第二部7 『買物』
伊里谷とジェフは近くのスーパーで簡単な買い出しすることとなった。もっと庶民的な買い出しを想像していたが、日本の都市部での買い物はそんなにスムーズには動かなかった。
駅の周辺の店はいわゆる百貨店のため食材を買うのにも一苦労だったし、ジェフは金額が高すぎると言って渋谷からやや離れたところまで車を走らせた。伊里谷は日本での生活経験がないので高いと言われている金額の基準が正直分からなかった。
「こいつでもない」
ジェフは家電量販店で真剣な眼差しをしていた。道具選びに余念がない様子だった。調理器具を一つ買うだけでも、二つ両手にとって頭を抱えている始末である。ジェフは両手にフライパンを掲げて悩ましげにしている様子だった。
「使えれば、何でもいいじゃないか。何を悩んでいる」
伊里谷の言葉にジェフは反論する。
「開発費に何千万とくだらない備品や報告書を作ったことは、一度や二度ではないが、遥かに安い日用品を購入するのに俺は真剣に悩んじまうんだよ」
「分からんな」
伊里谷の返答にジェフは「はいはい、そうかい」とフライパン眺めながら答える。そうは言いつつも特に気にした様子もなかった。
伊里谷には、同じフライパンにしか見えないが、ジェフにとって、それは大事な問題らしかった。
「ジェフ、普段料理するのか?」
伊里谷の言葉にジェフは「ほどほどに」と答える。
「この国のコンビニはしっかりしてるし、食うには困らないと思うが」
伊里谷の言葉にジェフは「それは違うぞ」と反論する。
「料理はもっとも身近な創作だ。俺たちが普段している仕事以上にな」
本当かよと伊里谷は怪訝に感じた。この男、仕事は出来るが、それ以外の話題になると、とても伊里谷では付いていけない価値観で語ってくる。俺はそんな男に渋々、同伴している訳であるが。
「生きていくには困らんだろ」
伊里谷の簡潔すぎる返答にジェフは肩を落とす。
「そうだとしたら、あのオンボロ支部の台所事情は貧困を極めるぞ、やたら不機嫌な霧絵や嬢ちゃんを見たくないだろ?」
それは嫌だなと伊里谷は感じて表情が曇った。そういう意味では一理あるかもしれなかったからだ。
「分かるだろ、霧絵本人は口にせずとも不機嫌な時が多いだろ。あれが続くとなると、こっちとしては堪ったもんじゃないね。俺は職場の改善を切に願っているんだ」
「他に何か必要なものはあるか?」
伊里谷は、ジェフに促した。それは困ると無意識の表れだった。
「話が早い。だから飯を作れる環境にしておかないとな」
伊里谷は黙って、ジェフの講釈を聞き続けていた。周りを見渡して、慣れない日本語で店内の文字を追いかけていく。読むくらいなら問題はないが、発音となると話は変わる。伊里谷の生まれは日本だが、海外育ちのため、日本語を習う機会はあまりなかったため、発音は不安であった。霧絵から言わせれば、現地でも十分、通じるので問題はないといって言っていたが、逆に本人から言わしてもらえば、クロエやジェフが日本語が流暢すぎて怖いくらいだった。
「伊里谷は、これを探しといてくれ。俺は家電の方を見てくる」
ジェフにメモ用紙を渡された。英語で一般的な日用品が書かれていた。トイレットペーパーや床掃除用の洗剤や風呂上がり用のタオル等、雑多な物ばかり書き込まれていた。ジェフに任されたとは言え、日本語の字を何とか読める伊里谷にとっては微妙に骨の折れる作業だった。
(入り組みすぎだ。よく分からないな・・・・・・)
伊里谷は独り愚痴をこぼした。あまり本人に頼みたくはなかったがジェフにお願いして一緒に見てもらった方が良かったかもしれない。そんな折、探していると、とりあえず目当ての品であったトイレットペーパーを見つけた。正直、色々と種類があったが適当に選んだ物を買い物カゴに突っ込む。メモには残りは5点ほどの日用品が書かれていたので、伊里谷は移動しようとした。
「あ、あのすいません、ちょっといいですか?」
声が聞こえる。振り向くと歳は、ほぼ伊里谷と同じくらいの少女が話しかけてきた。眼鏡を掛けて、うっすらとそばかすが残っている様な子だった。
伊里谷の反応に少女が頷くように答えた。
「あそこの方、お知り合いの方ですか?」
伊里谷を生粋の日本人だと思って、普通に話し始める少女。伊里谷は英語で理解して日本語で直すような感覚を正していく。少女は顔を動かして伊里谷に視線を促していた。
伊里谷は眼を見やるとジェフがうずくまって何か考え事をしているようだった。また何か下らないことで悩んでいるのだろう。
「何か、すごく真剣に考え事しているようだったので気になって・・・・・・・。おそらくあなたの名前を呼んでいる様子でしたので・・・・・・」
おそらく、先程から自分たちのやり取りを見られていたのだろう。マズいなと伊里谷は感じたが、表情に出さずに同年代の少女に答えていった。
「ありがとう。残念なことに彼は同居人だ。失礼したようだ」
「同居人っ!」
女学生は少し驚いた様子で伊里谷の様子を伺った。発音が上手くいかなかったのかもしれない。
「それにしても、俺が奴の連れだとよく分かったな」
「いえ、さっきあの方と一緒にいたので、それで声を掛けました」
やはりそうかと伊里谷は合点がいった。
「礼を言う。分かると思うが、あの男にはいつも振り回されて困っているんだ」
伊里谷は真面目に答えたが、女学生を伊里谷を不思議な生物でも見るかのような眼差しをしていた。
「すまない、日本語は得意じゃないんだ」
「いえ、そういう意味じゃないんです」
伊里谷はそのままジェフに合流した。伊里谷が来ても特に反応は変わらず今度は掃除機を真剣に悩んでいた。一体、何に悩んでいるのか伊里谷には分からなかった。
「早いな。そんなに手際よく商品を選んで来るとは思わなかった」
「いや、お前の奇行で迷惑している人がいることを伝えにきただけだ」
「もう少し言葉ってもんがあるだろう。俺たちの生活に関わる問題だ、俺は真剣に選んでんだ」
こうなった時のジェフは面倒なのはよく知っているので、伊里谷はそれ以上は口答えしなかった。
「それじゃあ、私はこれで」
少女はそう一言残して立ち去ろうとした。ジェフはそんな様子に気付いて少女に礼を言った。
「済まなかったね。この国に来て日が浅かったもんで、テンションが上がっちまったんだ」
ジェフの流暢な日本語に少女は驚いた様子だったが、一礼してそのまま立ち去った。何処か満足そうな雰囲気も放っていた。
△▼△▼△▼△
「結局、あまり良いのがなかったな」
ジェフは帰りの車の中で愚痴をこぼしていた。彼曰く、自分の目に適った製品が少ないということで、最低限の日用品を購入して帰宅することになった。
「それは構わんが、もう少し大人しく出来ないのか? 俺たちが何のためにここに来ているか言わせないでくれ」
「俺、そんな変なことしてないだろ」
「あの子が良い人だったものの、変人に間違われてトラブルになる可能性もあった。この国でのトラブルはごめんだ」
伊里谷の強い口調にジェフは顔をしかめた。それこそ子どもが拗ねるような様子だ。これでMI6で技術部門の主任を務めているのだから世の中、分からない。
「そうピリピリすんな。新しい装備品も作ってるんだ。そうしたら最初に使わせてやるからよ」
この男は都合が悪くなると話を逸らし始めるのは今に始まったことではない。この男の開発した装備品で命を握られていると思うとこの先が不安になることは一度や二度ではなかった。伊里谷は自分がひどく下に見られているような気がして、あまり良い気分ではなかった。
「霧絵に話をする。足りない金銭での工面くらいは、彼女も検討してくれるだろう」
そうは言いつつも、ジェフは頭を抱えている様子だった。霧絵に頭が上がらない様子は容易に想像が出来る。ただ、主任である彼が頭を抱えるくらいだ。霧絵が苦手という理由だけではないのだろう。その時、ジェフの端末に連絡が入る。メールの着信音だった。運転は伊里谷がしていたので、ジェフはそのままメールの本文を確認した。
「全く何だってこんな時に」
ジェフは、メールの文面を確認すると、顔つきが険しくなった。
「本当に透明人間の手がかりは、この国で掴めると思っているか?」
ジェフはメールを読み終えたのか。伊里谷に質問した。
「あの男、典型的なイギリス英語だ。少し訛りがあるが。尚のこと、この国に来ている理由が不明瞭だ。何の根拠もないと言ってしまえばそれまでだが。俺の報告書は読んだのか?」
「読んださ。おまけに、お前が装備していたヘッドカメラでしっかり、あの変態スーツ野郎が蘇るところはばっちり映ってるよ。あれは誰が見たって卒倒もんだよ」
「上層部は何て?」
伊里谷は問い正す。ジェフは思い返すようにして答える。
「有力なものは出ていないな。それこそお前の意見と大差ない。あの男は本当に透明人間のように軌跡を残していないらしい。空港や駅の防犯カメラでも確認したが結果は芳しくないそうだ。俺は専門外だから、それ以上は知らないが、そういう報告は聞いた。後はそうだな、まるで手品の種明かしのように何か裏があるはずだと喚いてた奴もいたな。そんなことならこんな回りくどい事なんてしないだろうに」
「今のメールもそういった類の内容か?」
「ああ、上で透明人間についての対策会議を独自で進めているんだとさ。現場で戦った伊里谷や嬢ちゃんの意見もナシにだ。畏れ入るね」
「防犯カメラに映った痕跡がないなんて、そんなことがあり得るのか? 信じがたいが・・・・・・あの男に常識になんて通用しないと考える方も自然か」
「上層部は完全にお手上げのようだったぜ。あの様子じゃ期待は出来ないわな」
先行きの不安で、伊里谷とジェフは互いに黙ってしまう。
「あいつとは上手くいってんのか?」
先に口を開いたのはジェフだった。
「何のことだ」
「嬢ちゃんだよ。日本に来る前からもろくに会っていないんだろ?」
ジェフの言葉は軽かったが、それでも伊里谷を心配しているような口ぶりだった。
「会ってはいないが、それがどうかしたのか?」
伊里谷は自然に答えたつもりだったが、ジェフは難しい顔をしていた。
「お前が嬢ちゃんを避けてるのは丸分かりだ。少しは、彼女との仕事にも専念しろ」
「俺の仕事は透明人間の手がかりと情報を集めることだ。子どもの面倒じゃない」
「お前が、彼女と上手くやらないことには今度こそ、あのスーツ男に殺されるんだぞ」
ジェフは語気を強めながらも、静かな口調で伊里谷を問いただした。
「それは命令か?」
伊里谷は不満気な態度でジェフ問いただす、ジェフは怒るかと思ったが、彼は落ち着いて話を続けた
「そうだ。お前達の命は安くない。まったく諜報員には良い時代になったものだな」
伊里谷はジェフの問いに少し間を置く。
「承知した」
諜報員としての技術は誰かに教わったものでもないし、教本がある訳でもない。観察眼が求められれる仕事だし命の危険もある仕事だ。伊里谷にとって、自分の仕事のプライドがそれだった。
「何か言いたげな顔だな。顔に出てるぞ。別にチクリはしねえよ」
伊里谷は何も答えない。ジェフは気を利かせながら話し始める。
「お前が言わないなら、言わせてもらうよ。俺たちの待遇は最悪だ。職員の命も掛かっているというのに、給料は公務員並だしな。良い仕事とは呼べんわな」
ジェフは皮肉と愚痴を漏らす。
「限度はあるが、何か言いたいことがあるなら言っておけ」
伊里谷は口を開く。
「クロエは・・・・・・彼女は何者だ」
伊里谷は真剣な表情だった。ジェフは言葉を選ぶように静かに答えた。
「俺が知りたいくらいだ。霧絵も聞かされていないと思うぜ。もっと上の・・・・・・それこそ局長以上の領域だ」
伊里谷は怪訝な表情をしていた。言葉に詰まると表現してもよい。伊里谷の予感は的中していた。やはり、上層部はクロエ・ディズレーリをただの子どもと見ていないのは明らかだった。
ジェフは伊里谷の様子を伺うと話を続けた。
「言いたいことは分かる。透明人間との戦闘や以前からの高い運動能力を見ても普通の子どもじゃない。上層部はクロエが透明人間を探す手がかりと考えてるのかもしれない」
ジェフの言葉に伊里谷は頷く。
「透明人間がクロエに興味を持っているような気がする」
「今回の作戦でクロエを指名したのは局長だそうだ。後は上のみぞ知るって訳だ」
ジェフはこの会話は終わりだと言わんばかりの様子で話を切り上げてしまった。主任とは言え事実を知らされていないジェフや霧絵。そして伊里谷にも知る由もなかった。クロエの話題については触れていけない。そんな雰囲気すら醸し出していた。
(クロエ、君は何者なんだ・・・・・・?)
伊里谷は胸の中でクロエに問いただした。