後編
8
今年のミゴール昇格試験を受けるミーレの数は十六組、総勢三十二人で行われる。試験の平均合格率は八割ほどなので決して狭い門ではないのだが、今回不合格となると、もう一年ミーレとして過ごし次の年度に再挑戦となる。そして試験中に命を落とすミーレが十年に一人程の割合で出ていた。特別に高い数字ではないように思えるが、毎年平均三十人が挑戦するとして三百人に一人が死者となる。命のリスクとしては決して楽観できない数値だ。
そのためであろう、学院に聳える三つの塔の一つ、第一研究棟の地下一階広間に集められた受験生達は緊迫した気配を漂わせていた。その中にあってヒロキも堅い表情で周囲を眺めている。もっとも、彼はイサリアとの約束を果たすために参加するのでミゴールへの昇格については無関心でいられた。それだけに予断を許されない試練ではあったが、多少の余裕を保つことが出来た。専念すべきは試験の合格ではなく、自分とイサリアの身の安全なのだ。
「課題が決まったぞ、第五層のどこかにある蛇の置物だそうだ」
「なるほど・・・」
ヒロキはくじ引きから戻ってきたイサリアに頷いた。昇格試験の内容は学院地下に存在する迷路のような施設から課題の品物を回収して戻ることだ。内部はエーレでも対応出来ると判断されたモンスターが徘徊し、受験者の戦闘能力や危機判断能力が問われる。またそれら以外にも数々の魔法を駆使しないと先に薦めない試練が用意され魔術士としての総合的な力を試す場となっていた。
課題の品や試練は既に学院の導師達によって地下の第四層から第六層に渡って配置されている。場所によっては難易度が変化するので、公平性を保つために回収する課題物はくじ引きで決められたのだ。
くじ引きが受験者の代表全員に行き渡ったのだろう。周囲からは歓声に似た声や不満の声が漏れる。一概には言えないそうだが、低層ほど難易度が下がる傾向にあるらしい。指定の場所によって一喜一憂するのは当然と言える。そして、イサリアのくじ運は特に良くも悪くもないということだ。
「イサリア達は第五層なの?私達は残念なことに一番深い第六層だったよ」
「うむ、そちらは運がなかったな。おそらく、くじを引いたエリザの日頃の行いが悪いのであろうな」
「ちょっと、イサリア!非論理的な中傷はやめて下さい。単に確立の結果に過ぎません。それに私達ならどこであろうと問題はありませんわ!」
近くにいたクロリスとエリザがイサリアの言葉に反応して声を掛けて来た。彼女達もペアを組んで今回の昇格試験に挑んでいる。この二人とは先日のクロリスの相談以降も何かと縁があり、ヒロキはこれまでの学院生活で親交を深めていた。正確にはイサリアとエリザのちょっとした争いに巻き込まれていただけなのだが、彼にとしては女の子達と絡めることに異論はなく、昇格試験を控えた一週間の良い息抜きとなっていた。
イサリアとエリザは生まれた家が政敵関係ということで、お互いをライバル視しているが、逆に言えばお互いをライバルに該当すると認めていることでもある。そのため当初は言い争いを始める二人を心配しながら眺めていたヒロキもこの頃では仲の悪い姉妹喧嘩として扱うようになっていた。一時はクロリスが心配していたエリザの様子だったが、イサリアとやり合う様子に暗い影は見えない。そこまで深刻な悩みではなかったのか、乗り越えたに違いなかった。
「もう二人とも!一緒に頑張ろうってくらい言おうよ!」
「うむ、エリザはともかくクロリスの成功を信じているぞ!」
「まあ、あいかわらず可愛くないことを!ヒロキさん、イサリアが地下の暗闇で泣きべそを掻くようなことがありましたら後で教えて下さいね」
「え、そんなことはないと思うよ・・・」
「もう、エリザ!イサリアもだけど、ヒロキ君を喧嘩に巻き込まないの!」
仲裁に入るクロリスにヒロキは感謝の笑みを向ける。彼女もエリザがいつもの調子を取り戻したことで平静を取り戻したに違いない。また、今回のように間に挟まれたヒロキを助けてくれる穏やかなクロリスは、イサリア達に何かと振り回され気味な彼にとってもありがたい存在だった。
「これより試験に臨む前の最終確認を行う。くじ引きの際の渡した水晶玉は緊急避難装置だ。これは床に叩きつける等して割れば、強制的にこの場所に瞬間移動する効果を持っている。使用すれば試験の途中棄権を認めることになるが、・・・生きていれば機会はある。死の危機に際した場合には迷わず使用するように!」
前方に居並んだ導師達の一人アルビセスが口を開くと、受験生達はそれまでの私語を止めて崩れた列を整えて警告に耳を傾ける。ヒロキも皆に倣って背筋を伸ばした。
説明がされた水晶はイサリアを通じてヒロキにも渡されている。これは魔道具と言われる予め魔法を封じ込めた水晶で、指摘のとおり割ることで魔法を発動させることが出来る道具だ。今回は導師達によって〝離脱〟の魔法を封じ込められて受験生達に配われた。危険を伴う試練ではあるが、学院側も受験者の安全にはかなりの配慮をしていた。
「諸君が魔術士、帝国士官の更なる高見を目指そうとする志を学院長として誇りに思う。可能ならば全員にその資格を与えたいくらいだ。だが、ミゴールへの昇格には伝統に従って今回の試練に乗り越えた者にだけ開かれている。これは諸君達のこれまで学んだ魔法力と知識だけでなく、仲間と協力して困難に立ち向かう協調性も試している。帝国は強大なだが、不滅ではない。東にはメルゴン族が台頭しつつあり、西の辺境には先の内乱の残党が虎視眈々と帝国への復権を狙っている。この状況では帝国士官に求められる期待はこれまで以上に高まりつつある。諸君は今回の試練を乗り越えて、帝国の期待に応えられることを証明してほしい!」
続いて学院長の訓辞が行なわれ、それをミーレ達は杖を持って胸の前に掲げるベルゼート帝国式の敬礼で答える。魔法を使えないヒロキもミーレとして敬礼を行う。慣れない動作と習慣だが、今回に備えて練習してきていた。
「では、くじ引きの紙に記されている順番に従って、地下への挑戦を開始せよ!」
敬礼を終えるとアルビセスの指示に従い受験生達が移動を開始する。広間の北側には両開き式の門が設置されており、それは見るからに重厚な黒い金属で出来ていた。扉の前に立っている監督役の導師がその扉に手を翳すと鈍く光り始め見えない力によって外側に向かって開かれる、扉の奥は下に続く階段となっていた。
「こっちだ、ヒロキ」
自分の世界ではあり得ない光景に見惚れていたヒロキにイサリアが促す。順番どおりに並んでいないと最後尾に回されるためだ。試験の期限は二十四時間後の明日の正午なので、時間的にはかなりの余裕があるが、わざわざ最初から時間をロスする必要はない。
「私達は五番目だ、急げ!」
先頭の組が階段に足を入れたところでヒロキ達は列に並ぶ。さすがに一気に侵入させてはトラブルの元となるためだろう、監視役の導師によって三十秒程ほどの間隔を挟んでの受験生達はゆっくりと地下へ歩んで行く。
「次は五番。・・・ミーレ・リゼートの組か、君の実力なら問題ないと思うが、慢心は禁物だぞ!」
「警告に感謝します、導師ボロンデル」
監督役の導師から声を掛けられたイサリアはお礼を告げて門を潜る。ヒロキも黙礼をしてその後に続いた。
「この学院の導師は個性の幅が広いね」
しばらく黙々と階段を降りていたヒロキは、杖の先に魔法の光源を灯して先頭を歩むイサリアに小声で話し掛ける。先程のボロンデルは穏健派で知られる導師だ。見た目も中肉中背の中年男性とあって目立つことはないが、堅実的で温厚な性格はミーレ達に人気があり信頼されていた。講義科目は具現魔法と呼ばれる魔力を物体として具現化させる魔法を担当しているが、歴史の講義も受け持っており、こちらはヒロキもイサリアの薦めで何回か受講していてボロンデルとは面識があった。同じ学院内にアルビセスやシャルレーのような個性派から彼や学院長のような良識的な導師と様々な人材が揃っていることをヒロキは指摘したのだ。
「うむ、確かにその傾向はある。もっとも、高位の魔法技術を習得したから個性的になるのか?個性的だからこそ高みに辿り着くまで魔法の研鑚を続けられるのか?どちらが正しいか以前から議論になっている」
「イサリアはどう思うの?」
イサリアに返事に興味を持ったヒロキが更に問い掛ける。彼からすればこの金髪の美少女もかなり個性的なのだが、本人がどう認識しているか気になったのだ。その間も彼らは緩いカーブを描く狭い螺旋階段を下に向かって降りて行く。
「・・・私としては、どちらでもないと思う。人は皆本来個性的なのだ。だが、人間は社会を作る生き物だ。その社会が求める、もしくは求められる役割に沿わないとならない。社会に居場所を求めるのならば、発揮できる個性は限られて抑圧しなくてはならないのだ。そして、導師級の魔術士ともなれば実力はもちろんだが、数においても貴重な存在だ。貴重となれば多少のことは許される。これが私なりの解釈だ」
「そうか・・・でも、さっきの導師ボロンデルや学長はその力を持っているのに善人と言うか、人間として落ち着いているように見えるけど?」
「善悪とは価値観や見方で変化する危うい基準だ。学院長や導師ボロンデルが教育者として頼もしいのは認めるが、それは教育者としての基準で個人の絶対的な評価には出来ない。ヒロキ、人間は自分に都合が良い存在を善としているに過ぎないのだ。・・・とは言え、人間は社会を作る生物なのだから、やはり人に好かれるというのは美徳であると認めるべきであろうな」
「なるほど・・・」
イサリアの解答にヒロキは感慨深く相槌を打つ。本来は彼女を軽くからかう程度のつもりだったのだが、思っていた以上に人間の本質に迫る意見を聞かされてしまった。イサリアの考えが必ずしも正解であるとは思わないが、彼女が自分よりも遙かに大人の視線で世の中を視ていることに感慨を覚えるしかなかった。
「ヒロキ、広間が見えてきた。これからが本番だ、頼むぞ!」
「わかった!」
イサリアの呼び掛けに、ヒロキは肩に掛かる背負い袋の重さを確認して力強く頷く。彼はイサリアに制限なく活躍してもらうために、食料や探索に必要と思われる道具等の荷物持ちを担当していた。正直に言えば地下迷宮と試練への不安と恐怖はあったが改めて覚悟を決めた。
9
階段を降りた先は開けた空間となっていた。周囲は磨かれた石壁で構成されており、大きさは一般的な体育館程の広さがある。天井もかなり高いので光さえ充分ならば地下であることを忘れてしまうだろう。だが、広間の中央に開いた大穴と何カ所かの壁面に設けられた階段から、ここが地下施設への本格的な入口であることを察することが出来た。
ヒロキ達よりも先に降りた受験生達は、まだ全員がここに留まっておりお互いに話し込んでいた。大穴に近づくイサリアもその中の一人である男子生徒から話し掛けられる。
「こちらは四層が目的地なのだが、途中まで一緒に行かないか?」
「申し訳ないが、私達は独自に行動するつもりだ」
「そうか・・・わかった」
イサリアの答えに男子生徒は大袈裟なジェスチャーで反応を示した。どうやら彼らは協力する仲間を求めているようだ。昇格試験は異なる組での協力も認められている。頭数が増えれば単純に戦力は上がり脅威の難易度は下がる。ある意味当然の戦術と言えた。
「・・・途中まででも協力した方が良くない?」
「その手は私も考えたが、この地下施設には二人しか通れない場所等も存在する。その場合、下手をするとトラブルの元になりかねない。私はそれを根本から避けるつもりだ・・・それに利用と協力は明確に区別するべきだ」
「なるほど・・・」
大穴を見下ろして立つイサリアにヒロキは小声で問い掛けるが、返答によって事前に聞かされた説明を思い出した。この試験はミーレとしての総合的な能力を試す場だ。数の力でのゴリ押しされたのでは試験の意味が薄くなる。当然のことながら学院側も対策をしていた。数に頼るのも有効な作戦だが、内輪揉めを避けて独自の行動を取るのも戦術の一つなのだ。また、彼女にしてみればこの場での協力の誘いは今更感があるのだろう。
「うむ、では私達はこの穴から一気に下に行こう。階段で降りて上がるより、その方が楽だろう!」
「・・・なんだって!」
排気口、もしくは学院長の塔にあった魔法式のエレベーター用の穴だろうか、正式な目的はわからなかったが、イサリアは地獄まで続いているような直径四メートル程の大穴を指差すとヒロキに告げた。
「一気に下に行くと言った」
「ちょ・・・!」
その言葉とともにイサリアはヒロキの手を握ると穴に飛び込んだ。小柄な彼女とは言え、人間一人分の体重に引っ張られてヒロキも身体を支えきれずに穴へと引き摺り落とされる。
「うおぉぉぉぉぉお?」
穴に反響する自分の悲鳴を聞きながらヒロキは、身体が急に奇妙な浮遊感に包まれるのを覚えた。閉じていた目を開けると自分がゆっくりと下に落ちていることを知る。魔法の光源に映し出さる大穴の壁面が無駄に幻想的で美しかった。
「・・・おい、ヒロキ。そろそろ気付け・・・」
「うわ!ごめん!」
イサリアの呼び掛けにヒロキは自分の状態を知る。彼はイサリアの身体を必死に抱き締めていたからだ。頬が擽られると感じていたが、それは彼女の金髪だった。
「おっと、手は放すなよ!落ちるぞ!」
慌てて離れようとするヒロキの手をイサリアが改めてきつく握る。
「私が以前に〝飛翔〟を使えるとは伝えていただろう?ちょっと驚かすつもりだったが、あそこまでヒロキが慌てるとは思わなかったな!」
「急に穴に飛び込んだら、驚くに決まっているだろ!」
「いや、それでもあんなに激しく抱き付かなくていいだろう。危うく杖を落としそうになったぞ!」
「ああもう!自分でしといて何て言い草だ!」
「まあ、そう言うな。私のような麗しい乙女に抱き付けたのだから男子としては悪い気ではなかろう?」
「イサリア・・・お前!ちょっと可愛いからって調子に乗って!もう一週間は一緒に過ごしているんだぞ。どんな美人でも見慣れるって!それに既にイサリアの方から抱き付かれたこともあるし!今更ちょっと抱きしめたくらいで嬉しいわけ・・・いやちょっとは嬉しいが・・・」
イサリアの言葉に反感を抱いたヒロキは、これまで抑えていた反発心もあり食って掛かる。だが、寸前まで感じていた彼女の温もりと甘いような匂いを思い出すと言葉を詰まらせてしまう。華奢なようでいて柔らかいイサリアの身体の感触は彼の男としての本能を呼び起こさせた。
「おい・・・ヒロキ、やめろ!そんなこと言うな・・・」
その後、二人は気まずい静寂に包まれながら降下を続ける。永遠にも感じる時間の後に彼らの靴底は堅く冷たい石の感触を捉えた。穴の底に辿り着いたのだ。
「良く考えたら・・・私達は人目のない地下で二人きりだな・・・」
イサリアは湿り気の帯びたヒロキの手を離すと、自分達の状況を正しく言葉に表した。
「さっきはヒロキが変ことを言うから焦ったが、よく考えてみれば君が愚かなことをするはずがないな!」
前を進むイサリアは後ろを振り返ることなくヒロキに告げる。一時は緊張した空気に包まれた二人だったが、遠くから獣が唸るような音を聞くと、大穴から抜け出して地下の探索を開始していた。
「・・・それは、俺を男として信頼してくれたのかな?」
「ここでそうだと答えるのが最も無難なのだろうが、正確に言えばヒロキを男として信頼したと言うよりは、判断力を信頼したと言うのが正解だな。もしヒロキが男としての本能に従って私に強引な関係を迫っても、私は〝眠り〟か〝麻痺〟を使って君を傷付けずに無力化することが出来る。そうなれば今まで築き上げた私との信頼は全てなくなり、元の世界戻す約束も反故になる可能性がある。ヒロキがそんな愚かなことをするとは思えない。と言うわけだ」
「わかっているなら、そこは、ヒロキを信じていた!とかで済ませてくれよ。俺がイサリアに敵わないのは当たり前なんだしさ!」
「はっきり言うのは私の性格だから、諦めてくれ。それに時間を・・・」
何かを告げようとしたイサリアだが、途中で口を噤んで歩みも止める。ヒロキもその意図を見抜くと聞き耳を立てた。唸り声がまた聞こえたからだ。まずいことにその音は先程よりも大きく感じられた。
「近づいている・・・前からだ・・・」
「そのようだな、このまま進むと接敵するだろう」
「早く戻って、他の横穴に進もう!」
「何を言っている。一方通行の通路を前から来てくれるのだ。後ろから奇襲されるよりずっと楽ではないか。ここで迎え撃とう」
「うう、やはりそう言うと思った・・・」
「わかっているなら口にしなくても良いだろう」
「君と一緒だ!」
「・・・ふん!」
皮肉に鼻息で答えるイサリアの背を見つめながら、ヒロキはポケットから緊急脱出用の水晶を取り出した。イサリアが優秀な魔術士であることは理解しているが、戦闘力については未知数だ。最悪に備えることは忘れなかった。
敵を迎えるに当たって光源である〝灯り〟の魔法はヒロキの杖に移された。付与魔法である〝灯り〟は一度発動させてしまえば最初に設定した時間内は他の魔法によって消されない限り発動し続けるが、戦闘になれば唯一の戦力であるイサリアが照明役となるには相応しくない。その役目は改めてヒロキが務めることになった。
「来るぞ!」
隣に立つイサリアが覚悟を促すように呟く。その声に導かれたように敵の姿が露わになった。
ヒロキはその唸り声から前から現れるモンスターを何かしらの獣だと想定していた。狼か熊の類だ。だが、魔法の光に晒された〝それ〟は想定外の姿をしていた。一言で言えば横に倒した円筒形の肉塊だ。表面は白に近い灰色で前に進む度に身体が内側から蠢動する。前方部分には頭部と思われる器官が存在し、大きく開いた口らしき穴から不快な音とともに粘り気のある液体を吐き出した。加えて床に接する部分には小さな足を無数に生やしている。彼はそれが牛ほどの巨体をした芋虫であり、唸り声の正体であることを理解した。
巨大な芋主への嫌悪感と恐怖で悲鳴を上げそうになるのをヒロキは必死に堪える。そんなことはこの化け物に対して無意味であるからだ。彼は最善の判断としてイサリアに逃亡を呼び掛けようとした。
「・・・レ・・ロージ・・・エクセ・・・」
既にイサリアが唱える詩の一節のような詠唱が通路内に響き渡っていた。翻訳の魔法を掛けられているヒロキにもその意味はわからなかったが、彼女の口から紡ぎ出される言葉と韻には力が込められていると感じる。その直感はまさに現実となり、イサリアの周囲には青白い光を放つ四本の棒が現れた。
「・・・リラ!」
最後の単語を勢いよく唱えたイサリアは手にしていた杖を巨大芋虫に向ける。それを合図に四本の光の棒は涎と思われる液体を撒き散らして迫る肉塊に襲い掛かった。
イサリアが作り出した光の棒、いや矢は狙いを外すことなくヒロキ達に迫っていた芋虫の頭部に突き刺さる。的確に急所を討ち抜く攻撃に化け物は断末魔を叫ぶ代わりのように激しく暴れるが、やがて力尽きて横倒しとなった。気付けば光の矢は跡形もなく消えていた。
「ヒロキ・・・完全に死んでいるか、蹴飛ばして確かめてくれ。涎は踏むなよ!それはおそらく消化液だ」
「・・・なんだって!・・・いや、わかった・・・」
目の前で起った凄惨な現実に唖然としていたヒロキだったが、イサリアの呼び掛けに状況を思い出す。例え死体でも巨大芋虫に近づきたくないし、ましてブーツ越しでも触れたくなかったが、先を進むにはこの化け物の脇を通り抜けなくてはならない。死んだふりをしている可能性もあり安全確認はどうしても必要だった。そしてその役目は消去法で彼となるのだ。
「うう・・・」
泣きたくなる気持ちを我慢して、ヒロキは芋虫の体液を避けて灰色の肉塊をブーツのつま先で蹴飛ばした。だが、気味の悪い感触を彼の足に伝えるのみで巨大な肉塊は何の反応も示さない。
「よし、完全に死んでいるな!・・・気味が悪いから、さっさと通り抜けよう!」
「・・・賛成だ!」
化物の死を確認したヒロキ達は壁を擦るようにして巨大芋虫の死体の脇を通り過ぎる。見た目だけでも薄気味の悪い化物だったが、飛び散った体液の匂いなのか、芋虫の元々の匂いなのか鼻を突くような悪臭にヒロキは逆流しようとする胃の内容物を必死に抑え込まなくてはならなかった。
それでもヒロキは化け物の死骸を見つめながらこれを倒すには、自分の知る武器の中で何が必要かと想定する。刀や槍は論外だ。不可能ではないが、接近戦は反撃をくらうリスクが高すぎる。やはり遠距離から攻撃出来る銃が最適だろう。それも最低でも軍隊で使うようなアザルトライフル、可能ならば対戦車ライフルか手榴弾などの大型の火器が必要だと思われた。そして、この巨大芋虫を倒したイサリアはそれらを持った兵士と同等か、もしくはそれ以上の〝戦力〟を持つということだ。彼女の本当の実力を知ったヒロキは改めて畏敬の念を感じるしかなかった。
「・・・あんなのがここにはうじゃうじゃいるのか・・・」
しばらくして通路を進み小広間と思われる部屋に到達すると、ヒロキはイサリアに問い掛ける。部屋は教室程の広さがあり、前方と左右には同じような通路が続いているが、それ以外には何もなく他の受験生達の課題となりそうな物もなかった。
「いや、うじゃうじゃはいないはずだ。あれは死肉を食べるとされる肉食性の芋虫だが、あんな大型の個体が存在するとは聞かされていない。芋虫に知性が欠片も無いことは明白だが、あの巨体で不意打ちでもされたら致命的なことになっていただろう。生命力も脊椎動物とは比べものにならないだろうし、並のミーレでは危なかったと思う」
「でも、イサリアは簡単に倒していたじゃないか?」
三方の通路に光を向けて先を確認しながらヒロキは問い掛ける。行く先は彼女に決めてもらうだめだ。
「うむ、一気に倒さないと危険だと判断したから、〝魔弾〟を四本も使った。自慢じゃないが、私の〝魔弾〟は魔法抵抗の低い人間なら一本で瀕死に出来るほどの威力を持っている。さっきの化け物はそれほどの相手だったのだ」
「まじか・・・じゃ、逆にイサリアがあいつを倒していなかったら他のミーレ達に被害が出ていたかもしれないのか?!」
「その可能性はあるな。いずれにしても上に戻ったら学院長に抗議をしよう。導師達は事前にミーレが対処するには難しいモンスターを駆除しているはずなのだ。・・・あの芋虫は獲物がいないと繭を張って休眠する性質を持っているから、それで駆除から漏れたのだろうが・・・まあ、今はとりあえず左側に進もう」
行き先を指定しながらイサリアは壁にチョークを使って目印を書き残す。帰途に備えての保険だ。
「確かに抗議すべきだ・・・左だね・・・」
イサリアの考えに賛成を示しつつヒロキは、左側の通路に向かってゆっくりと歩き出す。先程の芋虫の襲撃もあって、狭い通路に向かうには本能的な抵抗感があったが、彼は照明役として先頭を務めなくてはならない。恐怖を必死に抑えた。
「頼むぞ、ヒロキ」
そのヒロキの肩にイサリアは左手を添える。それは何気ない配慮だったが、彼には触れられた肩から勇気を分け与えられるように感じる。大穴でのイザコザはもうどこかに消えていた。
10
「見るからに怪しいんだよな・・・」
「うむ、石像の辺りに何かしらの魔力が込められているのを感じる。おそらくはこれはガーゴイルかゴーレムの類だろう。魔法で疑似生命を与えて命令を遂行させるのだ。あれに手を出したら動き出すに違いない!」
ヒロキとイサリアは部屋の中央に置かれた石像を前にして意見を交わす。
十字路を左に進んだ彼らは、その先に上に続く階段を見つけると目的地である第五層に到達した。だが、その後は課題物の探索に追いやられてしまう。新たな部屋や広間を求めてひたすら地下通路を歩き続けたのだ。幸いにしてモンスターの襲撃こそなかったが、不意打ちを恐れて警戒する彼らは精神を消耗させられていった。
そして空腹を覚えるころ、悪魔を模したような石像が置かれた部屋に辿り着く。その石像の手の上には、彼らの課題物である蛇の置物が手に乗せられていた。発見を喜ぶ二人だが、いかにも動き出しそうな石像を前に彼らは思案を巡らせているのだ。
「・・・まあ、悩んでも仕方ない。回収して直ぐ逃げ出すことも出来るが、他のモンスターと挟み撃ちにされたら厄介だ。動き出したら倒してしまおう!」
「まあ、それしかないな。・・・じゃ、俺が取るから頼むよ!」
常識的な提案にヒロキは軽いストレッチをしながら答える。台座の上に乗せられた石像の手から、課題物をジャンプして掴んだら直ぐに離れる算段だ。蛇の置物はブロンズと思われる金属で作られており、とぐろを巻いて鎌首をもたげる姿を象られている。鱗の凹凸がわかるほど精巧で美術品としても価値がありそうだった。
「うむ、準備は良いぞ・・・ルネ・・・」
「いくよ!」
イサリアの許可とそれに続く魔法の詠唱を確認したヒロキは、軽く助走を付けて飛び上がると石像から目標を奪う。そして着地と同時に距離を取った。後はイサリアが魔法を放って動き出した石像を倒せば終わりのはずだった。先程の巨大芋虫を難無く倒した彼女なら不意打ちでもない限り敗けることはないだろう。
体勢を整えて後ろを振り返ったヒロキは石像の様子を確認する。予想では仮初めの命を宿して襲ってくるはずであったが、石像はその姿を変えることなく佇んでいる。下手に勘繰り過ぎたかと彼はイサリアに対して苦笑を浮かべようとした。
「ヒロキ!それを捨てろ!」
突然、イサリアから険しい警告を受けてヒロキは動揺する。エリザとのやり取りも含めて、ここまで厳しい彼女の声色を聞くのは初めてだった。驚きながらも彼は警告に従い手にしていた蛇のブロンズ像に目を向ける。これまで硬い金属と思われた蛇の姿は滑らかに動き出して彼の身体に噛みつこうとしていた。
「うわ!」
間一髪のタイミングで蛇の牙を避けると、ヒロキはそれを投げ捨てる。慌てていたために蛇はイサリアの近くに落ちた。
「馬鹿!こっちに寄越すな!こ、こいつは破壊するわけにはいかない!魔法を唱え直すから時間を稼いでくれ!」
「わ、わかった!」
攻撃魔法を用意していたイサリアだが、予期していなかった状況に悲鳴に近い声を上げる。その大きさからすれば先程の芋虫の方が遥かに恐ろしい敵と思われたが、試験の目的は目標物の回収である。その目標を魔法で破壊してしまっては合格基準を満たすことは出来ない。ヒロキは背負い袋を肩から降ろすとそれを盾代わりにしてブロンズの蛇へと迫った。
イサリアを襲おうとした蛇は横から近づいたヒロキに首を向ける。二股に割れた舌を出して警戒する様は本物の蛇のようだ。毒まで際限しているかはわからないが、噛まれたくはないのでヒロキは更に背負い袋を前面に押し出す。誘われた蛇は迷うことなく背負い袋に牙を突き立てた。彼はそのまま蛇に噛みつかせたまま、後ろ向きにイサリアから遠ざかる。スマートな方法とは言えないが、頼まれた仕事は果たすことが出来た。
「・・・ユ・・・スレ!」
その間にイサリアは杖を蛇に向けて力強く最後の詠唱を完成させた。〝魔弾〟と違い何が発射されたようには見えなかったが、背負い袋に食い付いていた蛇は鈍い音を立てて床に落ちる。もはやそれは、ただの金属の棒だった。
「もう、大丈夫だ」
警戒を続けるヒロキにイサリアは声を掛けながら棒状になった蛇を拾う。動きを止めた蛇は置物というよりは凝った作りの杖となっている。
「安全なんだね?」
「ああ、これに込められていた疑似生命の魔法を〝破呪〟の魔法で解除したから心配ない。・・・しかし、石像に警戒心を向けさせながら回収物の方に襲わせるとは、なかなか嫌らしいな!」
説明を受けながらヒロキは恐る恐ると蛇杖を受け取る。〝破呪〟とは魔法を打ち破る魔法のことである。魔法文明が発達したこの世界で魔法に対抗するために作られた魔法だ。持続効果のある魔法を打ち消したり、呪いや封印を解除したり多目的に使われる。効果は絶大で要となる魔法だが、解除させるには打ち破る魔法を上回る魔力を込める必要があるため、成功は術者の実力によって左右される。つまり、イサリアの魔力は蛇の置物の掛けられていた魔法を上回ったということだ。
ヒロキも〝破呪〟の魔法について事前に説明はされていたが、先程まで本物のような動きを見せた蛇だけに、認識を直ぐには切り替えることは出来なかった。
「とりあえず、目標達成したのか・・・」
「ああ、そういうことだ!後は地上に戻るだけだ!」
蛇の棒を何度か振り回して動かないことを確認するヒロキにイサリアは告げた。まだ帰りの道中は残っていたが〝飛翔〟を使える彼女にすれば、最初の大穴に戻れば一気に地上へ戻ることが出来る。最大の障害は越えたのだ。
一刻でも早く地上に戻りたい願望はあったが、ヒロキとイサリアはまずは携帯した食料で食事を摂ることにした。地下にいるのではっきりした時間はわからなかったが、腹具合から学院の夕食時刻である午後六時は過ぎていると思われた。何回か休憩を入れたものの彼らは六時間程を歩き続けていた計算になる。しかも帰還中に何が起きるかは未知数だ。この場で体力と気力を回復させる必要があった。
「しかし、あの石像には騙されたな。まさか目的の蛇の置物の方に疑似生命の魔法を掛けていたとは・・・私も一杯食わされた!」
「しかも、下手に攻撃して壊したら失敗になるし!」
石壁に背を預けて座る二人は食事をしながらも、学院側に対する愚痴を吐いた。食べているのはパンの間にベーコンとチーズを挟んだ所謂サンドイッチだ。こちらの世界では単純に〝パン挟み〟と呼ばれていたが、一般的な軽食として定着していた。簡単な食事ながらも空腹ためか美味しく感じられる。
「うむ、少なくとも原型を留めていなければ回収したと認められないだろうからな。〝魔弾〟のような物理的にダメージを与える魔法で破壊して対処するのは悪手だ。おそらくは・・・状況を見定めて最も効果的な魔法を使えるか、といった判断力と咄嗟の対応力を量るつもりだったのだろう。まあ、それでもいかにも動きそうな石像に持たせて配置するあたり、かなり捻くれておるな!こんなことを考えるのは導師シャルレーに違いない!」
「確かにあの人なら・・・やりそうだな」
ヒロキは背負い袋に斜めに入れた蛇の棒に視線を送る。長いので頭にあたる部分がはみ出てしまっているが、丸みを帯びた造形の中にも危険な気配を持つ蛇と妖艶な美女であるシャルレーは確かにイメージが重なると思われた。
「・・・・でもイサリアは上手く対処したじゃないか!」
デザート代わりに持って来ていたリンゴをイサリアに渡しながらヒロキは彼女を褒める。シャルレーは警戒しなくてはならない人物ではあったが、今は帰りの英気を養うために食事の方が重要だ。彼は早速、自分の分のリンゴを丸かじりする。思っていたより甘味は少なく酸味も強いが、疲れた身体には丁度良かった。
「うむ、その辺は抜かりないさ!・・・なかなか豪快な食べ方だな、ヒロキ。リンゴは皮ごと食べられるのか・・・」
「うん、むしろ皮の方に、ポリなんとかって栄養があるらしい・・・。持って来る前にちゃんと水で洗ったから皮ごと食べられるよ」
「そう言えば、こういった食べ物や薬学に対する関する研究はヒロキの世界の方が進んでいるのだったな。私もそうやって食べてみるか・・・」
イサリアは渡されたリンゴに小さな口を当てる。その姿はリスかウサギのように愛らしい。もっとも彼女は本物のお嬢様だ。リンゴを皮ごと食べるのは初めてだったに違いない。
「・・・思った以上に酸っぱいな・・・」
「それは皮とは関係なく、果肉に含まれているクエン酸とかビタミン等のせいかな。たしか疲労回復の効果があるはずだ」
「なるほど、そのような成分がリンゴに含まれているのか・・・ひょっとしてヒロキは今私達が疲れていること予見してリンゴを持って来たのか?」
「・・・そこまで深くは考えていなかったけど、パンと肉とチーズだけでは栄養バランスが悪いと思ったから、リンゴも食堂の厨房からもらってきたんだ」
「そうか、ヒロキは無意識レベルでそのような知識を活用しているのだな。魔法が存在しないと世界と聞いて当初は驚きもしたが、やはりヒロキの世界は侮れないな」
「そうなのかな・・・まあ俺も日本の教育は受験対策で中身が無いとか聞かされていたけど、こっちに来て結構役に立つことが多いんで、実はそれなりにしっかりしていたんだと思い直しているよ」
「うむ、私も魔法以外の学問も重要だと思うきっかけとなった。この世界は魔法に頼り過ぎているともな」
「それは良かった。リンゴを食べ終わって、もう少ししたら出発しよう」
「ああ、この手の話は戻ってからまたゆっくり語ろう!」
根本的には異なりながらもどこか類似した文化に育った二人にとって、語り合う話題は尽きなかったが、ヒロキの提案にイサリアは同意する。まずは安全を確保する。それは如何なる人間であろうとも最優先にすべき課題だった。
11
「こっちだな」
ヒロキはイサリアの案内に従って地下通路を辿っていた。課題物を見つけるために第五層を縦横無尽に探索し続けた彼らだったが、ただやみくもに歩いていたわけではなく、要所にはチョークを使って目印を残している。その役目はイサリアが担当していたので、彼女が大穴までの最短ルートを見つけてくれるはずだった。気になることがあるとすれば、再び死骸となった巨大芋虫の脇を通らねばならないということだろう。
「ヒロキ・・・少し問題が発生した・・・」
「・・・何かの気配を感じた?!」
何度目かの十字路に辿り着いたところでイサリアが警告を発する。これまでにないほど緊張した声だ。ヒロキは照らし出される光源の先を見逃さないようにしながら、自分でも脅威の存在を感じようとする。
「いや・・・そうではない・・・どうやら道に迷ったようだ・・・」
「まじか!目印を付けていたんじゃないの?!」
「付けてはいたのだが・・・どこかで見逃したか、見間違えたらしい・・・済まない」
「なんでそんな!・・・いや、そうかイサリアでも失敗することがあるのか、ふふふ」
当初は非難の気持ちを覚えたヒロキだが、常に自信溢れる態度のイサリアが自ら謝罪を口にしたことによる違和感から苦笑を浮かべてしまう。彼女にも申し訳ないと思う概念があったのだ。
「そんなに笑うことはないだろう!私も人の子だ。年に一回くらいは失敗もする!」
「いや、失敗を笑ったわけじゃない。イサリアでも他人に頭を下げることがあるんだなってさ!」
「明らかに自分の過失の場合は謝るさ、目印は私の役目だったからな・・・。とは言え、ヒロキが感情的になって無意味な責任追及をしないでくれるのは助かる。とりあえず、先程の十字路まで戻ろうか」
「そうしよう」
賛成を示してヒロキは身体の向きを変える。引き返すのは精神的な疲労を感じさせるが、今歩んでいる通路はまったく新しいルートというわけであり、学院側が用意した試練やモンスターと遭遇する可能性が高くなる。リスクを考えると戻るのが正解だ。
「待った・・・」
「どうし・・・」
戻ろうとするヒロキをイサリアが呼び止める。理由を聞こうとした彼も鼓膜を震わせる微かな音を感じると、口を閉じて耳を澄ませた。左側に続く通路の先から、壁か床を叩いているような乾いた打撃音が聞こえてくる。独特なリズムを保っていることから何かしらの知性が関与しているに違いない。芋虫には出来ない芸当だ。
「助けを求める合図だ」
「みたいだね・・・」
おそらくはこの世界でのモールス信号のようなものだろうとヒロキは理解する。リズムごとに文字の意味を持たし、それを組み合わせて鳴らすなり今回のように叩くなりして音を出せば、離れた場所にもメッセージを送ることが出来る。もっとも、今はミゴール昇格試験の最中である。リズムの意味がわからなくても他の受験生が助けを求めているのだろうと察することが出来た。
「・・・どうする?」
念のためにヒロキはイサリアに問い掛ける。この状況で助けを無視するわけにはいかないが、パートナーの同意なしに動くことは出来ない。またこれが学院側の用意した試練である可能性もあった。
「もちろん確認しに行かねばなるまい。試験の攻略に協力する気はないが、助けを求められればそれはまた別だ!」
イサリアの判断に従いヒロキは音が伝わる通路に向かって歩き出す。しばらくして通路は上下に繋がる階段を持つ広間に辿り着いた。上に向かう新たなルートを見つけたわけだが、リズム音は階下の第六層から響いている。ヒロキ達は警戒を続けながら下に向かって階段を降りて行った。
「どうやらこの先が音の発生源のようだ・・・中に入るが覚悟はいいか?」
「うん」
第六層に降りた彼らは順調に音源と思われる部屋を突きとめると改めて確認し合う。助けを求められてはいるが、状況は不明だ。最悪の事態の備える必要がある。ヒロキはイサリアに頷くと扉のない部屋への突入を開始した。
「ああ、誰か・・・助けて!」
警戒して部屋に侵入したヒロキは擦れた女性の声に迎えられる。彼が照らし出す魔法の灯かりに反応したのだ。
「クロリス!クロリスではないか?!」
ヒロキが部屋の片隅でうつ伏せになって倒れる人影を見つける前にイサリアが声を上げた。
「ああ!イサリア!お願い助けて!エリザが!エリザが!」
「待て!落ち着け!まずはクロリス自身の治療からだ!ヒロキ!回りを警戒してくれ!」
「・・・わかった!」
弱々しく顔上げた人物がクロリスで、その顔に赤黒い液体が付着していることにヒロキは二重の衝撃を覚えるが、イサリアの指摘を受けると部屋の内部とそこに繋がる通路に視線を向ける。クロリスに何が起ったのかは不明だが、今の状況でモンスターに襲われれば面倒なことになるのは間違いない。それに備える必要があった。
「二人で探索していたが、突然何者かに襲われて気絶。しばらくして意識を取り戻したが、その時にはエリザはいなくなっており、頭部の怪我で満足に動けず、短剣で床を叩いて助けを呼んでいたのだな?」
クロリスに治癒魔法を授けたイサリアは彼女の説明を簡潔にまとめ上げると確認を行う。幸いにしてクロリスの怪我は出血の割の浅く、傷は直ぐに修復された。もっとも、頭部へのダメージなので手当てが遅れていたら取り返しがつかないことになっていたかもしれない。
「そう・・・どれだけ意識を失っていたかはわからないけど、襲われるまではエリザと一緒だったから、彼女だけ連れ去れたのだと思う・・・」
「なるほど。クロリスは襲った敵を見たのか?」
「いいえ・・・。完全に不意を突かれたから見ていないの・・・でも気配からして人間だったと思う・・・それも只者ではないかと・・・でなければ私達が不意打ちを受けるわけないわ・・・」
「・・・それが事実ならこの地下迷宮に悪意を持った第三者が紛れていることになるな・・・。信じられないことだが、連れ去れたのがエリザとなるとあり得ないことでないか・・・」
「まさか・・・以前にもクロリスさんが心配していた例の件?」
周囲の警戒を続けながらもヒロキはイサリアへ問い掛ける。クロリス達に起った状況は判明しつつあったが、なぜエリザが攫われたのかは理解出来なかったからだ。
「うむ、そうだ。あれから私も気になって家にそれとなく手紙で聞き出したのだが、やはりバルゲン家は今、世継ぎ争いで揉めているらしい。この国では女子にも家長になる権利がある。彼女に何かあればバルゲン家内の序列は大きく変わることになる。皇帝位が公家の持ち回りであることはヒロキにも説明したろう。これにはある程度のパターンがあって、リゼート家の後は反動とも言える現象でバルゲン家が襲う可能性がかなり高いのだ。それ故に次代のバルゲン家の当主となる者は将来の有力な皇帝候補となる」
「え!・・・エリザさんって将来の皇帝候補だったの?」
「ああ、そうだ。我がリゼート家は今の代で皇帝を出してしまったからな。私よりも遙かに可能性が高いぞ」
「まじか!エリザさんってそんなにすごい人だったのか!・・・それにイサリアも低いとは言え可能性があるのか・・・いや、今は・・・それじゃ彼女はお家騒動に巻き込まれたってこと?!」
イサリアから明かされた事実に驚くヒロキだったが、優先順位を思い出して話を戻す。
「・・・私はその可能性が高いのではと思う。だが、他の家の妨害である可能性も否定できない・・・。バルゲン家が弱体化すれば、他の家の力が相対的に上がるからな。ただ、このように他家の人間に直接危害を与える方法は先の内乱もあってこれまで忌避にされてきた。歯止めが効かなくなるからな・・・」
「なら、直ぐに導師達に報せた方が良いんじゃないの?!」
「うむ、だがそれには水晶を割るしかない・・・。第三者の存在はあくまでも私の想像だ。エリザに悪意を持つ試験参加中のエーレの仕業かもしれないし、エリザがパニックを起こしたか、なんらかの理由で自分からこの場を離れた可能性を否定できない以上、その選択はまだ早いと思う・・・」
「いざとなったら私が水晶を割るわ!だから、手掛かりを掴むまでエリザを探すのを手伝って!お願い!」
「・・・もちろん、手を貸そう!」
クロリスに懇願されたイサリアは当然とばかりに頷く。普段は喧嘩ばかりする彼女とエリザだったが、やはり二人は奇妙な信頼関係で結ばれていたようだ。第三者の関与が疑われる以上、試験を続行して上に戻るようなことはしなかった。
「済まんな、ヒロキにも付き合ってもらうぞ!」
「大丈夫。・・・俺も付き合うよ!」
ヒロキも異存はなく同意する。さすがにこの状況で反対を唱えるほど彼も臆病ではない。特にエリザのような美人を助けるためなら尚更だ。もっとも、それは胸の奥に潜める。イサリアが本気で怒る予感がしたからだ。
「そういうことか・・・」
「先程も言ったがあくまでも私の見解の一つだけどな。・・・貴族の当主ともなれば、ある程度の魔法力と帝国への実績を求められる。明確に定められてはいないが、帝国士官として最低でも一期五年を務めなくてはならない。五大公家の当主なら二期十年は欲しいところだ。だから当主を目指すならミゴール昇格とその後の任官は避けて通れない。エリザが攫われたのはミゴール昇格への妨害だろう。制限時間まで地下のどこかに監禁するのだ。誰が犯人にせよエリザをころ・・・物理的に消してしまっては大きな禍根が残る。だが、試験の妨害ならば致命的な対立や抗争は控えられるし、ミゴールに昇格しなくてはその先の任官もないからな。エリザが試験中に姿を消したのは、こういった裏事情なのではないかと思う・・・」
「物理的に消すって・・・いや、昇格試験は来年も受けられるんだろう?毎年邪魔をする気のなのか?」
「もちろん、ここまでする者がその可能性を配慮していないわけがない。これは警告も兼ねているのだろう。ミゴールの昇格を諦めないならば、次は・・・ということだ」
「まじか・・・やはり貴族ってのは、どこでもやばいな・・・。イサリアのリゼート家もこんなにドロドロしているのか?」
「まさか!リゼート家の当主選定はこんなことにはならない。資格のある者同士での決闘で選定するからな。リゼート家の家訓は〝炎の如く素早く〟だ!」
「・・・脳筋な一族だな・・・」
照明役として先頭を歩むヒロキはイサリアの説明に対して小さく本音を呟く。
彼らとクロリスは姿を消したエリザの捜索を開始していた。広大な地下迷宮の中で彼女の存在を探し当てるのは難しい仕事に思えたが、この世界には魔法が存在する。エリザのパートナーであるクロリスがエリザの持ち物である髪留めについて詳しい形を覚えていたため、そのありかを探し出す〝探知〟の魔法で方向を知ることが出来た。その導きに従いヒロキ達は地下を歩んでいる。
本来なら会話を避けて慎重に進むのが正しいのだろうが、ヒロキとイサリアはエリザ失踪の原因を解明しようと意見を交わす。第三者との対決も予想されるだけに、その背景を掴んでおく必要があった。
「聞こえているぞ、ヒロキ。ノウキンの意味はわからないが、我がリゼート家が侮辱されているような気がするな」
「心に思った言葉を口にしただけだ・・・褒めてはいないが馬鹿にはしていない。それより、もしその推測が正しくならエリザさんを攫った奴、もしくは奴らをどうする?」
イサリアの疑念を軽くあしらいながらヒロキは本題に戻る。これまでの会話はこれを問うための布石のようなものだった。
「うむ・・・普通にエリザを解放するよう要求する。よほど馬鹿でない限り他のミーレに発覚した時点で手を引くだろう。まして、私はリゼートだ。リゼート家を軽い気持ちで敵に回す者はいない。それにエリザを攫った時点で脅しは成立している。あの負けず嫌いがどう判断するかは不明だが、今回の昇格試験での妨害はそこで終了となるだろう」
「まあ、そうだよな・・・」
「もっとも、敵の品性に期待するわけにはいかないぞ。証拠隠滅とばかりの私達に襲ってくる可能性もある。その時は戦うしかないな!」
戦いへの覚悟を口にするイサリアにヒロキは頼もしさと同時に不安を覚えた。彼女の言葉は正論ではあったが、あの〝魔弾〟が人間に放たれると思うと恐ろしさが湧いてくる。彼女は決して残忍な人間ではないが、中途半端なことをするはずがない。なんとか人間同士の戦いにならないことを祈るしかなかった。場合によっては自分が敵かイサリアを説得する必要が出て来るだろう。
「エリザを助けたいけど・・・人間同士で戦うのは出来るだけ避けたいな・・・」
それまで聞き役となっていたクロリスが会話に加わる。彼女も魔術士で帝国士官を目指すミーレではあるが、考え方はヒロキに近いようだ。エリザの安否は大事だが、それによって戦いなることは望んでいないのだ。
「うむ、そもそもエリザが失踪した理由はまだ不確かだ。念のために最悪の事態を想定しただけに過ぎない」
「うん、そうだね・・・。でもさっきから話を聞いていると、イサリアとヒロキ君はすごく仲がいいね。実は二人は付き合っているとか?」
クロリスから問い掛けられる質問にヒロキはドキリとする。男女としてイサリアと付き合っているつもりはなかったが、他人からはそう見えるのかもしれない。頭の中で自分達の関係に相応しい言葉を探すが、どうも思いつかない。契約者か・・・協力者か・・・友人か・・・彼はイサリアがなんて答えるのか気になった。
「・・・クロリスからはそう見えるのか?!私達は・・・いや!今は私達のことよりエリザだ!今一度〝探知〟を頼む!移動している可能性もあるからな!」
「うん、ごめん。ちょっと気になっただけだから・・・」
それは急な話題の切り替えではあったが、クロリスも状況を思い出したのだろう。自分の杖を胸に当てて呪文を唱える。
「やっぱり、この先からエリザの気配を感じる。あの髪留めは私がエリザにプレゼントした物だから間違えるはずないわ!」
「わかった。ではこれからは改めて慎重に進むとしよう!」
先程の質問の答えは気にはなったが、第三者への対応がはっきりしたこともありヒロキはイサリアの指示に頷いた。今この場で最優先すべきはエリザの安否で間違いない。
12
「これは・・・」
イサリアが口澱んだ意味をヒロキは理解した。何しろその横穴の先は、これまで磨き上げられた石材によって構成されていた地下通路とは違い、岩盤を削ったような荒々しい岩肌が剥き出しの天然洞窟となっていたからだ。
「エリザはこの先に・・・」
導き役の本人のクロリスも部屋に開いた穴から洞窟の先を見つめながら声を細める。この中に足を踏み入れるに本能的な抵抗を覚えたのだろう。
同じ地下とはいえ、人間の手が加えられた石壁の空間と天然の洞窟とでは心理的な圧迫感がまるで違う。洞窟の先を照らし出しているヒロキも天井が崩れるのではないかと、不安から上ばかりを見つめてしまう。
「・・・外側に向かって石壁が崩されている。誰かが意図的に洞窟側への入口を作ったようだな。それも最近だ」
ヒロキ達が洞窟に対して嫌悪を覚えている間にイサリアは自身の見聞を口にする。彼女の言う通り、石壁の残骸と思われる石材が洞窟に向かって散らばっていた。その状態から、この横穴が最近になって作られたことが確認出来る。
「ここから、エリザさんを攫った犯人が入って来たってこと?」
「いや、違う。いつものヒロキらしくないな。・・・外から壁を開けようとして、外側に残骸が崩れるわけがない。崩れるなら反対側だ。これはこちら側から開けたのだ。おそらくは学院が管理している地下迷宮の範囲から逃れるためだろう。ここから先は学院にとって想定外の空間だ。何かをするにはその方が都合良い。これを開けた者は予め地下に隣接する洞窟のことを知っていたのだろう」
「なるほど・・・。その何かって何?」
勘違いを指摘されたヒロキだが、納得しながら話を促す。話の主軸を見抜くのは彼の長所だ。
「・・・例えば魔法儀式よ。この迷宮内は学院の管理化にあるから、あまりに強力な魔力を行使すれば上で控えている導師達に気付かれてしまう。ミーレが使うには過分な魔力を感じれば、導師達も不審に思うに決まっている・・・ここまでして行う魔法儀式・・・エリザを代償に・・・ああ!彼女の身が心配だわ!」
「それって・・・まさか・・・生贄の儀式ってこと?!」
イサリアに代わってややヒステリー気味に答えるクロリスの言葉に、ヒロキは具体的な脅威を告げる。この世界では個人が持つ魔力で賄えない魔法を行使する際に、身代わりとも言える代償を用意する場合があると彼は聞かされている。実際、自分がイサリアにこの世界に呼び出された召喚魔法もその方法を使って実施されていた。この場合は高価な魔鉱石と呼ばれる魔力を帯びた鉱石が大量に使われたらしいが、もっと安価な代償も存在する。それが生贄だ。
生きた動物を儀式に則って殺害することで、その生命力を魔力に変換することが可能らしい。更に人間を使えばその生贄にされる人間が持つ魔力と生命力が合わさって膨大な魔力を捻出できるとのことだった。以前、学院長がイサリアをきつく問い詰めたのもこういった事情があったからだ。
「そうだ。その可能性は否定できない・・・エリザの才能からすれば代償としての価値は非常に高い。まさかとは思うが・・・」
「わかった!急ごう!」
最悪の可能性をイサリアも認めたことで、ヒロキはと率先して洞窟内に歩み出す。未知の場所への恐怖はあったが、親友の安否に怯えるクロリスの強張った顔を見ると、自分が男であることを自覚せざるを得なかった。
洞窟内部に侵入したヒロキ達はしばらくして、小川のように流れる地下水脈に遭遇する。そこで改めて確認を行い、エリザの反応を示す下流に進路を取る。おそらくはこの洞窟は地下水脈が長い年月を掛けて作り上げた空間なのだろう。水は極めて清潔でそのまま飲料水としても利用出来そうだが、洞窟内の肌寒い気温からすると水温はかなり低いと思われた。そのため彼らは洞窟の中央を流れる水脈を避けて、足を濡らさないよう細心の注意を心掛けた。
「前方に光が見える」
先頭を歩くヒロキはイサリア達に報告を行う。青白く輝く点は彼が照らしている魔法の光とは間違いなく別の光源だ。
「そのようだ・・・それにここより先は人の手が加えられた跡がある」
イサリアの指摘どおり光に続く通路は地下水脈とは別の方向に続いていた。どうやったか知れないが表面が粘土のように滑らかになっている。
「・・・泥状に変換した後に再硬化させたのだ。前方からは殆ど魔力を感じない、罠等はないはずだ。この機会に一気に突入しよう。クロリスもいいな?!」
「ああ!」
「うん・・・」
イサリアの提案にヒロキとクロリスは承諾を返す。魔法を使った土木作業技術はともかく、前方の光源にエリザが捕らわれているか、少なくても何らかの手掛かりがあるのは間違いないと思われた。敵の存在は不明だが、魔法の脅威を感じないのならばこちらから不意を突くのは有効な作戦だろう。ヒロキは先鋒として早足気味に光源へと接近を開始した。
ヒロキ達の予測は直ぐに確証に変った。前方の光源、広間と思わしき空間に突入した彼らは地面に横たわっている銀髪の女性を発見したからだ。敵の存在も想定していたが、幸いにしてエリザと思われる女性以外の人影は見られない。
「エリザか!」
おそらくはエリザの物なのだろう。床に投げ出された杖を光源とする淡い光の中でイサリアは銀髪の女性に呼び掛ける。その声に反応して女性は顔を上げるが、銀色の髪に隠された顔には猿轡が噛まされていて、手足は縄で自由が奪われていることがわかった。それでも整った顔付きとサファイアのように青い瞳からエリザ本人であることが確認出来る。
「待て、今それを外してやる!そんなに叫んでも意味がないぞ!涎を垂らすだけだ!ヒロキも手伝ってくれ!」
イサリアの姿を認識したエリザは激しく声を上げようとするが、当然のことながら猿轡によってその声は醜い呻き声にしか聞こえない。状況としては酷い有様だがライバルの滑稽な様子にイサリアは苦笑を漏らす。もっとも、エリザには暴れるだけの体力があるという証拠でもあった。
助けを頼まれたヒロキはエリザの後ろに回り込んで彼女の猿轡を外そうと結び目を解こうとするが、その間にも彼女はイサリアとヒロキに血走った視線を送って狂ったように喚き立てている。彼は何とか湿り気を帯びた猿轡を外してエリザの顔を露わにさせた。次は手足の縛めだが、こちらは腰の短剣で切断した方が早いと思われた。本来は儀礼的な装飾品であり、滅多なことで抜くなと言われた短剣だが、この状況で文句を言う者はいないだろう。
「ク・・・ゲホッ!クロリ・・・クロリスよ!彼女に!」
「大丈夫だ、心配ない。クロリスもここに来ている」
咳と涎を撒き散らしながらエリザが必死に訴え掛けるので、ヒロキは彼女の手足の縛めを切るのに手間取る。手元を誤ると彼女の身体を傷つけてしまうからだ。この時彼はイサリアと同様にエリザが親友の安否を気に掛けているのだろうと思っていた。
「違う!クロリスに・・・」
再度訴え掛けようとするエリザだが、イサリアがその場に崩れ落ちるように倒れると言葉を飲み込んだ。
ヒロキも倒れる物音を聞くと縄を切る作業を中断し、何事かと顔を上げる。その視界に力なく倒れているイサリアの姿を捉えるが、何が起きたのかは理解出来なかった。それでも一瞬の驚きを乗り越えるとイサリアを助けるべく立ち上がろうとした。
「イサリア!」
「ヒロキ君・・・エリザから離れて!杖には手を掛けたらイサリアの命はないわよ!」
これまで暗闇の奥にいたクロリスが姿を現しながらヒロキに警告を発する。光源を宿している杖は作業の邪魔にならないように床に置いており、手から放していた。エリザの物と合わせて下から放たれる光の影響ためだろうか、クロリスの顔は冷たく険しく見える。杖を構えてこちらを静かに見つめる姿はまるで初めて見る人物のようだった。
13
「・・・クロリス・・・君がエリザを襲った犯人だったんだな?」
ヒロキはクロリスの要求どおりにエリザから離れながらも問い掛ける。
その質問を口にするまでヒロキの頭は急激に思考を開始し、次々と考えを浮かび上がらせていた。意識を失って倒れてはいるが、イサリアは無事らしいこと。エリザが伝えようとした言葉の意味。クロリスの表情から彼女のこれまでの朗らかで争いを好まない性格はこの時のための演技であり、エリザ誘拐は彼女の自作自演であるに違いないこと。そして最終的に、今は下手に逆らうよりも大人しくするべきだと判断を下した。それでも、ヒロキは離れ際にエリザの手に短剣を渡すのを忘れない。彼女が自由を取り戻せば状況を変えられる可能性があるからだ。杖については指摘されるまでもなかった。この世界において杖は魔法を扱うための重要な補助器具らしいが、ヒロキに魔法を扱う才能はない。危険を冒してまで拾う意味はなかった。
「もちろんそう・・・ラ・・・イクス・・・」
クロリスはヒロキの問いに答えると、呪文を唱えて杖を床に倒れるエリザに向ける。それを受けたエリザは急に力が切れたように頭を垂れた。
「エリザさん!」
「大丈夫、殺していないわ・・・今はね・・・」
驚くヒロキの心中を覗いたようにクロリスは笑みを浮かべて呟く。微かに聞こえる寝息からエリザが殺されたわけではないことは彼にも確認出来たが、これで早くもエリザによる助けは期待出来なくなり、唯一の武器である短剣も手元から失った。
「・・・なんで、イサリアまで巻き込んだ!?エリザさ・・・エリザをバルゲン家の当主にさせないだけならイサリアは関係ないだろう?!」
「それはあなた達の推測でしょう?もっとも、そう思わせるように私が仕組んだのだけど・・・。私の狙いはエリザだけでなく、イサリアを含めた二人の身柄よ!あなたも十五年前の帝国を二つに別けた内乱については知っているでしょう?!その結果、当時皇位にあったルキノス家と同盟関係にあったメディル家は弾劾され、主だった一族の者は命を落とし、辛うじて生き残った者達も帝国から追われて西の辺境に逃げるしかなかった。あの戦いで反ルキノスの中心となったのはリゼート家とバルゲン家、彼らに復讐を行うのは私の正当な権利なのよ!」
「・・・なんだって!」
自分の問い掛けに告白にも似た情念で語るクロリスに、ヒロキは驚きだけでなく居心地の悪さも感じる。おそらく彼女の語る内乱とその顛末は帝国の人間なら誰でも知っている事実なのだろうが、異世界の人間である彼には断片的に聞かされているに過ぎない。いきなり、何とか家と言われても因果関係を理解することが出来なかった。わかったのは彼女が内乱で敗けた側の人間らしいということだけだ。
「理解出来たかしら?・・・あなたの家は最近リゼート家の後援者となったらしいわね?いずれこの国には再びルキノス家の新しい皇帝が現れるわ。・・・乗り換えるなら今の内だと思わない?」
「俺・・・いや、俺の家に仲間になれと?」
完全な理解は出来ていないが、それが遠回しな誘いであることに気付くとヒロキは会話の種として問い掛ける。クロリスの背景を知るにはもっと情報が必要だった。彼女はイサリアと学院長がでっち上げたヒロキが地方有力者の子弟であるという設定を信じているのだろう。彼はそれを利用した。
「ええ、そう。・・・私達はこの国に再び内乱を起こさせる。リゼートとバルゲンとの戦いをね。それによって、この国の民も大貴族による合議制がもはや時代遅れの統治方法であることを思い知ることになるでしょう。そして辺境で力を蓄えているルキノス家が再びベルゼート帝国の絶対君主として返り咲くの!肥大化したこの国には中央集権化した統治体系が必要なのよ・・・どう?今の段階で私達に付いた方が利口な判断ではなくて?」
「なるほど・・・そういうことか・・・クロリス、君はそのルキノス家の者だったんだな?」
熱を帯びるクロリスの説明にヒロキは納得を示す。彼女の話は前提が多いものの計画としてはそれなりに筋が通っていた。少なくてもイサリアとエリザに敵意を持つ理由が判明した。
「ヒロキ君は・・・もっと歴史の勉強をするべきね。ルキノスの一族で死を逃れたのは三男のゼルストンだけ。私はそのゼルストンの生まれついての許嫁だったメディル家の次女よ。あの内乱でルキノス家が敗れていなければ、今頃私は皇族として何不自由なく暮らしていたでしょうね!」
「むう・・・」
クロリスの指摘にヒロキは呻き声を漏らす。もちろん勉強不足を指摘されたからではない。彼女の強烈な悪意もしくは負の感情に当てられたからだ。彼女をここまで駆り立てた要因の本流は間違いなくこの国の権力争いにあると思われたが、最後の説明にはイサリアとエリザに対する私怨が含まれていたからだ。かつては大貴族の家柄だった彼女は内乱の敗北で全てを失ったに違いない。詳しくは知る由もないが、おそらくは正体を隠して細々と暮らしていたのだろう。同じ大貴族に生まれながらも勝利者として何不自由なく育ったイサリアとエリザ、かたや敗者として生きて来たクロリスである。彼女はイサリアとエルザに対して家系への恨みだけでなく、個人的な嫉妬かそれ以上の敵意を胸に抱いているのだ。
「どう?このままリゼートに付いても破滅するだけよ。悪いようにはしない・・・返事を聞かせてくれるかしら?」
「それは・・・」
選択を突きつけられたヒロキは言葉に詰まる。彼にはこの国のイデオロギーや政権争いへの関心はない。元々この世界の人間でもないし、そうでなくとも政治情勢に首を突っ込もうなどと言う大それた考えも能力もなかった。思いがけない展開に状況を把握するのがやっとである。クロリスも彼の正体を知っていたら、こんな勧誘はしなかっただろう。
正直に告白すれば、ヒロキにとって最大の関心事は自分の命である。その本能的な欲求に従って彼は例の水晶を使ってこの場から脱出しようと思いつくが、辛うじてその選択を抑えた。冷たい床に倒れるイサリアとエリザの姿に、彼はこの世界に召喚された一週間の出来事を思い出したのだ。それはイサリアに振り回された自分の姿であったが、何かが満たされる楽しくも甘酸っぱい記憶だった。
「・・・俺にも家に対する責任がある・・・そんな重大なことをあっさりとは決められない。それにリゼート家とバルゲン家が本気で対立するとは限らないだろう?」
「ふふふ、私達はこの日のために準備をしてきたのよ。数々の偽情報を流して揺さぶりを掛けていた・・・」
自分の身の安全と、イサリア達の安否、そして男としてのプライドの狭間で揺れ動きながらもヒロキは時間稼ぎとして会話を続ける。自分にクロリスに対抗する力や手段がないのは理解していたが、イサリア達に激しい憎悪を抱いている彼女の下に二人を、イサリアをこのままにして逃げるわけにはいかない。ヒロキはこの場に残る覚悟を決めた。そして幸いにもクロリスはその誘いに乗る。絶対的有利な立場による奢りか、またはこれまで被り続けていた仮面を脱いだことによる解放感からかもしれなかった。
「・・・それに私がエリザとイサリア、二人の共通の友人となって彼女達の喧嘩をどれだけ煽っていたと思っているの?私はね最初イサリアと仲良くなってから、その後にエリザの取り巻きになったのよ。元々エリザとは同期だから、何も不自然なことではないしね。心配だったのは、その後イサリアが心を閉ざしたように親しい友達を作らなくなったことだけど、あなたと昇格試験を受けてくれたからほっとしているわ。何しろこの二人を同時に罠に嵌める機会はこの試験中にしかないからね。・・・あなたもイサリアの性格は知っているでしょう。この子は魔術士としては優秀だけど、常識に外れたところがある。禁じられた魔法を独学で覚えたりするほどね。そんなイサリアが、ライバルの家柄で個人的にも恨みを持っているエリザを生贄に魔法儀式を行う。ありえそうじゃない?何しろ昇格試験は稀とは言え、死者が出ることもある。絶好の機会じゃないかしら?そしてこれが、事実として発覚すればリゼート家とバルゲン家の対立はこれまでの比ではなくなるでしょうね!」
「・・・イサリアとエリザはああ見えて、お互いを認め合っていた!それにイサリアは少し・・・いやかなり傲慢なところはあるが、頭がおかしいわけじゃない!」
「それを知っているのは・・・当の本人達を除くと私とあなたくらいでしょうね。周りから見たらいつも喧嘩ばかりしている犬猿の二人だわ。そして、イサリアは高度な魔法儀式の失敗で命を落とし・・・遺体で発見される。二人の友人だった私の証言だけでも充分だけど、証言者が増えればより信憑性が増すでしょう。・・・ここで人生を終えるのも、未来の皇族の覚えを良くして栄達を選ぶのもあなたの自由よ。さあ、選んで頂戴!」
「・・・まじかよ・・・」
反論を試みたヒロキではあったが、最後に活き活きと選択を突きつけるクロリスの言葉に彼は吐き気を感じていた。これほどまで用意周到で卑劣な思惑が潜んでいると思わなかったからだ。それと同時に、なぜイサリアが頑なにミゴール昇格試験を自分の力のみで突破しようとし、異なる世界から協力者を呼び出そうとした根本的な原因を理解した。おそらくは彼女は閉ざされた社会である学院の外に新たな出会いを求めたのだろう。凡人ならば他の手を考えるのだろうが、イサリアは魔術士として己の才能に賭けた。そしてヒロキは奇妙な運命に導かれて彼女の下に召喚されたのだ。
万能にも思えるイサリアにもそのような切ない過去があったことを知ったヒロキは、クロリスの足元に倒れる彼女に視線を送る。返事は既に決まっていた。これまで認めないようにしていたが、彼は女性としてイサリアが好きだった。これは美人に憧れる一時の迷いである可能性はあったが、彼女を犠牲にして生き延びたとしても一生悔やみ続けることになるだろう。最後に彼女の顔を目に焼き付けようとヒロキは床に視線を落とした。
「・・・!」
寸前のところでヒロキは上げそうになった声を飲み込む。気絶していると思われたイサリアが目を見開いてこちらを凝視していたからだ。クロリス側からは死角になっており、この事実に気付いているのは彼だけだ。いつから意識を取り戻していたのかは不明だが、括目させた赤い瞳が『やっと気付いたか!』と語っているように見えた。
「・・・わかった。クロリスに協力する。勝ち馬に乗れる機会を逃すのは愚かだしな」
一瞬前までどこにもなかった考えだが、ヒロキはイサリアの意図を見抜くとその言葉を口にする。彼女はクロリスの隙を突いて反撃の機会を狙っているのだ。視線を下に集中しないように細心の注意を持ってイサリアに目を向けると『それで良い!』とばかりに軽い笑みを浮かべていた。裏切ったフリをして時間稼ぎを続けるのは正解のようだ。
「あら・・・意外ね。ダメ元で誘って見たのだけど、ヒロキ君も見た目どおりの性格じゃなかったってところかしら?」
「・・・誰でもある程度は猫を被っているものだろう。正直、イサリアにはずっと振り回されていたんだ。美人で家のこともあって我慢をしていたが、いつかそのツケを返してもらおうと思っていた。まさかこんなに早くやってくるとは思わなかったけどな」
クロリスの問いヒロキは目いっぱい嫌な奴をイメージして調子を合わせる。ある程度の本音を含ませることで棒読みになるのを防いだ。イサリアは相変わらず含みのある視線をヒロキに送っているが、今回は読み取れなかった。
「なんなら、ここで返してもらったらどう?・・・そうよ!ヒロキ君、この場でイサリアを好きしていわよ!そうしたら、仲間として認めてあげるわ。イサリアも死ぬ前に思い出が出来て良いのではかしら!ふふふ」
「・・・そ、そうだな。でも寝ているんじゃつまらないな。どうせなら、イサリアが泣いて抵抗するところが見たかったな!」
「残念だけど〝眠り〟を使ったから数時間は起きないわ。しかし・・・どう反応するか見極めるためのはったりだったのだけど・・・ヒロキ・・・・あんた、本性はクズなのね。・・・まあ、いいけどさ・・・」
「・・・男なんてこんなもんさ!」
敵のクロリスに呆れられながらもヒロキはイサリアに近づく。泣きたい気分ではあったが、イサリアに違和感なく近づくにはこの手しかないと自分に言い聞かせてクズ男を演じ切った。そして無抵抗のイサリアを見下ろすように立つと背負い袋を肩から降ろす。これから〝それ〟をやろうとするのであれば邪魔になる。極めて自然な動きだった。
「今だ!ヒロキ!」
イサリアの合図にヒロキは背負い袋を前面に押しやってクロリスに飛び掛かる。言葉を交わした段取りではなかったが、彼はこれこそがイサリアが求める行動だと確信する。クロリスが何かしらの魔法を使うとしても、まずは襲い掛かるヒロキに対処しなくてはならない。最初の攻撃を自分が受けさえすれば、イサリアがなんとかしてくれる。ヒロキはそう信じるままに身体を動かした。
「おのれ!メ・・・ケレ・・・」
怒りの声を上げながらも間髪を入れずにクロリスは呪文の詠唱を開始する。彼女も完全にヒロキを信用していたわけではないのだろう。その動きは洗練され迷いがなかった。たちまち、ヒロキとクロリスの間に光の矢が出現する。
「・・・リセ!」
クロリスの命令とともに光の矢、魔法によって作られた〝魔弾〟がヒロキに襲い掛かる。だが、彼は臆することなく〝魔弾〟を無視して突っ込む。それは客観的に見ても有効な戦術と言えた。〝魔弾〟に物理的な回避行動は無意味だからだ。もっとも、ヒロキの頭にあるのは自らがイサリアの盾になることと、クロリスに一矢報いたいという二つの欲求だけだった。
「ぐおぉぉあぁぁ!!」
気付かずに吠えていた自分の雄叫びに驚くと同時に、ヒロキは胸にこみ上げる強烈な熱さに悲鳴を上げた。そして、背負い袋を突き通して身体に突き刺さっている光の矢〝魔弾〟に気付くと、全身の力が抜けるのを感じる。熱さだと思っていた感覚が鋭い激痛であると知ったからだ。身体がクロリスに向かって抱き付くように倒れる寸前に右手から何かが落ちた。それは杖状になった蛇のブロンズ像だ。どうやら自分は無意識のうちに背負い袋からそれを抜いてクロリスを殴っていたようだった。薄れゆく意識の中でヒロキは自分が一矢報いたことを知ると満足して目を閉じる。イサリアの声が遠くから聞こえたような気がしたが、それに答えることはもう出来なかった。
14
「エ・・・ケス・・・ミアゼ・・・」
詠唱を唱えながら体勢を立て直したイサリアの視界に〝魔弾〟を身体に受けるヒロキの姿が映った。その光景に彼女は胸が張り裂けんばかりの衝撃を受ける。それでも、イサリアは悲鳴を上げそうになるのを必死の思いで抑え込んだ。今、嘆きの声を上げてしまえば魔法を発動させるための詠唱が無駄になってしまうだけでなく、自分を信じて反撃の機会を作ろうとしたヒロキを裏切ることでもあるからだ。
だが、詠唱を続ける間にも〝魔弾〟を受けたヒロキは力なく倒れようとしていた。その姿はイサリアに五年前に亡くした兄の面影を思い出させる。たった一人の兄もその命を失くす寸前まで彼女を守る為に己を犠牲にしたのだった。兄の死は彼女の運命と価値観を変えた。『自分が生まれ持った才能に胡坐を掻かずに、もっと真剣に魔法の習得に打ち込んでいたら兄を助けられていたのではないか?もっと強ければ兄は犠牲にならなくても良かったのではないか?』という想いが彼女を苦しめ、力への渇望を促したのだ。
崩れゆくヒロキの姿にこの五年間の研鑚が無駄であり、自分が無力であることを再び知らしめようとする現実に対してイサリアが無念の声を上げようとしたその時、彼女はヒロキの身体が動くのを目にする。彼は腕を動かしてクロリスを何かで殴りつけたのだ。その光景によって折れかけていたイサリアの精神は持ち直す。ヒロキはまだ戦っているのだと。
「・・・ロドレ!」
イサリアは詠唱を完成させると、クロリスを標的に魔法を発動させる。それは二重の念を込めた〝麻痺〟の魔法だ。〝眠り〟とは違い一度効果が発動すれば途中で切れることはない強力な対人用の攻撃魔法である。本来はミーレの身分では扱えるはずのない魔法だが、彼女は独学で習得していた。いつか使う時が来るかもしれないと、魔法の高見を目指した成果だった。
「・・・!」
ヒロキからの妨害を受けて体勢を崩したクロリスにイサリアに対処する余裕はなく。彼女は麻痺の効果で受身も取れずに床に崩れ落ちる。
「ヒロキ!」
今回の元凶で、埋伏していた仇敵を倒したイサリアだったが、勝利の余韻を味わうことなく悲鳴を上げて地面に倒れるヒロキに駆け寄る。彼女は残り少ない魔力と流れ出す涙に構わず治癒魔法の詠唱を開始した。
胸に心地良い暖かさを感じるとともにヒロキは自分の声を呼ぶ声を知覚した。何度目かの近視感を思い起こさせる感覚に、彼は懐かしさと恋慕を湧き上がらせる。輝く黄金の鈴を思わせるその声が自分の名前を読んでくれている事実が堪らなく嬉しかった。そして声の主に会いたいという願望に従いヒロキは目を開いた。
「おお!ヒロキ!良かった!」
目前に逆さまに映るイサリアの顔があった。淡い光の中で彼女の顔から何かの液体が垂れてヒロキの頬に落ちる。それが涙であることを知った彼は、これまでの経緯を思い出す。自分はクロリスとの戦いで瀕死の傷を負ったはずだった。そしてイサリアは自分のために泣いてくれたのだと。
「・・・クロリスは?いや、胸の傷は?」
「クロリスは既に無力化させた、もう心配いらない!・・・ああ、ヒロキ、まだ動かない方が良い!私の〝癒し〟では傷は塞げても失った血液までは回復させることは出来ないからな。しばらくは貧血の症状が残るはずだ」
「・・・そうか・・・あ、ちょ!」
状況を理解し起き上がろうとしたヒロキをイサリアは優しく押さえ付ける。彼は自分がイサリアの膝を枕にしていることに一瞬だけ躊躇うが、それ以上の抵抗はしなかった。
「・・・そうか、やはりイサリアがきっちり解決してくれたんだな・・・」
「ああ、だがヒロキが身体を張ってくれたからだ」
「いや・・・イサリアならやってくれると信じていたよ」
「・・・ふふふ、」
上から覗き込むイサリアの顔を見つめながらヒロキを会心の笑顔を浮かべると、彼女もそれに答えて微笑む。既にイサリアの涙は銀色の筋となって乾いていた。やがて二人は何かを期待するようにお互いの顔を少しずつ近付ける。
「んん!この場には私もいることを改めて申し上げます・・・」
そろそろ目を瞑るべきかとヒロキが緊張を必死に抑えようとする中で、不自然な咳払いと警告を告げる声が投げ掛けられた。
「・・・そうか、そういえばエリザもいたのだったな!起こしたのを忘れていた・・・」
顔を上げながらイサリアがヒロキの代弁を兼ねるように不服を漏らす。
「ええ、助けられたことに関しては感謝いたします。ですが、そういったプライベートなことは人目のない所でするべきでしょう?・・・別に目の前で見せつけられて悔しいとか・・・先を越されたのを妬んでいるわけではありませんわよ!」
「・・・そういうことにしておこう。確かに人前でする行為ではないしな・・・」
イサリアの言葉にヒロキも胸の中で同意する。せっかくの機会ではあったがエリザの前で続きを願うほど彼も大胆ではない。
「まあ、それはそれとして・・・ヒロキさん。あなたには私からもお礼を申し上げますわ!あなたの活躍がなければ私達の身柄だけでなく、このベリゼート帝国の脅威に発展していたかもしれません。私とバルゲン家はあなたの名前を決して忘れはしませんよ!」
「いや、その・・・」
エリザは床に片膝を付いてヒロキの手を取ると両手で包み込みながら感謝の言葉を口にする。彼女の冷たくとも滑らかな手の感覚にヒロキは火照っていた顔を更に朱に染める。先程の妨害はこれで帳消しにしても良いと思えた。
「ええい、ヒロキから手を離せ!ヒロキも嬉しそうな顔をするんじゃない!」
顔に出た変化を見逃さずにいたのだろう。イサリアがヒロキの腕を叩くようにしてエリザの手から奪い取る。
「あら・・・別にヒロキさんはあなたのモノとは決まってないのでしょう!」
「いや、既に決まっているのだ!何しろ・・・」
「二人とも待ってくれ!とりあえず、この事件を完全に解決させよう!」
口喧嘩を始めるイサリアとエリザにヒロキは差し迫った問題を思い出させる。美少女二人が自分を争う様は彼の自尊心を擽るが、クロリスを倒したとはいえ、彼らが居るのは地下迷宮を更に外れた洞窟だ。安全圏とは言い難い場所だった。つまらない喧嘩をしている場合ではないのだ。それにヒロキもエリザが恩人以上の想いを自分に寄せているとは考えていなかった。おそらくはいつものイサリアへの当てつけなのだ。
「そうですわね・・・。とりあえず、私が水晶を使って上に報告に戻りましょう。妨害があった以上何かしらの処置が取られると思いますが、全員が水晶を使う必要はないでしょう。それに麻痺で動けないとはいえ・・・クロリス・・・の見張りが必要ですからね」
「うむ、エリザが導師達を連れて来るまで私達はここで見張りを兼ねて待機しよう。ヒロキには今しばらくの安静が必要だしな。頼むぞ!」
「ええ、では。報告に戻りますわ!」
イサリアと相談を終えたエリザは水晶を床に叩きつけて割る。仲が悪いように見える二人だが、こういった面では下手に張り合うようなことはしなかった。そして、耳障りな破壊音とともにエリザの姿はこの場から一瞬で消え去る。〝離脱〟の効果は予め教えられていたが、実際の発動を目にしてヒロキは改めてこの世界の魔法文明に感慨を抱いた。
「ヒロキ、今しばらくの辛抱だ」
「・・・イサリアこそ体調は大丈夫か?最初にクロリスから何かしらの不意打ちを受けたみたいだったけど?」
「ああ、あれは問題ない。前にも説明したが、魔法は術者と対象者の魔法力によって効果が変化する。魔法力が低い者の魔法は高い者に対して効き難いのだ。それに加え私はクロリスをどこか怪しいと感じ始めていたから、常に魔法に抵抗するために気合を入れていた。エリザを攫っておいて、目撃者をそのままにするなんて杜撰過ぎるからな。まさか主犯とは思わなかったが・・・脅迫で犯人に協力させられているのではないかと疑っていた。なので〝眠り〟を使うのが詠唱から知れたので、油断を誘うために掛かったフリをしたのだ。その後はヒロキも知っているとおりだ。もっとも、流石の私も魔法を使い過ぎて限界に近いかな・・・」
「そうだったのか・・・じゃあ、いつでも膝枕をされるわけにはいかないな。イサリアも安静になった方が良いだろう」
「私は大丈夫だ!むしろ・・・このままで良い!ヒロキはそれだけのことをしてくれた・・・」
エリザの姿が見えなくなると、ヒロキはイサリアを気遣うが、イサリアはそれを拒否するかのように優しい口調でヒロキの頭を撫でた。クロリスは部屋の片隅で手足を縛られて転がされているので、意識の有無はともかく何も出来ないのもいないのも同然だ。二人は再びお互いの存在を強く意識する。
「そうか・・でも、これでイサリアはミゴールに昇格出来るな・・・」
「ああ、これもヒロキのおかげだ。私も約束を・・・」
ヒロキの問い掛けに笑顔を浮かべて答えるイサリアだが、顔色を変えて途中で言葉を切る。事前の取り決めでは、次の新月の晩にヒロキを元の世界に戻す約束だ。それは異なる世界で生まれた二人の別れを意味した。
「・・・約束を守ってヒロキを必ず元の世界に戻してみせる・・・ぞ!」
イサリアは再び笑顔を浮かべるが、ヒロキには無理をしているように見える。それはほんの僅かな変化に違いなかったが、彼には見抜くことが出来た。イサリアとはそれだけの時間を一緒に過ごしていた。
「・・・うん」
喉まで出かかった言葉を飲み込んでヒロキも頷く。彼もイサリアとの別れを思うと胸が苦しくなるが、元の世界に戻りたいという願いも捨てきれずにいたからだ。奇妙なことだが、イサリアのために自分の命を投げ捨てる覚悟は出来ても、こうしてお互いの安否が保証されると元の世界での生活や両親と妹が恋しく感じられる。イサリアと家族達は単純に比べられる存在ではなかったが、本来あるべき世界に戻るのが正しい選択だと思われた。
「・・・もっとも、次の新月までにはまだ一週間ある・・・思い出の一つや二つは作れる時間だ」
「・・・今、作ってもいいんじゃないかな・・・」
「もう!そんなに焦るな、ヒロキ!催促されると調子が狂う。いや・・・そう言えば、ヒロキは先程のやりとりで私が泣き叫ぶところが見たい等と言っていたな・・・。演技にしてはやけに実感がこもっていた。まさか・・・普段から私に劣情を抱いていたのではあるまいな?」
「あ、あれはクロリスに取り入って油断をさせようとした演技だよ!」
「・・・ははは、冗談だ!やっぱり、ヒロキの反応は面白いな!」
必死に言い繕うとするヒロキに対してイサリアは破顔して笑い声を上げる。それは飾ることころのない本物の彼女の笑顔だった。
「くそ!騙したな!いくら美人だからって男の心をそんなに弄んで!」
「ああ、駄目だ、ヒロキもうしばらくそうしていろ!君は貧血の症状なのだからな!それにこんなこと言うのは、ヒロキだからだぞ・・・」
一杯食わされたヒロキは起き上がろうとするが、イサリアに再び抑えられる。そして自分の顔に再び近づく金色の瞳に気付くと、その時を持つために目を閉じた。
「・・・誰だ!」
イサリアとの口づけの瞬間に胸を焦がしていたヒロキは、彼女が上げた険しい声に反応して目を見開いた。期待が外れた失意と憮然の思いが胸に込み上げるが、演技とは思えない緊張した声と自分を抱き締めるイサリアの腕によってそれどころでないことを知る。
急いで目を開けたヒロキの目にマントを纏った人影の姿が映った。光源の加減とフードを目深く被っているので顔は見えない。特別に大きい体格ではないが、直立不動のままこちらを黙って見つめる姿は不気味でもあり不遜でもあった。
「クロリスの仲間か?!」
続けて発せられたイサリアの問いにヒロキは、先程のクロリスとの会話の中で彼女が〝私達〟という言葉を使っていたことを思い出した。今更ではあったが、共犯者や仲間の存在に留意すべきだったと後悔する。これはヒロキにとっては危機を脱した昂揚感によって失念していた事実であり、イサリアにとってはクロリスの協力者が近くには存在しないであろうと思い込んだ希望的観測による甘さだった。もっとも、謎の人物は彼が目を閉じた数秒の間に姿を現している。なにかしら魔法を使ったのは間違いない。警戒をしていたところで接近は防げなかっただろう。
新たな敵に対抗するためにイサリアは急いで立ち上がろうとするが、よろめく彼女をヒロキは倒れる寸前で受け止めねばならなかった。彼に膝を貸していたイサリアだが、その本人も咄嗟には立てないほど消耗していたのだ。満身創痍とも言える二人だったが、それでもお互いを支え合いながら辛うじて立ち上がる。
絶好の攻撃機会のはずだったが、フードの人物は彼らを無視するかのように床に転がるクロリスへと歩み寄っていた。
「どうする気だ?!」
喘ぐイサリアの代わりを務めるようにヒロキは謎の人物に問い掛ける。だが、その者はなおも二人を無視してクロリスの身体を助け起こして肩に担いだ。クロリスが女性とは言え、人間一人を抱き起すのは大変な重労働と思われるが、その人物は軽々と熟す。見た目以上に力があるのか、こういった荒事に慣れているに違いなかった。
「・・・駄目だ」
「・・・く!」
魔法の詠唱を開始しようとするイサリアを、ヒロキは抱き締めるようにして止める。イサリアは彼が支えることによって、ようやく立てる状態だ。そんな彼女が魔法を使うのは命を削るにも等しいだろう。それに謎の人物がクロリスを連れ去ろうとしていることは明らかだが、現在の時点では明確な攻撃の意志を示していない。今はギリギリまで様子を見るべきだと判断する。もちろん、最悪の場合に備えて〝離脱〟を込めた水晶球に手を伸ばすことも忘れない。
肩に担ぐクロリスのバランスを整えた謎の人物は、一度だけ二人に視線を送るとマントの下に手を入れる。杖を取り出すと思ったのだろう、イサリアは緊張を強くして身構えるが、フードの人物はヒロキ達が持つ例の水晶とまったく同じ透明な結晶を懐から出現させる。そしてそれを使い、現れたと同じように彼らを無視して、この場から忽然と姿を消したのだった。
「みすみす逃がしてしまった・・・」
その場に尻もちを付くようにしゃがんだイサリアは、謎の人物とクロリスが姿を消した虚空を見つめながら悔しさを隠させないとばかりに言葉を漏らす。
「でも、下手に手を出していたら俺達はどうなっていたか・・・」
「うむ、そのとおりだな・・・ヒロキが止めてくれなかったら今頃はどうなっていたか・・・今日は二回も助けられてしまったな」
「まあ、いざとなったらこっちも水晶を使うつもりでもいたけどね。いずれにしてもさっきの奴が冷静で良かったよ。こっちの状態を見越して手を出せないと判断したんだろうな・・・」
イサリアに引き摺られるように腰を床に落としたヒロキは彼女の抱擁を受けると、照れ隠しも込めてフードの人物について問い掛けた。
「うむ・・・冷静になって考えれば・・・敵ながら妥当な判断だ。エリザが脱出した時点で計画は破綻している。その状況で私達を殺害したとしても、リゼートとバルゲンが決定的な対立になることはない。むしろ・・・私を殺せば、バルゲンはリゼートに借りを持つことになる。エリザを助けた私が命を落としたのだからな。それは皇帝への復帰を願うルキノス派にとっては不都合なことだ。クロリスが口を割れば帝国内に残るルキノス派の全容が明らかになる可能性がある。あの者にとってはクロリスの回収こそが最優先課題だったのだ。そして、ヒロキの指摘どおり私達が疲弊しているのも知っていた・・・」
「抜け目がないね・・・」
「まったくその通りだ。おそらくはあの者が事件の黒幕に違いない。・・・そして残念なことだが、学院の関係者である可能性も高い。だから、一切口を開かなかったのだ」
「やはりそうか・・」
耳元で語られたイサリアの見解にヒロキも同意を示す。これまで帝国内の力関係には無関係であったが、イサリアを通じて巻き込まれたことで、彼にとっても切実な問題となっている。クロリスが引き起こそうとしていた危機の重さを考慮すれば、ルキノス派は小さな組織であるはずがない。他にも学院内に潜りこんでいると疑うのが自然だ。
「うむ、だが、もうその話はあとにしよう。私達だけでは手の余る問題だからな。ルキノス派については学院長や皇帝が何かしらの手を打つはずだ。だから、今しばらくはこうしていよう・・・」
「ああ・・・」
耳元に囁かれるイサリアの言葉にヒロキは昂揚感を持って頷いた。それを合図にしたように二人は三度目の正直とばかりお互いの顔を至近距離から見つめ合う。淡い光に映えるイサリアの長い睫毛が閉じられたことで、ヒロキはいよいよ最後の数センチの距離を詰めようとした。だが、まさにその瞬間、二人の耳に自分達を呼ぶ思われる声と岩盤を伝わる複数の人間が立てる足音に辺りに響く。報告に戻ったエリザが援軍とも言える導師達を連れて来たに違いなかった。二人は溜息を吐くと、相応しい状態にしようと慌ただしく動き始めるのだった。
「二人とも大丈夫か?!怪我はないか!」
先頭に立って現れたのは導師アルビセスだ。ヒロキ達とはちょっとした因縁のある人物だが、座って待機していた彼ら発見すると、血相を変えて歩み寄り二人の容態を確認する。
「・・・ヒロキが大きな外傷を負って私が傷口を治癒しました。ですが、失血したことで貧血状態にあります。私は魔力を消費した以外は問題ありません・・・」
「そのようだな。二人とも命に別状はないと思うが・・・ミーレ・リゼート、彼の身体を暖めてあげなさい」
ヒロキ達の状態を確認したアルビセスはイサリアにヒロキと密着するように促すと、自分のマントを脱いで二人の肩に掛ける。
「か、感謝します導師アルビセス・・・」
「礼には及ばんよ・・・ああ、学院長が参られた。二人とも大変だったろうが、何があったのか事実を聞かせてくれ」
アルビセスの思わぬ善意にイサリアが驚きを示すが、当のアルビセスは恩に着せることもなく事態の掌握に入ろうとしていた。イサリアとは個人的に馬が合わない彼であったが、ミーレを守る導師としての立場が最優先ということなのだろう。
実はヒロキはイサリアを始めとする帝国の大貴族に反感を持つアルビセスこそが先程クロリスを連れ去った人物なのではと疑っていたのだが、救助隊に加わっている彼にそれが出来るはずがない。ヒロキは心の中でアルビセスに寒さを和らいでくれたマントの感謝をしつつ疑った謝罪を伝えるのだった。
「まずはクロリスが・・・」
現れた学院長に向かってイサリアが説明を始めた頃には彼は貧血によって意識が朦朧とし始めていた。右側に寄り添ってくれる彼女の体温だけが唯一の希望のように感じられた。
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それからのことをヒロキはあまり覚えていない。しばらくは現場で救援に現れた学院長とアルビセスを始めとする導師達にイサリアとエリザが主となって証言をしていたはずだ。残念なことに実行犯であるクロリスは連れ去られていたので、導師達に事態が真実であることを伝えるのに二人は苦労しているようだった。ヒロキも証言を求められたが、何と答えたかは思い出せない。もっとも、体験したありのままを話したはずなので後から問題になるようなことはないだろう。
一通りの証言を終えたと判断されたのか、事件の被害者となったヒロキ達は導師の一人に連れられて魔法で地上へと返されることになる。もちろん、背負い袋と課題物でクロリスを殴った蛇の置物を忘れずに回収する。この時、背負い袋に開いた穴と血の汚れで、自分がどれほどの傷を負ったのか視覚的に捉えたヒロキはショックで気を失ってしまう。これまでは気力で持ちこたえていたが、イサリアの指摘通り彼は極度の貧血状態のあったのだ。
次に気付いた時ヒロキは清潔な寝台の上に横になっていた。周囲は自然光と思われる光に満ちていて、永い間地下にいたせいか眩しく感じられる。目を完全に開くのにしばらくの猶予が必要だった。
目が慣れるとヒロキは辺りの観察を開始する。自分が寝かされていたのは天蓋付きのカーテンと思われる白い布で覆われた寝台だ。直ぐ近くに置かれた台には水差しと洗面器が用意されている。彼は喉の渇きと空腹を感じるとともに、意識の失う以前の記憶を辿った。やがてミゴールの昇格試験で学院地下に潜ったことと、そこで体験した冒険のあらましが脳裏に湧き上がる。そしてこの場所が以前イサリアに案内された学院の医療所であることを察すると、一先ずの安堵を覚えて水差しに手を伸ばした。
「イサリア?」
自分が出した布ずれの音に反応したのだろう。人の気配を感じるとヒロキは問い掛けた。目を覚ませばイサリアがいる。彼にとっては習慣になりつつある現象だ。
「申し訳ないが、ミーレ・リゼートではなく私だ。体調はどうかな?」
「あ、いえ・・・た、体調はかなり良いみたいです」
「それは良かった。ちなみに、今は翌日の午前九時頃だ。君は半日ほど眠っていたことになるな」
「そんなに・・・貧血の治療は導師シャルレーしてくれたのですか?」
カーテンの間から姿を現したシャルレーに戸惑いを覚えながらもヒロキは返事を口にする。時刻については腹具合からその程度だと思っていたが、改めて指摘されると更に空腹が増したように感じられた。
「ああ、そうだ。そんなに驚くことはないだろう。元々医療所は私の管轄だし、自慢ではないが人体の機能に関する魔法で私の右に出る者はそうはいない。最高クラスの治療を受けられたのだ。もっと感謝して欲しいな」
「す、すいません。ありがとうございます」
シャルレーの苦笑に促されるように、ヒロキはお礼を述べる。確かに身体の倦怠感は収まり、意識を失う以前に感じていた手足の冷えも完全に消えていた。それでも彼はシャルレーに対する警戒感を完全に捨てることは出来なかった。彼女が美しい女性で魔術士としても優秀なことは事実だが、自分を見つめる眼つきは患者に対する視線と言うよりは、実験動物を見るようなどこか醒めていながらも、新たな発見を期待する科学者のように思えたからだ。
「ふふふ、何も取って食ったりはしないよ。そもそも、君を寝巻に着替えさせたのは私だぞ。・・・まあ、冗談はこれくらいにして、ミーレ・ヒロキ、肉体的には完全に治癒しているはずだが、精神的なショックは魔法では癒せない。もうしばらくはここで身体を休めていくといいだろう。君が意識を失っている間に学院側も今回の事件の深刻さを理解し対策に乗り出している。・・・帝国の人間でない君には堪えただろう。巻き込んでしまった詫びだと思ってゆっくりしていってくれ。食事はここに持ってこさせよう!」
そう言い残すとシャルレーは寝台から去って行く。ヒロキは自分の裸をシャルレーに見られた羞恥心よりも、最後の言葉の意味を考えながら彼女を見送る。自分の正体を見透かしたような含みが込められていたからだ。
だが、その疑念は直ぐイサリアの存在に追い出される。シャルレーの思惑は不気味ではあるが、今の所は直接的な害はない。それよりもイサリアの無事こそがヒロキにとっては重大な関心事だった。あまり彼女のことを気にし過ぎてはシャルレーに詮索されると判断し、先程の会話では敢えて口にしなかったのだが、落ち着いて考えるとその判断が思春期特有の子供染みた愚かな行為と思える。彼が最後に見たイサリアは自分と同じように弱った状態だった。命に別状はないはずだが、彼女の安否をシャルレーに問い掛けるべきだったと後悔した。
「おお、ヒロキ。目を覚ましたな!」
ヒロキの心配は直ぐに取り越し苦労となる。何しろ彼の心配の渦中にあったイサリア本人が食事を乗せたお盆を持って現れたからだ。暗い地下で見た彼女の姿は幻想的であったが、やはり明るい場所で見るイサリアの整った顔は素晴らしい。特に今その顔には零れるような満面の笑みで飾られている。血色も良く健康体そのものだ。
「ああ、イサリア!良かった無事だったんだ!」
「うむ、昨晩は見苦しいところを見せてしまったが、一晩寝たので魔力の枯渇はすっかり回復した。・・・それと私個人としては悪い気はしないのだが、ここには私達以外の人間もいる。あまり大きい声を出さない方が良いだろう」
「そ、そうか・・・ごめん・・・」
上半身を起こしてイサリアを出迎えたヒロキだったが、彼女の指摘に声を潜める。彼女に再び会えた嬉しさで思わず声を張り上げてしまったが、ここは病室だ。確かに騒いで良い場所ではない。
「いや、謝る程のことではないがな。とりあえず空腹だろうと思って食事を持ってきたぞ」
「おお、ありがとう。腹ペコだったんだ」
「うむ、そうであろうな。導師シャルレーが医療所付きのミゴールに食事の配膳を命じていたので、その役目を代わってもらったのだ」
「まじか、イサリアに気を使わせちゃったな」
「まあ、私のために瀕死の怪我を負わせてしまったようなものだからな、これくらいはしてやらんと。・・・そうだ、せっかくだから私が食べさせてやろう」
「え、ちょっと、そんな・・・」
イサリアは脇の台に乗せたお盆からポタージュと思われる半粘液状の料理をスプーンで掬うと、ヒロキの口に近づける。献身的な介護ではあるが、自分で食事が摂れないほど弱っていないヒロキとしては、感謝よりも恥ずかしさの方が強かった。
「どうした?そうか・・・熱いと思っているのだな。・・・これでどうだ」
何を勘違いしたのかイサリアは掬ったスプーンに自分の息を二回ほど吹きかけて冷まそうとする。
「ほら、口を開けるがよい」
そこまでされるとヒロキも嬉しくないわけがなく、再度食事を促されたヒロキは照れつつもスプーンを口に含もうと口を開けた。
「・・・あれ?」
「・・・まさか、私がそこまですると本気で思ったのか?」
いつまでたっても口に運ばれないことに疑問に思ったヒロキが改めてイサリアに視線を送ると、込み上げる笑いを堪えるように小刻みに震える彼女の姿を見つける。
「くそ!!また騙したな!イサリアの性悪!」
先程の忠告を無視するようにヒロキは怒りを爆発させるが、イサリアはその口にスプーンを突っ込む。予期しないタイミングで放り込まれた食事にヒロキは咽ないように呼吸を整えるのに苦労するが、口に広がる粥のようなポタージュの味は空きっ腹の彼にとって甘露にも思える美味しさだった。
「ふふふ、騙したわけではないぞ!ヒロキの反応が見たかっただけだ。本当に君は期待を裏切らないな!」
「それを性悪って言うんだよ!」
頃合いと見たのかイサリアはヒロキの口からスプーンを引き抜くと、そのまま彼の右手に差し出す。ここから先は自分で食べろということだろう。彼も文句を言いながらもそれを受け取った。身体は正直で更なる栄養を求めていたからだ。
「まあ、そんなに怒るな!私とヒロキの仲ではないか」
「ふん・・・」
脇の台に置いていたお盆をヒロキの腿に乗せるとイサリアは甘えたような声を出す。一時は腹を立てていた彼もこれらがイサリア流の愛情表現であることを思い出すと、溜飲を下げる。何しろ彼女にこんなことをされる者はこの世界〝アデムス〟でも自分一人であろうという自負があったからだ。
「つまりはエリザもミゴールの昇格が認められるってこと?」
病人向けだったのだろう流動食とも言えるポタージュの食事を終えたヒロキは、確認も兼ねてイサリアに問い掛ける。彼女と再会を果たし安否が判明したことで、話題は自然と陰謀に巻き込まれたミゴール昇格試験に移っていた。
「ああ、試験が妨害されてしまったからな。エリザが事件の報告に戻った段階でリタイアしていなかった受験者はそのまま合格が認められ、水晶を割ったエリザも帝国の危機をいち早く伝えた判断と行動はミゴール昇格に相応しいと判断されたようだ。もっとも、導師達にとっても今回の事件は寝耳に水であったらしく、対応に追われていて正式な発表はもう少し先になるだろうな」
「そうか・・・もう、そっちの面はもう心配しなくて良いんだな」
「うむ。だから、学院長を始めとする導師達の関心も、逃げたクロリスとその仲間、ルキノス派への対応に焦点が集まっている。西の辺境に追いやっていたと思われる反乱分子のルキノス派が、帝国内で陰謀を画策するほど中枢に入り込んでいたのだからな。学院だけでなく帝国そのものを揺るがす事件だ。これから〝鷹の学院〟だけでなく帝国内で大がかりなスパイ狩りが行なわれるだろう」
「まじか・・・」
イサリアの見解にヒロキは溜息を吐く。この世界に限らず政治に強い関心を持っていない彼でも、スパイ狩りという言葉が持つ負のイメージを実感することが出来た。ルキノス派がどの程度の力を蓄えているかは知れないが、将来の幹部を養成する〝鷹の院〟にミーレとして紛れ込ませるほどだ、体制側としては大きな失策をしていたことになる。対抗する手段も大胆になるに違いなかった。
「まあ、ヒロキにとっては余談のようなものだがな・・・」
「そうだ・・・あと一週間もすれば、この世界だけでなくイサリアとも別れを告げるんだな・・・ううう・・・」
イサリアの言葉で重大な事実を思い出されたヒロキは、寝台の上で膝を抱えるように蹲って嗚咽を漏らす。
「・・・最初に約束したではないか、ヒロキ泣かないでくれ・・・私も辛いのだ・・」
それが呼び水となったようにイサリアの瞳にも涙が溢れる。彼女はヒロキと自分を癒すために彼の背中を撫でようとした。
「ははは、実は嘘泣きでした!あれ?!イサリア、泣いているのかな?」
「・・・こ、これはたまたまだ・・・いや!おのれヒロキ!乙女も謀るとは男の風上に置いておけぬ!恥を知れ!」
突然顔を上げて笑い声を上げるヒロキに対して、イサリアは顔を真っ赤にして抗議の声を上げる。
「これまで騙されたお返しだ!むしろこれでおあいこだろう!」
「くそ!ヒロキのくせに!」
「ヒロキのくせにってなんだよ!」
「ヒロキにヒロキのくせにと言って何が悪い!」
「・・・君達。ここがどこか理解しているかな?」
「ご、ごめんなさい!!」
「こ、これはその!」
意味不明な言い合いを始めるヒロキとイサリアだったが、奥からシャルレーが現れると同時に謝罪を口にする。いつもはミステリアスな笑みを湛えている彼女だが、この時ばかりは目が笑っていない。静穏が求められる治療所で喧嘩を始めた彼らに対して、堪忍袋の緒を切れる寸前といった具合だ。その後ヒロキはそんなに元気が有り余っているならと治療所を追い出されることになった。
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「あの時ほど導師シャルレーを恐ろしいと思ったことはなかったな」
「うん、俺からすると導師シャルレーは最初から底の見えない井戸のように感じられたけど・・・あの時は特に怖かった。勢いもあったけど、クロリスと対決した時の方がまだましに感じたほどだ」
「うむ、やはり・・・あの人だけは敵に回すわけにはいかんな」
ヒロキはイサリアとかつてシャルレーを怒らせた話題を小声で語りながら、広間の片隅でミゴール昇格パーティーが始まるのを待っている。
クロリスら旧ルキノス派の陰謀に利用されたミゴール昇格試験だったが、学院側の詳細な調査の結果、イサリア、ヒロキ、エリザ以外の受験者には直接的な妨害がなく、試験に参加したミーレ達の中にもクロリスの共犯者が存在しないことが確定し最終的な合格者が発表された。合格基準は以前にイサリアがヒロキに伝えたほぼ同じ内容で定められ、結果的に試験に挑んだ全ての受験者がミゴールへの昇格を認められることになった。約二割が脱落する通例からするとやや甘い裁定にも思えるが、学院側としては反乱分子への対策もあり再試験を行う余裕がないのだろう。
黒幕らしきクロリスを連れ去った者の正体は未だ解明されていなかったが、主だった学院関係者のアリバイが立証されたことで当初の危機感は収まりつつあった。もっとも極めて重大な問題なので、更なる綿密な調査が続けられている。そのためか本来、学院を上げて行われる昇格祝いパーティーは昇格した本人達と導師、来年の受験を予定しているミーレ、有志のミゴール達といった比較的小規模で行われることとなった。今日は新月の夜でヒロキが日本に送還される日でもあるのだが、彼もイサリアに誘われるまま最後の思い出の場として参加していた。
「おっと、そろそろ導師の方々もこの会場に現れる頃だな・・・この話題はここまでとしよう」
「そのようだね・・・」
警告を発したイサリアにヒロキは頷く。彼も広間に入ってくるアルビセスの姿を捉えたからだ。生真面目なこの導師が会場にやって来たということは、これから他の導師達も現れるサインであったからだ。それと同時にヒロキは平静を装いながら改めてイサリアの姿を見つめる。普段は癖のない長い金髪を背中に流している彼女だが、今日は何本の三つ編みにして更にそれを纏めて後頭部で結っている。また、着ている服も制服ではなく、赤味の強い桃色のドレスだ。派手な色使いだが、イサリアのやや濃い肌の色と髪色には良く似合って映えている。綺麗に結われた髪とドレスで優雅さ、剥き出しになったうなじの色気で、彼女はいつもよりも増して魅力的な美少女となっていた。
見惚れる内にヒロキの視線は自然にイサリアの唇を辿ってしまう。小振りながらも桜色の膨らみは瑞々しい光沢を放っている。この真珠のような唇に重ねる機会があったことはヒロキにとって夢のような出来事だった。地下から生還し、今晩の新月を待つ間に再びそのような機会が来ることを密かに望んでいたが、平穏を取り戻しつつある学院生活でドラマチックな状況に再び巡り合わせることはなかった。それは彼にとって残念なことでもあったが、幸いでもあった。なぜなら、彼に残されたこの世界での生活はあと僅かだからだ。このパーティーを終えた後には元の世界に送還してもらう約束を交わしており、既に手筈は整えている。もし、ヒロキが望めばもっとこの世界に留まることも可能と思われるが、それは元の世界との決別になる予感があった。これ以上イサリアと一緒の時間を過ごしてしまえば、自分は以前の生活に戻ろうとは思わなくなってしまうだろう。彼女との別れは辛いが今ならまだ、片思いの思い出に出来る。その考えもあってヒロキは友人しての距離を保とうとしていたのだが、イサリアの美しいドレス姿を見たことでその考えが揺らぎ始めていた。
「ヒロキさん、そのお召し物とても似合っておりますわよ」
後ろから掛けられた声にヒロキは我に返りながら振り向く。そこには白と青色を基調としたドレスを纏ったエリザが立っていた。銀色の髪は後ろに纏められ、胸のカットは深く豊かな胸が強調されている。ドレスの色が清純さを連想させるのでそこまで目立ってはいないが、十代の少女が着るにはなかなか扇情的なデザインと言えるだろう。
「あ、ありがとう。エリザさんも凄く綺麗ですよ」
一瞬前まではイサリアに心をときめかされていたヒロキだが、エリザの褒め言葉に笑顔を浮かべて答える。彼が今着ているのはイサリアに用意してもらった礼服だ。と言ってもデザイン的には普段の学院の制服と大差ない。多少は飾りが追加されているが、イサリア達女性に比べれば地味で新鮮味はなかった。こちらの世界でも男のファッションの幅はそう広くないのだ。おそらくこちらの伊達男達はちょっとしたアクセサリー等で他人と差を付けるのであろうが、借り物ということもありヒロキはそこまで凝る情熱はなかった。
「まあ、光栄ですわ!」
エリザはヒロキから返礼を微笑みながら優雅に受け取る。それは賞賛を受けることに慣れきった仕草だったが、今では嫌味だとは思わなかった。最初はどこか陰険に見えたエリザだが、大貴族に生まれた彼女にとってはそれが当然の反応なのだ。ヒロキはこの世界のしきたりや見えない習慣といった空気を肌で感じ理解出来るようになっていた。
「なんだ、こっちに邪魔をしに来たのか」
エリザの出現にイサリアはそっけなく答える。彼女の傲慢な態度は相変わらずだが、それは今でも新鮮に感じられる。この世界のことを知るにつれてイサリアが皇帝の孫であることが判明し、彼女の強気な態度は実家であるリゼート家の影響からだと思ったこともあったが、イサリアの性格的表現の九割は彼女自身の個性だと断ずることが出来た。
「邪魔ではありません。お世話になったヒロキさんに挨拶を告げただけですわ!」
「それを邪魔というのだ。あれからも七日も経っているのだぞ、ヒロキは恩に着せるような男ではないから、もう気にしていない。必要以上に構うな!」
「まあ!バルゲン家は礼儀知らずのリゼートとは違いますので、見掛けて挨拶もしないなんてことは出来ませんの!」
「本当に二人は姉妹みたいだな・・・」
言い争いを始める二人にヒロキはしみじみと苦笑を漏らす。思いがけないエリザの登場でイサリアへの想いを薄めることが出来たが、この二人のやり取りをもう見られなくなると思うと、別の寂しさを感じ始める。特にエリザに対しては正体を隠したままこの世界を去るので罪悪感を覚えた。
「な!これのどこが、姉妹なのだ!」
「そうですわ、これは私が魔法しか取得のないイサリアに年長者として礼儀を諭しているだけです!」
「まあ、二人がそう言うならそういうことにしておこう。・・・でも、二人の仲を面倒にしようとしていたクロリスはもういないし、リゼート家とバルゲン家出身の二人が協力する姿はこれからの帝国にとっては必要なんじゃないかな。十五年前の内乱ではこの二つの家はそれまでの確執を投げ打って、独裁を始めた当時の皇帝に戦いを挑んだだろう?!」
「「・・・」」
ヒロキの言葉に二人の少女はこれまでのしかめっ面を引っ込めて彼の顔を見つめる。ヒロキの正体を知るイサリアにとっては、この世界と帝国の情勢に疎いはずの彼がこれほどまでに的確な助言をしたことに対する驚きと感慨。エリザは自分でも心の奥にぼんやりと思っていた考えを指摘されたからだった。
「・・・そうですわね。ヒロキさんの言う通り、ルキノス派が陰謀を巡らして再び帝国への復帰を画策しているこの時期に、バルゲン家とリゼート家がつまらないことでいがみ合っていては、周りの者達に不安を与えるかもしれませんね・・・」
「・・・うむ、確かにその通りだな・・・。少なくとも人前で言い合うのはこれから控えた方が良いかもしれない・・・」
先に口に開いたのはエリザだったが、イサリアも同調する。
「いっそ二人が握手を交わして、さりげなくここにいる人達にイサリアとエリザさんがお互いを認めていることを印象付けてやろう!」
「「・・・」」
ヒロキの提案に二人は一瞬だけ驚いたような顔を浮かべるが、お互いの顔を見つめ合った後にどちらともなく手を差し出して握手を交わす。それは借りて来た猫のようなぎこちなさが伴っていたが、ライバル関係にある大貴族出身で、パーティー会場でもっとも美しい少女達が並び立つ姿は周囲にざわめきを齎すのに充分だった。
「こ、これでいいだろう?」
「これで良いですわね?」
「ああ、最初はこんなもんだね」
ヒロキに許可を求めるように二人は握った手を離す。彼女達が握手していた時間は数秒に過ぎなかったが、この出来事は二人の関係が改善した噂として学院内で広まるだろう。ヒロキはイサリア達にちょっとした贈り物を残せたこという思いで満たされた気持ちとなる。これは彼が出来る精一杯の感謝と別れへの餞別だった。
「む、なんだかヒロキのくせに偉そうではないか!私はヒロキの頼みを・・・」
笑みを浮かべるヒロキにイサリアが抗議の声を上げようとしたところで、学院長が会場の前方に姿を現した。まもなく、パーティー開始の合図と試験に合格したミーレたちへの謝辞が行なわれるに違いない。イサリアを含めた会場にいる者達は一斉に畏まった。
「・・・今回の試験は嘆かわしくも、内乱の残党勢力よる妨害によって・・・。前途豊かな可能性を持った新たなミゴール達が・・・」
学院長ナバートのスピーチをヒロキはイサリアとエリザの間に立つ位置で清聴する。帝国の危機を訴えながらもこの時期にミゴールに昇格した今回の合格生達を鼓舞し褒める内容自体は、帝国と学院のゲストであるヒロキにそこまでの感動を与えなかったが、この世界に来た当初に学院長の尽力を得られた事実にヒロキは改めて感謝の気持ちを抱いていた。結果論ではあるが、もし彼がイサリアとヒロキの存在を尊重せずに、学院で暮らす段取りを整えてくれなければ、クロリスらルキノス派がどのような行動を取っていたかは想像に難くない。おそらくは、昇格試験を来年に延ばしたイサリアに別の巧妙な罠を巡らしたことだろう。今こうしてイサリアが無事でいられるのは彼の理解と英断とも言える協力のおかげでもあったのだ。
そんなヒロキの考えが伝わったのだろうか、学院長と目を合わせた瞬間に彼はヒロキに笑みを送る。それは師匠が成長した弟子に向ける笑顔のようだった。
やがて学院長の謝辞が終わるとパーティーは自由な懇談と希望者によるダンスが開催される。食事も立食ではあるが様々な料理が用意されており本格的なお楽しみの時間となった。
「どれ、私達も一曲踊ってみようじゃないか?」
「え、ちょっと!俺はダンスなんて出来ないぞ!」
オードブルの生ハムを乗せた小さなパイを片付けたイサリアはヒロキにダンスの誘いを掛ける。周囲にはウッドゴーレム達による弦楽器を主としたワルツのような軽快な曲が流れている。食欲を満たしたことで今度は昂揚感を身体で発散したいと思ったのだろう。もっとも、ダンスなどやったことのないヒロキは慌てて断ろうとするが、そうさせまいとイサリアはヒロキの腕をとって強引にパーティー会場の中央へと連れ出した。
「大丈夫だ。私がエスコートしてやる!私の動きを良く見て同じ様に動けばよい!」
「そんな無茶な!」
無理やり連れられたヒロキだったが、イサリアの誘いを拒絶することは出来ずに、既に踊っている学生達のダンスの流れに加わる。ここまで来ると下手に逃げる方が却って目立つので、ヒロキは必死にイサリアの動きを真似てそれらしい動きに見せるしかなかった。
「そうだ。なんだ、意外と上手いじゃないか!」
踊りながらもイサリアは鼓舞するがヒロキは置いて行かれないようにするのがやっとだ。一曲終わる頃には、かなりの距離を走ったほどの疲労感を味わった。
「うむ、なんとか踊りきったな。私と踊れるなんてヒロキは幸せ者だぞ!」
「はあ・・・た、大変だったけど、・・・確かに楽しかったよ!」
次に踊るペアの邪魔にならないように中央から外れながら、ヒロキはイサリアに自身の達成感を伝える。緊張の連続ではあったが、音楽に合わせてイサリアと踊る様は確かに夢のような一時だった。おそらくこの経験はこの世界での最高の思い出になると思われた。
「では、ヒロキさん次は私と一曲お願いします。ご安心下さい、私はイサリアよりももっと上手くヒロキさんをエスコートして見せますわ!」
「え!!・・・お、お願します」
待ち伏せしていたわけではないのだろうが、中央から逃れるように離れて来たヒロキをエリザが迎える。先程イサリアとエリザを握手させたのはヒロキ自身だ。イサリアとは踊ったのにエリザは拒んだとなれば、また喧嘩の火種になりかねない、ヒロキはさりげなくこれまでパートナーであったイサリアに視線を送り、謝罪の合図とすると、エリザの手を取った。イサリアも不服そうな顔を浮かべるが強いて反対はしない。
客観的に見ればイサリアに続いてエリザと踊るヒロキは、美少女達に一目を置かれる幸せ者だったのだろうが、彼からすればギリギリの状態で泳ぎ切った川岸をもう一回反対側に向かって泳げと言われた気分だ。もっとも、踊るエリザから漂うほのかに甘い香水の匂いはヒロキの男心を擽る。無理をする価値はあった。
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「まもなくだ・・・」
「うん・・・」
イサリアの声にヒロキは頷く。彼らがいるのは学院長の塔にある彼専用の魔法実験室だ。二人は夜が更けても熱の冷めないパーティー会場を抜け出して、送還魔法の儀式に備えていた。元の世界に戻るヒロキは日本のブレザーに、イサリアも先程の華やかなドレスを脱いで〝鷹の学院〟の制服に着替えている。
ヒロキをこの世界に呼び寄せた召喚儀式はイサリアの部屋で行われたが、送還魔法に行使するに至って彼らは学院長からこの場所の提供を受けた。儀式魔法を行うのであれば専用に作られたこの実験室の方が都合良い。更に魔法陣は学院長自らが魔力を込めて描いており、イサリアの負担が軽くするよう配慮されていた。パーティーがなければ学院長自らも送還魔法の儀式そのものに参加してくれたに違い。また、イサリア個人が持つ分だけで賄いきれない膨大な消費魔力は純度の高い魔鉱石が用意されており、後は月齢の影響が最大限に得られる真夜中を待つのみだった。
「うむ、なんだか少し夜の風に当りたくなった・・・ちょっと外に出て来るかな・・・」
イサリアの補助を受け持つことになっているシャルレーが呟くように告げると、二人の反応を待たずに実験室から出て行った。結局この優秀な魔術士からヒロキの正体を隠し続けることは出来ずに、彼とイサリアは内密を条件に約束していた講義への参加とともに、彼女の個人的な研究に協力することを選んでいた。恐ろしい人体実験の被験者か、もしくは生きたまま解剖でもされかと思っていたヒロキだが、シャルレーが求めたのはヒロキの毛髪と少量の血液の提供以外は、元の世界、日本と地球に関する証言だけだった。学院長に何をするかわからいと言わしめたシャルレーではあったが、常識的な協力で済んだのだった。そして、下手に誤魔化さずシャルレーの要求を聞き入れた褒美であるのか、今回の送還魔法の儀式に彼女も参加してくれることとなった。儀式魔法は参加する魔術士が増えるごとに失敗する可能性が下がるという。既に召喚魔法を成功させているイサリアだが、成功の可能性が上がることに異存はなく、彼らにとってはありがたい申し出だった。そしてヒロキとイサリアの様子に気付いた彼女は一時的に席を外す気遣いを見せたのだった。
「・・・導師シャルレーには感謝だな・・・」
これまで不必要に警戒していたこともあってヒロキはシャルレーに謝罪の気持ちを口にする。治療室で叱られたこともあったが、あれは状況的に当然のことであったし、それだけ彼女が責任感を持っているという証明でもある。ミステリアスでその心根の底では何を考えているわからない部分もあったが、今では優れた指導者でもあったと認めることが出来た。
「うむ。とは言え、導師シャルレーを一から十まで信じ切ってしまうのは危険だぞ。味方でいてくれるならこれほど頼もしい人もいないが、敵に回すと厄介な人もいないだろうからな。付かず離れずくらいが丁度いいのかもしれない」
「ははは、確かにそんな感じかな」
シャルレーに対する敬意を持ちながらもヒロキはイサリアの言葉に同意する。尊敬に値する人物と気付いたのも事実だが、彼女の全てをヒロキが理解したわけではない。彼はシャルレーの評価を原子力発電所のような存在だと再認識する。頼りになるし感謝もするが、近づかなくてすむならばそれに越したことはないと。
「・・・さて、私はヒロキのおかげでミゴールに昇格し、私やエリザだけでなく帝国の危機とも言える事件を未然に防いでくれた。今私が抱いている気持ちは・・・簡単に言葉に出来るものではない。だから、せめての想いを込めて形にしようと思う。ヒロキ・・・少ししゃがんで目を瞑ってくれ!」
「え!」
ヒロキは胸の高鳴りを覚えながらも、その指示に従う。地下迷宮で三度邪魔が入って遂げることが出来なかった行為に彼は期待した。
「・・・」
イサリアの唇の感触を激しい緊張の中で待つヒロキだったが、しばらくしても何の動きを見せない彼女の態度に嫌な予感を覚えるそれまで閉じていた目を開ける。
「・・・まさか!また俺をからかっ!!」
続いて怒りの声を伝えようとするが、それは彼の予想とは別の形で裏切られる。目を開いた瞬間を狙っていたかのように、イサリアはヒロキの唇に自分のそれを押し付けて彼を黙らせたのだ。驚いたヒロキだが、次に瞬間にはイサリアの身体を抱き締めていた。
しばらくそのまま抱き合っていた二人だったが、ヒロキは自身の理性を振り絞るとイサリアから顔を離した。もし今、彼女から離れなければ後戻りが出来なくなると思われたからだ。現時点で自分とイサリアは恋人同士というわけではない。これ以上の関係を迫ったとしてもイサリアは受け入れてくれるかもしれないが、そうなってしまっては、もう自分が生まれた世界、日本に戻ろうと思わなくなるだろう。イサリアの存在は愛おしいが、全てを投げ打ってしまうほど彼は大胆でも家族に対する愛情がないわけでもなかった。
「ヒロキ、いかな・・・いや、私はヒロキのことは決して忘れないぞ!」
「・・・俺もイサリアのことは忘れない!」
イサリアは離れようとするヒロキの身体をきつく掴むと、途中で言葉を入れ替えるように宣言する。ヒロキは彼女が最初に口にしようとした言葉の意味を察すると幸福感に包まれながら、今度は自分からイサリアに口づけを交わした。
その後、二人はどちらともなく無言のまま抱擁を解いてその時を待った。これ以上言葉を交わしてしまえばお互いの覚悟が鈍ってしまうことがわかっていたからだ。
「そろそろはじめようか」
戻って来たシャルレーに促されるとヒロキとイサリアは頷いた。新月なので実験室の窓から見える夜空は全くと言って良いほどの暗闇に包まれているが、彼女は何かしらの方法で正確な時間を知ることが出来るようだった。既にこの妖艶な女魔術士とも別れの挨拶を終えている。いよいよ元の世界に戻る時間が来たのだった。
床に描かれている模様を踏まないようにヒロキは魔法陣の中央に立つ。それを合図にイサリアはシャルレーに合図を送ると魔法の詠唱に入った。
「「・・・スメ・・・セル・・・リ・・・」」
読経のような二人の声を聞きながらヒロキはイサリアに眼差しを向ける。彼女の精巧に作られた美術品のような容貌を見ていると、先程の体験が夢の出来事か妄想のように思えてくるが、イサリアの柔らかい唇の感触を思い出すことで、ヒロキはそれが紛れもない現実であったと確信する。それと同時に彼は自分の意識が徐々に薄くなるに気付いた。魔法の才能にない彼でも送還魔法が発動し始めたことを察する。次元の壁を越える衝撃に備えるためであった。
「・・・イサリア!君に出会えたことは俺の・・・」
意識を失う寸前、ヒロキはイサリアと視線を絡め合うと渾身の力を込めて叫んでいた。それは次目覚めた時にはイサリアに関する記憶を忘れているかもしれないという恐怖心から発せられた。彼女のことを忘れたくないそれだけを願って彼はこの世界から存在を消した。
エピローグ
「大丈夫?体調が悪いのなら保健室に付き添いましょうか?」
目を覚ました弘樹の前には紺色のカーディガンを着た中年の女性が立っていた。彼女は図書室の司書を務める女性だった。その事実を頼りに彼は自分の記憶を呼び戻す糸口とする。イサリアと過ごした異世界〝アデムス〟の二週間の思い出とともに彼は自分が日本に帰り着いたことを知るのだった。
「あ、いえ・・・大丈夫です。・・・本を探していたら、つい寝そうになっただけです・・・」
「そう・・・では申し訳ないけど、もう部屋を閉める時間なの・・・」
弘樹は自分が本棚を背にしゃがんでいることに気付くと、もっともらしい理由を口にする。それでも司書の女性は心配そうな表情を崩さないが、彼が自力で立ち上がったことでもう追及はしなかった。
退室をさりげなく促された弘樹は図書室を出るとそのまま記憶を頼りに自分の教室に向かう。鞄を取りに戻るためだ。階段を登りながら彼は窓から外の景色を窺う。空は夕闇に染まりつつあり、遠くには高層マンションの黒い影があった。もっと近くに視線を送れば、今日の練習を締めくくるのであろう。校庭を走る運動部の姿が見える。
かつてはありきたりで見慣れた光景によって、弘樹は自分が元の世界に戻ったことを実感しつつあったが、喜ぶことは出来ずにいた。心に穴が開いたような喪失感も同時に湧き上がったからだ。それでも彼はその喪失感を無視して、今やるべきことに集中する。学校は時期に閉門の時間となる。それまでに鞄を持って下校しなくてはならなかった。
幸いにも知り合いには誰にも会わずに学校を出た弘樹は、最寄り駅に着いたところで改めて日付を確認する。その日は間違いなく、彼がイサリアによって彼女の世界に連れ去られた日に間違いなかった。つい先ほどまでは手を伸ばせば届く距離にいた少女の面影を思い出した弘樹は込み上げる涙に耐える。喪失感の正体はわかっていたが、今はまだそれに身を委ねるわけには行かなかった。気付けば彼は自分の家へと戻っていた。中規模マンションのエントランスを潜り、三階の自宅に向かう。鍵を開けて中に入ると台所から母親の声が聞えた。匂いからすると今晩のおかずは魚の煮つけのようだった。母の声とかつて親しんだ空気に弘樹の胸に安堵の気持ちが広がる。だが、それでも心の奥底に開いた穴を完全に塞ぐことは出来なかった。
「ただいま・・・」
それだけを告げると弘樹は自分の部屋に直行する。狭いとはいえこの時ほど自分だけの空間があることを有難いと思ったことはなかった。自分の城に籠った彼はブレザーを脱いでバッテリーの切れたスマートフォンに充電を施す。どんなに心が沈んでいても習慣となっていた動作は無意識に出来るようだ。
準備が整ったわけではないが、ヒロキはやるべきことを終えるとベッドに俯せになって泣いた。それは自分の想いと悩み、その他の感情を総括させるための涙だった。
やがて部屋の外から発せられた夕食を報せる母親の声を聞くと、弘樹は部屋着にしているジャージに着替える。思い切り泣いたからだろう。心の澱とも言える喪失感と悲しみは全てとは言わないまでも軽くなっていた。部屋を出ようとドアノブに手を掛けた彼の耳に、母親だけでなく妹の良く通る笑い声が響くように伝わる。試験前の勉強時に聞くと殺意を沸かせる耳障りな音に過ぎないが、今だけは懐かしくも愛しいように聞こえた。
弘樹は平穏な日常が直ぐそこにあることに気付くと、その中に戻るためにドアを開けた。
「ヒロキ!ヒロキ!」
一瞬の眩暈の後にヒロキは自分の名前を呼ぶ声に気付いた。その鈴を鳴らしたような可憐だが、どこか偉そうな声の持ち主を彼が忘れるはずはない。イサリアが自分を呼ぶ声に違いなかった。ヒロキは瞬きとともに眩暈を払う様に頭を振る。しっかり目を見開いた彼の目の前にはイサリアの笑顔があった。
「い、イサリア!・・・ど、どうなっているだこれは!!」
永遠の別れと信じていた金髪の美少女の姿を再び網膜に捉えたヒロキは歓喜を混ぜた悲鳴を上げる。
「うむ。実は今・・・私は大変な窮地に立たされているのだ!考え抜いた末に私を助けてくれる者はヒロキしかいないという結論に至った。早速だけど、ヒロキの力を貸してもらいたい」
承諾をするのが当然とばかりにイサリアはヒロキに言い放つ。ヒロキはその光景に始めて出合った頃のイサリアの姿を重ねるが、目の前の少女がヒロキに見せる表情には、その頃にはない親しみに満ちた笑顔があった。
「どうせ断っても、はいと言うまで上に乗り続けるのだろう!」
ヒロキはかつてイサリアのされた仕打ちを思い出しながらも、手を伸ばして起き上がる手助けを乞う。
「ああ、ヒロキが断ることは想定していない!」
「そうだと思った!」
イサリアに助け起こされたヒロキは立ち上がりつつも彼女の身体を抱き締めた。元の生活に戻れる寸前にまたもやこの世界に召喚されたことに対する混乱はあったが、ヒロキはそんな考えを頭の端に追いやる。家族との再会はもう少し先で良い。こうして彼女の身体に触れて体温を感じられる幸せに比べれば些末なことに過ぎなかった。
「では、私が置かれている今の状況を手短に説明しよう・・・」
胸の中で顔赤く染めながら説明するイサリアを見つめながら、ヒロキは再び彼女に振り回されるこれからの出来事を思うと自然と笑みが零れるのだった。




