第五部6 『逃走』
モーズレー局長や伊里谷は、ヘリコプターのタービン音が聞こえていた。互いの顔を見合わせた。MI6から何も返答はないはずなのに奇妙だった。
「まだ、MI6からヘリを使うとは聞いてはいないですが、」
モーズレー局長の声と同時に倉庫の中から血だらけになり、朦朧とした様子のMI6の諜報員が出てきた。
伊里谷はそれを見るや否や即座にヘリコプターの方まで走っていく。その意味に気付いたモーズレー局長もすぐさま大声を挙げた。
「あのヘリに乗っているのは透明人間です」
倉庫の様子を見に行っていた、ハーディ主任が戻ってきた。
「局長、全員やられています」
「すぐに本部に連絡を。いま伊里谷が透明人間を追っています」
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伊里谷は腰から銃を抜くと、身体中に伝わる痛みから耐えながら透明人間が乗ったヘリコプターに向かって発砲。
ヘリは発砲を受けたところで止まる様子はなく、高度を上げて海の方まで飛び出した。
伊里谷は近くに止まっていたジェフとキリエが使っていたボートに乗り込む。慣れない手つきでエンジンを掛けていく。
エンジンは簡単に付いた。海岸に括り付けていた紐を取り外して、すぐに追い掛けていく。準備をしていると、伊里谷の側で声が聞こえた。
「伊里谷くん、どうしたの?」
夏目あきらの声だった。
「どうして、ここにいるんだッ」
伊里谷は声を張り上げて問い詰めたが、彼女はこのボートで保護され、病院への搬送待ちの状態だった。ここにいるも当然の話だった。
「奴が逃げ出した。君は危険だ。早くここから離れろ」
伊里谷の声にもあきらの反応が薄かった。彼女は戸惑いも混ざっている様子だったが、それでも伊里谷とは違う返答だった。
「アイツを追い掛けましょう」
あきらの予想外の言葉に伊里谷は驚いたが、すぐに思考を切り替えていく。事実、ボートのエンジンを入れているような状態で、彼女の保護までしていたら透明人間を見逃す可能性も高かった。
伊里谷は決心した様子でボートを出していく。ボートは猛スピードで動き出していく。
<聞こえますか>
ボートが陸から離れるようになると、無線からモーズレー局長の声が聞こえてきた。先程、慌てた様子だったが、今は伊里谷に冷静に話していた。
<確認が取れました。あのヘリには間違いなく透明人間が乗っています>
モーズレー局長は結論だけを伊里谷に伝えた。
<奴が何処に逃げていくのかは不明です。尋問していたMI6(シックス)の諜報員も一名、殺されていたわ>
「逃がしません。奴を食い止めます」
伊里谷の言葉にモーズレー局長は何も答えなかった。無言の肯定だった。無線が切れると伊里谷は腰から拳銃を抜き出してマガジンを確認した。
「弾に余裕がない。君の協力が必要だ」
伊里谷の言葉にあきらは無言で頷く。
「君はこのボートの操縦を頼む」
伊里谷は簡単にあきらに伝えた。当人は首を横に振ったが伊里谷は押し切った。
「ペダルを押し続けてハンドルを握っていれば大丈夫だ。奴のヘリに近付ければ、まだ可能性はある。今は時間がない。頼むぞ」
そう言って、伊里谷は操縦席をあきらに譲り銃を片手に甲板の方まで出て行った。あきらは震える手で何とか操縦桿を握っていく。
伊里谷は甲板から発砲した。ヘリの装甲に当たるが、9mm弾程度では、ヘリコプターはビクともしなかった。
<君には大きな借りができた。してやられたが、クロエの件も含めて全身があった。それと思いの外、意外な収穫もあったよ>
ヘリコプターのスピーカーから透明人間の声が聞こえてきた。伊里谷は無視して銃を構えていく。あきらは表情がこわばる。銃の照準をヘリコプターのタービンに照準を当てていく。発砲。
数発撃った後、タービン部分に着弾。当たった瞬間はヘリコプターは動き続けていたが、そこから火を放ち、徐々に炎上していくようにタービンが回転が遅くなっていく。
「くたばれ」
伊里谷はそう言い放ち、再度、銃で照準を定めて発砲。この男と問答する気はなかった。
ヘリコプターのエンジン部分に再び当たると、そのまま海の方へ落下していく。海に激突するとヘリコプターは爆発し炎上した。呆気ないものだった。
「やったの?」
あきらの言葉に、伊里谷は無言の肯定をした。
「あの爆発に巻き込まれればただじゃ済まない。いくら奴が不死身でも全身を爆発に巻き込まれれば一溜りもないはずだ」
ヘリコプターは漏れ出したガソリンで炎上し続けていた。ボートを停めて二人は炎上を続けるヘリの残骸を見つめていた。そうしている内に、ジェフやハーディ主任の乗ったボートも合流してきた。
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結局、透明人間は発見されなかった。むろん死体も発見されていなかった。
「感謝します。奴の行方は分かりませんけど、それでも貴方や彼女は無事でした。今はそれだけで感謝しています」
モーズレー局長は、MI6が調べた調査を切り上げるのが決まると伊里谷に向かってそう言った。
ヘリコプターが海上爆発したのだ。既に海上自衛隊や警察まで出てきて騒ぎになることは分かりきっていた。
「奴の死体が出てこないということはまだ生きている可能性も」
伊里谷の言葉にモーズレー局長は肯定した。
「ええ、その可能性あります。ただ、今までと違うのはあの男は重症に近い状態の可能性も考えられます。今の私たちに何か出来るとも思えません」
「夏目あきらはどうなりますか」
伊里谷の言葉にモーズレー局長は、やや驚いた様子だったが、すぐに表情を正していく。
「保護観察よ、可哀想だけど。これだけの事件に、首を突っ込んでいるのよ。明日から普通通りの生活に戻るのは難しいわ。被害者だとしてもね」
モーズレー局長は厳しい言葉で伊里谷に話をした。隣で透明人間の報告を確認していたハーディ主任もいたが、彼女の言葉に何も答えなかった。上層部の夏目あきらに対する処遇は既に決まっているような様子だった。
「その保護観察の件ですが、」
黙っている伊里谷の様子を見て、モーズレー局長は話を続けた。
「貴方に任せようと思っています」
モーズレー局長の言葉に伊里谷は驚く。ハーディ主任も驚いた表情をしていた。伊里谷はやや上ずった声でモーズレー局長に返答する。
「了解しました。彼女の保護観察に任務を続行します」
「引き続き、貴方が付いてくれるのなら今まで通りの生活も大丈夫はず。お願いね」
何か言いかけるハーディ主任であったが、言葉を押しとどめている様子で彼は黙っていた。
「併せて透明人間の件もあるわ。まだ少しの間、霧絵チームには日本に滞在してもらうことになります。霧絵には後ほど、伝える予定です」
透明人間の生死が不明な以上、日本から離れる訳にはいかなくなったということだった。透明人間の始末が出来なかったからこそ日本に残ることになった訳だ。
「彼女はいまは何処に?」
「近くの大学病院よ。見舞いにでも行くのもいいじゃない」
モーズレー局長の言葉に、伊里谷はやや困った様子で否定した。
「自分が行くのは・・・・・・。折を見てジェフや霧絵に頼みます」
モーズレー局長の反応は冷ややかな様子だった。
「素気ないのね」
「はい?」
モーズレー局長の言葉に、伊里谷は理解出来ず彼女に確認した。
「気にしないでください。自分でも変なことを聞きました」
モーズレー局長は、そのままMI6の職員に呼び止められると、今回の顛末について話していった。それで会話は終わりだった。
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あきらの意識ははっきりしていたが、それでも自分が巻き込まれた事件について思い返すと、まるで悪夢でも見ていたかのような意識に囚われていた。
彼女は今、事件の起こった端島近くの長崎の病院で簡易的な検査を受けた。幸い大事もなく、すぐにでも退院したかったが、念のため、数日は泊まるよう同行していた霧絵に言われた。
簡素な病院だったが、患者は多かった。待合室で座っていると、連れ添ってきていた霧絵があきらの隣に座る。
「大事がなくて良かったわ」
彼女の言葉にあきらは答える。
「私、どうなるんですか?」
どう考えても自分は危険な目にあった。伊里谷くんが助けてくれたのだから今の自分があるのだと思うと、自然と涙が出てきた。いつ死んでもおかしくない状況だった。
「だ、大丈夫よ。もう大丈夫だから・・・・・・」
霧絵は震えるあきらを抱きしめる。自分が生きているとふと感じてしまうと瞬間、感情が爆発してしまった。
「貴方は私たちが守るから安心して」
知り合って間もない霧絵に泣きつくのは変な感覚だと分かっていたが、それでも自分の起きた身を考えるとそれどころではなかった。
あきらは何とか自分の感情を抑えていく。霧絵は手元に持ったペットボトルに入った水やハンカチをあきらに手渡していく。そうしていく内にあきらも落ち着いてきたのか、徐々に霧絵と話せるくらいには落ち着きを持ち始めた。
「教えてください。貴方達は何者なんですか?」
あきらの言葉に霧絵は首を横にふる。
「申し訳ないけど、それは教えられないわ」
「警察、ではないですよね・・・・・・・」
霧絵から教えられないという返答があっても、あきらは自分の言葉を続けていく。
「ひとつだけ確かなことは貴方の味方であることは間違いないわ。私たちがこの国いることは公にしたくないの。分かってちょうだい」
霧絵は、念を押すようにあきらに言った。あきらも、それ以上は何も言わなかった。
結局、分かったのは、伊里谷が言った諜報員という言葉だけだった。それでも、あきらは気持ちを切り替えていく。例え霧絵が自分たちの正体を明かさないと言っても、自分も助けてくれたのは事実であることに変わりないのだし、彼が命がけで助けてくれたのは本当なのだ。
感謝を言っても足りないくらいだった。次に彼に会うときは最初に礼を言おう。あきらはそう心に誓った。