第五部7 『福音』
後日、伊里谷は渋谷の拠点であるアパートで、今回の件の報告書を作成していた。イスタンブールからの事の始まりから夏目あきらの保護観察、そして透明人間との戦いやクロエ・ディズレーリの奇跡的な生還についても報告書としてまとめていた。
文書だけでは到底信じられないことばかりが起こった仕事だった。正直、伊里谷には未だに謎の多い部分が残っている。それはMI6本部と自分のような一介の現場の職員ということで知らされないこともあるのは承知しているつもりだった。
それでも現場で戦っている伊里谷にも情報として伝えて欲しいという気持ちが強かった。クロエの情報を集めることが結局、相棒として仕事を全うするのに必要なことだったからだった。
(少し様子を見るか)
伊里谷は内心、呟く。正直、今回の件で彼女に助けられた部分もあった。認めたくはないが彼女との相棒を取り下げる件も少し考えてもいた。
因みにクロエは既に退院しており、今まさにこの拠点のアパートに戻って来ていた。何やら忙しそうに何かの準備をしている様子だった。
その時、伊里谷の携帯から着信があった。登録されていない番号だった。不審に思いつつ伊里谷は電話に出た。
<私です。今少し大丈夫ですか?>
モーズレー局長の声だった。伊里谷は驚いた様子で姿勢を正すような気持ちで、何とか返答する。
<あなたの相棒の件です。何処か人のいないところで話せる?>
「分かりました」
伊里谷はそう言ってアパートの外に出ていった。
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伊里谷はアパートの側で立ち止まって周囲を確認した。誰もいないのが分かるとモーズレー局長に話し始めた。
「大丈夫です。お願いします」
伊里谷の声にモーズレー局長は応答する。
<結論から言うと、彼女は普通の人間ではないわ。これは前に話したわよね>
「そうですね」
伊里谷は自分でも可笑しいと思うくらい平然と返答してしまった。彼女との短い付き合いの中で、普通の年相応な少女だと思う場面のほうが少なかった。伊里谷はモーズレー局長の次の言葉を黙って待つ。
<今から話すことは、霧絵やそれこそハーディさんですら知らない内容です>
そう言って、モーズレー局長は話を続ける。
<九姉妹計画と呼ばれる作戦をMI6は実行していました。正確にはしていたそうです。私も作戦の概要程度しか知りません。私たちの組織でかつて行っていた実験だったそうです>
実験とは何です? と伊里谷が答える前に、モーズレー局長は話を切り出した。
<作戦内容は、優秀な諜報員のデータを別の人間に上書きするという内容だそうよ>
モーズレー局長の話は意味が分からなかった。伊里谷は彼女の突拍子もない話について行く事ができなかった。
<突然、言われても分からないわよね。私も耳を疑ったわ。正直、嘘だと思って欲しいとくらいにね>
「そうしたらクロエは・・・・・・」
伊里谷の言葉にモーズレー局長は頷く。それこそ最悪な答えを口にするような重い言葉だった。
<そう彼女は、九姉妹計画の生き残りなの>
モーズレー局長は、少し言い淀む。まるで伊里谷に言葉を選ぶかのような口調で話を続けた。
<彼女の身体にも、その諜報員のデータが書き込まれているわ。正確には遺伝子情報かしら。私の調べた内容では、まだ分からないことだらけなの>
「まるで、コミックやゲームの世界ですね」
伊里谷にはそう答えるしか出来なかった。それくらいこの話に信憑性がなかった。仮にも背中を預けている相棒の出自が、そんな訳の分からない存在なのかと耳を疑う。一緒に戦い、そして自分の行いを叱責するあの少女が、別の人間のデータに上書きされたという荒唐無稽な話に、伊里谷は怒りさえ覚え始めてた。
<この話はクロエ自身、知っている話です。ちなみに貴方に話してくれと頼み込んだのは彼女です。クロエ自身が貴方に言うより、私から言った方が信憑性が高くなると彼女が判断したからです>
「クロエはそのことをどう思っているんですか?」
伊里谷の言葉にモーズレー局長は一瞬、沈黙があった後、答えた。
<彼女自身覚えていないとのことです。まるで、その部分だけ記憶が落ちてしまっているような、そんな状態です>
「そうなんですか」
伊里谷はそう答えはしか出来なかった。自分の認識を超えた話だった。間抜けな返答だと思ったが、それ以外に反応しようがなかった。
<透明人間の目的とも被ります。奴の正体は分かりませんでしたが、彼女を利用して何かを行おうとしていた。それだけは確かです>
「あの島で透明人間はクロエと接触した」
伊里谷は呟く。透明人間はクロエに何かした。クロエ当人が何をされたか覚えていないという話だった。その後、病院の検査でも何も問題がないという話だった。
<そうです。透明人間が九姉妹計画について知っている可能性が高いということも把握しています。奴の正体を探ることこそ、この計画の全貌が見えてくるかもしれないということです>
モーズレー局長の語気が強くなる。自分たちの目的は変わらない。いずれにしろ、あの男と再び対峙する可能性は充分に考えられた。
<あまり、あって欲しくないことですが、もし対峙することになったら、その時は貴方が頼りです>
伊里谷はモーズレー局長の言葉に静かに、そして力強く頷いた。