喜んで受け入れてくれるかもしれない。
そう思って口を開きかけた瞬間、また新たな未来の映像が目の前に広がった。
顔を赤くして激昂するランベルト。
その両手からは炎が激しく吹き出している。
彼の視線の先には、炎に包まれて地面をのたうち回るアリーチェがいた。
正気を取り戻したランベルトは慌てて水差しを手にとって、アリーチェに水をかける。
『ごめんよ。ついカッとなってしまって。許してほしい』
ぐったり横たわる小さな体を抱き寄せながら、涙を流して何度も謝罪を繰り返した。
「…………」
アリーチェは驚きを通り越して冷めきっていた。
婚約解消を持ちかけた自分の末路は火だるまだなんて思いもしない。
(謝って済む問題ではありませんよね)
なんとも虚しい気持ちになりながら、この日を無難に過ごすことにした。
***
「あんな方と結婚するなんてありえません」
自室に戻ったアリーチェはソファーに座り、抱きしめたクッションに顔を埋めながら不満を口にした。
貴族の娘である以上、自由な恋愛結婚などできないと最初から諦めていたが、せめて自分を大切にしてくれる人がよかった。
あんな人なんていらない。最低な王子との婚約を今すぐ解消したい。
しかしアリーチェから婚約解消を持ちかけることはできないようだ。
なぜなら燃やされてしまうから。
両親を説得することも不可能だろう。彼らは娘の幸せよりも王家との繋がりを優先するような人達だから。
よき婚約者でいるように努力しなさい、そう言われるのは目に見えている。
アリーチェは何かいい方法はないかと考えた。
「……そうよ。もっと嫌われたらいいんだわ」
自分から言い出せないのなら、婚約を解消したいと相手に言わせればいい。
彼にとことん嫌われる方法は分かっている。
とにかく優秀であり続けることと、彼より目立つこと。
見た目も彼好みから遠ざければいい。
燃やされないように逆鱗に触れないように気を付けながら、婚約者に嫌われるための努力を始めた。
***
「アリーチェ!? その髪はどうしたんだい?」
王侯貴族の子供たちが通う初等学園の教室。
ランベルトは朝の挨拶すら忘れて、ピンクブロンドの髪が肩上で切りそろえられていることに眉を顰めた。
「おはようございます。気分転換にすっきりしてみました。どうですか?」
「どうって……何で勝手に……」
「?? 自分の髪を切るのに許可が必要でしたか?」
「それは……それより何でそんなに短くしたのさ。令嬢らしくなくて変だよ」
「変ですか。フローラ様も髪を短くされていますが……」
アリーチェは頬に手を添えて、不思議そうに首を傾げた。
「……」
王太子である兄の婚約者を引き合いに出されてしまい、ランベルトは口をつぐんだ。
その顔はさぞかし不満そうで、アリーチェは心の中でほくそ笑む。
彼が長い髪を好んでいることは知っていた。
だから王太子の婚約者である令嬢が長い髪を短くしたことに便乗してやったのだ。
不機嫌な彼とは対照的に、幸先のいいスタートを切ったアリーチェの頬は緩む。
(いい感じです。このまま少しずつ嫌われていきましょう)
ゆっくり慎重に。まずは見た目を彼好みから遠ざけようと決めた。
***
「……今日も地味だね」
「そう言われましても、こういったデザインが流行りなんです」
「そんなの無視すればいいじゃん。それに今は君の家にいるんだから流行りとか関係ないよね」
侯爵家のサロンにて。
アリーチェの前で頬杖をつくランベルトは、そっぽを向きながら不貞腐れた顔をしている。
彼女が着ている紺色の清楚なワンピースがとにかく気に入らないからだ。
「貴族の女性として流行に敏感に、いついかなる時も見られていることを意識しなさい、と厳しく言われていますが……ランベルト様はそういったことは言われていませんか?」
「え、僕? 僕もまぁ、そうだけど……」
「ランベルト様は私なんかよりずっと厳しい教育を受けていらっしゃいますよね。尊敬します」
「ふっ、まぁね」
頬に手を添えながら心から敬意を向けているかのように微笑むと、ランベルトは得意げに鼻を鳴らした。
アリーチェはニコニコしながら、単純な馬鹿で良かったと心から思った。
髪型や服装などをランベルトの好みから遠ざけたことにより、アリーチェが彼から小言を言われる回数はどんどん増えていった。
だけどもう吹っ切れている彼女は少しも傷つかないしへこたれない。
言い訳で躱してランベルトを褒めておだて、話をすり替えるをひたすら繰り返しながら月日は流れた。
中等学園に入学するとすぐに、アリーチェは生徒会に所属した。
ランベルトは自分より優秀な人間が大嫌いである。
プライドが高い割にここ数年は勉学をおろそかにしているため、学業の成績はいまひとつである。
生徒会は身分関係なく入ることができるが、所属条件は厳しい。高成績の者だけが所属できるエリートの集まりだ。
アリーチェは生徒会に所属しているだけで彼に不快感を与えることができる。
何だかんだ文句を言いつつもアリーチェの容姿を気に入っているランベルトに嫌われるため、彼のプライドをへし折る方向に全力を出すことにした。
***
「モルテード様、こちらの資料は全てチェックが終わりました」
アリーチェは両手に持っていた紙の束を机の上に置き、椅子に座って書類の上でペンを走らせる男子生徒に報告を済ませた。
長い黒髪を後ろで束ね、知的な青い瞳に大人っぽい顔立ち。
彼の名はリディオ・モルテード。
アリーチェの一つ上の学年で、今期の生徒会長を務めている。
リディオは手を止めて顔を上げ、ほんの少し目元を和らげた。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「お役に立てて光栄です」
生徒会に入って三ヶ月が経った。
もともと人の役に立つことが好きなアリーチェは、尊敬するリディオの役に立てることに生き甲斐を感じていた。
彼は王弟を父に持つ高貴な血筋であるが、身分の高さや頭の良さをひけらかすことは決してない。
生徒会長としての仕事を日々真面目にこなし、無駄のない動作で書類を手早く片付けていく。
自分の仕事は完璧にこなしつつ、仲間がミスをした時には声を荒らげることなく黙々とサポートする。
涼し気な表情、抑揚のない低めの声で紡がれる言葉からは伝わりづらいが、彼の優しさと誠実さをアリーチェは心から尊敬している。
高貴な身分でありながら、こんなに謙虚な方がいるなんてと感動したものだ。
入学した当初は挨拶をするだけの関係だったが、彼の邪魔をしないように気をつけながら雑務に精を出しているうちに、彼の方から話しかけてくることが増えた。
入学から三ヶ月経った今では、気軽に話をする仲だ。
「君はいつも誰も見ていないところでも頑張ってくれて助かるよ。この前も備品室を整理してくれただろう」
「え? なぜご存知なのですか?」
備品室の整理は他の生徒会メンバーが帰った後にしていること。
乱雑に置かれていたものを元の位置に戻しただけなので、誰にも報告していない。
「ふふ、それは秘密だよ」
そう言って笑う顔は初めて見る無邪気な笑顔で、不覚にもときめいてしまった。
***
アリーチェは十五歳になり、高等学園に入学した。
中等学園の最終学年で生徒会長を務めた彼女は、ここでも生徒会に入った。
入る前の段階で、ランベルトから何か言われる覚悟をしていたが、『また入るんだ』という不貞腐れた一言だけで済んだ。
義務のように月に一度侯爵家を訪れるランベルトとのお茶会は、彼が日頃の愚痴や自慢を吐き出すだけの場となっていた。
アリーチェにはもう微塵も興味なしといった様子である。
(あれ? もしかしてもう婚約解消を持ちかけても大丈夫ではないでしょうか)
今なら激昂することなくすんなりと受け入れてくれるのでは。
そう思って口を開きかけたが、彼から視えた未来に呆然となった。
ランベルトは頬や体のあちこちに付いた傷から血を流し、虚ろな目で立っている。
その視線の先には、全身を炎に包まれて床をのたうちまわるアリーチェの姿。
「…………」
言葉を失ったアリーチェは無表情になり、今回も婚約解消を持ちかけることを諦めた。
ランベルトが帰り、自室に戻ると、ベッドの上で無表情のままクッションを殴り続けた。
「なんなのあの方……私のことは好きではないくせに……」
信じられないほどの心の狭さとプライドの高さに怒りが収まらない。
しばらく殴り続けて少しだけスッキリしたところで、映像の中のランベルトが怪我をしていたことを思い出した。
状況から考えて、あの傷は彼に抵抗しようとしたアリーチェの風魔法によって付いたものだろう。
しかし魔力量の多いランベルトの愚行を止めることはできなかったようだ。
「もう無理です……あんな方が婚約者だなんて耐えられません……」
もはや王家の恥といっていいのではないか。いないほうが世のため人のため。
頭上をふわふわと飛んでいる精霊達を眺めながら考えた。
「そうよ、いっそのこと返り討ちにすれば……」
抵抗や制止ではなく、最初から息の根を止めるつもりで反撃すればいい。
むしろこちらから仕掛けてもいいのではないか。
「やられる前にやってやりましょうか……」
いつの間にか精霊達から降り注いでいた虹色の鱗粉に気づくことなく、虚ろな目で呟いた。
婚約者をこの世から消し去ることを考え、しかし相手は腐っても王子だということを思い出した。
普段は護衛に守られており、茶会の時も部屋の扉の外に護衛四人が待機している。
不意打ちが成功したところですぐに拘束されて死刑になるだけだ。
「はぁ……」
やはりあちらから婚約破棄を言い渡してもらうしか方法がないと気付き、溜め息が止まらない。
引き続き嫌われることに全力を注ぐことにした。
***
半年後。
アリーチェは目の前で優雅にお茶を飲むランベルトから得た未来の映像をただ無心で眺めていた。
密室で触れ合う男女。
『君と出会って、僕は真実の愛を知ったんだ』
『私もです、ランベルト様』
二人は深い口づけを交わし、ソファーに倒れこんだ。そして────……
「…………」
一線を越える場面を視てしまったが動揺はない。
足を組みながら椅子にふんぞり返り、自慢話を始めた目の前の婚約者に無言で美しい笑みを向け続けた。
翌日の午後。
アリーチェが学園の渡り廊下を歩いていると、前から小柄な女生徒が歩いてきた。
ランベルトから視えた映像の中で、彼と過度な触れ合いをしていた相手である。
ふわりとした長い金色の髪を耳の上の高さでツインテールにした女生徒は、子爵令嬢であるミーナだ。
アリーチェとは別のクラスなので学園では接点はなく、王家主催のパーティーで挨拶を交わしたことがあるだけ。
顔見知り程度の関係である。
(直接お会いするのは久しぶりですが、ランベルト様が好きそうな方ね……)
真ん丸な大きな黒い瞳の童顔、小柄な割に大きな胸、そしてツインテール。
ランベルトの好みの要素が詰まっている。
気づかれないように観察しながら彼女の未来を視る。
どうせ二人で密会している映像だろうと荒んだ気持ちでいたが、ミーナはランベルト以外の数人の男子生徒にも積極的に声をかけ、好意があるそぶりをみせていた。
(まぁ……この方はただの男好きなのでしょうか)
相手は見目麗しい高位貴族の令息ばかり。かなりの面食いである。
ミーナは言葉を巧みに操り、相手が理想とする女性を演じる才能があるようだ。
声をかけられた男子生徒は皆、ミーナに好印象を抱いているように見えた。
(モルテード様も声をかけられているのでしょうか……)
公爵令息であるリディオはミーナに声をかけられる条件に当てはまっていて、声をかけられていない方が不自然と思えた。
リディオが誰と恋愛しようが自分には関係ないはずなのに、彼もミーナの虜になってしまったらと思うとなぜか胸が苦しくなった。
アリーチェはミーナの観察を続ける。
未来視の精度は使う度に上がっていて、視たい時に視たいものを選べるようにまでなっていた。
ミーナは学園から帰宅後、子爵家の自室で一人になった時に、大きな声で独り言をよく言っていた。
『なんで未来視だけ使えないのよ。推し攻略できないじゃん。精霊無能すぎ』
『あの人ただの俺様だったはずなのにキャラちがくない? だけどあの中ではダントツで好みなんだよね。そろそろ一人に絞らないとダメだし……』
『ランベルトルート確定したのにクソ女絡みのイベントが起きないんだけど~』
ミーナはあぐらをかきながら、貴族の令嬢とは思えない言葉遣いで、この世界の人間には理解できないようなことをずっと言っていた。
前世の記憶があるアリーチェにはどうにか理解できる言葉だった。
ミーナの独り言から得られた情報を整理して、現状を推測する。
(彼女は私と同じ転生者で、ここは前世で流行っていた小説や乙女ゲームのような世界。彼女にはそういった知識がある……といったところかしら)
主人公であるヒロインが複数の男性と交流を深めて、その内の一人、もしくは全員と恋を育む物語。
ミーナはそういった物語の中のヒロインなのだろう。
(私は悪役令嬢なのでしょうね)
自分はヒロインの恋路を邪魔する立場にいると考えるのが自然だ。そういった物語を嗜んでいた前世の記憶をたよりに、自分が置かれた立場を推測する。
そうなると、ミーナはランベルトを攻略する道を選んだということになる。
(あの方、中身は最低だけど見た目だけはいいものね)
不要な婚約者を引き受けてくれるなんて素敵。
アリーチェにはミーナが女神のように思えてきた。
***
アリーチェは今日も今日とて教室の窓から中庭を見下ろし、ミーナの未来を覗いていた。
『ブルーメル侯爵令嬢に虐められてるんです』
『そんな……! なんて酷い女なんだ。辛かっただろうによく打ち明けてくれた。僕に任せてくれ』
密会時に、アリーチェの有りもしない悪事を吹き込むミーナと、それを少しも疑うことなく信じるランベルト。
(本当に最低な方……冤罪に備えておきましょう)
吐き気がするような二人の触れ合いを見届けると、窓の向こうに広がる青空を眺めて心を清めた。
自分の身の潔白を証明できる証拠を残しながら、学力テストで一位をとり続けることを忘れない。
コンクールと名のつくものは片っ端から優勝を収めていった。
風魔法を極めることも怠らない。
万一に備えて、一瞬でランベルトの息の根を止められるようにしておいた。
そして数ヵ月後。ずっと待ち望んでいた未来がアリーチェの頭の中に広がった。
「ふっ……ふふ、ふふふ……」
アリーチェは口元を手で隠しながら渡り廊下をゆく。
世界が輝いて見える。
今にも駆け出したい、踊りだしたい、そんな高揚感をどうにか抑え込みながら淑やかに歩いた。
***
「アリーチェ! 君の低俗さにはもう我慢ならない。この場をもって君との婚約を破棄させてもらう」
一年を締めくくる学園のパーティー。
シャンデリアが輝くきらびやかな会場で誰もが着飾り楽しげに談笑する中、ランベルトは声高々に告げた。
彼の隣にはフリルをふんだんにあしらった薄桃色のドレスに身を包み、金髪をツインテールにしたミーナの姿。
ランベルトの腕に絡みつきながら、目に涙を浮かべて震えている。
二人と対峙するアリーチェは、口元を手で押さえながら涙を堪えていた。
周囲の者達は誰も口を挟むことができず、固唾を呑んで見守っている。
「ミーナは精霊の愛し子であり、王家の庇護下におかれる尊き存在だ。国の宝である彼女を傷つけた罪は重い」
精霊の愛し子。それはいくつもの天恵を賜った特別な存在。
ランベルトの言葉に周囲はざわつくが、アリーチェは知っていたため驚きはしない。
大勢の前でこうやって紹介される時を待っていたミーナは心の中ではしゃいでいた。
(きゃー! ビシッと決めてくれてマジ格好いい! ランベルトに決めてよかったぁ)
見た目も声も自分好みであるランベルトが自分のために高らかに宣言してくれたことに興奮して、口元が緩みそうになるのを必死に抑えていた。
本当は未来視の能力を授かって優雅な王宮暮らしを満喫し、一番の推しである王太子を攻略したかったが、お近づきにすらなれなかった。
それどころか王太子はすでに結婚済みだ。
(まぁ王妃なんて面倒くさそうだし、相手は第二王子で十分だよね~)
ミーナが現状に満足してほくほくしている一方で、アリーチェはランベルトの言いがかりにただ静かに耳を傾けていた。
『精霊の愛し子であるミーナに働いた悪事の数々』という、身に覚えのない罪を延々と聞き続ける。
聞くに堪えない暴言交じりの言葉を放つランベルトは、周囲の者たちの冷めた目には気づかない。
冤罪であると誰しもが思っている。しかし王子の言葉を遮れる者はこの場にはいない。
「俺達じゃ無理だよな……」
「あの方ならどうにか収めてくれるのではないか?」
「たしか生徒会室で用事を済ませてから来るって言っていましたよ」
数人の令息たちは小声で話し合い、王子に物申せる人物を連れてこようと急ぎ足で会場から出ていった。
時間をかければこの場で弁明することは可能だったが、アリーチェはもう限界だった。
「婚約破棄につきましては承知いたしました。悪事につきましては全く身に覚えがありませんので、身の潔白を証明するものを揃えて後日お送りいたしますね。では、私はこれで失礼いたします。どうぞお幸せに」
必要最低限のことだけを業務連絡のように告げて淑女の礼をとると、ランベルト達に背を向けて足早に出口に向かった。
涙目で口元をずっと手で隠しながら俯いている、誰の目から見ても可哀想な傷心の令嬢。
アリーチェは周囲から同情されながら会場を後にした。
廊下に出ると誰もいないことを確認して、ドレスの裾を上げて走り出した。
涙を堪える必要はもうない。
感激しすぎてとめどなく流れる涙が頬を伝うが、拭うこともせず一心不乱に走った。
(あぁ、やっと解放されたわ)
涙で前が滲む。前がよく見えていない状態だけど、きっと世界は虹色に煌めいている。
気を抜くと高笑いしてしまいそうで、早く一人になれる場所まで行かなければいけないと先を急いだ。
そのため、曲がり角から現れた人影に反応が遅れ、勢いよくぶつかってしまった。
「きゃっ」
アリーチェは反動で尻もちをついた。
驚きで涙はピタリと止まった。
「────すまない、大丈夫かい?」
手を差し出してくる目の前の人物からは聞き慣れた声がする。
姿を見ずともリディオであると分かった。
「大丈夫です……モルテード様すみません、前をよく見ていませんでした」
アリーチェは顔を上げながら、差し出された手に自身の手を重ねた。
見下ろしてくるリディオの顔は何だか苦痛に歪んでいるように見える。
だがそんな表情すら凛々しくて素敵……などとときめきを覚えたのは束の間。
頭の中に流れてくる映像に絶句した。
おびただしい血に染まったパーティー会場。
リディオは返り血を浴びながら、汚物を見るように床に目を向けている。
彼の回りには無数の氷の刃が浮かび、手に持った短剣から滴り落ちるのは赤い雫。
そして全身を切り刻まれて、血の海に沈んでいる赤髪の男性。
(えっと……これはいったいどういうことでしょう?)
念願だった自身の火だるま回避と婚約破棄を達成できたと喜んでいたら、なぜかランベルトがリディオに惨殺される未来が訪れた。
よく分からない状況だが、リディオを会場に向かわせてはいけない。それだけは確実である。
彼が王族殺しの罪で処罰されるなんて耐えられない。
「いっ、痛っ、いたたた」
アリーチェはとっさに右足首を手で押さえ、顔を歪ませながら大袈裟に痛がってみせた。
リディオはすぐに彼女の前に跪き、心配そうに顔を覗き込む。
「足をひねったのか?」
「いたた……はい、そのようです。医務室に行った方がよさそうなほどの激痛でとても歩けそうにありません。どうしましょう……困りました」
優しいリディオが目の前の怪我人を放っていくはずがない。必ず医務室まで手を貸してくれるだろう。
その間にランベルト惨殺回避の計画を立てることにした。
「すぐに医務室に連れて行くよ。ほら、これを使って」
「え? …………あ」
アリーチェは自身の頬に触れた。
(涙を拭うのを忘れていたわ)
頬は涙で濡れていて、目はきっと真っ赤になっているだろう。
「……ありがとうございます」
見苦しい顔を見せてしまったことが恥ずかしくなり、頬を染めながら受け取ったハンカチで涙を拭った。
「それでは失礼するよ」
一言断りを入れると、リディオはアリーチェの肩と膝裏に手をかけて横抱きにした。
「!? モルテード様、肩を貸していただけるだけで十分です。こんなところを誰かに見られでもしたら……」
「私は構わないが……でもそうだね、有りもしない噂を立てられたら君が困るか」
「いえ、私は全く困りませんけど……つい今しがた婚約破棄されたところなので、見られて困る相手はもういないといいますか……」
「────そう。それなら問題ないね」
リディオは物憂げな笑みを浮かべると、迷いのない足取りで歩き出した。
(えっ……どっ、どうしたら……あ、素敵、えっ、どうしましょう、あぁ、夢みたい……)
アリーチェはまさかのお姫様抱っこで頭がいっぱいになり、ランベルト惨殺回避に思考が回せない。
頭がぐるぐるフワフワしているうちに医務室に着いてしまった。
(どうしましょう。どうやって引き止めればいいのか分かりません)
医務室内の椅子に座り、中で待機していた女性医師に足を見せながら心の中で狼狽える。
「うーん……どこも問題はなさそうですが、まだ痛みますか?」
赤みすら見当たらない足首の診察を終えた医師の言葉に、アリーチェはハッとなった。
診てもらったところで怪我をしていないのだから処置してもらいようがない。
余計な手間をかけてしまい申し訳なくなる。
「今はもう痛くありません。混乱して痛いと錯覚したのかもしれません」
「そうでしたか。念のため湿布を貼っておきますので、また痛むようでしたら仰ってください」
「分かりました。ありがとうございます」
医務室横の部屋で休んでも構わないということで、お言葉に甘えることにした。
付き添ってくれているリディオにかける言葉はまだ見つからない。
「本当に大丈夫?」
「はい、もう痛くありません。お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした」
「気にしないで。それより大丈夫というのは足ももちろんだけど、殿下とのこともだ。酷い言いがかりをつけられていると聞いて急いだのだが、間に合わなくてすまない」
「……まぁ」
リディオが急に廊下の角から飛び出してきたのは、アリーチェのために急いでいたからだったようだ。
その優しさが嬉しくなり、胸が熱くなる。
(私を助けようとしてくださったのね……もしかして先ほど見た光景は私のため……?)
王子を血の海に沈めるという残虐行為に染まった彼の未来。
それがアリーチェを心配する気持ちから生まれたものだとしたら、事実を知れば思いとどまってくれるかもしれない。
アリーチェはリディオに本当のことを告げることにした。
「私は大丈夫です。むしろ嬉しくて嬉しくて、それはもう高笑いしながら踊り出したいほど嬉しくてたまりませんでした。ですが殿下の前で喜ぶわけにいかず、慌ててその場を後にしたのです。そのせいでモルテード様とぶつかってしまって申し訳ありませんでした」
自分の気持ちを包み隠さずに話すと、リディオはなぜか悲しそうな顔をした。
「……本当に? 無理していないか? だって君泣いてたよね」
「あれは嬉し涙です。ようやく念願が叶ったことに感極まってしまいました。だって何年も願い続けていたことですから……あ、もちろんこれは内緒にしていただけますか」
アリーチェは口元に人差し指を添えながら微笑んだ。
リディオは大きく目を見開いた後、気が抜けたように大きく息を吐いた。
「……そう。それなら良かった」
リディオは目元を和らげた。
ようやくいつもの彼に戻った気がして、アリーチェは胸を撫で下ろした。
「君はこれからどうするんだい?」
「さすがにもう会場には戻れませんし、このまま────……」
家に帰ると口にしかけたところで、今の自分がおかれている状況に気づいた。
家に帰ったら、パーティーでの出来事を家族に報告しなくてはならない。
たとえ冤罪だとしても、大勢の前で罵倒されて婚約破棄された傷物令嬢になってしまった。
家の名に傷をつけるなんて。なんてみっともない。
そう叱られるのは目に見えている。
「お恥ずかしながら婚約破棄された後のことを考えていませんでした」
アリーチェは苦笑いを浮かべた。
このまま帰らずにどこかに行ってしまいたいけれど、行くあてもなければお金もない。
(どうしましょう。すごく憂鬱になってきました……)
アリーチェはどんどんと暗い表情になっていく。
リディオはそんな彼女を無言で見つめながら、握り拳に力を入れた。
何かを決心したかのように瞳に強い意思を宿し、アリーチェに向き合って彼女の両手をとった。
「こんな時に言うべきではないと分かっているが、どうしても伝えさせてほしい。どうか私と婚約してもらえないだろうか」
「…………へ?」
真剣な表情をしたリディオからの突然の婚約の申し込みに、アリーチェは気の抜けた声を出した。
両手を握られたまま瞠目する。
真っ直ぐ見つめてくる澄んだ青い瞳が美しく、目が離せない。
憧れの存在からのまさかの申し出に鼓動が速くなる。
「今の状況から身を守るために私を利用するだけでも構わない。嫌になったらいつでも婚約解消に応じよう。必要なら契約書を作成してもいい。だからお願いだ、少しでも私に可能性があるのならチャンスがほしい」
「モルテード様……」
彼がこんなに必死そうなところは初めて見た。
もしかすると────そう期待してしまうほどに。
そしてリディオは、アリーチェがずっと求め続けていた言葉を紡ぎだした。
「殿下のように君を傷つけることは決してしない。ずっと愛し続けて大切にすると誓う」
「愛……? モルテード様は私を愛してくださっているのですか?」
「あぁ。心から愛している。婚約者がいると分かっていても、この気持ちだけは消せなかった」
(愛してる…………)
憧れていた人からの告白に、一筋の涙が頬をつたう。
「……嬉しい」
アリーチェは笑顔で喜びを口にした。
想いが通じたことにリディオは歓喜し、アリーチェを抱き寄せた。
しばらくそのまま幸せを噛み締めてから、名残惜しそうにその腕からアリーチェを解放する。
「話したいことはいくらでもあるが疲れただろう。帰ってゆっくり休めるように一筆書いておこう。今日はそれをご両親に見せるだけで済むはずだ」
「まぁ……お気遣いありがとうございます」
「君のためになるなら何だってするから遠慮せずに言ってほしい。また後日ゆっくり話そう」
「はい」
リディオはその場で手持ちの紙にペンを走らせた。
アリーチェを決して責めないよう、今日は何も聞かずに休ませるよう、念入りに言葉を書き連ねる。
後日改めて正式に挨拶にいく旨もしっかりと記した。
二人は医務室を後にする。
アリーチェは待機している侯爵家の馬車の前まで送ってもらい、リディオのサインが入った手紙を受け取った。
「ありがとうございます。では失礼いたします」
満面の笑みで別れを告げて馬車に乗り込んだ。
***
「……まさかこんな日がくるなんて、夢を見ているようだ」
アリーチェを見送ったリディオは星が瞬く夜空を見上げた。
彼は幼少期に病で父を亡くし、その数ヶ月後に母が失踪してしまった過去を持つ。
両親はとにかく仲の良い夫婦で、息子であるリディオのことも大切にしていた。
夫を失った悲しみで塞ぎ込んでしまった母は、日に日に衰弱していった。
リディオがどれだけ寄り添い心配の声をかけても、弱りきった母の心には届かなかった。
母の心に再び温もりを灯したのは、彼女を献身的に支え続けた執事の愛。
いつしか母も彼を愛するようになり、そしてある日突然二人は消えてしまった。
幼いリディオは深く悲しみ、孤独に打ちひしがれた。
もっと愛を伝えていれば、自分が母の心を救うことができたのだろうか。
どれだけ悔やんでも母はもういない。
前国王である祖父が支えてくれたが、大切な人を失うことへの恐怖心から、誰も好きになれなくなった。
次期公爵という立場から婚約の申し入れも多かったが、全て断り続けた。
十数年経った今ではもう、母を焦がれる気持ちも寂しさも残ってはいない。
それでも何もできなかった無力な自分に対する後悔だけは残っている。
そんなリディオは中等学園でアリーチェと出会った。
いつも一生懸命で相手を思いやる気持ちに溢れた素敵な女の子。
彼女はいつも雑務をこなし、最後まで生徒会室に残って掃除をしてくれていた。
誰も見ていないところでも本当に仕事をしているのか気になり、リディオはこっそり様子を窺ったことがある。
そこでアリーチェは生徒会室の掃除だけでなく、備品室の整理もしていると知った。
彼女はそれを誰かに伝えることはせず、媚びようともしない。
ただ人の役に立つことを心から楽しんでいるようだ。
彼女と話がしたくてリディオの方から声をかけることが多くなり、物腰の柔らかさと可愛さに好感を覚えるようになった。
彼女が第二王子であるランベルトの婚約者であることは最初から知っていた。
だからただ純粋に、彼女が日々を穏やかに過ごせることだけを願った。
幸せでいさえすればそれでいい。それ以上望まないように、心に蓋をした。
それなのに、愚かなランベルトは彼女に婚約破棄をつきつけたという。
大勢が見ている前で傷つけられていると聞き、愚か者を抹殺するつもりで会場に急いだ。
後のことなんて何も考えずに、彼女を傷つけたことを後悔させるため、ただ怒りに身を任せて。
しかし会場に着く前にアリーチェと出会い、彼女の本心を知ったことにより思いとどまる。
傷ついていないことに心から安心し、冷静さを取り戻した。
ランベルトへの怒りは完全には収まらないが、殺意よりも愚者を蔑む気持ちが大きくなった。
(本当に愚かな男だ。こんなに素敵な女性を大切にしないなんて)
自分だったら────……
そこでふと、現状に思い至る。
婚約者がいる女性を好きにならないように、心に蓋をする必要はもうない。
いつでも想いを伝えられるようになり、むしろ今がその時ではないか。
今のアリーチェには救いの手が必要だろう。
彼女が家族に責められることも、誰かに先を越されることも耐えられそうになかった。
弱みにつけこむような真似をしてしまったが、後悔はない。
「必ず大切にしよう」
もう二度と彼女が傷つかないように。
そして自分も二度と大切な人を失わないように、しっかりと愛を伝えて大切にしようと心に誓った。
***
後日、ブルーメル侯爵家にアリーチェ宛の手紙が二通届いた。
一つはランベルトからの謝罪の手紙。
嫌々書かされたのだということしか伝わってこない謝罪文が、かろうじて読める文字で書き連ねてあった。
パーティーでの一件の後、アリーチェは身の潔白を証明する証拠を王家に提出し、その正当性を認められた。
ランベルトは王族から除籍され、不毛の地である国の西端で無期限の兵役を言い渡された。
彼のことだから、どうせアリーチェを逆恨みしているだろうが、今後関わることのない人のことはもうどうでもいい。
(二度と会わずに済むなら、それで構いません)
ミーナに至っては、ランベルトが高らかに宣言していたものの、実際はまだ正式に精霊の愛し子として認められていなかったという。
適性検査を受けたところ、複数の天恵を持っていることは確かだが、王家が庇護するレベルではなかった。
侯爵令嬢を陥れようとした罪と、力を鍛えるという名目で、極寒の地である国の北端で無期限の奉仕活動を言い渡された。
こちらもアリーチェにはどうでもいいことだ。
ミーナにはむしろ感謝しているが、幸せになってほしいなどという気持ちは微塵もない。
二度と会わずに済めばそれで構わない。
もう一通の手紙の差出人はリディオであった。
急な婚約の申し入れに対する謝罪と受け入れてもらえたことへの感謝の気持ち。
体調への気遣い。
そしてアリーチェを愛する想い。
彼の気持ちが詰まった手紙に心が満たされていく。
手紙にはデートのお誘いもあり、アリーチェは快く受け入れた。
***
アリーチェは侯爵家に迎えにきたリディオと共に馬車に乗り込んだ。
二人で町に出かけるのはこれで三度目である。
目立たないように、二人ともシンプルな衣服に身を包んでいる。
「いつもお誘いいただきありがとうございます。リディオ様とこうやって出かけられることが今でも夢のようです」
「私のほうこそ、君とこうやって過ごせることが何よりも幸せだ」
リディオとの時間は幸せに溢れていた。
自然な褒め言葉やさりげない気遣い、好みや希望を聞いてくれる優しさ。
アリーチェと家族の仲があまりよくないことを察してからは、積極的に外に連れ出してくれた。
「私の家も複雑だから君の気持ちはよく分かる。遠慮せずに吐き出すといい」
彼は辛い気持ちに寄り添ってくれて、どんなに醜い感情だろうと受け止めてくれた。
「あの家でアリーチェが寂しい思いをすることに耐えられそうにない。早く公爵家を正式に継ぎ、君を妻として迎え入れたい」
「ありがとうございます。あなたとの未来があるから私は少しも辛くありません」
リディオは学園を卒業して、公爵家を切り盛りしている祖父から全てを引き継ぐため励んでいた。
アリーチェは彼と将来について話しながら町を歩く。
(もしかすると、そろそろ結婚後の未来が視えるかもしれませんね)
少し浮かれ気分で期待しながら、隣を歩く彼の顔を見上げた。
そして絶句する。
おびただしい血に染まった地面。
リディオは返り血を浴びながら、汚物を見るように地面に目を向ける。
彼の回りには無数の氷の刃が浮かび、手に持った短剣から滴り落ちるのは赤い雫。
そして、全身を切り刻まれて血の海に沈んでいる赤髪の男性。
場所と服装が変わっただけで、以前視たものとほぼ同じ光景が頭の中に広がった。
彼の服装からして今日の出来事のようだ。
場所は特徴的なベンチや街灯の形から特定し、今いる場所から町外れに数分歩いた自然公園だと分かった。
(今日は確か、ランベルト様が僻地に移送される予定でしたね)
卒業パーティーからずっと、ランベルトは王家が所有する屋敷に軟禁されていた。
そして今日、西の地に向かって移動を始めると聞いていた。
(移送中に逃げ出したということかしら?)
そうだとすれば、狙いは間違いなくアリーチェだろう。
彼は逆恨みして報復してくるような人間だということを嫌でも知っている。
ランベルトは一度も愛情を与えてくれなかっただけでなく、未遂とはいえ二度も炎でアリーチェを焼こうとした。
婚約者がいるにも拘わらず他の女性と肌を重ね、証拠もないのに罪を被せようとしてきた。
だけどもう二度と会わなくて済むのなら、彼がどこで何をしようが構わなかった。
スローライフを送ろうが、豪遊しようが、恋人を作って幸せに暮らしていようが、本当に心からどうでもいい。
それなのに、やっと手に入れた幸せを壊そうとするだなんて。
腹の底から黒く染まった感情が湧き上がる。
幸せの邪魔をして、一度ならず二度までもリディオの手を汚させるだなんて、許せるはずがない。
「リディオ様、あちらにあるお手洗いに行ってまいります。お時間がかかると思いますので、店でお待ちいただけますか」
「分かった」
アリーチェはリディオとしばし別れ、手洗いがある方へと向かった。
路地を曲がると、そのまま裏道へ足を進めた。
人気のない薄暗く寂れた道。
耳を澄ませば自分以外の誰かの足音が微かに聞こえた。
アリーチェは踵を返して、上下灰色の簡素な服を着たランベルトと対峙する。
「────ッ」
彼は急に振り向かれたことに驚いて、とっさに右手のひらから炎を出して威嚇した。
しかし笑顔で美しく淑女の礼をとるアリーチェに、すぐに炎を引っ込めた。
「お久しぶりです。そしてさようなら」
アリーチェは静かな声で出会いと別れの言葉を告げる。
風魔法は使わない。
いつの間にか開花していた、『一度視た映像を他者の頭の中に流し込む』という能力。
それを使って、ランベルトに終わりのない死を味わってもらうことにした。
「────ッ、何だよこれッ! やめ、ろ……ッ、やめ────うわぁァぁぁァ……!」
頭に流れ込んできた映像によって、まるで今実際に体験しているかのような痛みが襲ってくる。
短剣で全身を切り刻まれ、無数の氷の刃が自分の体を突き刺す。
どれだけ許しを請おうが攻撃の手を緩めない冷めた青い目の男。
「痛いっ! もうやめっ、やめてくれ────ッッ……!」
痛みと恐怖でおかしくなりそうで、ランベルトは頭を抱えて発狂した。
「それはあなたが殺されるはずだった未来です。本当はもう二度死んでいるはずなのに、なぜまだ生きているのでしょうか。可笑しいですよね……ふふっ」
彼にこちらの声は聞こえていなさそうだが、アリーチェは可憐に笑いながら楽しげに説明した。
そして何度も何度も、絶え間なく映像を送り続けた。
途切れることなく何度も何度も、短剣と氷の刃に突き刺される。
終わりの見えない痛みと恐怖が限界に達し、ランベルトは気絶してその場に倒れた。
「あら……? 気を失ってしまいましたか。もっと苦しんでいただきたかったのに」
眉尻を下げながら小さく呟いて、残念な気持ちを吹き飛ばすように右手を振り上げた。
放たれた風の刃はランベルトの腕をほんの少しかすり、弧を描くように地面を深く抉る。
アリーチェはその様を眺めて、満足そうにふふっと微笑んだ。
「もし次があれば、その時はきちんと息の根を止めて差し上げますね。では、さようなら」
もう何も聞こえていない元婚約者に笑顔で別れを告げて、静かにその場を立ち去った。
***
アリーチェはすぐ近くにある町の警備隊の詰所に足を運び、路地裏で倒れている人がいると知らせてから、リディオが待つ店へ向かった。
時計や宝飾品、ハンカチなど、さほど高価でなく気軽に普段使いできるようなものが多く取り揃えられた店だ。
店内に入ると、リディオは真剣な表情で手に持った何かを眺めていた。
彼はプライベート用の時計を購入したいと言っていたが、見ている棚には女性用の商品が並ぶ。
アリーチェは凛々しい横顔に見とれながら声をかける。
「お待たせいたしました。何をご覧になっているのですか?」
リディオは彼女が入店したことに気づいていなかったようで、声をかけられてハッとなった。
「……やぁ。君に何かプレゼントしたくなって、どんなものが似合うだろうかと選んでいたんだ。だけど好みを聞かずに買ったところで迷惑だと気づいて悩んでいたんだ」
「……まぁ」
リディオは耳を赤くしながら、恥ずかしそうに手の中の髪飾りを見せた。
(私のことを想いながら選んでくださっていたなんて……)
そんな心のこもったプレゼントは、誰からも貰った経験がない。
自分を想ってくれる彼の気持ちに嬉しさが込み上げてくる。
「あの……図々しいお願いであることは承知していますが、私に何か選んでいただけないでしょうか……?」
自分からプレゼントをねだるなど恥ずべきこと。だけどこの機会を逃したくない。
彼と過ごす幸福な時間を心に刻むだけでなく、形に残る何かが欲しいと思った。
「リディオ様が選んでくださったものでしたら何でも構いません。一番安価なもので十分です。こんな我が儘を言うことは今後は二度としないと誓いますから、ですから、その……」
思いきって始めたおねだりだったが、だんだんと恥ずかしくなってきた。
嫌われてしまったらどうしようという不安もよぎる。
「……すみません。今の言葉は聞かなかったことにしていただけますか……お恥ずかしい……」
羞恥心に耐えきれなくなり、完全に俯いてしまった。
しかしリディオは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「アリーチェ。そんな可愛い我が儘ならいつでも大歓迎だよ。二度としないなんて言わないで。それではお言葉に甘えて何か選ばせてもらうよ」
彼は楽しげにプレゼント選びを始めた。
そして繊細な装飾が施された銀の懐中時計の購入を決めた。
「センスに自信がないからアクセサリーは止めておいたよ。気軽に普段使いできるようにと色気のないものになってしまったが、君を想いながら選んだ。受け取ってくれるかな」
「とても嬉しいです。本当にありがとうございます。大切にしますね」
「そう言ってもらえて嬉しいよ」
見つめ合う二人。店内はしばし甘い空気に包まれた。
***
リディオと婚約してから一年後。
アリーチェの卒業と同時に二人は正式な夫婦となった。
言葉や態度で愛情を与えられる日々。
彼と婚約してから今日までずっと、愛されているという幸福感に満たされている。
「今日はその格好で行くのかい?」
「そのつもりですが、どこかおかしいでしょうか?」
この日アリーチェは友人と食事をするために町に行く予定でいる。
あまり派手すぎない綺麗めの服を選んだつもりだったが、リディオはお気に召さない様子だ。
「いや……すまない、何でもないんだ。すごく似合っているよ。楽しんでくるといい」
リディオは気まずそうに目を泳がせた後、無理やり作ったような不自然な笑みを浮かべた。
「何か思っていらっしゃるなら教えていただけますか。似合わないならそうはっきり言ってくださっても、傷つきませんから」
たとえ細かに服装に文句を言われたとしても、リディオからなら受け入れられる。
そこに愛があるのなら、それで構わない。
「いや、本当に美しくて素敵だよ。道行く人は皆見とれてしまうだろう。私のいないところでそうやって君が見られると思うと複雑な気持ちになってしまっただけなんだ」
「……まぁ」
アリーチェは頬を染めた。
リディオはたまにこうやって、嫉妬のような感情を見せてくれる。
それが心から嬉しい。
「でしたら着替えてきます。この服はまた今度、あなたとお出かけする時に着ますね」
「……すまない。私は心が狭いところばかり見せているな」
「いいえ。私を想ってくださるお気持ちが嬉しいので、お気になさらないでください」
落ち込む夫に軽く抱きついてから、アリーチェは服を着替えにいった。
***
アリーチェは朝食の場で、向かい合って座る目の前の夫に向かって日課である未来視を発動した。
「リディオ様、今日はモーレ伯爵に支援金の打ち切りが正式に決まったことを告げに行くと仰っていましたが、代理人に任せた方がいいかもしれません。あの方は最近酒に溺れていると聞きます。あなたが危害を加えられないかと心配で……」
アリーチェは青い顔をして俯いた。
「そうだね。私が直接出向く必要もないから、誰かに頼むことにしよう」
「聞き入れてくださってありがとうございます」
「君も私の身を案じてくれてありがとう」
二人は穏やかに食事を摂り始めた。
リディオはいつもどんな言葉でも誠実に受け止めてくれる。
彼の未来が先ほど視たものと違うものへと変わったことに、アリーチェはホッとした。
(これで今日は大丈夫ですね)
激昂してアリーチェのことを悪く言いだしたモーレ伯爵が、それを遥かに上回る怒りで前が見えなくなったリディオの氷の刃に串刺しにされる未来は無事回避できた。
妻として夫を支えるのがアリーチェの役目。
放っておいたらなぜか大量の鮮血が舞い散る赤黒い未来へ向かってしまう夫が、何事もなく無事に一日を終えられるようにサポートしている。
リディオは妻を傷つける言葉は決して許さない。
アリーチェが大勢が集まる卒業パーティーで王子に婚約破棄されてしまった傷物令嬢だということは、貴族なら誰しもが知っている。
大多数からは同情されたが、アリーチェにも非があるのではないかと蔑む声は少なからずある。
そんな言葉をうっかり口にしてしまい、リディオの耳に入ったが最後。
その者はもう二度と声を発することも呼吸することも叶わなくなる。
すぐに辺り一帯を血に染めてしまうほど、リディオの愛は深く重い。
(あぁ、愛されるって素敵。ありがとう精霊さん達)
アリーチェはうっとりしながら食事を口に運び、リディオと幸せに生きるための力を授けてくれた精霊達に心から感謝した。
***
公爵家を訪れる客人は、公爵夫人として完璧にもてなそうと張り切った。
よくできた妻だと褒められれば、リディオの評判も上がる。
この日訪れたのはリディオの学生時代からの友である男性二人だ。
「エイデン様、ハートリー様、お久しぶりでございます」
三人が寛ぐサロンにメイドがお茶を運びこむ時に、アリーチェも一緒に入室して挨拶をした。
その流れで、少しの間だけ話の輪に加わることになった。
彼らの情報はしっかりと頭に入っている。
気分よく過ごしてもらえるように、彼らを褒め讃えよう。
全ては愛するリディオのため。彼をチラリと見てから口を開こうとした。
そうして見えた未来に、言葉を発することをやめた。
(これはどういう状況かしら……?)
映像の中のアリーチェはなぜか鎖に繋がれている。
灰色の壁に囲まれた窓のない薄暗い部屋。
(地下室かしら?)
薄明かりの中、部屋の真ん中に置かれているのは小さなベッドとサイドテーブル。
両手は手錠で拘束されているため自由に動かせないようだが、よく見れば手錠の下には柔らかそうな素材の布が巻かれている。
金属の冷たさや擦れによる痛みを感じさせないよう、アリーチェの手首への配慮を感じる。
リディオは手に持っていた色とりどりの花を花瓶に飾ると、ベッドに腰を落ち着けた。
「君が他の男ばかり褒めるものだから嫉妬でどうにかなってしまいそうだった。しばらくは僕以外の目につかないこの部屋で過ごしてほしい」
「まぁ……お気を悪くさせてしまい申し訳ありません。リディオ様のためになればと思い、ですぎた真似をいたしました」
映像の中のアリーチェは落ち込んで項垂れた。
「心が狭い男でごめん。君が私のために一生懸命なのは分かっているが、どうしても許せなかった」
リディオはアリーチェを優しく抱き寄せる。
「また嫉妬で閉じ込めてしまうかもしれないから、きちんと家具を揃えておこうと思う。何かほしいものはあるか?」
「そうですね……あなたと一緒に眠れるような広いベッドがあれば嬉しいです」
「そうか、これはお気に召さないのだな」
「我が儘でお嫌いになりましたか?」
「そんなはずないだろう。君の方こそ私に幻滅したのではないか」
「まさか。あなたからいただけるのでしたらどんな形の愛でも構いません」
そう言って顔を綻ばせると、リディオは彼女の頬に両手で触れてそっと口づけをした。
「愛しているよ、アリーチェ。できるならこうやって一生閉じ込めておきたいほど愛してる────」
(……まぁ、どうしましょう)
目の前のリディオの友人達を過度に褒めれば、地下室に監禁される未来が訪れるようだ。
さすがに行き過ぎた束縛行為である。
使用人達がうっかり外部に情報を漏らして世間に知られでもしたら、彼の評判は地に落ちてしまうだろう。
彼にそんな行動をとらせるわけにはいかない。
だけど、それも悪くないと思ってしまう自分がいる。
(あぁ、どうしましょう)
彼の仄暗い部分を垣間見てしまい、胸の鼓動が収まらない。
何をされようとも、愛さえあればそれで構わない。
重い愛情に囚われて、アリーチェの心は今日も満たされていた。