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前編 

某イギリスベストセラー小説の雰囲気を異世界転生モノに落とし込んだ物語です。青春恋愛要素も多分に盛り込んでおり、一見強気だけど実はその心根は素直な金髪美少女との出会いから恋愛に至る課程を楽しみたい方に向けています

 プロローグ

 問い掛けられるような声に呼び起こさせると立川弘樹(たちかわひろき)は意識を戻した。鼓膜を震わせる声質に聞き覚えはないが、それでも彼は義務を果たすように目を開く。

「・・・なんだ?!」

 目の前に映った見慣れない情景に弘樹は思わず驚きの声を上げる。薄暗い光の中、自分が冷たい石材の床に寝転がっていたからだ。それと同時に目を覚ます以前の記憶を辿る。自分は直前まで学校の図書室でレポートの資料となる本を探していたはずだった。貧血を起こして倒れたとしても、図書室の床は淡いベージュ色の絨毯であったはずだし、そもそも学校で石材が敷かれている場所を思い出せなかった。

 不思議に思いながらも更なる情報を仕入れようと弘樹は身体を起こす。すると顔を上げた彼の視線を塞ぐように一人の人影が現れた。そう、寝ていた自分に呼び掛ける者がいたのだ。

 視界に映った人物によって弘樹はこれまで以上の困惑の表情を浮かべる。現在の状況に思考が追い付かず、彼は氷ついたように固まった。それでも弘樹の中の古いシステム、おそらくは本能だろう。それは人物を観察し評価することを実行する。弘樹は目の前に現れた人物を美しい少女と判断した。

 年齢は自分の一つか二つ下の十五歳程度だろう。彼女は長く綺麗に揃えられた金髪を持ち、瞳は赤味を帯びた茶色をしている。髪色だけならヨーロッパ系の人種と思われるが、顔つきはそこまで彫が深くなく、微かな光に中でも白人と呼ぶほど肌が白くないこともわかった。もっとも、目鼻立ちは整っており長い睫毛もあって女性としては非常に魅力的で、あどけなさを残しつつもどこか大人びた顔つきをしている。人種が交わると美人が生まれやすいと言われているが、この少女の身体は幾つかの人種の良いところだけを集めて作られているように思われた。

 また、彼女の服装も弘樹の常識からは逸脱するものだ。短めのマントらしい上着を肩に掛けて、その下には黒を基調とした膝丈の服を纏っている。下半身はスカートではなく同系色のズボン、そして足は革製のブーツを履いていた。特に目に付くのは幅広のベルトに帯びている短剣だ。金細工で装飾されているので単純な武器というよりは装飾品のように思われたが、シックな色合いの中にあってかなり目立つ。全体的に見れば中央アジア付近の民族衣装と一昔の軍服を足して二で割ったような印象だ。

「ナ・・フィ・・レミ!」

 弘樹に対して少女が何度目かの言葉を投げ掛ける。外見の美しさに似合った鈴を鳴らしたような声だが、やや苛立ちを感じさせた。外国語らしく言葉の意味はわからないが、こういったニュアンスは伝わる。

「・・・ちょっと、何を言っているのかわからないですね」

 弘樹は数えきれないほど湧き上がった疑問を抑えて返答する。問い掛けたいことは山ほどあるが、言葉が通じないのでは意味がない。まずはこちらが彼女の使う言語を理解出来ないことを伝えるべきだと判断した。英語での応答も考えたが早々に諦める。何しろ自分には標準的な高校生程度の知識しかない、下手に英語が通じると思われると厄介であるし、そもそも彼は直感的にこの少女が常識の通じない異質な存在だと認め始めていた。

「レ・・・スム・・・ネン!」

「うわ!」

 詩と思われる言葉を囁きながら自分の肩に触れる少女の行動に弘樹は驚きの声を上げた。彼は石造りの床に胡坐を掻く形で座っていたのだが、彼女は何かを悟ったような表情を浮かべると前方から一気に距離を詰めたのだ。当然ながら弘樹の目の前には少女の胸部分が迫ることになる。残念なことに起伏には乏しいが、年頃の異性の身体に弘樹は赤面する。

「これで、言葉が通じるな?!」

「な!・・・ど、どうなっているんだこれ?!」

 慌てる弘樹に少女は改めて日本語で語り掛け、彼はそれに疑問で答える。彼女の言葉が直接頭に響いているように感じられたからだ。

「・・・ん?言語変換の魔法を掛けただけだよ、そんなに驚くほどのことじゃないだろう。これで君の言葉はこちらの世界の共通語となり、君も私の言葉が理解出来るようになったはずだ。まあ、いきなり呼び出したのは不作法だったが、こちらも事情があってね。早速だけど、君の力を貸してもらいたい」

「ま、魔法?・・・助けだって?!」

 少女に腕を引かれて立ちあがった弘樹は彼女の言葉を反芻するように呟く。強気な発言のわりに少女の身長は低めで彼の肩ほどだ。百五十㎝を僅かに超える程度だろう。

「ああ、私はイサリア・アーヒエン・リゼート。帝立魔導士官学院の士官補生・・・まあ、君と同じ学生だ。実は来週にミゴールへの昇格試験があるのだが、この試験は二人一組の参加が義務付けられていてね。それで君には私と一緒にその試験に参加してもらいたいのだ!」

 名乗りを上げた少女はさも当然のように弘樹に告げたのだった。


 1

 クラスで担当している視聴覚室の掃除を終えると、弘樹はクラスメートと別れて別棟一階にある図書室に向かう。一週間後に控えたレポート発表の資料を借りるためだ。このレポートは二学期の始まりに二年生全員に出された課題で、それぞれが興味ある分野を選んでクラスで発表するという形式になっていた。選択肢の幅も多く、単純な優劣として評価出来ない課題だが、学校側としては学生にこれからの進路を今一度考える機会としていると思われた。

 そして将来の進路に対して明確なビジョンを持っていない弘樹は、中間試験が終わったこの頃になるまでレポートを手付かずであったのだ。一応は進学を希望している彼だが、学部についてはまだ決めかねていた。化学や物理等の理科系の成績は悪くない弘樹であるが、数学は得意とは言えない。そちらの方面に進むには数学は避けては通れぬ学問なので理系に進む決心はまだ出来ていなかった。かといって文系となると、こちらもはっきりとした興味がある分野が思いつかない。こういった事情があり弘樹はレポートの作成を後伸ばしにしていたのだが、それも期限が一週間迫り、ようやく重い腰を上げたというわけだった。進学を目指している割には悠長なことだが、このレポート作成がなければ開始がもっと遅れていただろう。

 レポートだけでなく将来の展望を考えるにしてもやや遅いスタートを切った弘樹ではあったが、今日の図書室で心に〝ピン〟と来た分野をこれからの目標する覚悟は決めていた。動くまでは遅くとも一度動き出せば目的に向かって万進する。それが彼のモットーだった。

 その決意を胸に弘樹は図書室の中を分野に拘らず見て周る。タイトルだけでなく本の装丁でも気に入ったら手に取り、最終的に目標を決めるつもりだった。

 そんな弘樹の身に異変が起ったのは、彼が民族学の扱った棚から本を引き抜こうとした時だ。タイトルは思い出せないが、黒の背表紙に金字で書かれた装丁に惹かれたことは覚えている。その後、眩暈を感じたヒロキは暗闇に引き摺りこまれるように意識を失ったのだった。


「なんだと!君は本当に魔法を全く使えんのか!」

「そうだよ!もう何回も説明しているだろう。俺は図書室で本を探していた単なる高校生で、君を助けられそうにないんだ。だから早く元の世界に戻してくれよ!」

 イサリアと名乗った少女の美しい顔付きに半ば見惚れつつも、弘樹は彼女に起こされる前の記憶を再び思い出して必死に訴える。例え相手が正体不明の美少女であったとしても、自分の立場とこれまでの動向を正しく理解してもらわなくてはならないと思われたからだ。そして記憶の反芻はパニックに陥りそうな今の状況を現実であると裏付ける支えとなった。

 思いがけない出会いをした彼らだったが、二人はお互いの立場を把握するために、部屋の片隅に置かれた丸テーブルで向かい合いながら話し合っている。

 弘樹が目を覚ました場所はヨーロッパの城を思わせるような石造りの部屋で、イサリアの説明によるとこの部屋は優秀な士官候補生のみに与えられる寄宿寮の個室ということだった。個室とされてはいるが、ヒロキの常識からするとかなり広く彼の実家のリビングとダイニングを合わせたよりも更に広い。畳で言えば三十畳くらいはありそうだった。

 そして部屋の中央の床には直系二メートルほどの幾何学模様と未知の文字で奇妙な図形が描かれていた。その周囲には黒曜石を思わせる拳大の石が幾つも置かれているが、これが何であるかは弘樹にはわからない。だが、図形に関してはある程度の推測が可能だ。おそらくは魔法陣と呼ばれる代物だろう。その魔法陣を描くためにテーブルセットが壁際に片付けられており、弘樹は少女に誘われてそこに腰を降ろしたのだ。また、先程までは開いた窓から差し込む満月の明かりだけを頼りにしていたが、今では台座に乗せられた水晶の玉から原理不明の光が溢れて部屋を照らしていた。

「そんな・・・私の召喚魔法は、数多の多元世界の中からもっとも相応しい存在を選びだしたはず・・・それが初歩の魔法も使えない無能者を呼び寄せたなんて・・・失敗だったのか!」

「・・・ちょっと待ってくれ!そっちが勝手に呼び寄せておいて、そんな言い方はないだろう!そもそも俺の世界には魔法なんてモノは存在しないんだ!だから俺個人の問題ではないんだって!」

「うむ・・・君の世界ではカガクとかいう魔法を伴合わない錬金術に近い技や理が発達しているのであったな。しかし、全く魔法を使わずに錬金術が作用するとは思えないのだが・・・」

 ヒロキはイサリアと名乗った少女の言葉に過敏に反応する。彼は自分でも平凡な高校生に過ぎないと自覚してはいたが、これまで試験で平均点を大きく下回る点数は取ったことはない。無能扱いされるのは心外だった。当のイサリアも言い過ぎたと判断したのか、話題を先程説明された日本の技術や文化に切り替えた。

「いや、全部本当だよ!これもその科学で作られた道具なんだ!」

 証拠とばかりに、弘樹はブレザーの内ポケットからスマートフォンを取り出してイサリアに見せつける。既に通話とネットへの接続は試みているが、圏外であることを確認しただけだった。

「な!・・・これは凄い!絵が動いている!それに、本当に魔力を感じぬな・・・これは君が作ったのか?!」

「いや、これは俺の世界で売られている携帯電話と呼ばれる道具の一種で、離れた場所でも知り合いと会話が出来て、更に情報を絵や文章として送ったり受け取ったりすることが出来るんだ。使うにはと電気が必要だから定期的に充電する必要があるんだけどね」

 データとして保存していたアニメーション動画を見せながら、弘樹はイサリアにスマートフォンについて説明をする。

「なるほど・・・君の世界では魔法と魔力の代わりにカガクとデンキとやらを源にした文明を築いているのだな。魔法を使えぬと聞かされて驚いたが、根底の理から異なる世界では仕方ないのかもしれない・・・」

「納得してくれたようだね」

 スマートフォンの機能を披露したことでイサリアは弘樹の説明を信じたようだった。また、これまでの彼女との会話から彼自身もこの世界に対して理解を深めていた。

 にわかに信じられないことだが、どうやら自分はイサリア・アーヒエン・リゼートと名乗る少女の召喚魔法とやらによってこちらの世界、彼女が〝アデムス〟と定義している魔法が当たり前のように存在し文明として発達している世界に連れて来られたようだった。それもイサリアが語るには学校の昇格試験に一緒に参加してくれる相手が見つからなかったので、異世界から呼び寄せようとしたという、なんとも気軽な理由からだった。

 イサリアが学ぶ帝立魔導士官学院という学校の規定では、基準を満たせば他の魔法学校の生徒でも試験参加を認められているらしい。それを拡大解釈して彼女は異世界の魔法学校の学生を召喚魔法で呼び寄せようと試みたのだが、なぜか魔法とは縁遠いと思われる地球の高校生であった自分が選ばれてしまったらしい。

「えっと、リゼートさん・・・誰にでも失敗はあると思うよ。そんなわけでまずは俺を元の世界に戻して、改めてもう一回やり直せば良いじゃないかな?」

 弘樹はスマートフォンをポケットに戻すとイサリアを慰めるように懇願する。勝手に呼び出された被害者の立場ではあったが、落ち込む可愛らしい少女に強く当たれるほど彼は厚顔ではなかったし、なにより下手に怒らせて臍を曲げられると厄介なことになるという予感があった。妹がいる彼にはこの世代の少女の面倒さも知っていた。

「気安く言ってくれるな・・・いや、君は魔法のことは知らぬのであったな。さすがの私でもこの規模の召喚魔法はそう易々と使える魔法ではないのだ。事前に代償を用意し、魔法陣を何時間も掛けて描き、更に月齢に合わせて魔法を行使する必要がある。その際に消費する魔力も膨大で連続使用は不可能・・・特に月齢が重要で、召喚も送り返す送還魔法も次の新月まで再使用は不可能なのだ」

「・・・次の新月っていつなの?」

「今日が満月なので、十五日後だな。ついでに昇格試験もとっくに終わっている・・・」

「つまりは最低でも十五日は帰れないってこと?」

「うむ、そういうことだ。魔法は使えぬが、あれだけの道具を使いこなすだけあって君は論理的な思考は持っているようだな」

「・・・だな!じゃないよ!十五日間どうしたらいいんだよ!俺の世界じゃ高校生が十五日も失踪したら大事件だよ!マスコミがわんさかやって来るよ!せっかく追い付いた勉強もまた遅れるだろうし!あんたのせいで滅茶苦茶だ!」

 これまで我慢していた反動もあってヒロキはイサリアに対して激しい本音で訴える。表情は半分ほど泣いている。彼女の言い分は異世界であろうと人の理に外れているように思われた。

「ま、待て!男子がそんなに狼狽えてはいかんぞ!・・・マスコミとやらがどのようなモンスターかは知らぬが、元の時間軸で送り返すつもりだし、それまでは私が君の衣食住の面倒をみてやる。私にもその程度の甲斐性はあるのだ。だから安心したまえ!・・・それより、私には試験のパートナーが必要なのだ!試験自体は私一人でもなんとかなるであろうが、二人一組でなければ参加することすら出来ぬ!・・・君が魔法に疎い、いや全く才能に欠けるとしても学生ならば頭数に入れることが出来る!どうだ、ただ単に月日を重ねるのではなく、私の昇格試験に協力してみないか?・・・今より十五日後、試験に合格した私と、試験の門前払いに合って失意の私とでは送還魔法の成功率も変わってくるだろうな!」

「むむ・・・」

 一時は感情を爆発させた弘樹だったが、イサリアの言葉に唸るしかなかった。内容自体は協力への強要に近いが、論理的には筋が通っていた。魔法が実在する世界で自分が役に立てるとは思えなかったが、次の新月まで何もしないで時間を潰すくらいなら、この少女の手伝いくらいしても良いと思えたのだ。イサリアの態度と言動には尊大なところもあったが、綺麗な女の子に頼まれて悪い気はしなかった。何より元の世界に返るには彼女に頼る他ない。関係を悪化させるわけにはいかなかった。

「まあ、きちんと元の世界に戻すって約束してくれるなら、俺が出来る範囲で手伝っていいかな・・・」

「おお!感謝するぞ!ではその気持ちが変らぬうちに指を交わそう。親指を出してくれ!」

「なに?指切りげんまんでもするのかな?」

「ゲンマンが何かは知らぬが、これはお互いが約束を忘れぬようにする儀式だな。こちらでは指合わせと呼んでいる」

「ふうん、どこにでも似たような習慣があるんだね・・・」

「ほう・・・それは面白い事実だな・・・では、こうして親指を差し出してお互いの名前を読んで約束を口にするのだ。えっと・・・」

「ああ、ごめん。さっきは焦っていたから自己紹介を返せなかったね。俺は立川弘樹、タチカワ・ヒロキ。こっちの名前の順番は知らないけど、日本だと先に苗字が来るんで俺の名はヒロキ」

「そうか、ではヒロキ。私はヒロキを次の新月には元の世界に送り返すと約束しよう!」

「じゃ、僕はリゼートさんだっけ?君の試験を手伝うと約束するよ!」

 その言葉とともに二人はお互いの右手の親指を触れさせる。既に肩には触れられていたが、美しい少女のイサリアと直接肌を接する行為に弘樹は緊張した。

「で、でもさ二人一組でしか受けられないって、その試験・・・ちょっとおかしくない?受験者の数は必ず偶数になるとは限らないわけだし、なんかシステム的に問題があるように思えるな」

 指を押し付けていた時間は二十秒ほどだったが、胸の高鳴りを誤魔化すように弘樹はイサリアに問い掛ける。何か喋らないと変な気分になってしまうと思われたのだ。

「そう、その通り。ヒロキ、君はなかなか洞察力があるな!私もそう思い、その疑問を直接、学院長に問い掛けたことがある!私は自慢ではないが、なかなか優秀でな。飛び級を三回しているのだ。昇格試験は二人一組での参加が義務付けされており、飛び級で同世代の友人が少ない私には圧倒的に不利だとな!」

「えっ!リゼートさんって三回も飛び級しているの?!そうかそれで、歳のわりに偉そうなのか・・・」

「歳と能力や才能は必ずしも一致しないであろう?それとイサリアで良いぞ。ヒロキと私は既に指合わせをした間柄だ」

「そっか、じゃイサリア・・・学院長はなんて答えたの?」

「苦楽を共にして背中を預けられる友人を見つけるのも、学院で得る大切な教えと経験の一つだと言われた。この世代で出来た友は一生の宝になる可能性があるとな。ヒロキ・・・君を男子と見込んで明かすぞ・・・私は自分でも優秀だと自負していたが、その言葉を聞くと泣きたくなるのを必死に堪えて学院長の部屋を飛び出した。そして絶対に自分の力だけでこの試験を受かってやると心に誓ったのだ!友人がいな・・・ちょっと少ないくらいで負けてたまるかとな!」

「・・・ボッチは恥ずかしいことじゃない。運が悪いと誰にでも起こり得ることだ!」

 イサリアの告白に弘樹は深く納得するように頷く。彼は現在公立高校に通う二年生だが、進級間もない頃に交通事故に遭い二週間ほど入院していた。幸いにして怪我は後遺症を残すものではなく今では完治しているが、彼が学校に戻る頃にはクラスの交友関係が出来上がっていたのだ。こうなると後からその中に入るのは結構難しい。特に仲間外れにされたり、いじめられたりしているわけではないのだが、後からやってきたクラスメートという立場を払拭出来ずにいたのだ。それだけにイサリアの気持ちは理解できた。

「よく言ってくれたヒロキ!私は優秀な人間ほど不利になるこの試験に見事に合格してみせるぞ!」

「うん、俺も出来るだけ足手纏いにならないように頑張るよ!ところで試験はどんな内容なのかな?筆記試験で二人の合計点とか?」

「はは、そんなつまらん試験は最下級ミーレでもしないぞ。ミゴールへの昇格試験は学院地下の迷宮から課題の品物を時間内に生きて持ち帰ること、ただそれだけだ!」

「ち、地下の迷宮?生きて?」

「ああ、この学院の地下には歴代の導師達の実験場や合成したモンスターの廃棄場として複雑な地下道が存在し、実践的な魔法の訓練の場として様々な試験に使われているのだ」

「も、モンスター!そんなの聞いてないぞ!」

「言ってないからな。なに大丈夫だ。地下にいるのは、野放しにしても問題無しとされた雑魚モンスターばかりだ、私なら敗けやしない。・・・試験と学院については明日になったら改めて説明しよう。今日はもう遅い、そろそろ寝ようではないか、ふわあ・・・」

 試験内容について問い詰める弘樹だったが、イサリアはそれに大きな欠伸で答える。

「そんな!」

 なおも聞き出そうとする弘樹だったが、イサリアに手を握られると言葉を飲こんだ。黙る彼をイサリアは誘導するように部屋の寝台に導く。

「え、ちょっと!話はまだ・・・・何?そのベッドに二人で寝ようってこと?!」

「そうだ、二人で使うには少し狭いが今晩は我慢してくれ。明日になったらこの辺の面倒はまとめて片付けるから・・・」

「いや、狭さじゃなくて俺は男だぞ!お、女の子と一緒のベッドで寝たりしたら、がま・・・理性を抑えきれないかもしれないだろう!」

「もちろんわかっている。母上から男は時に獣になると聞いているからな。だから、ヒロキには朝までしっかりと熟睡してもらう・・・」

 イサリはどこからか短い棒を取り出すと、詩のような言葉を紡ぎながら棒の先端を弘樹に向ける。それを受けた彼は途端に睡魔に襲われると寝台に向かって倒れ込んだ。


 2

 何かの物音が微睡に中にあった自分の意識を覚醒させつつあった。近視感を覚えつつも、無意識に音の正体を探ろうとしたヒロキは胸に湧く大きな不安と微かに甘酸っぱいような感覚に戸惑う。それと同時に昨晩に見たと思われる夢のビジョンが浮かび上がった。学校の図書室にいたら突然意識を失って、気付いたら目の前に国籍不明の金髪美少女が立っていた夢だ。

『性格はともかく凄い美人だったな・・・』

 少女の顔を思い出したヒロキは微笑みながら二度寝に入ろうと寝返りを打つ。目覚まし時計が鳴るまではこうして怠惰に過ごすのが彼の癖だった。

「起きろ!ヒロキ、朝だぞ!」

 改めて問い掛けられたその声にヒロキはそれまでの眠気をかき消された。彼の脳は目まぐるしく活発化し、身体はまるで氷水を掛けられたかのように反応して寝台から飛び起きる。

 ヒロキの瞳に、癖のない見事な金髪にブラシを掛けるイサリアの姿が映った。

「おはよう、ヒロキ。君は面白い起き方をするな!そっちの世界では皆がそのように慌てて跳び起きるのか?・・・とりあえず、なんとか制服を調達して来たので、身支度を整えるついでに着替えてくれ。さすがに十五日間も同じ服を着させるわけには行かんからな。まずは洗面器で顔を洗うと良いだろう。水は綺麗にしたばかりだ」

「夢じゃなかった・・・」

「何を呆けている。ヒロキも腹は空かしておるだろう。朝食に遅れるぞ!学院長への紹介や報告はまだだが、学院の制服を着ていれば、怪しまれずに済むはずだ。君も面倒なことは腹を満たしてからの方が良いだろう?」

「それは・・・確かに・・・」

 昨夜の出来事が現実であったショックの余韻を味わう暇もなく、ヒロキはイサリアの言葉に頷く。この世界についての不安や疑問が果てしなく湧いてくるし、寝る直前に何か大事な話をしていた気もするのだが、今は彼女の指示に従うのが正解だと判断する。何しろ空腹なのは間違いないからだ。

 昨夜は学生服のまま寝かされたヒロキだったが、用意された洗面器の水で身嗜みを整えると安堵の気持ちとなる。レバーを捻れば簡単にお湯が出るような世界ではないが、衛生に対する考え方には大きな差がないようだ。

 そして、渡された学院の制服に着替えたヒロキは腕を広げながら自分の姿を眺める。制服には男女での差はなく、サイズを除けばイサリアが着ているのと全く同じだ。当然、初めて袖を通す服だが、ボタンといった衣服としての機能は現代の日本の常識と共通しているおり、問題無く着ることが出来た。日本、いや地球とは異なる文明を歩んでいる異世界だったが、衣服としての機能を追求するとこういったところは似てくるのかもしれない。また、最初はどこか照れ臭い気分であったが、実際に着てみると厳粛さを感じさせるデザインのわりに動きやすいことがわかった。

「着替え終わったよ!」

「うむ、悪くないな。脱いだ君の服はこれに・・・あと最後にこれを腰に巻いてくれ」

 身嗜みと着替えの間、後ろを向いて部屋の奥のキャビネットを漁るようにしていたイサリアが戻ってくると、ベルトとハンガーをヒロキに差し出した。

「おお・・・」

 それらを受け取ったヒロキはちょっとした歓声を漏らす。幅広の黒革のベルトにはイサリアと同じような要所を金らしき金属で飾られた短剣と、それと対照になるように先端に青い宝石で飾られた短い棒が鞘によって吊り下げられていたからだ。

「借りていいの?こんなに高そうなの・・・」

 短剣とはいえ本物の武器に興奮するヒロキだが、施された装飾からその価値を想像して問い掛ける。

「かまわない。私の予備だから気にしないでいい。士官候補生は皆、自分の短剣と杖を持つ決まりとなっているからな。使うことはないと思うが腰に巻いてくれ」

「・・・わかった!ありがとう。凄くかっこいいよ、これ!」

「うむ、そうであろう。だが、短剣は絶対に人前で抜くなよ!それはあくまでも護身用であり身分を示す飾りだからな。下手に抜くと処罰される」

「・・・なるほど、気を付ける」

 昔の武士みたいなものかとヒロキは納得すると早速ベルトを腰に巻く。イサリアの姿を見るに、どうやら短剣は正面左、棒は正面から見えないように右後ろの腰側に固定するのがここでのマナーのようだった。

「よし、ではこれから食堂に向かうぞ!」

 イサリアは僅かに傾いていたヒロキのマントを直すと満足したように告げた。


『いいか、階段を降りた先は一般寄宿寮だ。ほかの候補生達も食堂に集まってくるが、黙って私の後を・・・そうだな、身体三つ分の距離を置いて付いて来てくれ。そして食堂に入ったら、そのままさり気なく私の隣に座れ!この間は言葉を発するなよ!会話から怪しまれるかもしれないからな。ミーレはそれなりに転入生が出るから、黙っていれば皆、新しく入ったミーレだと思い込むはずだ。食事を終えたらそのまま学院長の部屋に向かうから、改めて私の後を付いて来てくれ!』

 事前に教えられとおりにヒロキはイサリアの後を五メートルほどの距離を置いて、一階の廊下を右側の窓から差し込む朝日を浴びながら他の士官候補達に紛れて歩んでいた。左側には等間隔にドアが並んでおり、時折その中から制服を着た同年代の少年が現れては同じ方向に向かって進んでいく。当初は緊張したヒロキだったが、少年達はイサリアの警告どおり彼の姿に特別な関心を示さなかった。

 おそらく、帝立魔導士官学院は多種多様の人種や民族の生徒達で構成されているのだろう。多数派はイサリアのような髪色が薄い人種だが、浅黒い肌や黒髪の生徒の姿もちらほらと見掛けられる。この状況では、日本人のヒロキが混じっていても彼を部外者、ましてや異世界の人間と看破するのは不可能と思われた。

 余裕の出来たヒロキはイサリアの姿を見失わないように気を付けながらも、彼女が学院の寄宿舎と呼んだこの建物の構造に付いて考える。材質の多くは石材が使われており、非常に堅牢な作りだ。階数は三階建てでイサリアの部屋は最上階の三階にあった。この三階部分は彼女によると優秀生達に与えられる個室を揃えた階らしい。そして一階は扉から現れる学生が全て少年であることから、男子に用意された階に違いなかった。おそらくは残った二階が女子用になるのだろう。

 ドアが並ぶ間隔からすると一般生の部屋はイサリアの部屋とほぼ同じ大きさだと思われる。だが、一度に四人ほどの候補生達が談笑しながらドアから出るところも目撃しているので、少なくとも四人以上で一部屋を使っているようだ。優秀生はかなり恵まれた環境を用意されていると言える。飛び級を認めている制度からして、この学院は完全実力主義ということなのかもしれない。

 優秀生との待遇の差は歴然だが、昨日聞かされたイサリアの話もありヒロキは広く快適な部屋と、狭いながらも同じ世代の少年や少女達と寝食を共にする相部屋のどちらが良いのかは簡単に判断が出来ないと思った。何しろ建物の規模からすると数百人の生徒が存在しているはずなのに、イサリアは試験を共に受けるパートナーを得られなかったのだ。

 そんなことを考えて廊下を歩いているとヒロキは前から届く賑やかな音に気付く。大きな空間に反響する多勢の人間達の声で雑然としていながらも、特に耳に残らないそんな類の音だ。

 イサリアに続いて雑音に包まれるようにして食堂と思わしき広間に入ったヒロキは、意識的に感嘆の声を我慢しなくてはならなかった。広間はこれで歩んでいた廊下よりも更に天井が高く、奥行も横幅の広大でこれまで彼が見たことのない空間であったからだ。

 体積的には一般的な体育館を一回りほど大きくした程だろう。それだけならここまで驚くこともなかっただろうが、荘厳な石造りの空間はヒロキに異教の神殿を思わせた。特に前方と思われる壁には軍勢を従えるは英雄らしき姿を描いた大きな壁画が飾られており、その写実的ながらも迫力のある描写は鬼気迫るものを感じさせる。更に広間は他にも見事と評価するしかない数々の彫刻や絵画で要所が飾られていた。

 そして広間には長テーブルが規則正しく縦四列、横五列の間隔で設置されていた。唯一の例外は前の壁画を背後にする横向きに用意された長テーブルで、それには広間を見通せるように片側だけに椅子が並べられている。披露宴において新郎と新婦とその親族が座る席を連想させるが、おそらくこれは貴賓席か何かなのだろうと思われた。

 縦に並べられた長テーブルには両サイド合わせて二十人が座れる席が用意されているので、この食堂は四百人以上の人間が一度に食事を摂ることが出来るようだ。

 広間の雰囲気に飲まれていたヒロキだったが、イサリアのことを思い出すと慌てて彼女の後を追う。幸いにしてヒロキが足を止めていたのは数秒に過ぎなかったようで不自然に目立つことは避けられた。そんな彼を余所に他の候補生達は淡々と空いている椅子を埋めて行く。どんなに素晴らしい情景や芸術作品も見慣れてしまえば日常の風景なのかもしれない。

 やがてイサリアが最前列の貴賓席から最も遠い壁側のテーブル選んだので、ヒロキも当初の計画どおりさりげなさを装って無言で隣に座る。座る席は予め場所が決まっているのではなく、食堂にやって来た順に自由に選べるようだ。これなら学生の一人や二人増えたところで目立つことはないだろう。 

 テーブル席には白いテーブルクロスの上にフォークやスプーン、皿が既に並べられており、数多くの丸いパンを乗せた籠も等間隔で置かれている。それらはヒロキの知る一般的な食器やパンとは僅かに形が異なっていたが、服装同様に大きく用途が異なるようには思えなかった。だが、近くのテーブルに座っている他の候補生達の誰もがまだパンに手を出さずに近くの仲間達とのお喋りを続けているところを見ると、食事の開始時間は厳格に決められているに違いない。貴賓室らしき席に座る人物達が揃ってから一斉に行われるのだろう。ヒロキは日本の学食とは異なる習慣に不安を感じながらも、香ばしい匂いを放つパンの魅力に耐えねばならなかった。


「おはよう、イサリア!今日もあなたの愛おしい顔を見ることが出来てうれしいわ」 

 空いている席が埋まる中、向かいのテーブル席に現れた人物が唐突にイサリアに話し掛けた。それは僅か波打つ銀髪を肩のところで切り揃えた青い瞳の少女だった。イサリアよりも背が高く歳はヒロキと同じくらいだが、美人なのは共通している。異なる人種が珍しくないように、この世界では美少女も特に珍しい存在でないのかもしれない。

 彼女はイサリアに親しく優雅に語り掛けているが、ヒロキはその言い回しの中に挑発するようなニュアンスが込められていることに気付いた。彼女の青い目は宝石のような煌めきを秘めていたが、同時に氷のような冷たさも覚えさせる。髪色の違いもあり、イサリアを傲慢な黄金とするなら、さしずめこの少女は陰険な白銀と呼ぶのが相応しいだろう。

 顔の造形に関してはイサリアとこの少女は甲乙つけがたい存在であったが、スタイルでは銀髪の少女に軍配が上がる。彼女は身長に似合った長い手足を持ち、胸の膨らみもイサリアとは違い制服の上からもはっきりとわかるボリュームがあった。日本だったらグラビアアイドルとして大成功にするに違いない。

「私は特にうれしくはないな。エリザ・・・さっさと座ったらどうだ」

「あら、今日もイサリアのご機嫌は麗しくないようね。もっとも、ミゴールの昇格試験に参加するパートナーが見つからないのでは仕方ないわね!おほほほ」

 台詞に込められた嫌味に気付いたか、もしくは普段から二人はこのようなやり取りを繰り広げていたのか、イサリアの不機嫌な態度に銀髪の少女エリザは更に挑発を重ねる。

「そんな嫌味を言っていられ・・・」

「もう、エリザ!そんな意地悪なこと止めなさい!・・・ごめんねイサリア」

 言い返そうと興奮するイサリアだったが、それまでエリザの横に控えていた少女が二人の仲介に入ると途中で言葉を飲み込む。口ぶりからするとイサリアとも多少の親交があるようだ。

「うむ。気を使わせて済まんな、クロリス」

「気にしないでイサリア!とりあえず座りましょう、エリザ」

 仲介役を買って出た少女はエリザを退けるようにイサリアの正面に座る。おそらくは二人を向かい合わせると、またちょっとした言い合いを始めると危惧しての処置だろう、そのためヒロキの前にはエリザが座ることになった。

 これまで内心の緊張を隠しながら状況を見守っていたヒロキはクロリスと呼ばれた少女に感謝の念を送る。あのままイサリアが口走っていたら自分の正体がこの場で暴露されていたかもしれない。異世界に連れて来られた時点で無茶苦茶ではあったが、出来ればこんな大勢の前で目立ちたくはなかった。彼はこのちょっとした救済者により注意を向けた。

 クロリスは茶色の髪と瞳を持った中肉中背の少女だ。争いを好まない性格のようで顔付きも朗らかで可愛らしい。だが、気の毒なのは直ぐ近くににイサリアとエリザがいることだろう。人間性としては好意を抱きながらも、二人の存在を知ってしまったヒロキには彼女の容姿は凡庸としか感じられなかった。

「あら・・・あなたとは初めてお会いしたかしら?」

「・・・そ、そうですね。・・・始めてみたいです」

 自分の友人を見つめる視線に気付いたのか、エリザはヒロキに問い掛ける。先程とは異なりその声に嫌味なところはない。純粋に疑問を口にしたのだと思われた。イサリアからは喋ると言われていたが、目の前で声を掛けられて無視出来るほどヒロキのメンタルは強くも傲慢でもなく、当たり障りのない返事を口にする。

「では、ご存じかもしれませんが、私はエリゼート・シェテル・バルゲン。バルゲン家の者です。隣のこの子はクロリス・スカーチェ。以後お見知りおきを。・・・あなたはどこのご出身なのかしら?帝国が広大なのは承知しておりますが、あなたのような民族の方は初めて目にしましたわ」

「・・・タチカワです。・タチカワ・ヒロキ。出身は・・・ですね・・・」

「しっ!学院長がお越しになれたわ!」

 ヒロキがなんて答えようかと悩んでいるとクロリスが窘めるように小声で警告を発し、それが合図であったように回りの生徒が一斉に立ち上がる。慌てながらヒロキもそれに倣う。そのまま候補生達に合わせて直立不動を維持し、前の貴賓室に現れた十数人の大人達、おそらくはこの学院の教師達なのだろう。彼らが食堂に揃うのを見守った。

 その教師達の中央に位置するローブを纏った初老の男性が席に着くのを見計らったように、周りの候補生達も着席する。号令の合図はないが、妙にキレのある動きだ。ヒロキとしては遅れることなく回りの動きに合わせたつもりであったが、初老の男性がこちらに視線に送っているように見えたのでさり気なく目を伏せる。

「・・・おはよう諸君、今日は素晴らしい天気だ。こんな日に長い説法は似合わない。早速朝食としよう!」

 先程の男性が挨拶と食事の開始を告げると、これまでの緊張を解放したように周囲から笑い声が溢れる。自分の存在が発覚したと焦るヒロキもそれを聞いて安堵の息を吐く。そして広間に多くの給仕達が現れて教師達に、次いで候補生達に皿に盛り付けられた食事を配り始めた。

 これまでの状況からして、この初老の男性がイサリアの抗議を一蹴した学院長なのだろう。会話の内容からすると普段はもう少し長い話をするようだが、今日に限っては早めに切り上げたに違いない。イサリアの話では正論を語りながらも融通の効かない堅苦しい人物に思えたが、実際はそこまで酷くはないようだ。

「・・・!」

 学院長に対する評価を自分なりにまとめていたヒロキだったが、自分に料理を配膳する給仕の姿に驚きの声を噛み殺した。細身の人間かと思われた給仕達は木材で作られた等身大の人形であったからだ。表面をニスのようなコーティング剤で塗られただけの簡単な構造だが、まるで意志を持った人のように滑らかに動いている。彼は常識ではあり得ない光景に改めて自分が異世界に来たことを思い知った。

「ヒロキさんでしたわね、どうされましたの?」

 先程は問い掛けを中断されたエリザだが、ヒロキの顔に浮かんだ驚きの表情に対して仕切り直しとばかりに話し掛ける。

「あっいや、き、・・・今日はわりと話が短いなって・・・」

「ええ、確かに今朝の学院長のお話は短かったですが・・・そこまで驚くことでもないでしょう。私にはまるでウッドゴーレムを始めて見た子供のように見えましたわよ。それに先程の質問の答えをまだ聞かせて頂いておりませんわ」

「あの・・・それは・・・」

「なんだ、エリザ。ヒロキのことを気に入ったのか?だが、彼は私の家の後援者だからな。バンゲル家のそなたに靡くようなことはないぞ。少しくらい胸が大きいからといって、全ての男が言いなりになると思ったら大間違いだ!」

 返答に困るヒロキに代わってイサリアがエリザに答える。敢えて相手を怒らすように仕向けているのだろうが、話の内容からするとこの二人の仲の悪さは個人的な事情だけではないように思われた。

「失礼なことを言わないで下さい!でもまあ、やはりそうでしたのね。あなたの隣に男子が座っているのでおかしいと思いましたわ。イサリア、あなた、新たに転入して来たミーレを家の力を使って無理やり取り込んだのでしょう!もしくは後援者をミーレとして学院に引き込んだのね!これだからリゼートは傲慢で節操がないと言われているのですよ!」

「ふん、そなたこそ、先程はバンゲル家の出身であることを強調していたではないか!」

「ああ、もう二人ともまずは食事をしようよ。それにあまり騒ぐと導師の方々の目に止まっちゃうよ!」

「む・・・・」

「う・・・」

 再び口論を始める二人だがクロリスの忠告、特に後半が効いたのか同時に頷くと用意された朝食に手を付け始める。どうなるか心配したヒロキも空腹を思い出すと朝食に入った。そして言い争う少女達を無視して淡々と仕事を熟すウッドゴーレムと呼ばれた人形については、魔法で動くロボットのようなものとして捉える。詳しい原理はともかく、現象としては便利な存在であることには違いなかった。

 あまり居心地の良い状況でなかったが、ヒロキは二人の少女に続いて黙々と食事を開始する。メインディッシュはスクランブルエッグと茹でたソーセージで、副菜としてコンソメに似た野菜の入ったスープが添えられている。それにおかわり自由のパンと牛乳が付き、ヒロキはそれまでの空腹もありパンを三個、牛乳を二杯としっかり平らげた。

 料理の味付けは日本のよりもあっさりしていたが、その分素材の味が活かされていた。逆に牛乳に関しては彼が知る味よりも遙かに濃厚だ。いずれにしても全体的にはそれなりに美味でヒロキが食べることの出来ない食材もなく、彼は身体の中に活力が湧いてくるのを感じた。

「それでは、今日が諸君達にとって実りある一日になるように!」

 ヒロキが食事の余韻を感じていると、周囲の喧騒が急に静かになり気配が変ったことに気付く。何が始まるのかと待ち構えると学院長が食事の終了を宣言し、その後は先程と同じように候補生達が立ち上がり、学院長達が食堂から去るのを見守った。

 大人達の姿が見えなくなると、候補生達は再び喧騒を立てながら動き出す。宿舎側に戻る者達が居れば、別の出口に向かう者達もいる。彼らはそれぞれ講義や実技を受けるために移動を開始したのだ。

 イサリアの説明によれば、この帝立魔導士官学院は魔法文明によって築き上げられた国、ベルゼート帝国の将来を担う人材を育成させるための機関であると言う。かつては貴族の子弟達のみに軍士官の道が開かれていたのだが、政治的な配慮と身に着ける魔法の偏りが問題視され、平民にも門出を開いた中立的かつ総合的な教育機関として設立されたらしい。

 それがなぜ単なる学院ではなく、軍所属の士官学院とされただが、ベルゼート帝国は皇帝を頂点にする軍政が敷かれているからだ。この国で要職に就きたいのであれば、まずは軍人としてキャリアを積まねばならないとのことだった。

 民主主義が当然とされる日本で育ったヒロキの感覚では恐ろしいことのように感じられるが、かつての日本も武士という一種の軍人政権の下で一千年近く統治されてきた歴史がある。客観的に見れば民主主義時代の方が歴史的に浅く、人間の統治システムとしては軍事政権の方が実績は上なのだ。日本との違いはこの世界では弓や刀を扱う技術ではなく、魔法を扱う腕前こそが評価されるという点だろう。

 いずれにしてもこの国で学生と呼ばれる身分の者は、帝国軍への任官を目指す士官候補生のことを指すのだった。

 その士官候補生は大きくミーレとミゴールの二つに別けられる。細かい違いはあるがミーレは日本では中学生から高校生に該当し、ミゴールは大学生から大学院生に分類されると思われた。一般的には十二歳前後でミーレとして学院に進学し、六年間ほどでミゴールへの進学資格を得て、昇格試験に臨むのだと言う。もちろんミーレで教育を終えて学院を去る者もいる。むしろそれが主流派でミーレの六割を占める。彼らの多くはミーレ卒業資格を得ると帝国の属国や地方政権で軍の士官や役人に登用されるという。反対にミゴールに進み卒業資格を得た者は正式士官として中央政府とも呼べる皇帝直轄の軍や組織に配属されるとのことだった。

「では、クロリスまたの機会に」

「またねイサリアと・・・ヒロキさん」

「ヒロキさん!もしイサリアとリゼート家に嫌気がさしたのなら、私がいつでもご相談に乗りますわよ!覚えておいてくださいね!」

「・・・あ、はい。機会がありましたら・・・」

 イサリアから教えられた大まかな学院の制度を思い出していると、ヒロキはクロリスとエリザに別れの挨拶を告げられ、彼は慌てて答える。

 席を立つ二人の姿を見送ると、ヒロキは軽い罪悪感を覚える。何しろ彼はこの学院の正式な士官候補生ではない、彼女達を騙しているように思えたのだ。

「よし、なんとか厄介者のエリザを誤魔化せたな。腹ごなしも終わったし、ヒロキ、私達も移動するぞ!」

 だが、イサリアがヒロキに見せた屈託のない笑みによって彼の迷いは薄くなる。美人の笑顔、それは彼の年頃の少年からすれば何にも勝る報酬に思えた。


「・・・イサリア、君の実家とあのエリザっていう人の家とは仲が悪いのかな?」

 広間から続く渡り廊下を歩みながらヒロキは先程の抱いた疑問をイサリアに問い掛けた。余計なことは喋るなと口止めされていたが、彼らを除くと学院長の部屋に出向く候補生達の姿がなかったからだ。

「うむ。・・・一度に説明してはヒロキが混乱すると思って伝えていなかったが、このベルゼート帝国には現在公家と呼ばれる有力貴族が五家存在しており、帝位の引き継ぎは世襲ではなく公家の当主の投票によってその中から選ばれている。そんなわけでこの五大公家の間では帝位を巡って政略結婚はもちろんのこと、表に出ない様々な水面下での駆け引きが繰り広げられているのだ。そして・・・私が生まれたリゼート家と先程のエリザのバンゲル家は共に五大公家の一角を占めているのだが、この家は異なる派閥に属す間柄で、長年に渡ってライバル関係にあるのだ。それに加えて年下の私が三回の飛び級でエリザに追いついたことが、彼女の癇に障ったのであろうな」

「ふうん・・・なるほど、そういうことだったのか」

「ん?!あまり驚かないのだな。・・・これまで歳の近い者は私がリゼート家の出身であることを知ると慌てたものだが・・・」

「まあ、イサリアにしてもさっきのエリザさんにしても貴族的って言うか、お嬢様の気配がガンガンに出ていたからね。それに俺はこの国どころか・・・〝アデムス〟だっけ?この世界の人間ですらないから五大公家と言われても、いまいち凄さがわからないな・・・」

「そうであったな。自分で召喚しておいてなんだが、ヒロキが異世界の人間であることを忘れ掛けていた。君の環境への適応の早さには驚かされるな!」

 予感は得ていたので素直に納得したヒロキであったが、逆にイサリアが驚きの声を上げる。

「なんだよ、それは?!こっちはさっきからボロが出さないように緊張のしっぱなしだよ!」

「うむ。それについては私も感謝に値すると思っている。だが、それも学院長にヒロキの存在を認めさせるまでだ。もう少し我慢してくれ!」

「・・・わかったよ」

 この世界への不安が完全に払しょくされたわけではないが、徐々に明らかになる事実とイサリアの力強い言葉にヒロキは励まされた。

 その後はちょっとした雑談を交わしながら渡り廊下を歩むヒロキだが、窓から垣間見える緑なす山々の景色によって、彼はこの帝立魔導士官学院がかなり人里離れた土地に存在していることを知る。それをイサリアに問うと彼女は肯定し、学院が築かれる数百年前この地には大鷹が棲んでいたらしく、そのことから学院は今でも通称で〝鷹の学院〟と呼ばれていると答えた。

 しばらくして二人は長い渡り廊下を抜けて食堂があった広間とは別の建物に辿り着く。

「ここは学院長の塔だ。彼は最上階の部屋に戻っているはずだからこれを使うぞ!」

 殺風景な円形の広間を抜けてヒロキを奥に案内したイサリアはそう告げる。彼女が指摘したのは真鍮のような金属で出来た大型の箱で、中は十人ほどが乗れそうなスペースがあった。良く見れば微かに床から浮き上がっていて、広間の上部を見るとその箱が通り抜けられるだけの穴が天井に開いている。詳しい原理は不明だが、魔法で動くエレベーターに相当するシステムと思われた。

 二人がやって来た廊下を時計の八時方向とすると、謎のエレベーターらしき物体は広間の十二時の位置にあり、四時方向には別の廊下、六時方向には外に通じると思われる扉とその横に扉壁沿いに螺旋を描く階段が備え付けられていた。壁には小さな窓しか見当たらないが、それを補うようにイサリアの部屋でも見掛けた水晶が適度な距離を置かれて光源となっている。つまりこの広間はエレベーターホールというわけだ。

「これに乗って上に行くのかな?」

「そうだ、察しがいいな。完全に止まるまで箱の外に身体を出すなよ。死ななければ怪我は治療魔法で治せるが失った血までは回復させられないし、何より酷い苦痛を味わうと思われる」

「わかった・・・」

 イサリアに続いて箱に乗り込んだヒロキは不安を感じながらも頷く。日本のエレベーターならば扉を付けることで安全対策を施すのだろうが、この世界にはそういった概念がないのか扉にあたるモノはない。彼はイサリアの返答を聞くと箱の奥の壁にへばり付くように下がった。

「よし!」

 右側の壁に埋められた半球の水晶にイサリアが手を翳すと二人を乗せた箱が浮かび上がる。一瞬だけ内臓を引っ張られるような感覚を覚えるが、大きな揺れもなく乗り心地は悪くない。ヒロキは通り過ぎる階層を数えながら箱が止まるのを待った。

「降りていいぞ」

 十二階を数えたところで箱が止まり、イサリアから降りる許可が得てヒロキは先に最上階に降り立つ。そこは一階に比べると遙かに狭い空間で、近くには下から続く階段があり、箱から数mの先には遮る壁とその中央に両開きの扉があった。黒檀製と思われるその扉の表面には細やかな彫刻が施されており、見る者に威厳を感じさせる。学院長の部屋に通ずる扉として相応しいと思われた。

「では、学院長にヒロキを紹介しよう。基本的に話は私からするから、ヒロキは可能な限り黙って立っていてくれ!」

「そうさせてもらうよ・・・」

 ヒロキは隣に降り立ったイサリアの言葉に緊張を覚えながらも頷く。主犯とも言えるのは彼女だが、状況によっては学院に勝手に忍び込んだ不審者として扱われる場合も考えられる。その場合イサリアは力になってくれるだろうが、彼女の身分は貴族出身の優秀生とはいえ一人の学生に過ぎない。どうなるかは未知数だった。

 ノックをするイサリアの姿をヒロキは固唾を飲んで見守った。


 3

「お入り!」

 想定したよりもずっと気さくな声が返って来る。反応も早く、まるで遊びに来た孫を招き入れるかのようだ。許可を得たイサリアは最後の確認としてヒロキの顔に視線を送ると黒檀の扉を両手で開いた。

「学院長殿、ミーレ六回生イサリアです。今回は報告したいことがあり、参りました」

 部屋に入ったイサリアは扉の前で直立不動の姿勢を取り名乗りを上げる。ヒロキも事前の申し合わせに従い無言で彼女の隣に立つ。

 内部は書庫と実験室を合わせたような作りだった。左右の壁には扉と同じく黒檀で作られた本棚が立ち並び、この部屋が知識の宝庫であることを物語っている。正面の壁の右側には更に奥に繋がる扉があり、その他に空いている壁を埋めるように多くの絵画が飾れていた。

 そして、それらを背にして優雅な椅子に腰を降ろした学院長が二人を静かに見つめていた。彼の白髪の混じった薄茶色の髪から覗く灰色の瞳にヒロキは緊張する。不快さはないが、例えるならスポーツの試合で敵側の監督から向けられる視線のようだった。

 学院長とヒロキ達と間にはかなり大きめの机が存在し、その上には読みかけの書籍を筆頭に奇妙な形の金属の塊、宝石の原石らしき鉱物、鋭い牙を持った判別不明の大型動物の頭蓋骨などが無造作に置かれている。驚かされるのは、まるでイサリアとヒロキの入室を予見していたかのように、対面する位置に木製の椅子が二脚用意されていたことだ。いや入室時での返事を早さからすると、彼は二人を待っていたに違いない。

「うむ、私も今朝の朝食で君からそんな報告を受けるような気がしていた。昨夜は満月だったしな。とりあえず、二人とも椅子に座りたまえ」

「感謝致します。学院長殿!」

 堅い口調で礼を告げるイサリアに続いて、ヒロキも軽くお辞儀をして空いている椅子に腰を降ろした。二人の落ち着いた様子から、学院長はヒロキの正体を先程の朝食時にはそれとなく把握しており、イサリアもそれを前提にしているようだ。

「優れた審美眼を持つ学院長からすれば既にご存じかもしれませんが、隣に座る彼、ヒロキはこの世界の人間ではありません。私がこの世界に召喚した異世界の学生です。我々とは異なる文明社会で育ったために魔法力を備えていませんが、概念への理解と洞察力はミーレの水準を満たしていると思われます。特異な存在である彼の保護も兼ねて、彼に学院への短期留学許可を与えるようお願いに上がりました。学院長はその権限をお持ちのはずです!」

「まあ、待て!そんなに急ぐでないミーレ・リゼート。まずは挨拶としよう。ヒロキ君、私のこの学院の院長を務めるナバート・ヴィシス・オグレンと申す者だ。君がこの世界に召喚された経緯についてはこれから改めて問うが、危害を与える気はないので安心して欲しい」

「・・・タチカワ・ヒロキです。あ、ありがとうございます」

 ナバートの言葉にヒロキは軽く緊張を解く。さすがに学院長という要職を務めているだけあって、食堂でいち早く彼の正体に気付きながらも、大事にならないよう当事者達がやって来るのを待っていたということなのだろう。道理が通じる相手と判明したことで、ヒロキも挨拶を返した。

「では、ミーレ・リゼート、幾つかの問い掛けに答えてもらおう。君は異世界の人間をこの世界に召喚する魔法をどうやって習得した?この手の魔法はミゴールでもそう簡単には扱えぬ最高峰の召喚魔法のはずだぞ。それに代償は何を使ったのだ?!」

 ナバートはヒロキには軽い微笑を見せたが、イサリアに視線を移すと厳しい顔で詰問を開始した。落ち着いた声ではあるが、返答次第ではただでは済まさないという意気込みが含まれている。

「四大精霊を呼びだす中級召喚魔法を自分なりの解読とアレンジを加えて、多元世界に干渉出来るレベルまでに再構成しました。代償は純度の高い魔鉱石です」

「中級召喚魔法には詠唱制限が掛けられていたはずだが?」

「初級召喚魔法も同じシステムを使った制限でしたので、両者を比べればどの部分が詠唱制限であるのかは明白です。もしミーレに中級以上の召喚魔法を使わせたくないのであれば、このような手抜きの処置はされない方がよろしいでしょう」

「・・・その事実に気付けるミーレなど数年に一人の逸材だろう。ましてや中級召喚魔法を再構築して独自に最高レベルの召喚魔法を作り上げるなど、十年・・・いや二十年に一人出れば良いくらいだ!」

「お褒めに与り恐縮です」

「褒めたわけではないが、優秀すぎるのも考え物だな・・・。しかし、魔鉱石はどうやって手に入れたのだ?これだけはいくら優秀でも資金がなければ無理であろう?」

「幸いにして私の実家はある程度裕福でありますので、工面することができました」

「むむ・・・いくら掛かった?最高純度の魔鉱石を用意したとしてもヒロキ氏の質量からすればかなりの量を使用したはずだぞ」

「約二千五百セルほどです」

「なんと!二千五百セルとな!・・・これだからリゼート家の者は!そんな大金、嫁入り時の持参金とすれば良いものを!」

「お言葉ですが、金銭の使い方は人それぞれであります。私はヒロキを召喚したことについては成功だと確信し、彼に出会えたことは金銭に換えられない体験であったと思っております」

 詳しい内容は理解出来なかったが、ヒロキは最後のイサリアの言葉を聞くと照れ臭い気持ちになる。学院長への意地も含まれていたようだが、その淀みのない声に脚色を感じなかったからだ。

「・・・そうか。では学院に属するミーレとして違反行為はなかったというのだな?」

「その通りであります」

「わかった。その言葉を信じようミーレ・リゼート。君がつまらない嘘を吐くとは思えんし、調べればすぐわかることだ。だが、留学許可については既定がある。確かに当学院は帝国内の他校生の留学や転入も認めているが、異世界の人間については前例がない。そもそも、異世界の住人が学生として学院に溶け込んでいるという事態が想定外なのだ」

「では、学院長はヒロキを学生として認めぬと?!」

「・・・いや、魔法は混沌から生まれ、混沌を唯一制御する可能性を秘めた技術だ。可能性を否定することは、我々の存在を否定するのと同じである故に、ヒロキ氏が当学院の学生となる可能性を頭ごなしに否定することはない。・・・だが、短期とは言え正式に当学院の留学生とするにはミーレに相応しい学力と魔法力を備わっていることを示し、推薦人を用意して貰わねばならない。これは絶対に曲げられぬ最低限の規則だ」

「推薦人については私が実家に掛け合って直ぐに用意したします。ですが・・・ヒロキの魔法力については特例を頂きたい。彼は我々とは異なる文明世界の住人です。その世界には魔法が存在せず、カガクとデンキと呼ばれる力と理を魔法の代わりに発達させた世界なのであります。それでいてヒロキはこの世界に順応できるほどの適応力と文化水準を持ち合わせています。彼の習慣や知識は必ずや我々に何かしらの恩恵を齎すことでしょう。これは魔法力に匹敵するかそれ以上の価値があるはずです」

「うむ、ヒロキ氏の持つ価値については私も重視している。だからこそ、穏便に済ませようと君達を待っていたのだ。そもそも異世界の住人を召喚する行為自体が成功例の少ない博打のような所業であるし、呼び出した者が意志の疎通が可能な人間となれば、学院の導師達も色めき立つだろう。特にシャルレーが知ったら何を始めるか考えたくもない。私としては彼をミーレにはせず、内密に保護して送還に相応しい月齢、すなわち次の新月に元の世界に送り届けるのが妥当と判断している」

「学院長殿、私はヒロキとは既に次の新月には元の世界に帰すと指を交えて約束しております。そして彼も私のミゴールへの昇格試験に共に参加すると指を交えて約束してくれました」

「なんと!イサリア!お主はそんなことまでしたのか!・・・ヒロキ君、それは本当か?」

 これまでは学院長として威厳を持ってイサリアに接していたナバートだが、昨夜交わした約束に話が及ぶと血相を変えながら慌てた声でヒロキに確認を求める。

「ええ、確かに約束しましたが・・・」

 ヒロキも只事ではないと感じたのか、肯定しながらも説明を求めるようにナバートの次の言葉を待つ。

「あれは、約束を違えば命を差し出すという呪いの行為だ!実現が危ういことに対して気軽に行うべき儀式ではない!いや・・・君にそれを言っても仕方あるまい・・・。これでは試験に参加させ・・・その前には正式なミーレの留学生として認めなくては・・・イサリア!お主は彼の命を使って私が譲歩するように画策したのだな?!」

「私も次の新月には必ずヒロキを元の世界に送り届けると約束しましたから、私とヒロキは対等の契約を結んだと信じております!」

「むむ、・・・ヒロキ君。君には実感がないだろうが、君がイサリアと交わした約束は破れば命を失う程の危険な契約だったのだ。それでも約束を守る気はあるかね?君が望むなら、私がその契約を反故にすることも可能だ。実施には準備を含めて多少の時間が掛かるが・・・。どうする?」

 ナバートに問われたヒロキは隣に座るイサリアを見つめる。展開の早さと新たな事実に彼の思考は遅れ気味であったが、自分が約束を守らなければイサリアによって生命の危険に迫られていたらしいとは理解出来た。騙されたと憤るべきか、裏切られたと悲しむべきか一瞬悩むが、彼の視線を受ける当のイサリアは悪びれる様子もなくこちらに微笑を向ける。その表情にはヒロキがナバートの出した提案を望むわけがないという自信に溢れていた。どうやら彼女にとっては自分達が交わした約束は、双方に有益で対等の条件であると疑いの余地がないようだ。そしてヒロキはイサリアの先程言葉を思い出す。彼女は自分との出会いを大金と思われる金銭にも勝ると言い切ったのだった。

「・・・イサリアの出した条件は試験の合格ではなく、試験の参加でした。ですから学院側が俺・・・私の参加を正式に認めてくれれば、約束を果たせるはずです。ですから、その試験に私が参加出来るならこのまま契約を残して、イサリアにも僕側の約束を守ってもらおうと思います」

「そうか・・・ならば、君を短期留学生として正式な立場で彼女とミゴールへの昇格試験に臨めるように私がなんとかしよう。労力的には〝破呪〟の儀式魔法を執り行うことに比べれば、留学生を学院に紛れ込ませることの方が容易いのだ。・・・では、ミーレ・ヒロキは帝国北部に暮らすスエン族の出身としよう。彼らは三年程前に帝国に編入されたばかりであるし、それまで独自の文化を築いていた。帝国中央のしきたりや魔法体系に疎いのもそのためだと説明できるだろう。そしてミーレ・リゼートは家の後援者として彼の案内役を自ら志願した・・・」

「ありがとうございます。学院長!後は自分達でなんとか致します」

 それで充分とばかりに、イサリアは軽い笑みを浮かべながら会釈を行う。

「ミーレ・リゼート、君の思惑どおりにことが進んでいるようだが、私は独裁者ではないから、導師達の全てを掌握しているわけではないぞ・・・くれぐれもミーレ・ヒロキの正体は内密にな!」

 挨拶を終えて部屋を出ようとする二人に向けてナバートは溜息を吐くように告げるのだった。


「やったぞ。ヒロキ、上手くいった!」

 魔法式のエレベーターを降りて塔の一階に降りたったイサリアは両手の拳を握りしめるとヒロキに喜びの声を伝えた。

「・・・俺も喜びたいけど、昨日の約束については命を賭けるとは聞かされていなかったから、単純には喜べないぞ!」

「ああ、あれか!さすがの私も本式の指約束を何も知らない者に迫るほどの悪党ではないぞ。昨日交わしたのは略式のもので死の誓約までは含まれていない。本式は指先を傷つけてお互いの血を混ぜてから誓うのだ。だから約束を破ってもの命までを失うことはない。もっとも、ヒロキが略式では満足出来ないと言うのなら今から本式の指約束を交わしても構わないぞ!」

「いや、それは!そこまではしなくてもいいよ!でもあれ?じゃ、さっきは学院長を騙したってこと?」

「人聞きの悪いことを言わないで貰おう!私はヒロキと交わしたのは略式の指約束だったとは一言も口にしていない。学院長が私の普段の行いや性格から正式の指約束だろうと勝手に推測しただけだ」

「うわ、まじか!・・・まさか、そこまで計算して俺に詳しい説明をせずにあの約束を交わしたのか?!」

「・・・それは否定しない。だが、私も交換条件としてヒロキを送り帰すと約束したろう?略式でも指約束は信頼した相手としかしないのだぞ!」

 指約束の隠されていた事実に対して不満を伝えるヒロキだったが、詳しい説明を聞かされると学院長のような重職にある大人さえも騙すイサリアの機知に驚いた。色々と規格外の人物ではあるが、彼女はそれを自分でも充分に理解しコントロールしている。今更だが、とんでもない人間と関わってしまったと恐れにも似た感情が込み上げて来る。だが、同時にイサリアに惹かれる気持ちがあることも認めなくてはならなかった。

 彼女を見ているとなぜかほっとけないような気持ちにさせられるのだ。それに本来なら出合ってから一日も経っていない今の段階で『信頼する』と言われても白々しい気がするだけなのだろうが、この少女が本気で自分を騙すつもりならもっと上手くやるように思えた。

「・・・なら仕方ないかな・・・結果的には上手くいったようだし」

「うむ、そういってもらえると助かる。では、ミーレ・ヒロキ。今更だが〝鷹の学院〟にようこそ!」

 数多の感情の渦に身を委ねつつも最後はイサリアを受け入れたヒロキに、彼女はこれまでで最高の笑顔で語り掛けた。

 

 4

「ここが中央学舎の最上階だ。私も久しぶりに来たが、なかなかの眺めだろう?!」

 心地良い風に金髪をたなびかせながらイサリアは、どうだと言わんばかりに問い掛ける。それは午前の柔らかい日差しを受けて輝くような自身の姿ではなく、テラスからの眺望を指しているようだ。

 学院長の協力を取り付けた彼らは、次の行動としてイサリアの案内で学院内の施設を見回ることとした。ヒロキに学院の施設配置や構造を理解させるためである。そのためにまずは、全体図を見るのが手っ取り早いとして中央学舎最上階のテラスに足を運んだのだ。

 テニスコートほどの広さのテラスは半分程が木製の屋根に覆われているが、残りの半分は陽の下に剥き出しされ二人はそこに立っている。イサリアの言うとおりレース状になった石壁の間から見るそこからの眺めは、黙っていれば天使のように美しい彼女の姿を除いても素晴らしい。先程の渡り廊下からも見えたように学院の周囲は木々豊かな山に囲まれており、少し離れた位置には湖もあった。山の緑と湖の濃い青そして空の淡い青が見事な絶景を描いていた。

 そして、もっと近くに視点を集めると堅牢な石造りで築き上げられた学院の全容を知ることが出来る。学院の印象を一言で表すならやはり城だ。山の頂点を削って平らにしたような位置に存在し、そこを城壁で囲い三本の塔と幾つかの建築物で構成されている。規模とからすると中央学舎は本丸という位置付けだろう。

 南側の斜面は勾配が緩いらしく麓の集落に延びる道が見えるが、それ以外は山肌と城壁に阻まれて出入りは不可能と思われた。それを頼もしいと思う反面、ヒロキは学生を隔離する収容所のようにも感じた。もっとも、日本でも進学校ほどセキュリティーが厳しいので、外部からの刺激を遮断しようとする目論見は〝鷹の学院〟に限ったことではないのかもしれない。

 再び城壁内部に目を向けると、それぞれの建物は渡り廊下で結ばれており、区画を分ける壁の役割も果たしているようにも見える。だが、東側に開けた空間が設けられており、庭か運動場として使用しているようだった。それ以外にも野外部分は観葉植物などが植えられており、殺風景になりがちな石造りの空間を少しでも快適にしようとする意思が読み取れた。

「あれが先程の学院長の塔だ」

 下を眺めていたヒロキにイサリアは指で上を示しながら説明を行なう。それは聳え立つ三本の塔の中でも最も高い塔だった。上部に向かうほど先細りになった穏やかな円錐形で、使用されている石材も色が濃く一目で特別だとわかる。

「外から見ると思っていた以上に高いな・・・確かにあれはエレベーターがないときつい・・」

 イサリアの話ではあの魔法式エレベーターが用意されているのは学院長の塔だけという。そのような理由もあり二人はこのテラスに階段を使ってやって来ていた。中央学舎は五階建てだが、テラスは屋上にあるので実質六階分を登って来ている。若いとはいえ、これ以上の高さを階段で上がるにはちょっとした試練と思われた。

「まあ、ミゴールに昇格すれば空を自由に飛ぶことが可能な〝飛翔〟を正式に教えられるから、この世界では優れた魔術士なら高さはそこまで厄介じゃない。ちなみに、あっちの塔はミゴールに専門的な魔法や知識を授ける導師達の研究室がある第一研究塔だ。私がミゴールに昇格したら、ミゴール用の寄宿舎からこの塔のいずれかの研究室に通うことになるな」

「な、なるほど」

 個人で空を自由に飛ぶという概念にヒロキは驚くが、イサリアの気軽な発言からすると、こちらではちょっと難しい資格程度のことなのかもしれない。だとしたら高い城壁もあまり意味がないのではと思うが、何かしらの対策はしているのだろうと深くは気にしないことにする。 

「ああ、でも今のイサリアはその〝飛翔〟って魔法は使えないんだね。君ならやるなって言われても独学で勝手に覚えそうな気がするけど」

「ふふふ、さすがヒロキだ。指摘どおり私は既に〝飛翔〟を独学で学んでいる。だが、この魔法はミーレの身分では学院内の使用が禁止されているのだ。そのため人前では大っぴらに使用するわけにはいかない。私が早くミゴールに昇格したい気持ちがわかるだろう。窮屈でしかたないよ」

「やはりそうだったのか。ちなみに残る一つの塔は何に使われているのかな?」

 悔しそうに溜息を吐くイサリアに対して、ヒロキは残った西側の塔への質問に移る。慣れとは恐ろしいものでこの頃になるとイサリアならそんなことだろうと思うようになっていた。

「うむ、あれも本来は導師達の研究室があった塔で正式には第二研究塔と言うのだが、今では皆が〝禁断の塔〟と呼んでいる。実は十五年くらい前この国で内乱が起った・・・。当時皇帝位にあった公家が、皇帝職を永続的な世襲制にしようと企てて同盟関係にあった家とともに帝国を掌握しようとしたのだ。当然だが、残る公家はその動きに反発し激しい内乱となる。戦いの行く末は現在でも公家の合議による帝政が維持されていることからわかるように、五大公家として残る公家連合側が勝利した。そして、その争いに〝鷹の学院〟も巻き込まれて当時の皇帝派の者達があの塔に立て籠ったらしい。戦いの大局が公家連合側に傾いたことで塔に立て籠もった者達も呼び掛けに応じて投降したのだが、置き土産のように塔の中に様々な魔法の罠を仕掛け、迂闊に入れないようになってしまったのだ。それ以後、学院は塔を丸ごと封印して立ち入り禁止にしたというわけだ」

「・・・この国にそんなことがあったのか・・・でも、なんで罠を解除するとか根本的な解決をしないんだ?」

「私も生まれていなかったので詳しくは知らぬが、なかなか苛烈な内乱であったらしい。おそらくは立て籠もった者達も必死であったのだろう。罠を作りすぎて本人達も解除が出来なくなったそうだ」

「それはアホ過ぎるだろ・・・」

「私もそう思うが、人間は必死になると際限がなくなるのだろうな」

「・・・ま、まあ、立ち入り禁止の場所なら特に気にしなくてもいいってことか・・・」

 他人事のように語るイサリアに突っ込みたい気持ちを我慢してヒロキは無難に相槌を打つ。

「ああ、私もヒロキに中を案内してやりたいとは思うのだが、さすがにあの封印は破れなかった。・・・では、学院を上から眺めたことだし、次は中の施設を紹介しよう!」

 最後にドキリとするような発言を残してイサリアは屋根のあるテラスに向かって歩き出す。ヒロキは再度突っ込みの台詞を飲み込むとその後に続いた。


 ヒロキはイサリアから中央学舎内部の案内を受けながら、この〝鷹の学院〟の教育システムを大まかに理解していった。日本では中学から高校生に値すると思われたミーレと呼ばれる学生階級だが、幾つかの面で大きく異なっていた。まずミーレ達は大きな枠として学年に別けられているが、組やクラスという概念はなかった。そのため定められた教室がなく、ミーレ達自身が各階に分散して設けられた、導師と呼ばれる指導役が待機する教室や実技室に移動して講義を受ける。その際どの導師の講義や実技訓練を受けるかは完全にミーレ個人に委ねられていた。だから最も年若い一回生と最終学年である六回生が共に講義を受講するとういうこともあり得るらしい。日本ではこのようなシステムは大学以降から行われるので、この世界ではかなり若い段階から自己責任を求められるということだ。

 もっとも、そのおかげもあってヒロキ達の存在が目立つこともなかった。講義の時間は一律ではないので、廊下には次の講義に向かうミーレの姿が常にあったし、講義と講義の間が長く空く場合には親しい者同士で時間を潰すことも珍しくないようで、ちょっとしたお喋りをしているミーレ達の姿もあった。

「ここに入学してくるのは大体十二歳くらいでしょ?その年齢でこのやり方はちょっと大変なんじゃないか?」 一階まで降りたところで二人は休憩とばかり廊下に置かれたベンチに腰を降ろし、ヒロキはそれまで感じた疑問を問い掛ける。

「うむ、だから学院側は年齢やミーレの階級によって模範的な年間カリキュラムを提示している。一回生から三回生くらいまでは、殆どのミーレがそのカリキュラムどおりに講義や実演を受けるらしい」

「ああ、やっぱりそうなっているんだ」

 イサリアの返答にヒロキは他人事とはいえ納得する。

「うむ、誰しもが私のように優秀ではないからな」

「・・・でも上の学年に進む基準はどうなっているんだ?単位とかは?」

「もちろん単位はあるぞ、六回生までは特定の単位を取ることで進級出来る。それを過不足なく取れるように配分されているのが提示カリキュラムだ。また望めば昇格試験をいつでも受けることが可能だ。これに合格すれば即一階級上のミーレとして認められる。ただ合格すると次のミーレ昇格試験を受験する資格が一年間凍結される。そのため、入学していきなりミーレ六回生となることは出来ない。私が三回の飛び級で我慢しているのはそのためだ」

「そういうことか」

「ああ、そしてミーレからミゴールの昇格は特別で、二人一組での受験という変則的な受験資格を用いられているために、私は苦労をしていたということだ」

 時折挟んで来るイサリアの自覚のない自慢を無視して、ヒロキはこれまで断片的だった知識が繋がったことに感心を漏らした。当初は厳しいと思われた学院のシステムだが、イサリアのような天才か秀才に対応するために特例があるだけで、基本的には常識な範囲で構築されているようだ。

 それに加えヒロキはミゴールへの昇格試験が二人一組である理由も理解出来たような気がした。もし、学力や魔法の才能だけで昇格を許してしまえば、独りよがりでエゴイスト、人間としてどこか歪な性格の者にも強力な魔法を授けてしまう可能性がある。それを防ぐ意味で友人とコミュニケーションを取れる人物、最低でも利害を分かち合える社会性を持っていることを参加条件として、二人一組に設定されたのではないか?そして学院長が試験への参加を許したのも、指約束における脅迫だけでなく自分という協力者が現れてイサリアの優秀過ぎるが故の孤立が解消されたからではないかと思えた。

「イサリア・・・」

 そのことを指摘しよう口を開き掛けたヒロキは途中で止める。イサリアは自分よりも遙かに賢い少女だ。そんなことは既に理解しているだろう。人間にはわかっていても聞かされたく事実がある。大きな間違いでもない限りそれを敢えて口にする必要はないのだ。

「いや・・・えっと・・・ここのお昼ご飯はどうなっているんだ?」

「昼食は講義等が長引く場合があるので、それぞれが自由に摂ることになっている。そうだな・・・図書室や数々の実技室を紹介するために中央学舎の中を歩き回ったからな。少し早いがお昼とするか?」

「そうしよう!朝のご飯が美味しかったから。楽しみだよ!」

「そうか、ここの食事はヒロキの口にも合ったか!」

 話題を変えるちょっとした提案だったが、イサリアも乗る気を見せるとベンチを立ち上がる。

「実はな、百年前はここの食事はすこぶる不味かったと言われている。なんでも当時は舌が肥えると魔法の詠唱の妨げになり、勉学にも励まなくなるとかで、ワザと不味い食事をミーレやミゴール達に出していたらしい。当初は渋々耐えていたようだが、結局は不満が爆発して全学生が一丸となって当時の学院長を追い出し、食事の質を改善させたということだ」

「へえ・・・俺の世界でも食べ物が切っ掛けで革命になったことがあるらしいけど、こっちでもその手の恨みは恐ろしいってことか!」

 イサリアの逸話にヒロキは苦笑を浮かべる。魔法が実在する異世界ではあるが、こういった面ではヒロキの世界の人間と大差はないようだ。

「それだけ食は人の営みの根底に存在するということなのだろうな。では、お喋りはこれくらいにして食堂に向かおうか?ヒロキが空腹で怒る姿を見たくはないからな!」

「ふふっ・・そんなことはないはずだけど、食堂に行くのは賛成だ!」

 イサリアの冗談にヒロキは笑みを浮かべながらベンチから腰を上げる。稀に不穏なことを口にする彼女だが、機知に富んでいる分こういった冗談も上手いようだ。ヒロキは先程の考えが取り越し苦労であったと知る。イサリアはその気と機会さえあれば人を楽しませることも出来るのだ。

 

 5

 昼食を終えた二人はテラスからも確認した学院東側に存在する空間を散策していた。そこは手入れのされた芝生が一面を覆っており、広さも正式なサッカーコートを作るのに充分な面積があった。イサリアの説明によると、やはりここは校庭にあたる施設で、実演や講義で使われる他にも学院で生活する学生達の運動場や憩いの場として使われているとのことだ。昼休みにあたる時間帯のためか、実際に何人かのミーレ達で車座になって談笑したり、何かのゲームなのか走り回ったりしている歳若の少年達を見掛ける。

 そんな姿を見ていたヒロキにも芝生に寝転びたくなる欲求が湧いてくる。何しろ空は雲一つない快晴で、気温も暑くも寒くもない適度な温度だ。それに加えて彼は昼食に出されたミートパイを三つも食べていた。少し癖はあるが濃厚なチーズと絡み合う香辛料の効いた挽肉、そしてそれらを包むサクサクのパイ生地のコンビネーションはなかなかの絶品で、育ちざかりである彼はつい食べ過ぎてしまったのだ。 

 不意に訪れた昼寝への誘惑だが、ヒロキは欠伸を噛み殺して耐える。運動場の後は外周にそって城壁を見回ることになっているし、その後は寄宿舎で部屋と雑貨や生活必需品を確保する等、やることは多くある。悠長に昼寝をしている暇などなかった。

「ミーレ・リゼート!」

 渡り廊下の一つを通用口から横切ろうとしたところで、イサリアを呼び止める声が響いた。それは落ち着いた男性の声だったが、僅かに非難するようなニュアンスが込められている。

「・・・なんでしょうか?導師アルビセス」

 呼び掛けられたイサリアは焦ることなく落ち着いて振り向くと、一礼の後に優雅な口調で返答を行う。

「ああ、君が今日の講義に姿を現さなかったので心配していたのだ。ミーレ・リゼート、欠席をするなとは言わんが、健康なら連絡くらい寄越したまえ」

 僅かに離れた位置で二人を見守るヒロキは状況を理解した。イサリアを呼び止めたのは、やや痩せ気味で三十代中頃の男性だ。おそらく彼は導師の一人で、今日の午前中にあった自分の講義にイサリアが出席しなかったことを問い質そうとしているのだ。体調が悪いのならともかく、元気そうに歩いているのを見掛けて不審に思ったに違いない。

「ご心配をお掛けしてしまって申し訳ありません。本日は優先する事柄が出来ましたのでそちらに取り組んでおりました。それにお言葉ですが、私は既にミゴールへの昇格試験資格を得ています。この立場では無理に導師アルビセスの教えを授かる理由がありません」

「・・・むむ、だが君は優秀生でもある。講義の欠席は規則に反していないとはいえ、他のミーレ達との模範となるべきではないかね?」

 イサリアの答えにアルビセスはやや感情的になる。彼女の言い分は間違っていないが、表現はあまり穏便とは言えなかった。

「はい、優秀性は皆の模範となるべきです。ですから私もここにいるミーレ・ヒロキが学院の施設に慣れるよう案内をしていたのです」

「彼を・・・?」

 この返答は予想外だったのだろう。アルビセスは驚いた顔を見せながら傍らにいたヒロキを見つめる。そして、今まで特に気にしていなかったミーレが見覚えのない存在であることに気付くと疑問の声を漏らした。

「彼は帝国北部に暮らすスエン族の出身のタチカワ・ヒロキです。先日、彼の家が我がリゼート家の後援者となりまして、その長子である彼に帝国でも最先端の教育機関である、この帝立魔導士官学院の教育水準を体験してもらおうと、こうして案内している次第であります。配下に入った地域の有力者を中央に呼び寄せて教育を施すのは帝国の伝統でありますから」

「・・・新しくミーレが入ったとは聞いていないが?!」

「今朝、学院長の許可を得たばかりですので、無理もないかと思われます」

「また学院長の独断か!五大公家とは言え学院を私物化して良いはずがない!」

「学院長を責めないで頂きたい。導師アルビセスも我々リゼート家の家訓を聞いたことがあるでしょう〝炎の如く素早く〟です。学院長はリゼート家の思惑に合わせて判断をされただけだと思われます」

「・・・そうか、ミーレ・リゼート君が絡んでいるならこのようなことも不可能ではないな。五大公家で現皇帝の孫ともあれば、多少の無理は通せる。うむ、来週はミゴールへの昇格試験か・・・呼び止めて済まなかったミーレ・リゼート、大貴族には大貴族の道理があるのだろう。だが、私にも私の道理がある・・・」

 緊迫したやりとりを続けていた二人だったが、イサリアの説明を独自に解釈したアルビセスは半ば呆れるようにして早足で去っていった。

「早くも面倒な導師に見つかってしまったが、なんとか誤魔化せた」

「でも、なんか悪い方に誤解させたようだけど大丈夫?」

 アルビセスの姿が見えなくなるとイサリアは釈明のようにヒロキに苦笑を浮かべるが、彼はイサリアが自分の正体を隠すために、敢えて家の権力を利用して学院長に圧力を掛けたと思わせたことについて言及する。

「気にすることない、導師アルビセスは元より平民派で貴族嫌いの人物で知られている。前々から私のことを煙たがっていたし、ヒロキのことを勘繰られるくらいなら、あのように思わせた方が何かと好都合なのだ」

「そうか・・・、でもあの人イサリアが現皇帝の孫とも言ってなかった?」

「うむ、本当にヒロキはそういったところを逃さないな。答えは事実だ。ヒロキには伝えてなかったが現皇帝のナフル三世は私の祖父だ」

「ええ、まじか!ひょっとしてイサリアは本物のお姫様ってこと?・・・どうりで偉そうだと思ったよ!なんで早く教えてくれなかったの?!」

 新たな事実にヒロキは興奮しながら、イサリアの姿を改めて見つめる。大貴族のお嬢様とは聞かされていたが、その美しさも強気を通り越して傲慢とも言える性格も皇帝の孫と聞かされれば、全て納得出来るように思われた。

「まあそのなんだ・・・自分から〝私は皇帝の孫だ〟などと恥ずかしくて言えやしないだろう?それに皇位は世襲ではないから、厳密に言えば私は皇帝の孫ではなく皇帝職にある五大家当主の孫なのだ。・・・と言うか私はそんなに偉そうに見えるのか?」

「何を今更!イサリアくらい強気の女の子なんて見たことがないよ!」

「そうなのか・・・」

「えっと!・・・ほら!俺の世界の女の子と比べてだから!こっちの世界では文化とか細かい差があるから!単純に比べられないかもね!それに俺はイサリアが皇帝の孫でも大貴族のお嬢様であろうと気にしないよ!イサリアはイサリアさ!」

 心外とばかりに溜息を吐くイサリアにヒロキは慌ててフォローを入れる。皇帝の孫という権威を使って学院長に圧力を掛けていると思われても平然としているのに、なぜこの程度の指摘で気落ちするか理解出来なかったが、このままでは彼女との関係に重大な楔が生れると思われたのだ。

「・・・うむ、私も現皇帝の一族であることを隠していたのは謝罪する。これからも一人の人間としてよろしく頼むぞ!」

「こちらこそ!とりあえず学院の案内を頼むよ!暗くなるまでに終わらせたいからね!」

「そうであった!早い段階で導師アルビセスの目に止まったのは予想外だが、それを悔やんでも仕方ない。続きに入ろう!」

 アルビセスに足止めをされた二人だったが、再び学院の探索を開始した。


 6

「ヒロキ、困ったことになった!」

「え!今度は何をしたんだ?イサリア!」

 部屋の掃除をしていたヒロキは、戻って来たイサリアの報告に驚きで答えた。

 昨夜は成り行きでイサリアの部屋で一夜を過ごしたヒロキだったが、今夜以降はイサリアの部屋とは別の寝室を確保する必要があった。彼が一般的なミーレなら、男子寮となっている一階の適当な部屋を割り当てるだけで良かったのだろうが、ヒロキの正体はこの世界〝アデムス〟に召喚された異界人だ。この秘密は可能な限り内密にされねばならない。そのためにはプライベートが約束される寄宿舎三階の優秀生用の個室を使う他なかった。優秀生の数は多くはないが、その部屋は限られている。当然余っている部屋はなく、辛うじて倉庫代わりに使われている部屋があるのみだった。

 そんなわけでヒロキは倉庫にされていた部屋を使用する許可をイサリアに取りつけてもらい、使えるように掃除をしていた。内部は予備の家具や様々な道具が置かれているが、皮肉なことに軽く片付けただけも日本にある彼の部屋よりも広い。滞在するのは次の新月までの二週間ほどであり、掃除さえすれば充分な寝室として使えると思われた。

「正確には私ではない。君だ、ヒロキ!導師アルビセスが君のミーレとしての実力に疑問を持って、学力を確かめたいと導師会に審査を要求した」

「アルビセスってさっきの人か・・・、さっきのイサリアの態度がよっぽど腹にすえたんだろうな・・・」

 ヒロキは雑巾を桶に入れて拭き取った埃を洗い落とす。窓から入る陽はすでに暮れかけていたが、桶の水が酷く汚れているのが確認出来た。また、イサリアとは一蓮托生の立場にあるヒロキではあったが、先程のやり取りを思い出すとアルビセルが腹を立てることにも納得が出来た。彼からすればイサリアは小賢しい存在に思えたことだろう。

「随分落ち着いているな、ヒロキ。彼は君の実力を調べようとしていうのだぞ。ああ、桶はそのままでいい、私が浄化する」

「・・・おお!やっぱりすごいよ、この世界は!・・・って、こんな具合に俺はイサリアが初歩の初歩と呼ぶ魔法にさえ驚くほどだから、焦っても仕方ないかと思うんだ」

 イサリアは途中で話の腰を折ると、桶に向かって小型の杖を振るう。その瞬間、埃と汚れで灰色に染まった水が瞬時に透明に変わった。〝浄水〟の魔法だ。この魔法によりこの世界では真水に困ることはないらしい。学院内で出た下水も〝浄水〟で処理した後に近くの湖に下水道で捨てているとのことだった。(理論的には再び飲料水にも使うことが出来るが、やはりそのまま使うには抵抗があった)

「魔法力については、君がスエン族出身ということで詮議からは外された。それ以外の論理学や概念理解等の根本的な知性について問われることになる」

「んん?つまりは俺の基本的な頭の出来を調べられるってこと?!」

「そうだ。まあ、ヒロキはこのように鋭い洞察力を持っているからな。心配には及ばんか!」

「ええ、まじか!なんか緊張して来た!それは何時から受けなきゃならないんだ?」

「今からだ!だから呼びに来たのだ!待たせると心象が悪くなるからな、急ぐぞ!」

「まじか!」

 悲鳴を上げるヒロキだが、半ば強引にイサリアによって部屋から連れ出される。突然迎えることになった試練に彼は胃がムカつくのを感じた。


「では、導師アルビセスの申し立てにより、ミーレ・ヒロキの能力が学院の基準に達しているかを確認する審査会を開く。被検者であるミーレ・ヒロキは前に進み出なさい」

 一段高くなった高座から見下ろす女性の言葉を受けて、ヒロキはて中央に用意された椅子に向かって歩む。広い部屋の左右には小型の教卓が置かれており、右側にはアルビセス、左側には学院長が座っていた。また背後には中央の通路を挟むように数多くのベンチが置かれ、イサリアが一人で座っている。

 ヒロキはこのような場所を知識としては知っていた。裁判所の法廷である。教師と学生の面接と思っていたが、予想以上に本格的な審査が行われるに違いなかった。

「ミーレ・ヒロキ。私は今回の審査会の議長を務めるシャルレーだ。議長として中立を果たすと約束しよう。審査出願者は導師アルビセス、君の後見人にミーレとして承認した本人であるナバート学院長。それに私が立会人を兼ねて参加する。今回は簡易審査会であるのでこの三名で執り行うが、君が望むなら最初から学院の導師全員が参加する本式の審査会も受けることが可能だ。どうするかね?」

「このままで構いません、ご配慮に感謝します。導師シャルレー」

「了解した。まずは確認として改めて本名を聞こう」

「自分はタチカワ・ヒロキと申します」

 議長に名乗りを終えるとヒロキは一礼して椅子に座る。自己紹介までは椅子に腰を降ろしてはいけないとイサリアに言われていただけに、既に一仕事終えた気分になった。

「最初にも告げたが、君のミーレとしての能力に対して導師アルビセスから審議要求が出されている。当学院は全ての帝国臣民に門が開かれているが、それはあくまでも基準とされた才能を持つ者に限られている。帝国は芽の出ない種に水と肥料を与えるほどの余裕はない」

「それは理解しております」

 上から投げ掛けられるシャルレーの説明にヒロキは畏まって頷いた。それはこの場の厳粛な空気のためだけではなかった。シャルレーは艶のある長い黒髪をした肉感的な美女であったからだ。纏っているローブの胸元が割と大きくカットされていて、目のやり場に困る。机の向こうに座っているので全身は見えないが、本人も自分の女としての名利を充分に理解しているのだ。

 彼女は導師というよりは魔女か妖女と呼んだ方が相応しいだろう。年齢は二十代前半程度に見えるが、藍色の瞳は底の見えない井戸のようで、その闇の奥には深い知性の気配と共に狂気の色も感じられる。この世界には疎いヒロキでさえも、この女性が危険な存在であると本能的に知ることが出来た。

「よろしい。では、導師アルビセス。質問を開始して下さい」

 シャルレーはヒロキの返事に微かに笑みを浮かべる。それは獲物を見つけた毒蛇が舌を出す動作にも似ていた。だが、彼女は議長としての役割も忘れていなかった。一瞬でその笑みを消し去ると淡々と状況を進めていく。

「まずは、ミーレ・ヒロキ、君の帝国臣民としての生い立ちと、君の家門がリゼート家の後援者となった経緯について説明してもらおう」

 シャルレーに気を取られていたヒロキは、核心を付くアルビセスの問いに焦る。正直に話せば異界人である秘密を暴露しなければならない。それを防ぐためイサリアとは事前に口裏を合わせていたが、ボロを出さずに上手く説明出来るかは自信がなかった。

 ちなみにアルビセスが問う後援者とは狭義の意味で帝国貴族が取り込んでいる地方有力者のことを指す。帝国は他国や地域を征服すると、直接支配ではなく属国として現地人を使った間接支配を主な統治政策としていた。その現地の有力者を帝国貴族が後ろ盾となって帝国内の地位を保証するというシステムだ。地方の有力者は帝国中央とのパイプを得て、帝国貴族は派閥を拡大することで力を増すという相互保障の関係にあった。欠点としては一定の貴族や派閥が力を持ち過ぎる可能性があったが、これは皇位を複数の公家の中から選ぶことで解消された。一つの派閥が抜きん出た力を持つと残りが協力して対抗するからだ。

 そして帝国貴族が後援者の子弟を〝鷹の学院〟に留学させ最新の教育を受けさせるのはよくあることだった。むしろ帝国の政策として奨励されている。教えを修めて地元に戻った彼らの多くは軍務を終えた後に次代の地方有力者となる。思春期を帝国本国で過ごせば里心がついて親帝国派となるであろうし、帝国の実力と進んだ文化を知ったことで勝ち目のない相手と反乱の兆しを断念させることに繋がるからだ。

「導師シャルレー。今回の審査会はミーレ・ヒロキの能力を量るためのものだ。五大公家を始めとする貴族達が後援者を持つのは帝国の基盤に位置する政策である。それについては賛否両論の議論があるのも知っているが、導師アルビセスの質問はこの度の主旨に外れるはず。ミーレ・ヒロキの生い立ちに関しては推薦人ではあるリゼート家からの推薦状を読む事で充分と思われる。質問の変更が相応しいだろう」

「学院長の指摘を議長として認めます。導師アルビセス、質問を主旨にあったものに変えて下さい」

 これまで静かに座っていた学院長が弁護人のようにシャルレーに進言し、彼女はそれを認めた。ヒロキにとっても有難い学院長の援護だったが、帝国の統治システムからすれば当然の指摘なのだろう。

「・・・わかりました。では、ミーレ・ヒロキ、君に問おう。君はミーレである。ミーレは帝国臣民から選出される。よって君は帝国臣民である。このような命題を使い、人と馬の違いを足の数を使って否定文で説明して欲しい」

「えっと・・・馬は四本足で歩く。人は二本足で歩く。馬は二本足では歩かない、よって馬は人ではない・・・でしょうか?」

「うむ、そうだ。人は獣のように四足となって這うことも可能だから、その表現が正しい。とは言え、さすがに簡単過ぎたな。次は数学について問おう・・・」

 アルビセスから合格を得たヒロキは内心の不安を隠して安堵する。彼が出題したのは初歩の論理学だった。日本では重要視させている学問ではないが、彼も高校受験の際には面接対策として一通り学んでいた。当時は言葉遊びのように感じ、実際の面接でも問われることはなかったのだが、ここに来て思いがけなく役に立ったわけだ。ヒロキは生まれて初めて日本の教育システムに感謝した。 

「君は斥候兵として茂みの中に隠れている。辺りは薄暗く視界は完璧ではない。息を殺して地面に伏せる君の前を二十本の足が過ぎて行く、敵の分隊だ。やり過ごした君は敵の数を確認しようと頭数を数える。敵は八人で騎兵と歩兵で構成されていた。騎兵と歩兵の内訳を答えよ」

「えっと、ちょっと計算するので待って下さい・・・」

 出題された問題にヒロキは取り掛かる。具体的な例を述べているが、これが方程式で求めることが出来る計算問題であることに気付くと、頭の中で計算を開始する。計算用の筆記用具がないので面倒だが、これも受験対策で似たような問題を解いたことがあるので戸惑うことはなかった。魔法が実在しその方面で文明が発達した世界だが、十代半ば程度の学生に求める学力は日本と似ているようだ。

 騎兵には人が乗っているが、地面を伏せてとあるので騎兵の足はそのまま馬として四本で扱っていいだろう。歩兵をX、騎兵をYとして式を組み立てる。総数は八人なのでX+Y=8、次に判明している足の数からもう一つの式を作る。歩兵は人なので足は二本、騎兵は馬で四本となる。つまり2X+4Y=20だ。あとはこれを片方に代入してXを求めるだけだが、ヒロキの暗算能力は高くない。時間を掛けてXが6、Yが2であることを突き止めた。

「騎兵は二騎、歩兵は六人です」

「うむ、答えの導きまでに掛かった時間は遅いが値は正しい。ではどうやってそれを突き止めたのか説明しなさい」

 答えの数値自体はそれほど大事ではないのだろう。回答したヒロキにアルビセスは更に問い掛ける。実際この問題は掛け算が出来れば力押しで突き止めることが可能だ。ヒロキも彼が数学と言えるレベルの解答を欲していると理解した。

「はい、まずは歩兵をX、騎兵をY・・・ああ、これは私が習ったやり方なので、呼び方は何でも良いのですが、適当な記号を数値未定の歩兵の数と騎兵の数に割り振ります。歩兵と騎兵は合わせて八。足の数は二十なのでこの数字を使ってもう一つの式を・・・」

「うむ、充分だ。ミーレ・ヒロキ。君がミーレとして常識的な数学知識を持ち合わせていることはわかった。ありがとう」

 本来は数学が得意とは言えないヒロキだが、可能な限りわかりやすい語彙を使ってアルビセスに説明を施そうとしたのが認められたのか、彼は充分とばかりに頷いた。

「では最後の質問だ。再び仮定を前提にしているが、その状況になったつもりで素直に答えてほしい。・・・引き続き君は敵地に潜入した帝国軍の斥候だ。魔法の使用を制限された状況化で、君は仲間と共に敵に関する重大な機密情報を入手した。この情報を本部に届ければ、不利にある戦況を一気に変えられるだろうと思われる。だが、君の仲間は重傷を負っている。このまま仲間を連れていけば足手纏いになるのは確実で、情報を伝えるのが遅くなるだけでなく、君まで敵に捕まる可能性が高い。君ならこれからどう行動する?」

「・・・仲間を安全に隠しておける場所を探します。そこに仲間を隠して自分一人で味方のところまで急ぎます」

「うむ、仮にそのような場所があったとしよう。だが、仲間の傷は深く早く治療しないと命に係わると思われる。この場合も仲間をそこに置いて行くかね?・・・もっと具体的にしよう。君が掴んだのは友軍部隊への奇襲作戦に関する情報だった。仲間を見捨てれば友軍一千人を助けられるかもしれない」

「・・・苦しい選択ですが、おそらくは仲間一人の命より友軍一千人の命を選んで、仲間を置いて味方の下に急ぐと思います」

「では、仲間が君にとって非常に大切な人物であったらどうする。親友や恋人であった場合だ」

「それは・・・」

 ヒロキは今では疎遠となっている中学生時代に仲の良かった友人の顔を思い出す。彼が瀕死で苦しんでいる様子を思うと胸が痛くなるが、一千人の命と引き換えとなると後者を選ぶ他ないように思える。恋人については今まで持ったことがないので実感は持てなかった。

「・・・やはり、一千人の友軍の命を選ぶような気がします」

「ほう、ではもっと具体的にしよう。傷付いた仲間が、今そこでこの審査会を傍聴しているミーレ・リゼートであったらどうする?」

 アルビセスの質問にヒロキは思わず後ろを振り返ってイサリアの顔を見つめる。照明器具の光の配置で彼女の表情は読み取り難いが不機嫌なように見えた。それが審査会中に後ろを振り向いた自分への呆れなのか、嫌らしい質問をしたアルビセスへの怒りかは知れなかった。いずれにしてもヒロキは直ぐに姿勢を戻して質問に答えようと思考を巡らせた。

 自分とイサリアは現在良好な関係を築けている。改めて考えてみればこの世界に呼び出した張本人であるので面倒を見るのは当たり前のような気もするが、それを前提としてもイサリアはこの〝アデムス〟で最も頼れる存在だった。だがそれは友人や恋人のような関係ではなく、厳密にはお互いの利害に沿った契約者の関係だ。これまでにはお互いを認め合う状況もあったが、元の世界、日本に戻るために行動を共にしているに過ぎないのだ。アルビセスの質問はこれまで成り行きに身を任せていた自分にイサリアとの関係を見つめ直すきっかけとなった。

 だが、そのイサリアと友軍一千人の命を天秤に掛けろと問われたヒロキは、込み上げる苦笑を耐えねばならなかった。イサリアが瀕死で苦しむ姿をどうしても想定出来なかったからだ。その状況を仮定しての問い掛けであるのだが、彼女が瀕死の傷を負う場面が全く想像できない。むしろ自分が瀕死となって彼女に置いて行かないで欲しいと懇願する姿が浮かんで来る。そして仲間を見捨てる自分を許せずに、無謀にも敵に戦いを挑むイサリアの姿までが見えた。

「・・・その質問には答えることが出来ません。仮定とはわかっていますが、イサリアが・・・瀕死になるところを思い浮かべることが出来ないので・・・」

 断腸の思いで友軍を選ぶ演技をすることも考えたが、ヒロキは素直に答えることにする。審査の答えとしては不適切と思われるが、自分に嘘を吐きたくなかったのだ。

「なるほど・・・ありがとう、ミーレ・ヒロキ。この質問で君の倫理や哲学に対する向き合い方、そして帝国への忠誠心を察することが出来た。嫌らしいことを聞いたかもしれないが許してほしい」

「・・・いえ、大丈夫です」

 これにはヒロキも無難に答える。最後の質問は控えに見てもかなり嫌らしい質問だったが、それをこの場で指摘するのは憚れた。今回の審議はアルビセスのイサリアに対する間接的な嫌がらせのようなものだ。余計なことを口にして、ヒロキ個人までもが彼の反感を買ってしまってはもっと面倒なことになるだろう。

「議長、質問は以上です。審議出願者として、やはりミーレ・ヒロキのミーレとしての資格を剥奪すべきだと申し上げます。基礎学力においては最低限の水準を満たしていると認めますが、彼には帝国への忠誠が希薄で、五大公家の一家であるリゼート家の傾倒が著しいと思われ、学院の理念である公平さに欠けると判断されるべきだと進言します」

 やはり最後の質問を正直に答えたのは不味かったとヒロキは軽く後悔する。学力に対する問いには及第点を得た彼だったが、指摘どおり彼に帝国への忠誠心は希薄どころか全くない。それが最後の答えに現れていたのだ。アルビセスの目的がヒロキの排除である以上、そこを的確に突いて来ると配慮するべきだった。

「議長として審議出願者の最終判断を確認しました。ミーレ・ヒロキの後見人である学院長、反論があればどうぞ」

「仮定を前提した質問で帝国への忠誠を量るには、根拠不十分であると思われる。そもそも、地方有力者の子弟の受け入れは、帝国に組み込まれた歴史の浅い臣民に忠誠心を育む目的も含まれている。後見人としてミーレ・ヒロキは学院で学ぶ機会を与えられるべきだと進言しよう」

「後見人の反論を確認。では、これまで審議に議長としての判断を述べましょう・・・」

 ヒロキの不安を余所に議長役を務めるシャルレーによって着々と審議は進められ、結果が出ようとする。彼は展開の早さに戸惑いつつも彼女の言葉を待った。

「・・・ミーレ・ヒロキはこのままミーレとして学院で学ぶ機会を得るべきだと判断します。学力的には水準を満たしていますし、後見人の指摘どおり帝国への忠誠心については学院で学び、暮らすことで育まれると思われます。ミーレはあくまでも士官候補生です。正式な軍人としての役割を求めるには早計でしょう。・・・導師アルビセスがこの判断に不服を申し立てるのであれば、再審として正式な審議会を開くことも可能ですが?」

「・・・いえ、議長の判断を受け入れます」

「了解しました。これにてミーレ・ヒロキに対する審議会を終了します」

 アルビセスもこれ以上の追及は無意味と判断したのか、シャルレーが閉会を宣言すると何も言わず立ち去って行った。

「ミーレ・ヒロキ。晴れてミーレとして認められたわけだが、出席する講義は決めているのかな?」

「・・・いえ、まだです。導師シャルレー」

 イサリアと合流しようとしたヒロキだが、いつの間にか高座の議長席から降り立ったシャルレーに話し掛けられる。先程の彼女の判断は有難かったが、妖しい気配を放つ妙齢の美女にヒロキは思わず身構えた。

「ぜひ、私の講義を加えたまえ。先程の状況であのような解答をする君には気骨がある。私は気骨のあるミーレが好きでね。帝国式の魔法体系には不慣れなようだが、気にしなくて良いぞ。どうだ?!」

「導師シャルレー。ミーレ・ヒロキの学院への案内には私が当たっています。短期の留学ということもあり、受講する講義については二人で相談するつもりであります」

「ミーレ・リゼート。君がそこまで他人に執心する姿が見られるとは思っていなかったが・・・そうか来週にはミゴールへの昇格試験があったか。うむ、私としては試験が終わってからでも構わない。ミーレ・リゼート、余裕が出来たらぜひ二人で私の講義に顔を出して欲しい」

「・・・わかりました。それでしたら都合を付けられると思います」

「うむ、それでは楽しみにしているよ」

 イサリアに助けられる形でヒロキはシャルレーより解放された。

「助かったよ、イサリア・・・」

「うむ、導師シャルレーは私でも緊張する相手だからな・・・」

 部屋を去るシャルレーの滑らかな曲線を描く後ろ姿が見えなくなったところで、二人は溜息を吐く。審査会では、客観的な判断で味方となった彼女ではあるが、何を考えているかわからない分アルビセスよりも厄介な存在に感じられた。

「ミーレ・リゼート、私の言いたいことがわかるな?」

「はい、学院長。ですが、これは不幸な偶然です。ミーレ・ヒロキに学院施設を案内していたところを導師アルビセスに見つかってしまったのです」

「うむ。平民派のアルビセスが大貴族出身の君に何かしらの動きは見せたのは間違いないだろうが・・・、私にも準備というものがあるのだ。それに早くも導師シャルレーにミーレ・ヒロキの存在を知られてしまった。くれぐれもこれ以上は目立たぬようにな!」

「はい、学院長のご厚意には感謝いたします」

「では、ミーレ・ヒロキ。君も彼女が無茶をしないように注意して上げてくれ」

「はい、ありがとうございました」

 二人は最後まで残っていた学院長から改めて警告を受ける。ヒロキは先程の感謝を伝えるが、警告については相手がイサリアであるため実践出来るかは自信がなかった。

 いずれにしても、審査会を乗り越えたことで彼がミーレとして資格を疑われることはなくなった。自分から望んだ立場ではなかったが、これでイサリアと交わした約束を叶える御膳立てが整ったというわけだった。

 

 7

 審査会を終えたヒロキ達は更に食堂で夕食を済ますと寄宿舎に戻って来ていた。食事の献立は白身魚のムニエルで付け合せはキャベツ似た野菜の酢漬けだった。ムニエルには濃厚な味わいのソースが掛けられており、淡泊な魚の身と絶妙な調和を彼の口の中で再現したが、ヒロキは早くも慣れ親しんだ白米と醤油の味を恋しく感じる。また、それに釣られるように家族のことを思い出していた。

「そうか、ヒロキには妹殿がいるのか?」

「うん、三つ下くせに俺に突っかかって来るから、あんまり可愛いとは言えないけどね!」

 寂しさと掃除のつまらなさを紛らわすように、ヒロキは妹のことをイサリアに語る。ホームシック気味ではあるが、とりあえずは審査会で中断された部屋の掃除を片付けねばならない。

「だが、そう言いながらもヒロキの顔は嬉しそうだぞ」

「まあ、なんだかんだで妹だしね・・・。イサリアには兄弟はいないの?」

「うむ・・・兄が一人いたのだが、既に死別しているので今はいないな・・・」

「えっ・・・ごめん・・・」

「いや、構わんぞ。ヒロキに悪気がないことは理解している。それにもう五年は前のことだ・・・」

「そう・・・えっと、じゃ!話は変わるけど導師シャルレーってどんな人?まさしく魔女って感じなんだけど?!」

 イサリアの反応からこれ以上は問うべきではないと判断したヒロキは、先程から気になっていたシャルレーについての質問に切り替える。だれでも親類の死を根掘り葉掘り聞かれたくはないのだ。

「うむ、彼女は五大公家の一つキリーク家の出身だ。現当主の大叔母にあたる人物だから、直系ではないがキリーク家だけでなく帝国貴族としてもかなりの重鎮と言えるだろう。しかも魔術士としても優秀でこの帝立魔導学院の導師筆頭でもある」

「うへ!やっぱり、とんでも人だったんだな!あれ?でも現当主の大叔母ってわりにはかなり若いんだね。二十代前半くらいに見えたけど。この世界では君みたいな天才は珍しくないってこと?もしくは歳の数え方が違うとか?」

 自分で話題を変えたヒロキだが、イサリアの答えに食いつく。大貴族の当主ともなればそれなりの年齢だろう。その当主の大叔母であるシャルレーは若過ぎると思ったのだ。

「私と導師シャルレーが天才であることは疑いの余地はないし、前にも話したとおりヒロキの世界とこの〝アデムス〟は時間の数え方はほぼ一致している。太陽の動きを基準とし、一日は約二十四時間、一年を三百六十五日としているのは同じだ。そして人間の肉体が成人として完成するのも二十歳前後と生物的特徴も同じ。違うのはこちらには魔法があることだ。導師シャルレーは何かしらの魔法を使って全盛期の姿を保っているのだ。だから彼女の正確な年齢は誰も知らない。大叔母というのも表向きの立場だから、本当は大大叔母であるかもしれないし、大大大叔母であるかもしれない!」

「・・・不老不死ってことか!本当に凄いな、この世界は・・・只者ではないとは思ったけどそんな人物だったのか!」

「厳密に言えば不死ではないのだが、高位魔術士が自らの若さと寿命を生物の常識を超えて保つことは可能だ。それには多くの代償が伴うから実践するのは難しいがな。どのような方法と魔法で導師シャルレーがその代償や壁を乗り越えているかは私にもわからない。だが、それには果てしない自己保存への渇望と執念が伴っていると推測出来る。前に学院長が導師シャルレーは何をするかわからないと言っていただろう。そういうことなのだ。私はこれでもまだ、家に対する責任を捨ててはいないからな。だが、導師シャルレーにはそれがない!」

「じゃ、俺はそんな人物に目を付けられたってことか・・・」

「うむ。ヒロキに・・・この世界の人間にない何かを感じたのかもしれない。まあ、私と学院長が後ろ盾になっているから無茶はしないはずだ。だが、厄介なことに彼女は本当に優秀な魔道士なのだ。一部の力、特に人体に影響を及ぼす医療魔法の分野では学院長をも遥に凌ぐと言われている。私もミゴールとなれば彼女からより高位の教えを受けることになる。だから、下手に蔑ろにするわけにもいかない。試験が終わったら約束どおり軽く講義に顔を出す必要があるだろう・・・」

「まじか・・・」

「心配するな、私が必ずヒロキを守ってやる!」

「うん、その時は頼むよ!」

 イサリアの言葉をヒロキは頼りに思う。傲慢とも思える彼女だが、嘘だけは吐かないと信じることが出来た。彼女がすると言えば絶対にするだろう。

 話が一段落する頃には部屋の掃除も終わっており、彼は肩の荷が下りた気分で汚れた雑巾を桶に投げ入れる。トイレとシャワーといった衛生関連の設備は既に寄宿舎に共同の物が用意されているので、生活の基盤がこれで整ったわけだった。

「ああ、では本題のミゴール昇格試験についての詳しい説明に入ろう。これまでの苦労は全てこれのためだったのだからな!」

 それが習慣のように再び〝浄水〟で桶の濁った水を清めるとイサリアは改まってヒロキに語り掛ける。

「そういえば、昨日の寝る前にも軽く説明されたような・・・。朝起きたら状況に慣れるのに必死でどんな内容だったか忘れていたよ。二人一組でないと参加出来ないんだよね?」

「そうだ!その理不尽な条件を満たすために私は・・・結果的にヒロキ、君に助けを求めることになったのだ!」

「・・・で、どんな内容だったっけ?」

「それはだな・・・」

 イサリアの説明を聞くヒロキは、それまでの晴れやかな気持ちが不安に塗り替えられるのを感じた。

「・・・というわけで、昇格試験は地下迷宮から生きて指定の課題物を持ちか・・・待て!ヒロキどこに行く!」

「も、もちろん、学院長のところだ!やっぱり君との約束を反故にしてもらう!そんな危険なところに行けるか!」

「な、なんで、この期に及んでそんなことを言うのだ!」

 急いで部屋を出ようとするヒロキをイサリアが後ろからタックルのようにして抱きしめる。

「なんでって、肝心の試験内容についてこれまで忘れていたからだ!ついでに昨夜の寝る前になんかされたのも思い出したぞ!・・・学院長ならそんな危険を冒さずに元の世界に戻してくれるのだから、頼むのは当然だ!」

「私達二人はそれぞれが役目を果たすと約束したではないか!」

「あれは事前の説明不足だ!クリーニングオフに出来る!」

「ええい、今更そんな!・・・私はヒロキが今一度、私に協力すると宣言してくれるまでこの手は離さんぞ!」

「そっちがその気なら!」

 自分の身体を重りにして、行動を阻害しようとするイサリアに対抗するためヒロキは吠える。いくら美少女の頼みでも命の危険を冒してまで叶えようとするほど、ヒロキのスケベ心は強くなかった。学院長という他にも頼れる存在がいるのなら、そちらに助力を求めるのは当然だ。それでも女の子であるイサリアを無理やり引き剥がすわけにはいかず、ヒロキは彼女を腰に抱き着かせたまま扉を目指す。廊下に出れば他のミーレ達の目もあり彼女も諦めると思われた。

「うぐ!なんか急に重くなった?!」

 扉まであと数歩の所でヒロキは体力の限界を感じて膝を付く。今や背中に纏わり付くイサリアの身体は石像のように重く感じられた。

「考え直してくれヒロキ!私がこうまでして頼んでいるではないか?」

 掃除したばかりの床に倒れたヒロキの背中にイサリアが這いずるように移動し、耳元で囁くように説得を施す。

「あ、ちょっと待って!重い!重い!ああ、背骨がグキって鳴った!わかった!協力する!だから退いてくれ!」

 更に重みを増すイサリアの身体にヒロキは悲鳴を上げた。

「おお、わかってくれたか!」

「はぁ・・はぁ・・・くそ!まさかそんな手で脅迫するとは・・・子泣き爺みたいだな・・・」

 急激に軽くなったイサリアから解放されたヒロキは、呼吸と身体の調子を確認しながら思いついたことを口にする。イサリアが何かしらの魔法を使って身体を重くしたのは間違いからだ。

「コナキジジイが何か知らぬが、約束は約束だ。それに私のような可憐な乙女が抱き付いてまで懇願したのだ。男子であるなら喜んでしかるべきだと思うぞ!」

「む・・・」

 ヒロキは床に座って向かい合うイサリアの姿に改めて注目する。黙って見ていればイサリアは本当に美しい少女だ。この少女に抱き付かれて懇願されたなら、確かに男としての冥利に尽きるだろう。だが、現実は上から圧し掛かれ、痛みと恐怖によって脅迫されたに過ぎない。彼女は嘘を吐かないが、都合が悪いことは隠したまま相手を曲解させる知恵があり、都合が悪くなると強硬手段に訴える力も持っている。ある意味一番厄介な人物と言えるだろう。

「・・・わかった。ヒロキが本当に嫌というのなら諦めよう。試験は来年も受けられる。その間に私と一緒に参加してくれるミーレを見つけ出せば良いのだからな・・・」

 ヒロキの視線に非難の色を見たのか、イサリアはそれまでの強気を嘘のように消して語り掛ける。そして先程までヒロキの背中に顔を押し付けていたためだろう、僅かに赤くなった右頬に流れる涙を隠すように擦った。

「・・・ああ、もう!そんな顔をされたら、わかったって言うしかないだろう!俺がイサリアの試験に協力して、イサリアは俺を元の世界に戻す!最初の約束どおりこれで行こう!」

 イサリアの涙を見たヒロキはそれまでの考えを翻意させる。知り合って二日でしかなかったが、彼女の悲しむ顔は見るに耐えなかった。それに一度交わした約束を破る弱みもあった。

「おお、本当かヒロキ!」

「うん、もう約束を反故にするとは言わない。もっとも、俺は魔法を使えないからな!役に立たなくても文句はなしだぞ!」

「それは安心してくれ、試験では魔法の制限はない。私の戦闘魔法でどんなモンスターも一発で仕留めて見せよう!」

 自身への揺らぎない才能を誇るイサリアの笑顔を見ると、ヒロキは自分の判断が正しいと思うことが出来た。彼女に押しつぶされるより、弱気な姿を見せられる方が心苦しく感じたほどだ。

「では、もっと詳しい説明に聞かせてくれ!」

「うむ!」

 決意を新たにしたヒロキはやるからには全力を尽くそうとイサリアに語り掛けた。


 昇格試験に関する詳しい内容をイサリアから説明されたヒロキではあったが、心構え以外については特別な準備や訓練を必要とするわけではなかった。何しろ地下迷宮の探索は挑戦するミーレ達の魔法を始めとする総合的な能力を確かめる実地試験だ。魔法を使えない彼としては荷物持ちやアドバイス等の直接魔法に関わらない分野での協力しか出来ない。このような立場であったので、イサリアがヒロキに頼んだのは試験までの健康維持と、可能な限りベリゼート帝国の風俗や習慣に慣れることぐらいだ。翌日から彼はイサリアに誘われるままに魔法とは関係のない講義を受けるといった地味な学院生活を送ることになった。

「こんにちわ、イサリアとヒロキ君。どう学院に慣れてきた?」

 そんな生活が四日目になろうとする頃、歴史の講義を終えたヒロキは、席を立って移動を開始しようとしたところでクロリスに話し掛けられる。いつもはエリザと行動を共にすることが多い彼女だが、受ける講義を個人で選択出来るのが〝鷹の学院〟の教育方針なので不思議はない。エリザは歴史よりも他の分野に力を注いでいるということなのだろう。もちろん、ヒロキがこの世界の歴史に特別な関心があるというわけでもない。前述の理由で魔法の才能を全く持たない彼が少しでも理解出来る講義の一つが歴史というだけだ。

「うん、まあまあの調子だよ!」

 クロリスの呼び掛けにヒロキはイサリアよりも先に答える。彼女とエリザとはイサリアとの縁もあって何かと接することが多い。ヒロキも彼女達をクラスメート的な立場と見做すようになっていた。

 たった一人で異世界の真っただ中に放り込まれたヒロキだが、持前の若さで日を重ねるごとに学院での生活に適応していた。もちろんこれは召喚者であるイサリアの手厚い便宜があったからこそだが、もう一つの要因としてベリゼート帝国の文明水準が現代日本と比べて大きな差がないことにあった。

 魔法という日本では考えらない技術をエネルギーの要にしているが、料理や衛生観念、個人財産の尊重等の基本とする価値観は共通していた。唯一、政治体系は日本と大きく異なっており、帝国は民主主義国家ではなかったが、〝鷹の学院〟でも優秀ならば、生まれが貴族や有力部族でなくともその門が開かれているように、才能次第では皇帝直属の高官に取り立てられる等の下から上に上がる階層間の流動性を備えている。基本は封建制度を元にしているが新しい血を随時採用するシステムを持っているのが、ベリゼート帝国の特徴だった。おそらく貴族達の完全な専横が許された社会ではヒロキも慣れることが出来なかっただろうし、帝国もここまで発展することはなかったに違いない。

「本当?後ろから見ていたけど退屈そうに見えたよ!」

「ええ、見られていたの!」

 クロリスの言葉にヒロキは苦笑を浮かべる。彼女の指摘どおり先程までの歴史の講義は彼にとっては退屈な内容でしかなかったからだ。講義の内容はこの国で数百年前に起った人体の精神に影響を及ぼす魔法の開発と、それによって引き起こされた社会的混乱についてだったのだが、異世界の人間であるヒロキとしては対岸の火事というよりは、地球の裏の南米辺りで起った火事のようなものである。この国と世界に与えた影響は大きいのであろうが、あまり積極的にその背景を知ろうとは思えなかったのだ。それでも、礼儀として真面目に講義を受けるフリをしていたのだが、後ろから見れば彼の注意力が散漫であったのが丸見えだったのだろう。

「ヒロキをこの講義を誘ったのは私だ。彼は帝国に組み込まれて間もない部族の出身だからな。帝国の歴史に親身になれないのは仕方ないことだ。同じ三階の個室を使ってはいるが、ヒロキは短期留学のお情けで個室を与えられたに過ぎない。私やクロリスと一緒にしてはいかんぞ!」

「もう、イサリアは直ぐに酷いこと言うんだから!」

 イサリアの言葉にクロリスは窘めるように反応する。彼女は平民出身ながら〝鷹の学院〟に入学が許可されただけでなく、優秀生としても認められた才能ある人物だ。魔法力ではイサリアが抜きん出ているようだが、真面目で争いを好まない性格は正に優秀生といった印象を持たせた。もっとも第三者には嫌味の強い冗談に聞こえるイサリアの言葉も、ヒロキにとってはありがたいフォローである。毒舌を交えてヒロキの正体を勘付かれる可能性の芽を早めに摘み取ってくれたのだ。

「そう言えば、ヒロキ君はスエン族の出身だったね。それじゃ仕方ないか・・・ごめんね」

「いや、大丈夫。気にしないで」

「ありがとう。・・・それでイサリアにちょっとした相談があるのだけれど聞いてくれるかな?」

「・・・どうしたのだ、改まって?」

 ヒロキの許しを得ると本題とばかりにクロリスは改めってイサリアに告げる。その真剣な態度にイサリアも表情を変えて先を促した。

「うん、エリザのことなんだけどね。最近、怒りっぽいの・・・最初はミゴールへの昇格試験が迫っているからそれで緊張しているじゃないかと思っていたのだけど、どうやらエリザの実家であるバルゲン家で何かが起っているようなの。イサリアのリゼート家とバルゲン家はライバル関係にあるけど、あなたなら何かしらの情報を知っているんじゃないかなって思って・・・」

「・・・それは」

 クロリスの告白を受けたイサリアは周囲に視線を送ると声を濁らせる。いつもは小柄な体格とは思えないほど堂々としている彼女だが、他のミーレ達の存在が気になるようだった。

「・・・心当たりはあるが、ここで話すには少々やぶさかではない内容だ。場所を変えて話そう・・・ヒロキも付いてきてくれ!」

 イサリアはそう告げると教室から出るために出入り口へと向かう。許可を得たことでヒロキはクロリスとともに頷くとその後に続いた。イサリアはエリザについて何か心当たりがあるに違いなかった。


「どこまで信憑性があるかは定かではないのだが・・・、エリザのバルゲン家が次代の後継者を早めに発表するのではかという噂話が出ているそうだ。これまでの慣習からしてバルゲン家は当主を決めるのに、いつも揉めていたからな。今回は面倒を早めに解決しようとしているのかもしれない。まあ、一度決めると結束する変わった家なのだが・・・。おっと、話が逸れたな。まあ、そのようなことがあってエリザも気が立っているのではないか?もっともこれは、水面下のやり取りで流れている不確定な情報に過ぎない。同じ五大公家出身の私なら何か知っていると睨んだクロリスの判断は正しいが、事実だとしても当主選びはその家の問題だ。部外者が口を出すようなものではない。そっとしておくのが良いだろう。この話もここだけにしてくれ・・・」

 中央棟の屋上テラスにヒロキとクロリスを連れて来たイサリアは、クロリスの質問に対して自分の持つ情報と見解を告げた。以前は陽の光に満ちていたテラスだったが、今日は生憎の曇り空だ。もっともそのためか利用する人影は彼ら三人のみである。内密の話をするのに調度よい環境だった。

「そっか、そういうことだったのね!私・・・知らず知らずの内にエリザを怒らせてしまったのかと思って心配していたのだけど・・・そういうことなら無理に不機嫌の理由を問いたりせずに、そっとしておくのが良いみたいね」

「うむ、それが最善だ・・・」

「ありがとう、イサリア!私も胸の支えが取れた気分になれたわ!さっそくだけど不調なエリザの代わりに試験に備えて魔法の調整に入るわね。相談に乗ってくれて本当にありがとう!」

 イサリアの説明にクロリスは笑顔を見せて納得したように頷いた。どうやら彼女は親友の様子を案ずるともに、その原因が自分にあったのではないかと心配していたようだ。確定した事実でないにしてもエリザの機嫌を煩わしている原因が知れたことで安堵したのだろう。礼を告げると思いついたようにイサリアとヒロキの前から去って行った。

「うお、何をする!変なことをして驚かすな!」

「なんか、ぼんやりしていたからさ。俺達も・・・ちょっと早いけど昼食としようよ」

 クロリスを見送るイサリアの肩をヒロキは不意打ちのように軽く指で突いた。彼女とクロリスは友人関係にあるが、クロリスが昇格試験のパートナーに選んだのはエリザだ。この事実についてイサリアは何も語ることはないが、クロリスを見送った彼女の寂しそうな表情を見るに複雑な思いを抱いていると想像出来る。ヒロキはそんなイサリアを自分なりに元気付けたのだ。

「本当にヒロキは食欲が旺盛だな!まあ、少し早いが昼食にしようか」

「うん、そうしよう!」

 いつもの調子を取り戻したイサリアの笑顔にヒロキも口角を崩す。彼女はこの世界に自分を召喚した張本人で日本に戻してもらう契約の履行者でもあるのだが、今ではそれらの前提を越えた大切な存在になりつつあった。頑固で傲慢だが、心根はそこまで捻くれていないはずのイサリアが自分に屈託のない笑顔を見せてくれる。それは彼にとっては心が満たされる出来事になっていた。

 このようにしてヒロキはミゴール昇格試験までイサリアと充実した日々を過ごしたのだった。



ご愛読ありがとうございました。後編は一週間後に公開予定です。

筆者のモチベーションになりますので、よろしければ感想、評価をお願いします。


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