第四部2 『別離』
「伊里谷、」
クロエに呼ばれた。伊里谷は顔を向けず話だけを聞いているような状態だった。
「どうした」
出来るだけ素っ気なく答える。今の彼女の心境を考えると、それ以上何も言わない方が良いと思ったからだ。
「これで終わりは虚しくないか?」
伊里谷はなるべく表情変えずに彼女の話を聞いていた。あきらのことを言ってるのは明白だった。別れの挨拶くらいしたいのが彼女の気持ちなのだろう。
「時間がない。それは分かってるだろう」
致し方ない様子で伊里谷は答える。自分たちの仕事は居場所を持たない人間の集まりだ。今に始まったことじゃなかった。
「いいえ、今のうちに言ってきなさい。それで気が済むのならね」
今度は霧絵の声だった。
「姉さん、それは・・・・・・」
ジェフが珍しく動揺した様子で霧絵に言いかける。霧絵は自分の言った言葉を曲げずにそのままクロエを見つめていた。もうそれ以上、何も言わないといったように。
クロエは黙って頷き。そのまま駆け足でアパートから出て行く。
「伊里谷、貴方も行きなさい。これは命令よ」
霧絵はただそう言って促した。伊里谷は少しその言葉に動揺するも「了解した」と短く答えてすぐにクロエの後を追いかけていく。
△▼△▼△▼△
手元の時計を見ると時間は17時を回っていた。今ならまだ彼女が学校の帰り道の途中な可能性が高い。伊里谷にとって今、彼女に会うことが何か意味があるのか分からないし、どんな言葉を投げかけていいのかも頭に浮かばなかった。今の自分が彼女の会ったところで無視されるのが関の山だろう。もし彼女と会うことがあっても、クロエと別れの挨拶しているのを遠目から見ていることしか出来ない。
「俺も行く」
クロエの後ろに付いてきた伊里谷がそう言った。クロエは何も言わずに素直に頷いていた。
「時間がないからな。彼女のマンションに向かう。それでも会えないならその時だ。構わんな」
「十分だ」
クロエは淡々とそう答えた。
「以外だな、お前が、そんな男とは思わなかったぞ」
クロエの言葉に伊里谷は言葉が詰まった。クロエはいつもの様子で伊里谷をからかうが、伊里谷が何も答えないのを察してクロエは話を続けた。
「霧絵にでも言われたのだろう。本当に情けない男だ」
「そうだな・・・・・・君の言うとおり、俺は情けない男だと思う」
伊里谷は自虐的に答えた。喋ることがなくなるとお互い黙ってしまう。もうすぐ、彼女のマンションまで着くのも理由のひとつだった。
△▼△▼△▼△
「君が挨拶を・・・・・・」
マンションの近くに着くと伊里谷はクロエにバツが悪そうに投げかける。
「何を言ってる、お前も一緒だぞ」
クロエは反論する。こうして一緒にいるにも関わらず、伊里谷が来ないことに不満の様子だった。
「彼女は望んでいないだろう」
「もしや、本当に霧絵に言われたからとか詰まらんことを抜かすなよ。少し自分の意思で行動したらどうなんだ?」
クロエは伊里谷を問い詰めた。彼女の指摘は的中しており、伊里谷は何も言い返すことが出来なかった。自分の気持ちに正直になることが出来ないのだ。霧絵に命令と言われて行動してしまったが、それでもいざ彼女に向かって何て言えば良いのか検討も付かなかった。
ふたりでマンションの中に入っていこうか思った矢先、あきらが戻ってきた。彼女も気持ち足取りが重い様子だった。時計の時間を見ると、学校が終わってそのまま家に戻ってきたといって良い様子だった。結局、伊里谷の言ったことを守ってくれたようだった。
「なあ、あきら」
声を掛けたのはクロエだった。あきらは嬉しそうな表情でクロエを迎えいれていたが、伊里谷の顔を見て表情が暗くなる。
「どうしたの?」
あきらの声は穏やかであったが、それでも伊里谷への怒りを我慢しているような声色だった。クロエから用件を言った。
「お別れを言いにきたんだ」
短い言葉で告げたクロエの言葉にあきらは理解できていなかった様子だった。
「きゅ、急にどうしたのよ・・・・・・」
「クロエの言ってることは本当だ。君に言いたいことがあって来たんだ」
「え、ちょっと・・・・・・もう行くってアンタたち、つい最近来たばかりじゃない。何よそれ」
あきらは動揺して上手く言葉を伝えられないでいた。伊里谷やクロエもそんな様子をそれ以上、何も言うことが出来なかった。自分たちはテロリストの動向を探るために、この国に潜入している。だから君に事情を話すことは出来ない。そんなこと口が裂けても言えない。クロエもそれは承知している。
「理由は聞くなってことね」
あきらは伊里谷の言葉を反芻した。伊里谷は頷く。
「そうだ。クロエも同様だ」
「クロ・・・・・・」
あきらは目線をクロエに合わせて何か言ってくれないかといった様子で目配せする。クロエは黙ったまま何も言わなかった。
「こんな形でしか、別れの挨拶が出来ないのが申し訳ないと分かっている」
クロエは悲しそうな顔であきらをみていた。いつもの悪戯めいた印象はどこにもなかった。
改まった様子で伊里谷はあきらを見つめる。
「何よ、アンタも言いたいことがあるなら言いなさいよ。話くらいは聞いてあげるから・・・・・・」
あきらの言葉に流されるように、伊里谷が口を噤んだ途端、小さな黒い筒状が伊里谷達の前に転がった。転がってきた音を伊里谷とクロエは即座に理解した。
「伏せろっ!!」
クロエの声が響き渡る。スタングレネード。この国では通常、聞くことがない音だった。先日のイスタンブールで聞いた音を思い起こした。伊里谷は条件反射であきらの身体を抱え、そのまま地面に倒れる。伊里谷の目線の先にふたたび手榴弾の類いが投げられる。条件反射で大声で指示を出す。既に伊里谷の耳はほとんど聞こえてなかった。
「耳を塞いで、口も開けっ!」
伊里谷が早口であきらに説明する、状況は飲み込めないが、普通じゃない状況にあきらは指示に従う。瞬間、爆発し強烈な発光と爆発音始まる。
まばゆい閃光であきらは身動きが出来ない。耳鳴りがひどい。伊里谷があきらに言葉を投げかけていたが、彼女には何も聞こえなかった。伊里谷はあきらを抱えるように閃光の外へ移動していく。
「大丈夫かっ!?」
伊里谷はあきらとクロエの状態を確認していた。あきらの様子を見ると伊里谷の言葉が届いていない。もしかしたら一時的な難聴になっているかも知れない。クロエの眼付きが閃光で出来た煙幕の先を見据えていた。お互い手元に武器なんてない。伊里谷の表情が険しくなる。
煙の中から男が数人、三人を押さえ込み始める。あきらは、自分が考えつくこともなかった状況に反応することも難しかった。伊里谷とクロエは強く押さえ込まれ、地面のアスファルトに顎をぶつけかねない勢いだった。
「おい聞こえるか!? 日本人の娘を渡せ」
閃光の中から出てきた男はアスファルトに押さえながら英語で伊里谷に話しかける。男は身元が割れないよう丁寧にマスクを着用していた。おそらくイスタンブールと同じく透明人間の仲間だろう。
(日本人の娘? クロエじゃないのかっ)
伊里谷には不可解だった。てっきり目的はクロエだと思っていたからだった。先日のイスタンブールの時でも透明人間はクロエのことに執着しているようにも見えていた。だからこその疑問だった。
「既に仲間には連絡している。行動が目立ちすぎだ。無駄なことだ」
伊里谷は男につばを吐くように答える。もちろん嘘だった。霧絵やジェフに何も連絡していなかったが、少しでも時間稼ぎをしなければならない。彼女の命も掛かってる。伊里谷はクロエを目配せする。心配ないといった様子で、伊里谷に合図している。
伊里谷は胸ポケットに入っていたペンを口に咥えてノック部分を口を使って押し込む。タイマーのような音が流れると、それを男の方に転がす。
「貴様!」
男の罵声が飛び交い、伊里谷は銃のグリップ部分で殴られる。その瞬間、ペンから小さな爆発が起こった。男達は何が起こったが分からず、一瞬、仰け反る。その瞬間に伊里谷とクロエはすぐに起き上がり、二人を押さえていた男から銃を奪い取って、すかさず発砲。
急所は狙わず、足を撃ち抜く。
男の悲鳴が挙がる。クロエも同様に行動し男を銃で押さえ込んでいた。あきらは非日常的な場面に遭遇し怯えていた。
「雇った奴の名を言えっ!!」
形勢逆転した伊里谷は銃口を男に向けていた。男は何も言わない様子だった。ジェフから嫌がらせ半分に、渡されたペン型のスタングレネードがこんなところで役に立つとは思わなかった。
伊里谷は、透明人間とふたたび、こうなることは想像してはいたが、まさか日本で堂々と行動してくるとは思わなかった。結果、夏目あきらという一般市民も巻き込んでしまった。後悔しても遅いが、今の時点で出来ることは霧絵やモーズレー局長に至急、連絡を取ることだった。
「これで、霧絵に連絡をっ」
伊里谷はポケットに入っていたスマホをクロエに渡す。クロエは、すぐさまキリエに連絡した。
「緊急だ。今、夏目あきらの自宅に向かう途中で、おそらく透明人間の連中に襲撃された。場所はこのスマホから追ってくれ」
霧絵は想定外の連絡があったことに電話越しからも息が詰まる様子だったが、すぐに落ち着いた声で了承すると、そのまますぐに携帯が切れた。数分後には、携帯のGPSを目印に彼女たちが駆けつけてくれるだろう。
伊里谷は霧絵への連絡を見届けると捕らえた男に集中していた。
「お前を尋問する気はない。吐かないなら撃つ」
伊里谷は脅し文句ではないといった様子で銃口を男に向けていた。
「話すとでも?」
男はクソ食らえといった様子で伊里谷に返答する。
発砲音。
「げぇ」と男の呻き声が漏れた。もう一本の足を撃ち抜いたからだった。もうこの男は逃げることもままならない。
足を撃たれた男は息もたえたえだったが、喋る様子も無く意思は堅い様子だった。別に構わない。ここで、この男を吐かせることが出来ないにせよ、後の仕事はMI6本部の連中の仕事だ。
「後は俺の仲間が貴様を尋問するだけだ」
伊里谷の言葉に男はへらへら笑っていた。ひどく馬鹿にした態度だった。この状況を理解していないようにも見えた。
「そんなに、可笑しいか?」
伊里谷の言葉に男は答えた。
「それは出来ない相談だということだよ」
瞬間、伊里谷の背中から彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、男の顔には見覚えがあった。透明人間だった。あきらの側に立ってチラリとだが銃が透明人間の手元に見えた。あきらは気付いていない様子だった。
「久しぶりだね、殺し屋くん。探す手間が省けたよ」
直ぐさま、伊里谷は透明人間に銃を向ける。
「彼女から離れろ、関係ない人間を巻き込むつもりか?」
冷静に伊里谷は答えていくが、それでも内心動揺しているのは変わりなかった。銃を透明人間に向けるが、何処にでもいそうな顔の男は、特に気にした様子もなく淡々と答えた。
「言葉は慎重に選んだ方がいい。私の機嫌の上に彼女は歩いているからね」
伊里谷は仕方なく、手元に置いてある銃を地面に捨てる。伊里谷の行動を見てクロエは何か言い掛けたが、クロエも銃を置きはじめる。
「目的は何?」
クロエが透明人間に質問した。男の目元が笑った。まるで、聞きたがっていた質問がやっと来たように。
「君です、クロエ」
「私?」
クロエは透明人間の言葉に疑問を抱いている様子だった。
「是非、私と一緒に来て頂きたい。もし来て頂けるなら、このお嬢さんには危害を加えません。約束しますよ」
クロエは伊里谷の顔を見た。普段、伊里谷には決して見せない不安気な表情だった。透明人間の提案は論外だった。
一瞬、伊里谷は動揺で眼が泳ぐ。何とか選択肢を洗い出していく。透明人間含め、相手は銃を手元に持っており、伊里谷とクロエで何とかできるものではなかった。既に霧絵に連絡をしているが、それでも救援に間に合ったところで、事態が好転するとも思えない。
「そんなに私が欲しいのなら望み通り従う。彼女を放せ」
クロエの言葉に合わせて、彼女を押さえ込んでいた男達は手を放す。クロエは透明人間の所に向かおうとする。ただ、透明人間はクロエが来ることに手を制した。
「貴方が必要なのは別の場所だ。それまで彼女は預かります。いわば保険というやつです」
「何を言ってる!?」
伊里谷が問い詰めるが、透明人間は伊里谷の言葉を無視した。透明人間は、あきらを抱えたまま後ろに下がろうとしていた。
伊里谷は隙を突いて近くにいた男を銃のマガジン部分で殴り、そのまま透明人間まで走って行く。
「馬鹿者っ!」
クロエの声を無視をして突進する。透明人間は伊里谷の行動に退屈な表情をしていた。呆れているようにも見えていた。
「君はもう少し利口かと思っていたが思い過ごしだったようだ」
そう言って、抱きかかえていたあきらを放すと、そのまま伊里谷が銃を構える前に、彼の腹部に蹴りを入れた。
伊里谷は呻き声を挙げた。自分の骨がきしむ音が聞こえた。透明人間の蹴りは、そのまま伊里谷を吹っ飛ばした。伊里谷は咳き込むと、そのまま肺から吐き出すように吐血していた。
「つまらないね」
透明人間が、そう呟いた瞬間、表情が一変する。小さな爆発。それでも人間ひとりを吹き飛ばすには十分な威力になるものだった。透明人間の仲間が持っていたグレネードだった。伊里谷はそれを奪って透明人間のスーツの裏地に取り付けた。あきらが近くにいて危険なのは承知だったが、やむ得なかった。
「夏目、無事か!?」
伊里谷は叫ぶ。脇腹を押さえたまま、あきらの様子を確認した。あきらは気を失った様子だった。幸い、外傷はなく気を失ってるだけのようだった。
透明人間は、そのまま吹き飛ばされ、至近距離の爆発で焦げた臭いを漂わせていた。奴がこれで死ぬとは思っていないが、少しの時間稼ぐくらいにはなるだろう。
「イスタンブールの件を忘れた訳ではあるまい」
透明人間は何事もなかったように立ち上がる。それこそ滑って転んでしまい悪態を付くような、その程度の言葉だった。透明人間は構えると、すぐさま伊里谷に蹴りかかる。伊里谷は両腕で身を固めて吹き飛ばされるも身を固めた。
伊里谷の行動を見てクロエは、すぐさま発砲。
透明人間の額を撃ち抜く。撃ち抜いても倒れもせず眼の集点が合わないような様子で首を傾げていた。彼女の行動に本当に疑問に思っているようだった。
「そんな態度を取るなら、彼女の安全は保証しかねるがね」
脅しではない。いつもと変わらない淡々とした口調だったが、いざとなれば夏目あきらなど簡単に殺せる。この男は本当に躊躇無く殺すだろう。伊里谷の身動きが鈍くなった後、側近の男達が数人がかりで伊里谷を押さえつけようとする。
伊里谷は何とか抵抗するも負傷した状態で抵抗するのも無意味な状態だった。
「待っているよクロエ。良い返事を期待してる」
そういって透明人間はそのまま、自分たちが乗ってきた近くのバンに乗って逃げようとしていた。
「と、止まりなさいっ!」
怯えた女の声が聞こえた。連絡を駆けつけた霧絵だった。近くにジェフもいた。二人とも銃を構えていた。
「ふたりから離れろっ」
遠くからサイレンの音が聞こえる。騒ぎを聞きつけた通行人が警察に連絡したのだろう。日本の警察が介入したら、それこそ、ややこしくなる。何とか、ここで切り抜けなければならなかあった。
透明人間は霧絵を見て口元を緩めた。
「無理はしないことだ。構えからしてみて、ロクに銃を扱ったことがないようだ。私の話くらいは聞いているだろう? それくらいでは私は殺せないよ」
「知ったような口を利いてんじゃねえぞ、クソ野郎っ」
ジェフが横に入るように透明人間を罵る。日頃、飄々(ひょうひょう)とした雰囲気からは想像付かない言葉だった。ジェフも銃を構えている。
「銃は、そこの女性より扱いは慣れてそうだが、無駄なことだ。そもそも君たちは状況を分かっていない。言っただろう、私は待っているとね」
そう言って、透明人間は、夏目あきらをバンに乗せると
、そのままバンを出していく。霧絵とジェフは発砲出来なかった。責めることは出来なかった。仮に彼女たちが発砲してきたら、それこそ本当に夏目は殺されてしまうだろう。ジェフが撃たなかったのも、そういった判断があったからだった。
「奴の行き先は何処だっ!」
ジェフが取り押さえていた男に投げかける。本来ならMI6に引き渡すところだが、時間がなかった。銃を構えて何とか聞き出そうとした。
「奴が何者かなんて知らねえ・・・・・・」
足を撃たれた男は、弱々しくそう答えた。イスタンブールの時と同じだ。雇われたコイツらは何も知らない。本当なら時間を掛けて尋問すれば良いだけの話だが、今はそんな悠長なことは出来ない。
「運の良い奴だっ」
ジェフは皮肉で答えて男を殴った。男は気絶はしなかった。人を気絶させるほどの打撃にも技術が伴うが、生憎、ジェフはそういったことまで備えていなかった。男は痛みのあまり呻き声すら上がらない様子だった。
「伊里谷、ここは退こう」
クロエが諭す。彼女の態度は、伊里谷と比べると落ち着いたものだった。伊里谷は彼女の発言を受け入れたくはなかったが、従うしかなかった。伊里谷は何とか立ち上がって、その場を離れる。サイレンの音がすぐ近くに聞こえている。警察が近くに来ても自分たちは何事もなかったかのように振る舞わなければならなかった。