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戦国時代 敗者の言い分  作者: 杉勝啓
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淀殿

妾は江北の雄 浅井長政を父として、織田信長の妹 お市の方を母として生を受けた。

幼名は茶々といった。


人は妾を豊家を滅ぼした悪女だという。

北政所様はじめ、太閤殿下の胤を宿した女人はいなかった。それゆえ、妾が生んだ鶴松も秀頼も太閤の胤ではないという汚らしい中傷するものが少なくなかった。そのようなものが正義というのだろうか。


こんなことなら、小谷城が落城したとき、父と死ねばよかった。あのころ、妾は幸せな姫だった。美しかった母、その母を愛した優しい父。兄もいた。そういえば、助作・片桐且元もいた。父に最後まで尽くしてくれた且元の父、直貞、其の子の且元だ。大阪城に大筒を撃ちち込んだのが且元だとはいまだに信じられない。父は妾に甘かった。大抵のことは聞いてくれた。なのに、父と離れたくないと泣いても、そのときだけはきいてくれなかった。父は妾のこのような人生を予想できただろうか。


そう、後に義父になった柴田勝家殿も母だけを連れてゆき、妾たち三人の姉妹を城から出した。二回も死に損ねた妾だ。今さら、命が惜しいとは思わない。


親の敵ともいえる太閤殿下になびいた私をあの世の父母をどう思っただろう。妾は太閤殿にかけたのだ。父も伯父も天下はとれなかった。だが、秀頼が生まれてから太閤は狂ってしまった。秀頼ゆえに狂ってしまった。


死に際に徳川家康はじめ五大老のみなに

「くれぐれも秀頼のこと頼み申す」

とすがり、起請文までも差し出させた。そんなものはなんにもならないことを誰よりも知っていた彼ではなかったか。


北政所様は60万石の少大名として、徳川の下につくのが、唯一、豊臣家が生き延びる方法だという。徳川家とて、伯父の下風にたっていた家ではないか。徳川家の下につくなど、妾の誇りが許さない。北政所様は賢妻と讃えられるだろう。誇りを捨てられない妾はやはり、悪女なのだろう。


ただ、秀頼にはすまない。妾のような母を持ったばかりに、類まれな器量を持ちながら、悲劇の将としてしまった。

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