第二部4 『墓標』
雨がミルヴィナ・モーズレー局長の肩にやんわり当たっていた。傍らにいるハーディ主任が彼女に傘を掲げている。幼い面影がまだ漂っている彼女に対して、大柄な男が傘を差している姿は違和感のある光景だった。
「こんな天気の訪問でごめんなさい。中々、時間がなくて」
ここはイギリス郊外にある共同墓地だった。モーズレー局長は業務の合間を縫って、この墓所に訪れていた。人通りの少ないこじんまりとした墓所だった。今もモーズレー局長とハーディ主任以外誰もいない様子だった。
モーズレー局長は墓石に向かって話しかけていた。ハーディ主任はそんな彼女の様子をただ黙って傘を差し続けていた。彼女は、ここで眠る自分の母親に報告をしていた。
「今日、部下が日本へ発ちます。貴方もよく知っている人もこの作戦に参加しています」
モーズレー局長は、平常心で答えるようにしていたが、未だにここで報告するときは声がうわずった。自分の母親への報告はいつも緊張の連続だった。例え、それが墓の中であろうと。
「見守ってください。まだ私に出来ることは限られているかもしれませんが、局長としての責務を果たします」
「局長、お身体に触ります。早く車に乗った方が」
傘を差しながら、ハーディ主任は淡々と、車に乗るように促す。
「また来ます。その時にはもう少し胸をはれるような報告を出来るようにします」
墓に背を向けて、モーズレー局長は車に戻っていく。1年前に起こったMI6襲撃事件。モーズレー局長の母もそのテロの犠牲者だった。まるで何かを指し示すかのように母は遺言を残していた。その一つがここの墓所だった。はっきり言って、あの人はここには似合わないと娘であるミルヴィナは感じていた。
「これから天気は、もっと酷くなるそうです」
ハーディ主任が珍しく、世間話をしてきた。無駄なことは言わない男だと思っていたので、モーズレー局長は少し驚いた。彼なりの気遣いかいも知れなかった。
「そうね、嵐が来るそうね」
その言葉が合図になるかのように車は動き出していく。
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伊里谷とジェフは外食しようというジェフの提案で外に出ていた。休日でも体力維持のためのランニングやトレーニングばかりしている伊里谷にとって外食すること自体珍しかった。
今回、ジェフの提案で日本食を食べにいくという話だった。ジェフ曰く、日本外食の代名詞と呼べる店舗に入っていく。カウンターに座ってジェフは早速、店員に話しかける。
「こいつは並で、俺は並の汁だくで頼むよ」
ジェフは聞き慣れない言葉で店主に呟いていた。伊里谷は初めて牛丼を食べることになった。
「初めてだろ?」
「そうだな」と言う伊里谷の言葉に、ジェフは「連れてきた甲斐があったな」と嬉しそうに答える。
お待たせと言う店員の声に合わせて、伊里谷の目の前に牛丼(並)が置かれた。
伊里谷は黙ってジェフから丼に盛られた牛丼を渡された。ふたりは食べはじめる。
「旨いな」
「だろ、日本には、この店が沢山あるから困ったときは、これを食えばいい」
「霧絵に怒られそうだな・・・・・・。何となく、そんな気がする」
「彼女の言葉なんか気にするな。俺らの身体の問題だ。彼女には関係ない」
ジェフは笑って答える。それからふたりは黙々と牛丼を食べ続けた。
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「実際どう思う?」
「何の話だ」
牛丼をかき込んだ支店への帰り道。ジェフは質問していた。
「例の任務の件さ。ありゃあ腑に落ちないね。この先どうなることやら」
さっきまで牛丼を食べていた時とは打って変わって、ジェフは真剣な表情で顛末を嘆いていたようにも見えた。
「やはり、透明人間か」
「奴もそうだが、別の視点でという話さ」
ジェフはそう言った後、少し言い直すようにした。
「いや、すまん。奴の行方を探るのにしては、少し大仰すぎると思っただけさ」
「透明人間の行方を追うためだけに、日本への異動という意味か」
伊里谷の言葉にジェフは「そうだ」としぶしぶ頷いた。
「ああ、だが局長が決めたことだ。なるようにしかならんさ。それに俺はモーズレー局長のことは結構買ってるんだ」
まだ若いモーズレー局長の局内での評価はお世辞にも芳しくはなかった。一年前のMI6襲撃事件を皮切りに大規模な組織変更もあった。皆が、慎重になっている中で彼女の存在は悪い意味で目立ってもいた。
「霧絵はその件で何か言ってるのか?」
「分からんね。だが、霧絵の顔を見たか? ありゃあ局長に何か変なこと言われた顔だぜ。俺たちに何か隠ししてやがる」
「ジェフは、局長に何も言われなかったのか?」
ジェフは頷く。彼はMI2部門の技術主任だ。彼が言われていないということは、それこそ、もっと上の情報部のみ知らされている重要な情報かもしれなかった。
「あくまで憶測の域を出ていない話だからな。上の連中が透明人間に対して、どう考えているかまでは俺も想像が付かないね」
伊里谷は黙って頷いた。
「おそらく、霧絵も同じことを思っているはずだ」
「それこそ、霧絵に相談してみたらどうだ?」
「今度、彼女に何気なく聞いてみるさ」
伊里谷は何気なく投げ掛けたが反応は薄かった。
「透明人間の所在に関して、ジェフの開発部門から出た話だろ。そっちこそ何か知ってるんじゃないのか?」
「透明人間が使っていた爆弾を解析したら、足が出たって話なだけだ。それこそ罠なんじゃないかって思うくらいな」
伊里谷はジェフの話を黙って聞いていた。
「死人を相手にしたお前の率直な意見を聞きたい」
「何処にでもいるような男だった。答えになっていないのかもしれないが俺が自身が感じた、率直な感想だ」
伊里谷は自分の掌の感触を確かめる。あの男の攻撃で折った腕が未だに痛んで唇を噛み締めた。そんな様子をジェフはただじっと眺めていた。
「たしかに特徴のない男と言ってしまえばそうだな」
ジェフは伊里谷の発言に特に気にもせず、透明人間の写真データを眺めながら答えた。
「突拍子もなさすぎて交戦した俺でさえ上手く言葉にできないんだ」
「モーズレー局長やハーディ主任は何て言ってるんだ」
「詳細について確認するとだけ答えてた」
思い返せば、上層部に報告してから透明人間を撃ったはずにも関わらず、青の男が蘇ったことについては強く問いただされることもなく、モーズレー局長まで届いている様子だった。
「前例がないしな、そう答えるしかないわな」
「上の考えは分からん」
伊里谷の言葉にジェフは言葉を挟んでいく。
「局長には局長の考えがあるだろうし、俺たちに出来る事をしていくしかないだろ」
「それは、そうだが」と伊里谷。
「ただ、ひとこと言えるのは、もし次に透明人間に遭遇したら本当に殺せるか、見極めるように対応をしてくれ。記録に残さない限り、上層部は俺たちのことを信用してくれはしない」
「開発部門として、爆弾の情報以外は何か来てないのか?」
「透明人間を特定できるようなものはないな。完全に自作の代物だし。技術的に高度なことをしているわけじゃないからな」
頷く伊里谷にジェフは話を続ける。
「調べが付いたら、また報告する。お前は貴重な死人を相手にした男だからな」
「頼む」と伊里谷は言ってジェフに促した。
技術に関して、ジェフほど頼りになる男はいない。情報が少ない中、彼の意見は重要だったからだし、伊里谷なりに彼の能力には一目置いていたからだった。