第二部8 『紹介』
車から買い物袋を取り出しアパートに戻ると、部屋には霧絵と、何処からか戻ってきたのだろう、クロエも戻っていた様子だった。
「久しぶり嬢ちゃん、何処行ってたんだ?」
ジェフは先の伊里谷とのやり取りとは打って変わって陽気な雰囲気でクロエに話しかける。
「少し散歩していた。日本の都心とは聞いていたが、まさかこんなに古びたアパートだったとはな」
不満を口にした様子でクロエは答えていた。ジェフはクロエの返答に「だろう」といった様子で頷く。
「都会に住むってのは大変なことがよく分かった」
「透明人間のことで何か上層部から聞いているか?」
場の空気を遮るように、伊里谷は単刀直入にクロエに質問した。彼女は首を横に振る。特に伊里谷の質問を気にした様子ではなかった。
「イスタンブールでの一件以来、相手の動向は掴めない。以前、お前と一緒に奴ついて根掘り葉掘り聞かれただろう。あれ以降何も聞いてない」
クロエは事務的に答える。作戦終了後に、伊里谷とクロエは同じ病室で透明人間について聞かれたことだった。二人は見たままの事しか答えることしかできなかった。
「そうか」と伊里谷も簡潔に答える。
霧絵は和室の畳に座ると、バックからノートPCを取り出して電源を入れる。MI6の項目を開いていく。ウェブカメラを起動してMI6の上海支部に連絡を取る。
「はい、こちらユニヴァーサル貿易上海支店です」
電話口から事務的な声が聞こえた。表向きはMI6は表向き貿易会社を経営していた。上海支部であるMI2もそれに倣い、貿易会社の支店という体裁を整えていた。
霧絵は電話口の相手に伝えた。
「霧絵です。ハーディ主任に繋いで下さい」
少々お待ちをと言って保留になった後、数秒後にハーディ主任が電話に出始めた。
<私だ。首尾はどうだ>
「はい、クロエも合流済みです」
<明朝から霧絵・ジェフリー両職員は先日話した例の業者を当たれ。伊里谷職員も明日、現地の高校に入学の手続きを進めろ>
「了解しました」
各自が返事をすると、ハーディは納得したのか要点だけを伝え電話はそのまま切れてしまった。これ以上何も言うことがないらしい。
「相変わらず淡泊なオッサンだな」
通信が切れて、ジェフが画面に向かって愚痴った。
「明日から忙しくなるわよ」
「ハーディ主任が言っていた例の企業とは何だ」
伊里谷は疑問を口にした。事前の打ち合わせでは出なかった話だったからだ。
「北里化学工業という日本の小さな薬品企業よ。透明人間の使っていた例のペン型爆弾の部品がこの会社から購入したという憶測が出たの。それはジェフが探してくれたんだけどね」
「日本遠征の理由のひとつだ。この企業が怪しいってことで、情報部で色々調べていたって訳さ。調べたらどこにでもあるような小さな製薬会社って感じだな」
「さあ、そういう訳だから、もう寝る準備をするわよ」
伊里谷は腕時計を見ると確かに時間は22時を過ぎていた。初日ということもあり気付かないうちに遅い時間になっていたようだった。遅い時間とは言え伊里谷やジェフは顔を合わせる。まだ寝る時間ではないだろう。
霧絵はパパッと切り替えて行動に移していく。バックに入れた寝具を調べている様子だった。
「俺たち、こんな狭い部屋で俺たち寝るのかよ」
ジェフの言葉に霧絵は首を傾げていた。
「何言ってるのよ、私達の宿は別にあるわよ」
心底、不思議そうに霧絵は答えていた。彼女の目先はクロエだった。ジェフは眼が点になり、伊里谷は特に気にした様子もなくことの顛末を見ているだけだった。
「別ってどういうことだよ・・・・・・」
ジェフの言葉は弱々しくなる一方で、霧絵は以前として不思議な様子、反対にクロエは何が可笑しいのかクスクス笑っていた。
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「ああ、くそっ不公平にもほどがある」
ジェフは先ほどから布団を被りながら愚痴を溢している。伊里谷は黙ったままだった。女性陣二人は近くのホテルに泊まり、男ふたり仲良くこの拠点で眠りにつくこととなった。
「お前も何か言ったらどうだ」
「正直、俺はここから移動しないから楽だと思っている」
「ああ、そうかい」
ジェフは皮肉交じりに答える。まるで怒りの矛先に迷っているようにも見えた。
「だが、二人を危険な目に遭わせるわけにはいかない。だから、二人にはなるべく近くのホテルに泊まってもらうよう手配をしたし、不審なことがあればすぐに俺たちに連絡するように霧絵に伝えたじゃないか」
「お前、優しいな」
ジェフはふて腐れてそれ以上は何も言わなかった。本心と皮肉が混じったような声の調子だった。伊里谷は特にそれ以上は何も言わなかった。
(現地の学生か)
明日から日本の学生として潜入する。身支度は既に整えていたが、自分が問題なく潜入できるか不安でないと言えば嘘になる。だが、それも明日になれば分かるだろう。伊里谷は眼を瞑り、そのまま眠りについた。
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伊里谷は緊張した姿を悟られないようにクラスメイトの返答に意識を集中していた。登校日の初日、諜報員という化けの皮が剥がれないように慎重に受け答えを行っていた。
「ねえ、伊里谷君は何処から来たの?」
「中東だ。主にウカンダ方面にいたことが多かった」
「趣味とかあるの?」
「観葉植物の手入れだ。命の危険を感じると何も語らない植物に不思議な感情が芽生えてくる。良き相談相手だ」
「好きな歌手は?」
「アデル」
「好きなアニメは?」
「すまない、あまり詳しくないんだ。ただ、『グレンダイザー』は再放送が多すぎる。あのアニメは定期的に見かけるんだ。やはり、日本でも再放送してるのか?」
伊里谷の返答に微妙な表情をしているクラスメイト。
彼はそんことを露知らず、霧絵や日本好きの職員から仕入れた情報を答えていく。観葉植物は自分の趣味だった。少しばかり自分を晒け出した方が上手く馴染めると思うと言う霧絵のアドバイスに従った。
伊里谷は自分が日本の学生として潜入出来てると思い込んでるような様子だった。彼は毅然とした態度で学校での1日を過ごしていた。
帰宅準備をして帰ろうとしていた。外では部活動に勤しんでる学生や他の教室の学生の談笑が聞こえていた。
(良かった、何とか上手くいきそうだ)
伊里谷は今日の学校のやり取りで上手くいったと感じていた。
「ごめん、ちょっといいかな」
そう思っていた矢先に、同じクラスメイトの女子生徒が話し掛けてきた。クラスメイトの顔を何とか覚えようとしていたがまだ顔と名前が一致しなかった。彼女の名前はたしか。
「私、君と同じクラスの夏目って言うんだけどさ」
伊里谷は夏目という名前を聞いて合点がいった。担任に無理言ってもらった名簿で名前は大よそ把握していた。
「今まで海外で暮らしてたんでしょ。学校の授業とかって付いて来れてるの? 少し気になったんだけど」
伊里谷はあきらの言葉に逡巡している様子だった。
「特に困ってはいないが。俺に何か用か?」
「いや、別に用ってほどの事じゃないけど」
「そうか。すまないが用事がある」
伊里谷は、そう言って手早く鞄をまとめて学校を抜ける準備を始め、そのまま、そそくさと教室を抜け出していった。
「何よ、あいつ」
伊里谷が教室を抜け出して人がいなくなると、あきらは伊里谷の態度の悪さに不満気な口をする。
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「俺に何か用か? ってもうちょっと聞き方くらいあるでしょ」
「変な人ではあるけど、悪い人じゃないと思うよ」
学校の帰り道、夏目あきらは同じクラスメイトで友達の榊原 志帆に愚痴をこぼしていた。志帆の話によると先日たまたま伊里谷が同居の人と一緒に日用品を買っていたことを話してくれた。しかも一緒にいた外国人は二枚目俳優を思わせるような男だったので、その話でも盛り上がった。また、同居人というところも盛り上がりポイントだった。
「その時は、やっぱ日本に来たばかりだから買い出しに来てたって訳なのかな」
あきらの言葉に志帆は「う〜ん」と顔を傾げる。
「何かね、フライパン買うのにすごい悩んでたよ。そのイケメンの人」
「何それ」
志帆の話を聞いている限り、そのイケメンの外人も伊里谷と同じ変人なのではという疑惑が出てきた。
「でもさ、変な話だと思わない?」
「伊里谷くんが?」
あきらは頷く。こんな時期に転向しているのも変な話だったが、転校生、伊里谷 聖二はそれ以上に奇妙だった。
「育ちが中東なのは分かったわよ。だけど、変じゃん」
「物騒な地域で育ったって本人が言ってるじゃん? 価値観や習慣も違うんだから、あんまりそう言うこと言わないほうがいいと思うよ」
志帆は悲しそうな顔であきらに語りかける。彼女にこう言う顔をされるとあきらも悲しくて言葉に詰まってしまう。思ったことを何でも言ってしまう、自分とは対照的に言葉を選んぶような子だった。
「うぅ、悪かったわよ。そんな顔しないでよ」
あきらは反省した顔をのぞかせた。それを見て志帆は安心したのか特に先程までのやり取りを気にした様子もなく、そのまま彼女の付き合いで一緒に学校帰りの買い物に寄っていた。彼女が好きなコミックの新刊を買いたいと言って本屋に寄り、今度一緒に観に行く予定のアニメ映画の前売り券を購入して、カラオケに行くような流れだった。
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「あきってさぁ」
あきらはカラオケボックスでドリンクバーのウーロン茶を飲んでいた。
「うん?」と飲みながら志帆の言葉に反応する。お互いが歌いたい曲をある程度歌って満足して休憩しているような感じだった。
「部活とかってやんないの?」
「ええ、何言ってんの。今楽しいからいいじゃん。どうしたの急に」
志帆は急にこう言う風に突然、真剣に話すことがあった。多分、彼女なりの気遣いなのだろうとあきらは感じていた。
「あきって体育の時とか見てて思うけど、運動神経もいいし、人当たりもいいからさ。帰宅部というのも変だなって思っただけ」
「いやさぁ、前にも話したじゃん。私、中学までソフトボールやってたって話」
あきらは特に気にした様子もなく話をしていく。志帆はあきらの話に頷く。
「それで妹が死んじゃって、それから少し気持ちの整理がしたかっただけ。別にスポーツすることが嫌になったとかそんな大層なもんじゃないから」
あきらの言葉に志帆は言葉を失っていた状態だった。自分から話を振っておいて重い話をされるとは思ってもいなかったのだろう。当人であるあきらは何も気にした様子もなく話を続けていく。
「最初は部活を辞めたことに心残りがない訳ではなかったけど、今は楽しいし、もう出来ない訳じゃないからね」
ウーロン茶を飲みながら、あきらは答えた。
「あき、その本心で話くれるのはすごく嬉しいんだけど、私どんな顔すればいいか分からないよ」
志帆の言葉にあきらは笑った。腹を割って話せる友人へのイタズラ心溢れるような顔だった。
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「さっきの話になるんだけどさ」
あきらと志帆はカラオケが終わってお互い帰りがけの途中だった。お互い近隣に住んでいることもあり、一緒に歩いて帰るような状況だった。
「彼ってこの辺、住んでんじゃなかったけ?」
唐突なあきらの言葉に、志帆は眼が点になる。その様子に察し付いたあきらは話を付け加えた。
「例の転校生の話。彼、渋谷住みって言ってたわよね」
そんなこと言っていたっけ?と志帆は疑問に思いながら、あきらに返事をする。
「両親とは暮らしてないって言っていたよね。仕事の関係がどうとかって」
「やけに帰るの早かったからね。案外、この辺でウロウロしてんじゃない」
「そうだね、他の男子とでも帰ったんじゃない?」
「そんな感じな奴には思えないけどね」
「もしかして、気になってるの?」
志帆の言葉に口をへの字にするあきら。
「んなぁ、そんな訳ないでしょ」
「そっかぁ〜」
志帆は少し意地の悪い笑みを浮かべてそれ以上の会話はなかったが、志帆は首で指を指すようにあきらに前方を見るように促した。
「あき、噂をすれば」
志帆はボソッと呟く。彼女が見ていた方向は右手にあるコンビニだった。店内を見ると伊里谷が店内で買い物をしていた。
「よく見つけたね」
「私、町中で芸能人とか見つけるの得意なんだよ」
「何よ、その特技」
あきらは呆れながら答える。ふたりは窓ガラスの奥にいる伊里谷を眺める。彼の持っていたカートには大量の食料品が入っていた。
「なんか、すごい買い込んでいくね」
「あんなに買ってどうすんのよ」
ふたりは、伊里谷のそんな姿を見ながら去ろうとしたが、眼が止まった。
「ちょっ、ちょっと見て」
あきらの語句が強くなる。志帆が見ると、コンビニ内に黒髪の外国人の少女と伊里谷が一緒にいる様子だった。少女は伊里谷をからかっているような様子で話掛けているようだった。
「あ、あの子知ってる」
あきらの言葉に志帆は驚いた様子だった。
「え!? あき、あんな可愛い子の知り合いなの?」
志帆の言葉に少し首を傾ける。
「うん、前に通学中にたまたま知り合ってさ。クロエって子。良い子だったよ」
「伊里谷君の知り合いなの?」
「それは知らない」
志帆の言葉に、あきらは簡潔に答える。伊里谷とクロエを見ていると、クロエが何かちょっかいしているようにも見えた。
「知り合いって感じでもないね。なんかこう、もっと親しそうな感じ」
志帆の言葉にあきらは詰まらない表情をしている。
「本人に直接、聞いてみない?」
「ええっ、それ大胆すぎない!?」
「でも、あき絶対いま聞かないと、いつまでも根に持つでしょ」
志帆の言葉に反論できない様子のあきら。
「それ言われちゃうと何も言えないんだけどさ」
仕方ないといった様子でコンビニの近くに隠れて、やり過ごしていくと伊里谷とクロエが出てくる。伊里谷はしかめっ面な様子で少女とやり取りしているようにも見えた。
(ほら、行くよ)
(あんなに、行かない感じだったのに・・・・・・)
志帆は、やれやれと言った様子であきらに付いていく。二人はある程度、距離を開けながら、伊里谷とクロエの尾行を始めた。