第五部4 『疑念』
クロエは救援に来たヘリコプターに搬送された。拘束された透明人間の乗ったヘリコプターにはモーズレー局長が手配した隊員と伊里谷が同乗した。
透明人間は逆らわずに捕まった。この男がこんなに簡単に諦めるわけはなかった。伊里谷は緊張した様子で透明人間を睨んでいた。
霧絵からの連絡で、イギリスからMI6の局員や上海支からモーズレー局長やハーディ主任も日本まで来ているという話だった。
透明人間はただ黙って伊里谷を見ていた。
いま、この男と話をする気はなかったし、ヘリの轟音で何も聞こえないのは分かりきっていた。
伊里谷はクロエのことを思い返す。彼女の治癒力は普通じゃない。それも、透明人間ほどではないにしろ、普通の人間の力とは思えなかった。
透明人間は、クロエとのやり取りの中で彼女に対して何かしたのだろう。
クロエのことも気になっていたが、それと同時に彼女の身体も透明人間と関係があるのではないかと思っていた。この戦いが終わったらクロエに直接、聞いてみれば分かることだった。何にせよ伊里谷の仕事はほとんど終わったようなものだった。
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「感謝します。ここまで上手くいったのは紛れもなく貴方達のお陰です」
モーズレー局長は側にいた霧絵や伊里谷に声を掛けていた。クロエは既に日本の病院に搬送された。
クロエは、目立つことは避けたかったし、傷も殆ど癒えていたため、病院は必要ないと主張していたが、大事を取って搬送することになった。
また、モーズレー局長からの働きかけで日本の調査局の上層部に声を掛けていた。現在、MI6が利用している簡易的な倉庫も彼らの助力があってとのことだった。
モーズレー局長の他に側近であるハーディ主任も同席していた。
彼女が手引きを行なったのは古いMI6の友人だとジェフは話していた。
伊里谷は今はただ、その古い友人に感謝するしかなかった。
だが、これで自分たちのしていたことが、日本政府に伝わることとなった。遅くとも、いつかこういう時が来るとは思っていた。
「透明人間の様子は」
モーズレー局長の声にハーディ主任が答える。
「静かです。不審な動きもないようです」
透明人間映像をパソコンのモニターから映していく。即席で作られた防犯カメラの映像には透明人間が映されていた。
MI6が即席で用意した海岸近くの倉庫の中で、透明人間は椅子に縛られていた。元々、地元住民が市場として利用していたところだったが、現在はMI6の方で手回しをしていた。
透明人間は、数時間前まで、夏目あきらにしていたことを、逆に自分がやられているかのような状態だった。
「MI6の局長が来るまでは警戒を続けて下さい」
「了解です」とハーディ主任。MI6の局長が来るまで、時間にして半日ほどは待たなければならないとの話だった。
「伊里谷さん、少しいいですか?」
モーズレー局長は、伊里谷に声を掛ける。伊里谷は表情を崩さず彼女に合わせるように倉庫から出ていく。
「日本人の少女の様子は? 特に外傷もないとは聞いていますが」
モーズレー局長の心配した様子に、伊里谷は少し驚いた。誰が負傷した、死亡したといった程度では声色さえ変わりない人だった。
ミルヴィナ・モーズレー。彼女の責任者としての立場からそう答えるしか他ならないといったところではあるが、それでも自分の母親が透明人間に殺されても涙一つ流さなかったと噂されているほどだった。
「無事です、今は霧絵が乗ってきたボート内で保護しています。少しの療養が必要とは思いますが大事には至ってないです」
伊里谷の返答にモーズレー局長は表情は変わらずに話を続ける。
「驚いている様子ね。私が他人の心配しているような人間だと思ったから?」
「いえ、そんなことは・・・・・・」
伊里谷は少し返答を窮するように答えるが、モーズレー局長は特に気にした様子もなかった。伊里谷には、この時ほんの微かにだが、モーズレー局長が笑みを浮かべていると感じた。それは自分と同世代の年相応な少女のようだと感じ取った。
「何も事情を知らない少女が事件に巻き込まれれば私も可能な限り手助けくらいはします」
支局長として精一杯の協力するという言葉だった。この話を霧絵ではなく自分に話すのかが伊里谷には不思議だった。
「ありがとうございます。ただ、局長に教えていただきたいことがあります。クロエ・ディズレーリの件です」
伊里谷は彼女の傷の治癒が透明人間と同等のものだった。当人は致命傷を避けたと言っていたが、誰が見ても明らかに人間とは思えないものだった。本人に聞く前に、この人だったら知ってるかもしれないと思い打ち明けた。
「透明人間と同じと言いたいのでしょう? いつかは貴方にも話さないといけないと思っていました」
伊里谷は顔を曇らせる。確信は持てなかったが、それでも上層部はクロエの身体のことを把握していた。そうでもなければ今までのことも説明が付く。射撃場でのジェフの言葉を思いだす。何故、こんな年端のいかない子どもが銃を使いこなして命の危険に晒される仕事についているのか。
それに、透明人間の目的はクロエだと言っていた。嫌な予感を感じつつ、伊里谷はモーズレー局長からの言葉を待っていた。
「ここでは詳しくは話せないけど、推察の通り、彼女は普通の人間ではないわ。これは確かよ」
伊里谷はモーズレー局長の言葉に何も答えることが出来なかった。それでも伊里谷は何とか言葉を絞り出していく。
「どういう意味ですか?」
「後日、改めて貴方には話します。クロエも貴方になら問題ないと判断してくれるでしょう」
モーズレー局長は、そう言って倉庫に戻っていく。
「MI6の局長が来たら透明人間を尋問することになっていますが、一度、我々だけでもあの男と話をしたいと思っています。この件についてはハーディさんにも協力してもらいます。貴方も立ち会っていただけますか」
モーズレー局長の言葉はMI6本部の連中は信用できないとも取れる言葉だった。彼女個人でもあの男に聞きたいことがあるのだろうと伊里谷は理解した。
伊里谷は頷き、一度、夏目が乗ったボートを見やるとそのまま倉庫の中に戻っていった。
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モーズレー局長とハーディ主任、伊里谷も並んだ形で透明人間と対峙していた。
「私の顔を見て何か感じますか」
モーズレー局長の声に透明人間は反応するが、興味の薄い様子で答える。
「何も。知らない人間に答える義務はない」
無言で事の顛末を見ていたハーディ主任が透明人間に歩み寄る。モーズレー局長が、それを制する。
「大丈夫です。私が話します」
モーズレー局長が透明人間に話を続けた。
「私の名前はミルヴィナ・モーズレー。貴方が殺したMI6の前局長オリヴィアの娘です」
モーズレー局長の言葉に透明人間は少しだけ彼女に対して興味を持ったような雰囲気を醸し出した。
「そういえば新任のMI6の局長は元気か? 彼は嫌な奴だからな」
モーズレー局長の言葉など気にも止めない様子で透明人間は答えた。あまりにふざけた回答にもモーズレー局長の表情は変わらない。
「そんなに会いたいのなら、直ぐにでも会えますよ。いまイギリスから向かってきてます。貴方の身柄はMI6本部に預けます」
「今なら母親の仇を討てるぞ」
透明人間の挑発にモーズレー局長は乗らなかった。
「仇も何も母のことを私は全然知りませんので」
モーズレー局長の返答に透明人間は納得いくような様子をしていた。
「合点がいったよ。たしかに君は母親に、よく似ているな・・・・・・」
「もう十分だ」
近くにいたハーディ主任は、これ以上、この男が喋るのは良くないと判断したのか話を遮った。席を外すようにモーズレー局長に眼で訴えかけるも透明人間は目ざとく話を続けた。
「そういえば、イギリス本部の局長以外に、MI6の調査員でも来るのか? 私が拘束されてから随分、経つからな。連中が来てもおかしくない頃合いだ」
透明人間の言葉にハーディ主任は何も答えず。モーズレー局長と倉庫から出ていく。伊里谷も二人に続いて出ていった。
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倉庫から出るとモーズレー局長が手配していた隊員から報告があった。
「MI6の職員が来ました。局長は来ていないようですが」
「事の重大さが分かっていない・・・・・・」
モーズレー局長は、透明人間の挑発よりもMI6のイギリス局長が来ていない事の方に憤りを感じている様子だった。
「局長、」
ハーディ主任の言葉にモーズレー局長は何とか声を絞り出す。
「・・・・・・彼らに状況を報告します」
思いつめた様子のモーズレー局長は急ぎ足で、MI6職員がいる場所まで向かっていく。