第二部1 『失態』
本部に戻ろうとするヘリに揺れながらクロエは乗り心地の悪い中で目が醒ました。伊里谷に顔を合わせると顔はうつ向いたままであった。
「・・・・・・ダメだったのか」
クロエの質問に伊里谷は何も答えなかった。彼の反応を察してかそれ以上は何も言わなかった。
リストを回収するという当初の目的は失敗し、MI6の諜報員も失う結果となった。最悪の結果だった。ひどく腹が立った様子の伊里谷の姿を耐えかねてかクロエは口を挟む。
「・・・・・・伊里谷、お前は悪くない。私たちは善処はした」
「君と話すことはない。自分のしたことが分かっているのか。任務を一時放棄し職員を助けて、この様だ」
伊里谷は冷めたい口調で、クロエに言った。
「出来ると思った。ああした方が良かったって・・・・・・」
「その結果がこれかっ。君の勝手な判断ですべて水の泡だ」
伊里谷は有無を言わない口調でクロエに告げた。
「君と金輪際、パートナーを組むを止める。いや止めさせてもらう。モーズレー局長にも掛け合う」
そもそも、こんな失態をしたのだから、伊里谷が今後、MI6に所属が出来るのかも怪しかった。
そんな苛立ちと不安が伊里谷を包み込んでいた。クロエは、ただ黙って見守り、ヘリはただずっと拠点である上海の支部まで進んでいった。
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上海のMI2支部に伊里谷たちが乗ったヘリが到着し、ふたりは担架で運ばれすぐに手当てが行われた。
気分が落ち着きはじめ自分の腕が折れたということを思い出した伊里谷は強烈な痛みに襲われた。医者からは幸運な事に綺麗に骨が折れていたため、そんなに治りに時間は掛からないだろうとの意見だった。何にせよ、数日は安静しろとのことだった。
結局、掛かった病院まで、直接の上司である霧絵が見舞いに来るような形にもなった。
「伊里谷、大丈夫?」
「ああ、大した骨折ではなかったそうだ」
「そう。良かった」
霧絵は職場の部下というより、まるで家族の無事を確かめるようにホッとしている様子だった。
もっとも、自分も入院もせず自宅療養になるだけだ。彼女から、クロエの傷の状態までは何も聞かされなかったし、聞く気もなかった。今後の自分の処遇について話されることもなかった。
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数日、安静し異常がない事が分かると、伊里谷は上海のMI2支部に出勤した。
出勤早々、上官であるジェラルド・ハーディ主任の元に招集が掛かった。
伊里谷は、腕や腰にギプスを付けて慣れない動きでハーディ主任の部屋まで向かった。
ノックし部屋に入るとクロエもいた。既にクロエは主任の机のまえに立ち怪我ひとつなかった。チラリと伊里谷に顔を向け、すぐに主任の方に顔を向ける。
二人が揃ったところでハーディ主任は話を始めた。
「次の任務だ」
主任は簡潔に伝えた。元々、口数の少ない男だが、あまりの突拍子のない言葉に伊里谷は戸惑った。
正直、伊里谷は今回の作戦の責任で解雇されるつもりでいたが、それはとりあえず杞憂に終わったようだ。
「リストを取り戻せなかったのにですか?」
クロエは質問する。上官に対しても態度を崩ささない少女だが、ハーディ主任には、いつもより少し硬い口調で答える。主任は表情を変えずに答えた。
「君たちにどれほどの金が動いているのかよく考えろ。作戦が上手くいった、いかなかったの問題ではない」
ハーディ主任の答えに納得したのか、クロエは「了解です」と答えて質問は終わった。主任の話は続く。
「リストを盗み、先日、君たちがイスタンブールで接触したテロリストの男。我々は便宜上、透明人間と呼んでいる」
「透明人間」
伊里谷はハーディ主任の挙げた奇妙な男の名前を繰り返し口に出した。伊里谷たちが逃した後、MI6が各国の監視カメラにも映らず居場所を特定出来るような確固たる証拠が見つからなかった。まさに透明人間のような男だった。
ハーディ主任は机の上に、透明人間が使っていたペン型爆弾の破片を置いた。簡素なジップロックで封詰されていた。伊里谷たちがMI2支部に到着した際に開発部門に渡していたものである。あの男の手掛かりになればと思い渡していたものだった。
「分析から透明人間の手がかりになる場所をある程度絞れた。確証はないがな」
「場所は?」
クロエが質問する。ハーディ主任は少しだけ片眉を挙げ少し曖昧な表情をした。
ハーディ主任は卓上にあるパネルのスイッチを入れると、小さな室内にプロジェクターのスクリーンが掛かる。スクリーンには小さな島が映っていた。
「日本だ」
ハーディ主任の答えにふたりの表情は固まる。反応を察してか主任は話を続ける。
「たしかに我々には、あまり馴染みのない国だ。ましてやテロへの脅威を考えれば透明人間が潜んでいる可能性も他国に比べればずっと低い場所だ」
イギリス本部からしてみれば管轄外といってもよい場所である。それで自分たちのようなアジア支部であるMI2部門まで話が回ってきたのだろう。
仮に日本に潜伏しているなら透明人間は、何故こんな狭い島国を選んだのか、伊里谷には不可解だった。
「なぜ日本の情報機関ではなく我々なのですか?」
伊里谷が質問する。ハーディ主任は答える。
「日本とも話し合った。結果、我々の担当になっただけだ」
ハーディ主任はそれだけ答えて後は何も答えなかった。
「滞在期間は?」
今度はクロエが質問する。
「未定だ」
ハーディ主任はふたりの質問に対して、それ以上、任務に関する具体的な話はなかった。
「今回の任務で、ジェフリー・リュエリンおよび霧絵 冬子両職員もバックアップで現地で対応する。既に今回の件は話をしてある。一週間後を予定に日本へ発つように」
顔馴染みがいることに伊里谷は多少安堵した。知らない諜報員と行動を共にするのは、大体、無用なトラブルを招くことが多かったからだ。
「出立の細かい手筈はキリエに伝えてある。詳細は彼女に聞け。話は以上だ」
そう言ってハーディ主任の話は終わった。
「「了解しました」」
二人は同時に返事をする。伊里谷の敬礼に比べてクロエの敬礼はラフなものであった。ハーディ主任は特に気にしたような様子を見せずそのまま促した。
二人は部屋から出ていく。部屋を出てから、同じ方向に歩いていた。ハーディ主任の部屋は部屋の角になっており通路はひとつしかなかったためだった。
伊里谷は仕方ないと思い、なるべくクロエに顔を合わせないようにしながら歩いていく。気まずい空気を感じながらも彼はそれを無視して歩き続ける。
伊里谷は、イスタンブールでの任務が終わった時に今後、クロエと組むことは断るようハーディ主任に掛け合ったが効果はなかった。彼は「考慮しておく」と簡単な返答しか伊里谷に残さなかったためだった。
「生き残ったMI6の諜報員はどうだったんだ?」
クロエは口を開いた。透明人間との戦闘で重症を負ったMI6のトマス・ハリソンのことであった。
「助かったそうだ」
伊里谷の治療を担当した医師に聞かされたが、クロエが応急処置をした後に救護班に助けられたようで重傷であったが、結果、命に別状や後遺症なども運良く残らなかったそうだった。
医師からも「彼女のことをよく礼を言うように。彼女の処置が遅ければ生きてはいなかっただろう」と言われた。伊里谷は医師に曖昧に返答したが彼が意識が戻ったら是非見舞いに行ってほしいとも言われた。
その話をすると、クロエは表情がみるみる明るくなり嬉しそうに肩を揺らして歩き始める。先ほどまでの空気など嘘のようにクロエは伊里谷に歩み寄る。
「私のしたことは正しかったんだぞ。少なくとも人を助けた」
伊里谷はその事については何も言わず、負傷した諜報員の病院を伝えた。そうなのだ、彼女にあんなことを言ってしまったが、彼女の行動自体に間違いはなかった。
クロエは、表情を崩さない伊里谷の顔を見て意地悪く笑っている。この顔をしてるときは彼女が何か良くないことを考えているのも短い付き合いだがよく知っている。クロエは伊里谷の反応を察するかのように話を続ける。
「そうか認めたくないんだな。お前のことなど手に取るように分かるぞ」
伊里谷は彼女を無視をして歩き続ける。彼女のことを否定することを言った手前、何も言い返すことが出来なかったからだ。
クロエは察したのか、いつもの嗜虐的な表情で伊里谷を見つめる。
「日本でも頼むぞ。私たちが協力しないことには、透明人間を捕まえられないのだからな」
クロエはそう言って一目散に自室のある方に足を運びそのまま伊里谷と分かれた。
「それは、そうだが・・・・・・」
伊里谷はクロエがいなくなった廊下で独り言をこぼす。
透明人間。先程のハーディ主任から不死身についての話は出なかった。無駄なことを伝えない男だ。あの場で話が出なかったのなら、それはまだ調査が終わっていないと言うことなのだろう。
ペン型爆弾については開発部門の主任である、ジェフルー・リュエリンも関わっているはずだった。
ジェフへの確認も含めて、伊里谷は日本に向けた準備を進めることとした。こんな思いは二度と御免だった。
(奴が日本にいるなら、そこで拘束するまでのことだ)
伊里谷は内心、言い放った。