夢屋
なんの変化もない毎日。
いつでも見られるよく晴れた午後。
いつもと変わらぬ街の喧騒。
田舎でもなく、さりとて都会でもない。中途半端なこの街。
その中途半端さは嫌いではなかった。そんな街の中で好きなように時間を過ごす。
とりたてて変わったことは起こることもなく。
いや、それだからこそ。
麻衣子はこの『毎日』を気に入っていた。
いつもと変わりなく、麻衣子はデニムスカートとパーカーというラフなかっこうでアーケードをぶらついていた。
昭和の時代に作られたこのアーケードは街の中心、駅の近くにある。
駅向こうの再開発によりシャッターを下ろした店が目立つ。それでも昼を過ぎたこの時間はそれなりに往来があった。
誰も麻衣子を気にも留めず、そして麻衣子も。
行き交う人々はアーケードの両脇に並ぶ店と同じ。ようは舞台のセット、背景のようなものである。
それなのに麻衣子は、ある人物に目をとめた。
アーケードの端、車道に隣接した角地に昭和の趣を残した喫茶店がある。その壁の下に腰を下ろしている男がひとり。
目に留まらないわけがなかった。その辺を歩いている通りすがり達とは明らかに一線を画していたのである。
壁を背に預け、片膝を立てて地べたに座るその男。
少し伸びたぼさぼさ髪の頭はうつむいているため、顔は陰っている。男の前には蓋の開いた木箱が置かれているようだ。
濃紺の着流しにふさわしい草履履き。着流しの上、肩から掛けた黒い羽織……時代劇でよく見られる商人や職人が身に着けている印半纏、というものだ。両襟の中ほどに達筆かつ情緒あふれる白文字が記されている。
それを目にしたとたん、麻衣子の中で好奇心が優勢となり警戒心を心の隅に追いやった。
男の印半纏の白文字は『夢屋』と書かれていたのだ。
麻衣子は『夢』という言葉に、その響きに。そこに込められた果てない希望と力に憧れを抱いている。
小さな頃から、十七歳になった今でも。
男の羽織にある『夢屋』の文字は麻衣子を惹きつけるのに十分な魅力を持っていた。
そうっと、麻衣子は男の方へ近づいていく。
すぐ目の前まで来ても、男は顔を上げる気配がない。眠っているのだろうか。
袖を通さず肩にかけた印半纏の中で組んだ腕。上になった左手には黒い刺青が施されていた。
手首に巻き付いた蔦が緩やかな曲線を描き、手の甲へと伸びていく。巻き上がった蔦の中腹に乗る形で、動物のシルエットが彫られている。
麻衣子はうろ覚えながら『獏』という動物に思い当たった。
麻衣子も気づいていない。
その時すでに辺りは静まり返っていた。
消えている。つい先刻までアーケード内を往来していたはずの通行人も、アーケードの外を走る車も。
今や閑散としたアーケードには麻衣子と、目の前の男しか存在しなくなっていた。
麻衣子は男の正面にしゃがみこんだ。と、スニーカーの先でコツリという音。反射的に下を向くと、木箱につま先が接触していた。
二十センチ四方、高さ十五センチほど。その木箱もまた趣ある作りをしている。四隅を黒い三方隅金で補強されており、高さの三分の一を有する蓋と本体を繋ぐ蝶番は全開になっていた。
箱の中には整然と小瓶が陳列している。それらがぴったりと治まるように碁盤目に仕切られ、ひとつの空席もない。
ちら、と。麻衣子は男に視線を戻した。変わらず、動く様子もない。
ゆっくりと小瓶に手を伸ばす。油紙で包まれた頭部をそっとつまみ、音が立たぬよう、静かに引き出す。
姿を現した小瓶は、麻衣子の手に隠れてしまうほどの大きさだった。瓶の口を覆う油紙は上から紙帯を一文字に貼りつけて封をしてある。
瓶の中ほどに貼られた和紙のラベルには綺麗な筆文字でこう書かれていた。
飛翔の空 大石陽子
ラベルの奥、瓶の中に詰まっているのは、その名にふさわしい空色の液体だった。
とてもよく晴れた日の深い空の色。瓶の向こうが透けて見えるほどに澄んでいる。
アロマオイルか何かだろうか。
「そいつが気に入ったのかい?」
突然の声に驚いて麻衣子は思わず立ち上がった。
麻衣子の手からするりと抜け落ちた小瓶はアスファルトの地面にぶつかり、高い音を立てた。割れてはいない。陽光を照り返しながら跳ね上がる。
衝撃で開いてしまった封と油紙の間から、空色の雫がこぼれ出す。
男は素早く起き上がり右手を伸ばした。空中で緩やかに回転する瓶を掴み取り、宙を舞う空色の雫を瓶の口で掬い取っていく。
麻衣子は驚愕の中にあった。
男の、人間離れした早業に対しての驚愕ではない。
瓶が高い音を立て、『まずい!』と思ったその瞬間。空色のひとつが麻衣子の脚に当たり、異変が起こっていたのだ。
無重力下に置かれたときの内臓が浮き上がる感覚。遥か眼下にあるジオラマのような小さな大地が近づいてくる。身体が落ちていく!
ぎゅっと目を閉じ悲鳴が上がる寸前――落下の感覚は消え、気流が身体に沿って流れるのを感じた。
恐々と目を開けると、迫っていたはずの大地は、一定の距離を保ったまま足元へと流れていく。
麻衣子は翔んでいた。
鳥のように両手を広げ、輝く太陽を背に、流れる雲間を縫い、空を翔んでいる。
歓喜からくる高揚感に、麻衣子は自然とこぼれんばかりの笑顔を浮かべていた。
突如背中に何かがぶつかる感触を覚え、麻衣子を包んでいたものは消え去った。
代わりに見えたのは時代錯誤男の顔だった。麻衣子はそれを見上げる状態にあり、背中に当たっているのは男の腕。あろうことか、麻衣子は男に抱きかかえられる形で支えられていた。
「やだっ、触らないでよ!」
麻衣子は起こっている事態に混乱しつつ男の腕を振り払った。
男は麻衣子の様子に驚くでもなく、もう片方の手に握っていた小瓶の封を直しながら言う。
「倒れそうになったところを支えてやった恩人になんてぇ言い草だ。しかも人様の商売道具を落っことしやがって……あーあ、ちいと量が減っちまった」
麻衣子は言い返すことができず、言葉を詰まらせたまま視線を泳がせた。
男の声にも表情にも怒った様子はない。
飄々と、どこか人を食ったような雰囲気のその男。
無精ひげを生やしているせいか、若いのか老けているのか麻衣子には判断がつきかねた。二十代後半から三十代くらい、だろうか。
指先でつまんだ小瓶を揺らし、アーケードのアーチ天井越しに降る光に透かしている。
先刻のあの感覚。幻、なのか。どちらにせよ小瓶の中身が原因なのだと、麻衣子は直感した。
「ねぇ、何それ。あんた何なの?」
警戒心をむき出しにした麻衣子の顔は緊張に強張っている。男は眉と一緒に口端を上げて言う。
「俺かい? 俺は夢屋さ」
夢屋、と名乗った男は壁際に戻り、のそりと腰を据えた。置かれた木箱に小瓶を戻し、帯に挟んでいた細長い革ケースを取り出す。
そこから竹と鉄で作られた煙管を抜き取り、ケースと紐で繋がれた小さな印籠から刻み煙草をつまむと手際よく火皿に詰めていく。
「お前さんの言う『それ』は『夢』だよ。夢を売ってるから夢屋。簡単明瞭だろ?」
言い終わらないうちに煙管をくわえ、夢屋はマッチを擦って火をつけた。
初めて目の当たりにする一連の動作をずっと睨んでいた麻衣子は、吐き出された煙に苛立ちを覚えた。
その勢いのまま夢屋を追及する。
「夢を売るなんて言って、へんなクスリかなんかじゃないでしょうね?」
「おいおい、人聞きの悪いこと言うんじゃあねぇぜ」
夢屋は煙管の先で麻衣子をさす。
「お前さんだって、こんな平日の真っ昼間っからこんなところうろついててよぉ。学校は行かなくてもいいのかい?」
「何言ってるの? ここには学校なんてないじゃない」
麻衣子は『意味が分からない』というように眉をしかめる。
それを見た夢屋は視線を伏せつつ口の端を上げて微笑み、一言「そうかい」とつぶやいた。
「ま、ともかく俺の扱う夢は本物さ。さっき見たろう?」
夢屋の言う通りだ。
あの小瓶に詰められていた液体によって見たものは『夢』なのだと、麻衣子も感じていた。
ただ理解できないだけだ。あんな液体に触れただけで、自在に夢が見られるなんて。
そんな事あるわけがないと否定しつつも、麻衣子の心はすでに小瓶に魅せられていた。
空を翔けるあの感覚。
ほんの数瞬だったにもかかわらず、確かな経験として麻衣子の中に残っている。
「さっきの減らしてしまった……夢? 私が買うわ。弁償する」
麻衣子は夢屋に向かって言った。
もちろん方便だ。もう一度、あの夢を確かめたい。麻衣子の心はその想いで占められていた。
そんな麻衣子を、夢屋は片眉を上げて見やる。
夢屋から見えないように、麻衣子は両手を握った。本心を見透かされるような心地がしたのだ。
夢屋は煙をひとつ吐き出す。煙管を持たない左手で、木箱の中からひと瓶取り上げた。
「お前さんには、こっちだ」
身をかがめ、麻衣子は小瓶を受け取る。
小瓶が麻衣子の手に移った瞬間。夢屋の手は麻衣子の手首を掴んだ。
「やっ……!」
とっさに振りほどこうとしたが、男の手で掴まれてはびくともしない。小瓶を握る手が汗ばむ。
「ひ、人を呼ぶわよ!」
「周りに人なんざ居やしねぇだろ?」
そう、麻衣子が夢屋に注視したその時から。
アーケードには二人以外の存在は消えている。
「助けを呼んだって無駄だって事ぁ、お前さんが一番わかってんじゃあねぇのかい?」
「な、なに言って……」
うろたえる麻衣子をまっすぐに見据え、夢屋はにやりと笑む。
「知ってるかい? 獏って動物は、夢を喰らうんだぜ」
獏――反射的に麻衣子は視線を落とした。麻衣子の右手を掴む夢屋の左手の甲に。
「う……そ……」
そんなことがあっていいものだろうか。
夢屋の手に彫られた獏と蔦を描いた黒いシルエット。刺青であるはずの獏の口元から、するりと蔦が伸び始めたのだ。
それは夢屋の人差し指へ絡み巻き上がるように、麻衣子へと近づいてくる。
息を呑む麻衣子に、夢屋の悠然たる声が聞こえた。
「弁償なんざ必要ねぇさ。お前さんの夢さえいただけりゃあな」
掴まれた右手を振りほどこうともがいた麻衣子は、手中にある小瓶が目に入る。
透明な空の小瓶。貼られた和紙のラベルには筆文字でこう記されていた。
自由意志の街 園部麻衣子
「やっ、嫌あぁっ! 離して!」
麻衣子の悲痛な叫びは無人の街に響き渡る。
刺青の蔦は夢屋の指先に達していた。麻衣子の手首に触れるまで、あとほんのわずか。
たまらず麻衣子はぎゅっと目を閉じた。静寂と闇が麻衣子を包む。
「――?」
数秒。
その身になんの異変も感じず、麻衣子はそっとまぶたを開く。
信じられない光景に足がすくむ。
そこに見慣れたはずのアーケードは存在しなかった。
アスファルトの路面は隆起し、捻じ曲がり、いたるところに大小さまざまな尖塔が発生している。
頭上で奇怪な歪みを見せるアーケードは部分的に崩落し、そこから薄い陽光が差し込む。わずかな光が真下に落ちた瓦礫を照らす。
そして麻衣子と、正面に立つ夢屋。ふたりの間は地面に突き立つ数本の鉄筋で遮られていた。
「やってくれるねぇ」
夢屋は痛む左腕にちらと視線を向け、つぶやく。
麻衣子を掴んでいたはずの左腕は袖が裂け、朱線がいくつか走っていた。飛来した鉄筋による傷である。
「どう……して?」
麻衣子はうつむき、細い肩を震わせている。
夢屋はその様子に油断ない視線を向けながら、煙管の雁首を鉄筋に叩き灰を落とした。
「どうして、こんなことするの? あんたが現れさえしなかったら、私、気付いたりしなかったのに――!」
麻衣子は顔を上げ、キッと夢屋を睨みつけた。その瞳は濡れ、頬に一筋の流れを生む。
それを見ても夢屋は表情ひとつ変えることはなかった。
「そりゃあ違うだろ」
空になった煙管を帯に挟みこみ、地面に置かれたままいつの間にか蓋が閉じている木箱を抱え上げ言う。
「お前さんは『この世界に』学校はないってことを知っていた。気づいてたんだろう? 初めっから」
「――っ、うるさい!」
ヒステリックに叫ぶ麻衣子の声に、呼応する。
夢屋の背後、喫茶店の壁から白い巨大な棘が迫り出す。夢屋の身体は白い尖塔に貫かれていただろう。ほんのわずか気づくのが遅かったなら。
身をひねってかわした夢屋の脇で、尖塔と鉄筋がぶつかりガシャリと派手な音を立てた。
ゆらりと、体勢を立て直す夢屋は木箱を小脇に抱え正面から麻衣子と対峙する。
今や人を食ったようなゆるい笑みは微塵もない。真摯な瞳が麻衣子に向けられていた。
「お前さんの持つ夢の力は強すぎる。このまま夢に囚われ続けていたら、待つのは破滅だ」
「どうしようとあたしの勝手でしょ!」
麻衣子が握り締めた右手を横に薙ぐ。
同時に夢屋の足元からアスファルトと土が混在するものが勢い良くせり上がる。高波のごとく夢屋を呑み込もうとするそれを跳んでかわし、波の上に着地する。
間髪入れずに頭上からアーケードの一部が振り子のように迫った。身をかがめた夢屋の髪を、巨大な鉄の塊が掠める。
「うおっ、危ねぇ!」
「ここには自分本位の母親もうわべだけの友達もわずらわしい学校も何もかも……あたしの嫌いなものは何一つ無い。あんたさえいなければ――!」
そう叫ぶ麻衣子の周囲には、地面や鉄筋が集結し、徐々に壁をつくり始めていた。
この街は麻衣子の『夢』によって生まれた世界だ。
麻衣子にとって不要なものは排除され、必要な物だけが存在する。
彼女が何かに集中すれば、それを邪魔する雑踏や雑音を生み出すものは消える。
そして今。夢を奪おうとする者を排除すべく街は攻撃を始めた。同時に彼女自身を守るべく防壁を築き始めている。
「ったく。手のかかる嬢ちゃんだぜ」
夢屋は低くつぶやく。
もはや原型をとどぬ起伏激しい地面を蹴り、天井から斜めに下がるアーケードの骨組みに跳び移る。
鉄肌に下駄の音を響かせ麻衣子の頭上めがけて一気に駆けた。
「しまった!」
ぐにゃりと捻じれ沈む鉄骨に足を取られた。夢屋の身体が傾ぐ。
木箱が夢屋の手を離れ地面へと落下した。夢屋自身も横に投げ出され宙に舞う。
瓦礫の上で木箱が硬い音を立てる。
夢屋の身体は宙に浮いていた。もとは鉄筋であった触手状のものに絡め取られている。
触手、という表現通りの柔軟さと鉄の硬さを持ち合わせたそれが夢屋の身体を持ち上げた。そう思ったのも一瞬。
「ぐっ……!」
次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
息が詰まり、夢屋はたまらず咳込んだ。再び宙へ振り上げられながら、なおも夢屋は麻衣子の姿を探す。
麻衣子は人ひとりがすっぽりと治まる灰色のドームに包まれつつあった。
彼女の正面に当たる部分だけが鉄筋による鉄格子となっている。集まり続ける瓦礫はそこすらも頑強な壁で守り固めようとしていた。
快晴だったはずの空は今や漆黒に塗られた闇と化している。わずか垣間見える格子の向こうにあるであろう麻衣子の表情は、陰ってうかがい知ることはできない。
「そんなに夢の中が好きなのかい?」
夢屋の言葉に、彼を振り下ろしていた触手の動きが止まる。
すぐ眼前に迫っていた瓦礫の地面に、夢屋は小さく息を吐く。地面と水平になってはいるが、身体が麻衣子の方を向いているのは幸いだ。
鉄筋による締め付けが甘かった右腕を懐から引き抜く。
「なら、見るがいいさ。この夢の真実の姿をな!」
麻衣子へ向けて振られる右腕から放たれる。空中を回転しながらドームへ向かうきらめきは、回転する小瓶だ。
格子にぶつかり、高い音を立てて割れる。中から溢れた黒い液体が麻衣子へ降りかかった。
「きゃあっ!」
麻衣子は自身の悲鳴を聞きながら、身体が垂直に落下する感覚に襲われる。
それはすぐになくなり、目を開けた麻衣子が見たのは白い空間だった。
白く霞んで真っ白に見えていたが、よく見ると病室のような輪郭が浮き上がってくる。
右手壁際の棚には、お見舞いの花や雑貨が所狭しと置かれている。添えられたカードの中には見知った文字で記されたよく知る名がいくつもあった。
その奥、病室であればベッドがあるのだろうその空間は衝立に遮られている。心は無のまま、足だけが衝立を回り込み歩を進める。
衝立の奥に、対面の壁の大半を占める窓が姿を現す。窓際にも、たくさんの花が置かれている。
さらに足を踏み入れる。
白いベッドに横たわり、点滴につながれている人物。そしてその脇に座り、祈るようにベッドの上を見つめる女性。
嘘だ。
嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘嘘嘘嘘――。
「これでも、夢の中に閉じこもっているのがいいってのかい?」
夢屋の声。
身体を折るようにして両手で顔を覆っていた麻衣子は、はっと顔を上げた。
夢屋を拘束していたはずの鉄筋は崩れ去り、麻衣子を護っていたはずのドームも時間を巻き戻しているかのように瓦礫へ崩れ元の位置へと返っていく。
麻衣子はその場に崩れるように座り込んだ。
崩れた鉄筋の残骸に白くなった印半纏を手で払いながら、夢屋は転がっていた木箱を拾い上げる。あの高さから落ちたにも関わらず傷ひとつない。
「お前さんが夢の中にいれば本体はどんどん弱っていく。それにあの様子じゃあ、お前さんとお袋さん、どっちが先に参っちまうか解りゃあしねぇ」
「今更……恩着せがましく女手ひとつで娘育ててますって顔して、仕事ばっかりで……あたしのことなんて見向きもしなかったくせに……今更母親面されたって――!」
「……それを、お袋さんに言ったことは?」
「……」
「お袋さんがどう思っているのか、話を聞いたことは?」
麻衣子はうつむいたままだ。無言で地面についた両手を握り締め、夢屋の言葉を受けている。彼女を覆っていたドームは、もはや跡形も無い。
天井を覆っていたアーケードだったものも、端のほうからボロボロと崩れだしている。
「現実だって夢とそう変わらねぇ」
自分本位の母親。うわべだけの友達。
その『事実』を覆す『現実』を目の当たりにし。
「てめぇが見たいと思ったように、世の中見えるもんさ」
自身が生み出した『壁』で相手を隔て。
周りを遠ざけるための理由をつくるため、都合のいい『型』にはめて相手を見ていた。
「結局はお前さんの心ひとつってことじゃあねぇか」
夢屋が言い終わると、麻衣子はふらりと立ち上がった。
麻衣子の表情は心なしか穏やかで。その瞳に膨れ上がった涙が、両の頬を伝う。その口元は微かな笑みを形作っていた。
「全部、解ってたのよ。あんたが言うことも、夢のことも。あたしは、逃げてただけ」
突如、足元を振動が襲う。もはや廃墟とも言いがたい不自然なアーケード内は各所に亀裂が走り、ひび割れた街のパーツがひとつ、またひとつと落下していく。
二人の立つ場所は底知れぬ闇に浮かぶ崩落寸前の島だった。
麻衣子に近づこうとした夢屋の前方が崩れ落ち、闇の底へ小さく消えていく。夢屋は少女の意思を察知し、鋭い光を瞳に宿らせ麻衣子を見た。
「あたしみたいな奴は、自分の夢と一緒に消えてしまえばいいのよ」
言い終わるが早いか、麻衣子の足元は細かくひび割れ、砕けた。
静かに目を閉じた麻衣子の体が、闇の深淵へと落ちていく。
「なんにも解っちゃいねぇよ!」
すぐ側で聞こえた声に驚き、閉じていた眼を開ける。
そこには麻衣子と共に落下する夢屋の姿があった。夢屋は麻衣子の二の腕を、刺青の無い右手でしっかりと捕まえる。
「そんなことして、格好いいとでも思ってんのかねぇ……また逃げてるだけじゃねぇか」
「どうして……」
このまま一緒に落ちれば、夢屋だってどうなるかわからないのに――。
麻衣子は両手で顔を覆い、うずくまる。微かな震えとこらえきれない嗚咽が夢屋にも伝わって来る。
落下の速度は次第に緩まり、二人は闇に浮いていた。
「『消えちまえばいい』なんて、自分を卑下するもんじゃねぇさ。こうして落ちるのを止めたのも、お前さんの優しさじゃねぇか」
夢屋は麻衣子から手を放し、帯に挟み込んでいた煙管と煙草入れを取り出した。
身体の浮いた不安定な状態で、器用に煙草を詰め、火をつける。
吐き出した煙は不思議と渦を巻き、上も下も無い闇のどこかへと消えていく。
「お前さんも、捨てたもんじゃあねぇぜ?」
「……」
「ここはお前さんの夢の中だ。全てがお前さんの心の中から発生している。となれば、この俺は?」
「……?」
麻衣子はわずかに顔を上げた。少女と、夢屋の視線がぶつかる。
夢屋は、出会ったときに見せたような不敵な笑みを浮かべて言った。
「『このまま夢に囚われてちゃいけない』ってぇお前さんの心が生んだものってわけよ」
「あたし……戻っても、大丈夫、なのかな?」
「最後まで『そいつ』を放さなかった根性の持ち主だ。大丈夫に決まってらぁ」
夢屋の言葉に、麻衣子は始めて気がつく。
麻衣子の名が記された小瓶を、今もその手に握り締めていたことを。
もう麻衣子は泣いていなかった。
手にした小瓶――自分の夢を封じるためのその小瓶を、夢屋へと手渡す。麻衣子自身の意思で。
麻衣子から受け取った小瓶を、夢屋は刺青の左手で受け取った。
口の開いたその小瓶を左手の中に握り込み、正面に立つ麻衣子の頭へと手を伸ばす。
夢屋の人差し指が麻衣子の額に当てられると同時に、麻衣子は瞳を閉じた。
手の甲に在る獏の口から、再び蔦が現れる。音も無く滑らかに、手の甲から人差し指へ巻きつき伸びていく。
眼を閉じた麻衣子に、夢屋の声が聞こえた。
「もう二度と会うことはねぇだろうが、元気でやるんだぜ」
「あたしの夢が消えたら、あんたはどうなるの?」
「俺かい? さっきも言ったとおり、俺だって夢の一部だ。一緒に綺麗さっぱりさ」
「……ありがとう」
直後、蔦の刺青が麻衣子に触れ、麻衣子は落下するような上昇するような不思議な感覚に包まれた。
再び眼を開けた麻衣子の瞳に映し出されたのは、白い天井。そして、喜びに泣き崩れる母の姿。
自分の手を強く握り締める母の手を、麻衣子は上手く力の入らない手で、それでもしっかりと握り返した。
喉も張り付いたようで声が出るかどうか解らなかったが、これだけは伝えなくては。
「ごめんなさい……」
こんなにも、自分を心配してくれる人たちがいることから眼を背けていたなんて。
麻衣子はそのことを気付かせてくれた人物を思い描く。
濃紺の着流しに黒い印半纏。時代がかった妙な身なりの、それでいて不思議と似合っている、若いのか老けているのかわからない無精ひげの夢屋。
――夢の中では、麻衣子の知りえないものは存在するはずが無い――
「ありがとう――」
麻衣子は煙管を吸い、下手な嘘をつく男に、もう一度同じ言葉を贈った。
病室のドアを通し、涙声で娘の覚醒を喜ぶ母親の声が微かに聞こえてくる。
無機質な廊下の窓から斜めに差し込む陽光に、銀色の波がきらめく。その液体が入った小瓶には和紙のラベルが貼られ、瓶の口は油紙と紙帯で封がされている。
指先で陽に透かされていたその小瓶は、すぐに木箱の中に収められた。
「毎度――」
一言だけ残し、木箱を小脇に抱えた影が病室前の廊下を後にする。
白い『夢屋』の文字を背負った黒い羽織の背中は、誰の眼にも触れることなく廊下の角へと消えていった。