第一部1 『相棒』
諜報員による定期連絡の通信が途絶えたとき、伊里谷は、それが非常事態だということを経験でよく知っている。
諜報員から最後の連絡が入って三十分、昼過ぎの暑さの厳しいトルコのイスタンブールで、伊里谷は最後に諜報員がGPSを出した場所まで車を走らせていた。人通りの多いイスタンブールでは彼の車の運転に毒付く者もいたが、それを無視して目的地まで走らせていく。
伊里谷の腕時計には、諜報員の行動履歴を映し出しており、各諜報員に支給されているものだった。イギリス秘密情報部(MI6)の研究・開発部問の成果であった。
都心のバザーから抜けた郊外にある小さな二階立てのアパートに座標が一致した。伊里谷は車を停め、目的のアパートまで走って行く。
彼は腰から拳銃を抜き後ろに付いてきてる少女に伝える。
「ここを最後に連絡が途絶えている」
「罠だな」
銃を構えている少女、クロエ・ディズレーリは答える。10代後半である伊里谷も若い諜報員だが、それでも彼女の年齢には遠く及ばなかった。
クロエは長い艶やかな黒髪をゴムバンドで簡単に、一つに束ねてポニーテールにして、私物のTシャツにホットパンツという、やや派手な格好にも見えた。
反対に伊里谷は、現地に馴染むためにバザーで買った安物のシャツとズボンを着ており、彼女と比べると地味な格好であった。
伊里谷とクロエ、二人は諜報員である。
イギリスを拠点とする、秘密情報部(MI6)で主に中東やアジアで情報を集めているMI2部門に所属している。冷戦の時ならスパイと呼ばれていた仕事だ。
二人の目的は諜報員の名簿リストの確保およびテログループの動向の把握であった。
一年ほど前、MI6本部に乗り込んだテログループが、本部の職員を数人を殺害しリストを奪い逃走。
その後、テログループの首謀者は捕まらなかった。MI6の歴史においても大失態と呼べるべき事件だった。イギリスのロンドンで、しかも世界各国の情報を集めている情報機関内でのテロが発生したとなれば、テロ首謀者の拘束はMI6にとって最重要な内容だった。
また、リストの漏洩は、さらなる諜報員および職員の命に関わる問題であったが結局、テロリストはリストを闇市場やネットに流すことはなかった。職員の名簿リストを奪われたのも大問題であったが、それ以上に公の場での大規模なテロ発生に国民や政府からの疑惑の眼が向けられていた。
テロリストの真為は不明だったが、数日前、MI6から、ここトルコのイスタンブールにリストの情報端末が確認されたと報告があった。タレコミの粋を出ない現地のチンピラからというのが情報源だったが、MI6としても少しでも手がかりになればと思い、現地にMI6諜報員を派遣したのが数日前だった。
そして、任務のサポートしてアジア・中東を担当してるMI2部門の伊里谷とクロエの二名が現地スタッフという形で参加していた。
仮にリストを奪ったと思われるテロの容疑者に接触した場合、身柄拘束が第一であるが、困難な場合は発砲許可も出ていた。
だが、MI6諜報員から本部への通信が三十分前を最後に途絶えていた。アパートに向かった諜報員がテロの容疑者と遭遇し負傷もしくは死亡したというのが、伊里谷たちの見解であった。
伊里谷とクロエが敷地内に入っても幸いにアパートの住民に見られることはなかった。
アパートは妙な静けさを放っていた。人が少なくなる郊外とはいえ目撃者が出るのは伊里谷にとって避けたかったが杞憂であった。部屋に突入の際、住民に危害が加えられる可能性も考慮していたが問題はなさそうだった。だが、MI6諜報員が負傷の可能性があるのにも関わらず、この異様な静けさは伊里谷を不安にさせた。
マガジンを抜いて残弾を確認する。銃を取り出したときに既に弾数は数えていたが、伊里谷は再度確認を行なった。発砲の可能性は十二分に考えられる状況だった。本当なら住民の避難含めて対応すべき状況だったが、他の諜報員の援護を待つことは出来なかった。
「わたしが前に出る。お前は後ろを」
「いや、君は俺のバックアップだ」
クロエの言葉に伊里谷は淡々と答える。
「子ども扱いか」
いや、君は実際に子どもじゃないかと伊里谷は思ったが、声に出さず喉の奥に押し留める。仮にそんなことを答えたら、この少女が反論するのが目に見えたからである。
「すまない。善処はする」
伊里谷の苦し紛れな返答にクロエは顔をしかめつつも、表情が少しだけ緩くなった。
「ふぅん、そういう態度とるんだ」
年のわりに妙な色気醸しだす少女の返答に伊里谷は言葉が詰まってしまう。
伊里谷は、パートナーを組んでから日の浅いクロエと連携が取れてるとは思わなかった。自分よりも優秀な諜報員と組んだ方がいいとも思っているくらいだった。正直、自分がこの少女の面倒をみるということにも納得がいかないという気持ちもあった。
だが、クロエはそんな伊里谷の思いとは裏腹に言葉を続けていく。
「その善処とやら、期待しているぞ」
クロエはイタズラな笑みを浮かべている。危機的な状況にも笑顔を絶やさないのが彼女の性格なのだと伊里谷は最近になって知った。
ただ、笑顔というより相手の弱みを握った嗜虐的な笑みなだけのような気もするが。
「約束する」
静かだが伊里谷は、力強く答えた。命が掛かった状況、そうでもしないとこの約束が守れるとは思えなかったからだ。
△▼△▼△▼△
二人は顔を見合わせ合図をすると、伊里谷は扉を蹴破り部屋に突入。瞬間、部屋に籠もった不快な臭いが包み込んでいた。
伊里谷は眉間にシワを寄せた。血の臭いだと彼の経験が即座に答える。10代にしては少し老けている顔の彫が深くなる。
クロエと顔を合わせて互いに頷く。二人は拳銃を構え、ゆっくりと奥へと進んでいく。
アパートはまだ途上国の名残で建てられたらしく建築物としてはすでに年季がはいっている。
都心にある建物とはいえ首都から少しはずれにあるため住人は少なく、MI6が追っている人物が、ここを拠点に活動しているのなら目立たないため都合が良いと思えた。
部屋は殺風景な作りで、壁のコンクリートがむき出しのため生活感のなさに拍車をかけていた。
足音がミシミシと響く。安いアパートなのだろう。部屋はまるで足音を吸収しうなりを上げる巨大な生き物のようであったが、昼過ぎのバザールは賑やかな喧噪で足音が掻き消されるような感じもした。
伊里谷は、床下を確認すると、床に多量の血痕が残されている。まだ血が新しい。おそらく諜報員のものだろう。既にやられている可能性が濃厚になってきた。
目標の人物は、どうやらこのアパートを拠点に活動していたようであった。大量の空の缶詰とペットボトルが散らばっているのが、それを如実に表していた。
部屋の温度は真夏の時期に冷房はおろか扇風機さえなく室内は異常に暑く、室内を進んでいくたびに伊里谷は額から玉のような汗を掻く。
閉まったドアの前で足を止める。床下の血痕がドアの奥まで続いていた。
伊里谷が目先でクロエに合図した。伊里谷は、ゆっくりとドアを開けると扉の向こうに男が壁に背中をつけ倒れていた。血痕の正体が判明した。
遠目から人影や罠がないことを確認すると伊里谷は男に近づいていく。おそらく連絡の途絶えたMI6の諜報員だろう。
男を確認すると腹部から大量の血痕があふれ出ていた。急いで緊急手当てを施さないと手遅れになるのは誰が見ても明らかであった。
「味方だ。目標は?」
伊里谷は諜報員に呼びかける。
出血多量で意識朦朧としていたが、男は奥の部屋に指を指す。
諜報員は出血多量により、発声はおろか呼吸することも困難な状況であった。
伊里谷は男の胸ポケットからパスポートを取り出す。名前はトマス・ハリソンと書かれていた。たぶん偽名だろう。
クロエは急いで諜報員の応急処置を勤めようとしたが伊里谷が制する。
「いまは彼よりも仕事を優先しろ。目標を逃すわけにはいかない」
クロエは伊里谷を睨みつける。
「見殺しにするのか!?」
「いま目標に逃げられたら水の泡だ。目的を思い出せ」
先ほどのやり取りなど嘘のように険悪な空気になる。クロエは黙ったまま、伊里谷を睨んでいた。
「人命救助がしたいなら君はここにいるべきじゃない」
伊里谷はそう言い切った。
彼はクロエの返事を待たず彼女を置いて奥の部屋へと進んでいった。クロエは何か言葉を掛けようとしていたが、言葉を発する前に、伊里谷は部屋の奥へと進んでいく。
伊里谷は無線の電源を入れて、MI2本部に連絡する。
「諜報員と思われる人物を発見、目標と接触し負傷したと思われます。危険な状態です、至急、救護班を」
<諜報員なのは確かなの?>
無線から若い女性の声が返ってきた。この作戦を担当しているミルヴィナ・モーズレー局長の声であった。伊里谷は負傷した諜報員のポケットから回収したパスポートの名前を読み上げる。
「彼のパスポートにはトマス・ハリソンと」
本部で名前を検索しているのか、すぐにモーズレー局長から報告があった。
<間違いないわ。彼はたしかに数日前から現地に潜入しているMI6の諜報員よ>
冷静にモーズレー局長は答えた。まるで、諜報員が負傷することなど既に知っていたと言わんばかりの口調であった。
<救護には時間が掛かる。今は彼の安否よりリストの確保を優先なさい。ここで逃がしたら、見つけることが困難になるわ>
「了解です。任務を続けます」
伊里谷は無線を切り、銃を構えながら奥の部屋へと進んでいく。