第四部3 『局長』
結局、伊里谷達は拠点のアパートに戻るまで警察に遭遇することはなかった。だが、誰も口を開くのが重いように言葉が出てこなかった。霧絵はモーズレー局長に事の顛末を報告していた。ただ、モーズレー局長からの指示を黙って聞く霧絵。皆、パソコン画面を注視していた。
「帰国の件ですが、一旦保留です。とにかく今は身を隠しなさい。皆、透明人間の件で緊張しています。貴方たちの存在を日本に知られる可能性があります」
「承知しました」と霧絵は答えた。
パソコンの上での報告が終わり、霧絵は紙袋に入ったタバコを取り出しイライラした様子で火を付けた。
「報告の通り、待機よ」
「姉さん、俺たちは追えるぜ」
ジェフは言った。不満の見え隠れする言葉だった。自分たちのミスで関係のない人間が巻き込まれてしまった責任からの言葉だった。ジェフは手元のパソコンを立ち上げて自分の管轄部署に直ぐさま連絡していた。
「追えると言ったけど、たしかなの?」
霧絵の言葉にジェフは自信満々に頷く。
「今すぐにでも。今、バンのナンバーを本部で検索かけている」
ジェフは真剣な声で答えた。
「話が早いわ。今すぐに透明人間を追うわっ」
「局長から追うなという指示が出ているぞ」
「局長は身を隠しなさいと言っただけよ。追うなとは指示してないわ」
伊里谷は霧絵の言葉に頷く。
「透明人間の目的は私だ。夏目あきらは関係ない。」
クロエも二人の言葉に賛同する。今度はジェフの携帯が鳴り、彼は電話口で自分の部署からの報告を聞いていた。
「あきら・・・・・・彼女は助けるぞ」
クロエの言葉が終わると同時に、電話の報告が終わったジェフは皆に話し掛ける。
「透明人間の向かってる場所の特定ができた」
「どこなの?」
「車で逃げたあと、海岸沿いに向かってる。場所で言うなら芝浦ふ頭に向かってるようだ。何のためにそこに向かってるかはまでは分からないが」
「近いのか!?」と伊里谷は質問した。
「ああ、車で数十分程度くらいの場所だが」
「行くぞ」
そういった途端、クロエは部屋から飛び出していく。
「移動の宛てはあるのか!? 車じゃ渋滞に引っ掛かることも・・・・・・」
伊里谷の言葉に霧絵が答える。
「私のを使いなさい。これなら少し早くなるからっ!」
そういって霧絵は鍵を投げる。伊里谷は鍵を受け取る。
「私のバイクの鍵よ。それなら奴らを追いかけることが出来るわ」
「助かる」
伊里谷の返答に霧絵は答えた。
「私たちも後から追うわ。ジェフは検索を続けて」
「そのつもりだ。任せてくれ。こんなところで終わらせてたまるか」
二人はアパートから飛び出して物が閉まってある駐車場まで向かっていく。小さな駐車場にカバーが掛けられたバイクが置いてあった。霧絵の私物のドゥカティだった。
「私じゃ足が届かないぞ」
クロエは不満を口にする。
「俺が運転するまでだ」
伊里谷はキーを回してバイクのエンジンを入れる。静かなエンジン音が入り始める。
「早く乗れ」
伊里谷は跨がりクロエを待っていた。
「お前、運転できるのか」
「上手くはない」
クロエは一瞬顔をしかめてたが、今は文句を言ってる場合ではなかったので、そう言いながらもクロエは、伊里谷の後ろに跨がり、腰と肩に手を当てる。
<俺だ、聞こえるか?>
耳に付けたイヤホンからジェフの声が聞こえた。イスタンブールと同じ状況だった。
「ああ、聞こえてる」
<場所は案内する。安心しろ。絶対、嬢ちゃんを助けろ>
「任せろ。ジェフ、頼むぞ」
伊里谷はそう言って、ドゥカティのアクセルを回しエンジンを吹かす、そのまま猛発進させた。
△▼△▼△▼△
モーズレー局長は、上海の情報支部(MI2)で夏目あきら誘拐の報告を聞いていた。霧絵たちへ咄嗟に下した自分の対応が正しいかはもう分からなかった。
「派手にし過ぎですな」
ハーディ主任が釘を刺すような言葉で彼女は我に返る。
「正直、ここまでのことを日本でするなんて思ってもみませんでした」
「日本のマスコミは、まだ夏目あきらに関する情報を流していません。おそらく家族にも知らされてはいないでしょう」
そんなやり取りを余所にMI6から連絡が入る。表情を変えずに、モーズレー局長は、すばやく電話に出た。
「私です」
電話口から、イギリス本部のホワイト顧問の激昂が飛び出しているようだった。
<大変なことをした割に、ずいぶんと冷静な様子じゃないか。ええ、モーズレー局長?>
先のイスタンブールの件でも、ホワイト顧問はMI2の管理能力の低さを懸念している様子だった。それは、ひとえにまだ幼い彼女に対しての不信感に他ならなかった。
<危機的状況の時こそ冷静になれ。これは先代の教えです。貴方もお世話になったのでしょう、ホワイトさん>
ホワイト顧問は「ふんっ」と詰まらなさそうに返答する。
<それで本局長には話を通してくれるのですか?>
今回の事件でイギリス本部への応援要請の件だった。ホワイト顧問が実質、窓口のような形になっているが、この男では難しいとモーズレー局長は判断していた。
<何を馬鹿なことを言ってる。今回のお前達の失態以外、何物でも無い。我々は何も聞かされていないし、イギリス本部は介入はおろか今回の事件に関して関知することもない>
キッパリとホワイト顧問は答えた。分かってはいたが、イギリス本部は今回の夏目あきら誘拐のことはなかったことにしたいらしい。少しの可能性と思って連絡した自分が馬鹿だとモーズレーは唇を噛みしめる。
<本局長には、君の件は報告する。責任は取ってもらうからな。覚悟しろよモーズレー>
そう言って、一方的に電話が切れた。
「本局長にろくな報告はしてないでしょうな、あの男は」
ハーディ主任は皮肉交じりに、そう答えた。
「こんな状況でも関知しない。MI6らしいわね」
「手配はどうしますか?」
「個人的な頼りで動いてくれる人に連絡します」
「現地の霧絵達での対応はどうですか」
ハーディ主任が珍しくモーズレー局長に意見をする。彼女の部下とは言え、あまり不要なことを進言しない男だった。彼が何か彼女に意見があるときは本当に必要な意見だと、モーズレーは、ここ1年程度の付き合いでも知った。
「推奨は出来ない。透明人間が何故、夏目あきらを誘拐したのか理由は分からないけど、クロエ・ディズレーリも狙ってるのは、前回のイスタンブールの件で明らかよ」
「では、待機というのは」
ハーディ主任はモーズレー局長に問いただす。
「ええ、彼らの判断に任せます。どのみち指示を出したところで話が進展するわけではないです」
「了解です。霧絵職員にもそう伝えます」
そう言ってハーディ主任は、手元のノートパソコンで霧絵に連絡を取り始める。緊急事態にも関わらず、いつものように冷静に今後の対応を伝えていく。
モーズレー局長は窓際から外を見ていた。上海支部はビル群に隠れた、それほど大きくない小さな部署だ。窓から見える景色は同じようなビルが連なっていた。小雨の雨が降っており、窓に水滴が張り付きていた。
「嵐が来たわ」
誰に言うわけでもなく、モーズレー局長は呟いた。モーズレー局長はそう呟くと電話に番号を入力していく。日本の古い友人に頼るしかなかった。