第一部2 『強敵』
銃を構え奥の部屋まで入ると、ひとりキャンバスに向かって絵を描いている男がいた。
背中越しのため顔までは分からないが背丈から判断するに、たぶん男だろうと伊里谷は判断した。
男の描いているキャンバスの向かい側には血を流した男が倒れていた。息をしている気配がなかった。既に死んでいる、伊里谷は即座に判断した。倒れている男は、行方不明になっていたもう一人の諜報員だろう。
キャンバスには、凄惨な現場を目撃するも何も出来ずに、ただ悲鳴を挙げている男の姿が描かれた絵だった。不気味で趣味の悪い絵だった。
「人間の血は絵の具の代わりにはならない。もし使用するなら水に薄めて使用するのが良い。そこの彼は良い塗料になってくれたよ」
男の発言に、キャンバスに描かれた赤はそれが絵の具ではなく諜報員の血で描き込んでいるのだと気付くまで時間がかかった。息を飲み伊里谷は、男に銃を構える。
「そのまま、ゆっくりと両手を挙げろ」
伊里谷の言葉を聞いて男は筆の動きをやめた。
「やあ、待っていたよ」
室内に男の声が静かに響きわたる。
男は、この暑さにも関わらず黒の紳士服を着ていた。高級そうな男の格好はまるで、これから上流階級のパーティーにでも出席するようにも見えた。
「バックアップもなしに無謀と思っていたが、どうやら、もう一組いたらしい」
紳士服の男は立ち上がり、伊里谷の方に顔を向けようとした。
「顔を向けるな! 余計なことも喋るなっ!」
紳士服の男は、伊里谷の忠告を聞かずにそのまま顔を向けようとしたところで、伊里谷は発砲。
銃弾は男の足下の数十センチのところをかすめた。次に何かやるようなら次は本気で足を撃つ勢いであった。
「貴様をMI6襲撃の容疑で拘束する」
「おお怖い。首狩り人はまったく容赦ないね」
伊里谷は何も答えなかった。首狩り人とはMI6で殺しを請け負う部隊の隠語だった。この男は伊里谷の立場を分かった上での発言だった。
男は両手を挙げて手には血のインクが混じったペンを持っていた。
「手に持っているものも放すんだ」
「言われなくとも」
男は手に持っていた筆を後ろ向きのまま伊里谷に投げつけた。
瞬間、男の投げたペンは、パンッ!と軽い爆発を起こす。
一瞬、伊里谷は耳と視界をふさがれ反射的に眼を守ってしまった。時間にして数秒ほどでしかなかったが男には十分であった。
目を覆いながら銃を構える伊里谷に突然、煙の中から男の蹴りが炸裂した。蹴りを食らった伊里谷は大きく吹きとばされ受身も取れず背中から壁に激突した。
蹴りから身を守った左腕から骨が折れる嫌な音が聞こえた。背中からの衝撃で伊里谷は吐血した。
「ペンは剣よりも強しとはこの事だな。いや少し違うか」
男は自分の言ったことが可笑しかったのか苦笑していた。
「こいつは、ペン型爆弾だ。君のような職場なら日常茶飯事だと思ったが、どうやらそうでもないらしい」
男は、伊里谷に向かって歩き始める。
伊里谷は意識朦朧とする頭を振り払い男の顔を見る。男の顔はどこにでもいるような初老の顔だった。
黒メガネを掛け柔和な笑顔を常に浮かべている。それこそ高級なスーツを着こんでいても、街中を歩けば誰も気にしない目立たない普通な印象の男だった。
男は満足そうに笑みを浮かべ腕時計のダイヤルを引っ張るとピアノ線のような透明の糸を抜きだし伊里谷に近づいた。
「殺し道具とは案外、身近なもので作れてしまうものだ。覚えておくといい」
男がピアノ線で、伊里谷の首に巻き付けようとする。全身に痛みが走っており、身体を動かそうにも言うことを聞かない。
「まだ若いようだが、私を見られた以上、そこの男と同様に死んでもらう」
伊里谷の首筋にピアノ線が巻き付けられた瞬間、銃声が響く。
伊里谷の目の前で眉間を撃ち込まれた紳士服の男は糸の切れた人形のようにあっけなく倒れた。床にゆっくりと男の血痕が流れはじめる。
入り口に立っていたクロエが銃を構えたまま神妙な表情で伊里谷を見つめていた。
さきほどの爆発で聞きつけとっさに取った行動だったのだろう、クロエはこの状況を理解しかねていた。
「大丈夫!?」
「ああ。ただ背中を強打、腕の方はたぶん折れてる」
駆け寄ってきたクロエに伊里谷は自分のケガを淡々と伝えるが、彼女は心配そうに見つめていた。
「大丈夫だ。軽傷の範囲だ」
腕に鈍い痛みがあったが、クロエに心配かけないよう伊里谷は答える。
「もう一人の諜報員は?」
「手遅れだった」
伊里谷の簡素な返答にクロエは言葉を詰まらせる。伊里谷は何とか立ち上がり辺りを見渡す。
「任務を続ける。問題のリストはどこだ?」
「リストなら私の手元に」
突然、室内に男の声が響きわたる。
声の主は眉間を撃たれ倒れていたはずの紳士服の男だった。男の体は徐々に痙攣し、まるで、ビデオ映像を逆再生にしたかのように男は立ち上がっていく。
立ち上がると撃たれる前と同じ調子で男は淡々と喋り始めた。
「さすがに銃は堪えたよ。ただ、それくらいじゃ私は死なない」
動揺しながらもクロエはとっさに構え発砲。だが男は、そのことを予知するかのように踵を返して窓に走る。
瞬間、男は部屋の窓を突き破り、隣家の屋根から屋根へと器用に逃げていく。
「逃がさない」
クロエは一目散に男が逃げた窓に向かって走っていく。
「待て、俺も」
「ケガ人は大人しくしてなさい。アンタは、すぐに諜報員の手当てをっ!」
クロエはそう言ってそのまま窓から飛び降りいく。彼女も隣家の屋根に落ちるとそのまま男を追いかけていった。
「何が起こってるっ・・・・・・」
死人が蘇るのを目の当たりにし動揺していたが、何とか頭を切り換えて伊里谷はすぐに無線で作戦本部で待機しているモーズレー局長に連絡する。
「目標と接触しました。逃走しましたが、まだ、クロエが追跡中です」
<すぐに彼女を追いなさい。何としてもリストを取り戻すのよ>
「了解です」
モーズレー局長との通信を切るとすぐにまた無線が鳴る。通信に出ると、この作戦でオペレーターを務める霧絵 冬子からであった。伊里谷の直接の上司に当たる人物だった。
<伊里谷、悪い報告よ。無人航空機の映像に武装した連中を乗せた車がアパートに迫っているわ。早くそこから離れて!>
「了解だ。クロエのGPSの情報を送ってくれ。諜報員を手当をしたらすぐに追いかける」
霧絵に手短に伝え無線を切ると、伊里谷は拳銃を強く握りしめ行動を始めた。
△▼△▼△▼△
ミルヴィナ・モーズレー局長は作戦開始からずっと本作戦で使用しているモニターを見つめていた。
彼女はトルコから遠く離れた上海にあるMI6のダミー会社のオフィスで伊里谷とクロエの行動をずっと監視していた。
まだ幼さが残る顔つきであるが、彼女はいまMI2部門の局長という立場で現場の指揮を務めていた。
モーズレー局長の補佐をしているジェラルド・ハーディ主任が無線を持って彼女のところへ向かってきた。モーズレーと比べ、年はもちろん身長も190近くある大柄な男だった。精悍な見た目からかハーディ主任の方が上官に間違われることが多いが、彼のモーズレー局長に対する態度は他の上官に対するものと何ら変わりなかった。
「局長、本部から連絡です」
「負傷した諜報員のことでしょうね」
「はい、優秀な諜報員を派遣したのにも関わらずこのような事態を招いたと言うことで、バックアップについていた我々に不満があるそうです」
「責任転嫁もいいとこね。それについては私から後で直接連絡します。本部にはそう伝えなさい」
「了解です」
ハーディ主任は、ふたたび無線に耳をあて先ほどの内容を伝えるため作戦室を担っているオフィスから出て行く。
席を外した主任を横目に彼女は監視用モニターの確認に戻る。
モニターには伊里谷が持っているGPSから位置情報が映し出されており、イスタンブール屋外では無人偵察機による監視を続けていた。
「最悪ね」
モーズレー局長はうわ言のように漏らす。
世界各地に偽名で潜入していた諜報員のリストがイスタンブールに忽然と姿を現したのだ。モーズレー局長でさえ、そのリスト情報の詳細までは知らされていない。重圧で気がどうにかなってしまいそうだったが、常に平静さを保たなくてはならないことを立場上、理解しているつもりだ。
しかし、リストの安否以上にこの作戦を機にテロに関わった連中の足跡を見つける事が出来れば殺された職員たちへのせめてもの供養になるのではないか。そう思わずにはいられなかった。
△▼△▼△▼△
伊里谷が最初にしたことは諜報員の救護であった。
クロエを追いかけるも、時間的に追っ手から撒けないのなら、ここで対処してから合流するしかなかった。
負傷した諜報員を調べると、クロエによって止血され応急処置が施されていたのに気づいた。
(あいつ・・・・・・)
装備は最小限であったため適切な処置が出来ず諜報員が、まだ危険な状態には変わりないが助かる見込みはあった。
「彼女に感謝するんだな。もうすぐ本部から救護が来る」
クロエが巻いてくれた包帯は既に血で真っ赤に染まっていた。クロエが置いていったと思われる予備の包帯を古いの包帯と取り替えていく。伊里谷は応急手当てに慣れておらず、クロエが巻いた時より上手く巻けなかった。
ーーーぎしっ。
入り口から足音が断続的に聞こえた。複数。装備品の擦れる音も聞こえている。足音の大きさから、おそらく銃器の類いも携帯しているだろう。諜報員の手当てをしながら伊里谷は耳をすませる。救護班からの連絡はまだ来ないはずだ。腰に手を当てて拳銃を取り出す。
「少し我慢しろ。移動する」
伊里谷は諜報員を引きずり移動させソファの裏側まで身を隠す。身体を引きずるたびに諜報員は苦悶の表情を浮かべる。
瞬間、入り口から武装した集団が勢いよく突入してきた。大量のライフルの銃弾が部屋中に撃ち込まれた。
伊里谷と諜報員は腰を低くして銃撃をやり過ごす。
銃撃が止むと、伊里谷は紳士服の男が使っていたペン型爆弾の殻をライフルを持った集団の方に転がした。爆弾の殻を見た集団は転がってきたペン型爆弾の殻に一瞬眼を逸らし身体も仰け反りはじめる。
瞬間、物陰から伊里谷は身を乗りだし発砲。
撃たれた数人は糸が切れたように倒れ、伊里谷はすぐに向かいの壁に走り身を隠す。
敵は間髪入れず、伊里谷の隠れた壁際に銃弾を撃ちこんでいく。
人数はおろか武装も相手の方が多かった。
隠れている壁に銃弾を叩き込まれながら、伊里谷は手早く次のマガジンを装填する。
ライフルを撃ちつくした相手は古いマガジンを捨てて、新しいマガジンを装填する。
相手は、伊里谷が隠れている部屋の奥まで歩いてくる。
伊里谷は足音に耳をすませる。歩いているのは、おそらく一人だと目星を付ける。
伊里谷の近くまで足音が聞こえた瞬間、飛び出し、至近距離から発砲。撃った男をすぐさま自分に手繰り寄せ身を守る。そして、すぐに男の持っていたライフル奪い取り応戦。
相手を無力化していきライフルの銃弾が尽きた頃には、伊里谷以外は誰も立っていなかった。
襲撃を行なった連中は皆トルコで売られているような普通のな服装だった。
紳士服の男が雇ったチンピラ崩れか何かだったのだろう。統率が取れていなかったため負傷した伊里谷でも何とか対応が出来た。
伊里谷は周囲の安全を確認し、ソファを背に肩で息をしている諜報員に拳銃を手渡す。
「もし何かあれば、これで身を守れ。俺はヤツを追う」
諜報員は息も絶え絶えに頷づく。
「大事にしている銃だ。後で、綺麗に返してもらうからな」
伊里谷は、諜報員を尻目に床に落ちていたライフルを手に取って、外に停めてある車に乗り込んだ。エンジンを掛けて逃げた男の追跡を開始した。
車のモニターにクロエの現在地が映りだしている。クロエの身につけているブレスレットからGPSが発信されていたためだった。伊里谷はGPSを頼りに車を走らせた。