九杯目
明けまして、おめでとうございます。
―――神様は、どうしてこういうタイミングで、絶妙に意地悪なことをするんだろうか。
例えばそれは、ずっと気になっていて、雨のなか数時間ならんで食べた念願のスイーツが、案外おいしくなかったとき。または、数か月前からお金をためてようやく買ったコートが、意外と自分に似合わないと家に帰ってから気付いたとき。
期待値が高まれば高まるほどその時の衝撃は激しくて、誰に当たることも出来ずに、ガンガンと耳鳴りがしそうな大音量で好きな曲を聞いてやり過ごすしかないときがある。イヤホンをつけているのに外部に漏れるような大音量は、多少の背徳感も相まって少し胸がすっとする。そんなイライラした時は、カラオケにでも行って大声を出せればいいのだけれど、必ずしも毎度そんなタイミングよくいくわけじゃない。友だちだって、笑い話は喜んで聞いてくれるだろうけれど、毎度重苦しい話題を時間を問わず振られても困ってしまうだろう。そこのところは、例え気を許している歌胡でさえも、一線を超えないように私自身気を付けているのだ。
世のお偉いさんたちは「人生はストレスをためないのが一番だ」なんて、テレビに出てはふんぞり返っていたりするけれど。「あんたがストレスをためないために、周囲が余分なストレスを普段の倍以上感じているのだ」と教えてやったらどんな反応をするだろうといつも思う。けれどそういう人の機微に疎いタイプの人間は、人のわずかにしかめた眉に気づくことなく、臆することなく明るく接するから周囲にもなんだかんだで許されてしまう。
「人を不快にする暴言や愚痴を言っても許される人なんて、本当に嫌になる……」
思えば、泰知のお母さんも、その手の人間だった。
天真爛漫で、自分が愛されたり親切にされることに何ら違和感も覚えず、本当の意味でのありがたみも知らないまま。世間で少し非難されたがゆえに、自分や泰知の人生をめちゃくちゃにした人だと、幼いながらずっと考えていた。
―――泰知が嬉しそうな顔で、可愛い女の子から手作りのお菓子を受け取る姿を見かけるまでは。
これまでの泰知といえば、私が作る料理以外は口にすることもしなくて、食べたら確実的に吐いていた。その上、誰かから手作りのものを渡されそうになったら、「ごまかす方が大変だから」なんていって、そっけなく返してしまうのだ。
そんな姿を見て、女の子に同情しながらも、優越感を感じていた。
嗚呼、私はなんて馬鹿だったのだろう。あれはただ、泰知の幼い思い込みや拒否反応的なもので食事をとれないだけで、彼が私に恋心を抱いているからじゃないかもしれない。ましてや、自分が食べられるものを作る同年代の女子である私を好きだと勘違いしているだけで、本当は異性として好きでも何でもないかもしれない。
そんな最悪な展開を、考えから抹消していた自分が恥ずかしい。
何てお気楽な脳みそだろう。そんな私にもたらされたのは、最悪な気付きの機会だった。
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イライラした様子で、歌胡が自分の席に座る泰知をにらみつけている。
クラスメートの喧騒にはばまれて気づかれてないけれど、あまりそうしているとまた何か余計なことを言われそうだからやめてほしい。
「本当に、なぁーちゃんの恋人は女心が分かってないね」
「…………」
泰知を殴るだなんて初めての事で、同様のあまり彼女に相談したのは間違いだったかと、内心後悔しだしていた。あの日のことを相談してから彼女は終始そんな感じで、逆に私が肩身の狭い思いをしている。
今日はどうも朝から体調が悪く、変に気分が落ち込むと思っていたら生理になってしまってさらに気分はブルーだ。ストレスのせいで早まってしまったらしく、心構えもできないし薬も切らしているしで最悪だった。
「なぁーちゃん顔色が悪くなって、白から青になっているよ。今日は雨降るらしいし、私も部活のミーティングあるから先帰ってね?」
「傘、忘れてきちゃった」
「うそ、私も自分の分しか持ってきてないや。誰か置き傘している人探してみようか?」
「いいよ。まだ降ってないみたいだし、ほとんどバスに乗っているだけだし」
そんな会話を、学校を出る前にしたのだけれど、まんまと雨雲はしずくを落としてみるみる地面を濡らしていく。我が家は住宅街にあるため、バス停まで少し歩く。ただでさえ血の巡りが悪くなっていて寒いのに、これ以上雨で体を冷やしたくなくてゆっくりながら走ることにした。
信号でさえも、見つめれば早く変わるような気がして焦れる。
少し先に歩道橋はあるものの、家に帰るにはこの信号を渡った方が早い。遅刻しそうになった時に歩道橋を使ったことがあるけれど、駆けあがった足が無駄に疲れるだけでタイムロスした。
ただ待つという行為はつらいけれど、二車線道路の信号を回避する方法なんて浮かばなくて気持ちに実体が追い付かない。焦るあまり信号を睨むような感覚で熱く見つめる。これ以上雨が強くなったら、立っているのも辛くなりそうで早く帰りたかった。
早く変われと、信号をじっと見つめる。ようやく変わりそうだという所で、反対車線に見知った姿を見つけて思わずすべての動きが停止した。
「やだ、泰知ったら」
「なんだよ、お前こそ……」
傘を差しながら、女の子と楽しそうに話す泰知をみて、ショックを受けた。
雨と車のせいで部分的に音が拾えるのみで、具体的に何を話しているのかは聞こえてこない。ショックのあまりずっとみていれば、その相手は松崎さんだという事が分かった。以前に彼女は「中学時代、泰知くんと付き合っていた」なんて言ってきたこともあり、あまり近づいてほしくない存在だ。ただ、お隣同士の私は「あれだけ毎日べったり傍にいたのに、どうやってあんたの旦那が浮気できるのよ」なんて、歌胡に言われて安心しきっていた。
これまで、何度となく女子に囲まれる風景なんて見てきたのに、どうしてだろう?どうして、たった少し手作りと思われるそのお菓子を頬張るさまを見て、こんなに打ちひしがれた気持ちになってしまうのだろう。
口元まで寄せられたそのお菓子を、泰知は嬉しそうに頬張っていた。お菓子をつまむ彼女の指は、いつも料理する私と違って綺麗にデコられているのが、印象的で目が離せない。
普段なら、まずありえない光景に対する驚きもさることながら、「どうして、自分以外が作ったものを食べているのか?」という、とっさに浮かんだ自分に愕然とした。傲慢且つ冷酷な考えに、我ながら寒気が走ってしまう。これでは、『彼女』をどうして責められよう。私も、所詮泰知を害しようとした彼の母親と、何ら変わらないではないか。
雨の中、びしょびしょになりながらスーパーへ寄る。
正直、あのまま信号を待っていたくなかった。だから、近くにあったスーパーへ逃げ込んだのだ。霧雨程度の雨で何本も家にあるビニール傘を買う気にはならなくて、前髪から滴るしずくも無視して野菜を選ぶ。一瞬、家に帰ってからまた来ようか迷ったけれど、特売日である今日のこの時間を逃してしまえば、お目当ての品を手に入れられなくなる。
「あら、貴女びしょぬれで大丈夫?」
「すみません、大丈夫です」
入口近くでおばあさんに話しかけられたけれど、ぼんやり答えた私をいぶかしげに見ると去って行った。
こんなに落ち込んでびしょぬれ状態でも、安売りの赤文字には勝てない自分に苦笑しながら籠へどんどん放り込む。
雨がみるみる制服を侵食していて、スーパーの冷蔵スペースから向けられる冷気は震えるほど寒かった。さっき以上に雨が強まったら、今度こそ傘を買わずにはいられなくなる。
前は100円傘を愛用していたりしたものだけれど、最近では500円の割高な物しか見なくなった。あれは確かに100円のそれよりはるかに頑丈なのだけれど、いくつもコレクションのように我が家の傘立てを牛耳っているのを見ると、軽々しく購入するのをためらってしまう。第一、あんなものを父のように何度も買っていたら、頑張って特売のスーパーを巡っている意味なんて容易く吹き飛んでしまう。
第一これ見よがしに、困った人間へ高い傘を売りつけようとしているように思えて、被害者意識もここまでくると駄目だと分かっていながら、購入意欲はわいてこない。そんな風に意地の悪いことを考えていた罰が当たったのかもしれない。今日作ろうとした料理にはローリエが必要だったのに、買うのを忘れたとレジを済ませてから気が付いた。
長い行列の末ようやく買えたのに、何をやっているのかと落ち込みながら商品棚まで引き返す。混んでいる中これだけを買うのはあまりに申し訳なくて、ついでに買う予定のなかったお菓子を一つ買ってくる。さっきはせっかく買っても、大量の食品に潰されて箱がぐちゃぐちゃになることを理由に諦めたけれど、もう一度レジに並ぶなら別だ。
エコバック一つでは不安だったけれど、レジに並ぶたびに袋一つだけなら無料だからそれを使えば問題は解決される。先のレジではエコと自分の体重を気にして諦めたけれど、少しの失敗にイライラしてつい手が伸びてしまった。
甘いものを食べて気分を持ち直そうと、長い列に申し訳なくなりながら並び、レジを終えた。
「あーあ、わざと無料の袋をもらおうとする人間は、賤しくていやね。特に、若い子なんかはみっともない」
思わず自分の耳を疑った。
今通り過ぎたレジのお姉さんとは、明らかに声が違っていた。そもそも、この店員さんとは顔なじみで、こちらが「混んでいるのにすみません」と小声で申し訳なくて謝ったら、「大丈夫ですよ」なんてにっこり笑ってくれた。……それじゃあ、誰がと思わず顔を巡らせたところで、すごい顔でこちらを睨むおばさんがいた。
「ほら、見てよアレ」
「ちょ、ちょっと聞こえるわよ」
「聞こえたってかまいやしないわよ、事実なんだし」
「そんなこと言っても、今どきの若い子は何をするかわからないんだし」
ちょくちょく特売目当てで通っている私が知らないということは、ここに来て間もない店員なのだろう。良くしゃべるおばさんと、レジ打ちすることもなく横の方で話し込んでいた。
「なんっで……」
買い物をして、嫌味を言われなければならないのか。
確かに少し空気が読めないことをしてしまったと反省したけれど、決してわざとではなかった。むしろ、申し訳なくて余分な買い物すらしたのに、どうしてまともに自分の仕事すらしていない人間にあんなふうに見下されなければならないのか。
小娘のくせに、いっちょまえに特売目当てでやってきたから?
それとも、混んでいるのに少量の買い物をしたから?
今日は色々なことがありすぎて、普段だったら「駄目な人間に絡まれた」くらいの気持ちでいられるのに、今はこんな些細なことでも泣き出してしまいそうだった。
考えてみれば、今日は朝から運がなかった。
毎朝作っている卵焼きは焦がすし、前髪は不自然にはねて戻らない。「さぁ、急いで学校へ行かなきゃ」と言う所で、忘れ物をしているのを思い出して戻ったら、遅刻しそうになってしまった。
何とか遅刻せずにはすんだけれど、担任からクラスメートがそろっている所でからかわれ恥ずかしい思いをした。授業が始まってからも、いつもは使わない資料集を忘れて怒られたし、体育ではこけてひざをすりむいた。他にも、些細な嫌なことがずっと起こっていた所に、先程の光景だ。
泰知が女の子と一緒にいる姿なんて慣れていると思ったけれど、生理で精神が不安定な今は、止めてほしかった。ましてやそれが、自分の彼氏の元カノかもしれないなんて、本当に神様は私をどうしたいのだろう。
体はだるいし、軽い吐き気もする。
泰知はもちろん、生理症状が軽い娘たちには理解もされないけれど、座っているのも辛い時もあるのだ。こんなボロボロの時を狙って、わざわざ「泣きっ面に蜂」ということわざを体験させるなんてと、天を睨んでも文句言われる筋合いはない。
店の外に出て思わず立ち止まった私に容赦なく雨は降り注ぎ、どんどん冷えていく体が余計にみじめに感じて涙がでた。




