七杯目
放課後の委員会が終わり、足早に教室を目指している時だった。
「あーあ、俺も『若様』みたいに、毎日癒されてぇーな」
「はあー?お前は飯炊き女なんていなくても、とっかえひっかえしてるだろうが」
「そうだよ、お前はいっつもエっロい女相手にしてるから、彼女じゃ満足できねぇだろ。中井さんに失礼だって。ねー?」
「一回でいいから、俺たちも癒やしてよー」
廊下を少し歩いただけで、ぎゃーぎゃーうるさい声にさらされる。
どうやら先輩たちは、私に言ったのと同じようなことを至る所で言いふらしているらしい。馬鹿な男子たちは、それが事実でも嘘でも構わないのだろう。いやらしい目で見てくるだけに飽き足らず、わざとらしく体に触れようとして来たりこうして馬鹿にして来たりする。
あれも立派な痴漢でセクハラだというのに、職場と違い学校ではまともに訴えることも出来ないのだから理不尽だ。
脳みそから汚されそうな感覚に、耳を掻きむしりたくなるけど何とかこらえる。
そんな事をしようものなら、間違いなく更にからまれるのは明白だ。
「お前たち『僕の』智会に、何か用?」
すっと現れた存在に、腰を抱かれて引き寄せられる。
泰知の高圧な態度は、早々見られるものではなくて驚きに顔を窺った。相当怒っているのだろう。至近距離から見た顔は、いっそ無表情と言っていいものだった。泰知のこんな顔、早々見ることがない。この緊迫した空気を、どうしようかと冷や汗を流す私に、救いの声がかけられた。
「うわー若宮くんったら、男前!」
「お前ら、これに懲りたら中井さんにちょっかい出すの止めろよー?若宮は一度キレると厄介だぞ」
「そうそう。若宮はこう見えて、意外と強いよー」
気付けば周囲には、泰知だけではなく何時もつるんでいる男子たちもいたようだ。
茶化してくる言葉は気に入らないけれど、今にも殴り掛かりそうだった泰知を止めてくれたのはありがたい。
「なぁーちゃん、何やってるの?」
今度こそ、本当の救いの女神である歌胡に出会えた私は、嬉々としてその場を逃げ出した。
少し早足で教室に戻り、鞄を取って学校を出た。
そんな事をしても何の解決にもならないことは分かっていたのだけれど、今は泰知の顔が見れなかった。かばって貰ったのはもちろんうれしかったけれど、そもそも泰知があからさまに付き合っていることを公言しなければ、こんな風に絡まれることもなかった。そう考えてしまう自分が、みじめでしょうがなくてさらに罪悪感に陥る。
いくら周囲の目を気にしてもしょうがないといいつつも、一日中好奇の目に晒されれば嫌にもなる。弱気になった気持ちを悟られたのだろう。「なぁーちゃん。明日は土曜なのに、特に予定ないって言ってたよね?」何て言いながら、歌胡は半分脅迫するかのように、約束を取り付けてきた。
「―――それで、智会のことが好きだ、ずっと傍にいてほしい!って言葉に負けて、もやもやと消化不良を起こしたまま引き下がってきたの?」
「あー、面目ないです」
「いや、別に謝ってほしいわけじゃないんだけどさ。むしろ、どうせ謝るなら人の友達をさんざん悩ませているあんたの彼氏に、謝らせて一発殴らせてもらい、その上で高級イチゴを使ったイチゴ・オレをおごらせたい気分だけど」
「……そんなに、そのイチゴ・オレ美味しくなかったの?」
あまりに雑念の入りまくった答えに、思わず手を止めて胡乱気なまなざしを送る。
何せ、一緒に買い物している時ですら、イチゴ・オレを片時も離さない人間だ。もはや脳みそを切ったらイチゴ・オレがでてくるのではないかと、疑いたくなるのもしょうがないことだろう。
我ながらグロテスクな想像に眉をしかめるけれど、それ以上に険しい顔をした歌胡は重い口を開いた。
「……牛乳を薄めたみたいな味がする」
「ふーん、今度そのシリーズを買うのはやめておく」
確か、いま歌胡が持っているのはいくつかシリーズで商品を出しており、コーヒー牛乳やバナナ・オレも出しているはずだ。こういうのは、一つが駄目だと他の物も口に合わない可能性が高い。お店の中で、商品を前に飲食するのはいただけないけれど、歌胡が美味しいという感性は信用できる。
賞味期限切れの、美味しくなくなった物も戸惑いなく口にする彼女だけれど、そういう感性は狂っていないのは、本当に謎だ。
「って、わざと話を逸らさないの!結局どうするのよ。こんな悠長に、ショッピングしている場合じゃないでしょうが」
「買い物に行きたいって言ったのは、歌胡のほうじゃない」
「そりゃあ、いい結果報告が聞けると思ったから」
けろっと、難しいことを言ってくれる彼女は、いつもは頼りになるのに、時々殴りたくなるほど鬼だ。
「何よ。プロポーズみたーいって、全く浮かれなかったとでも?」
「……ごめんなさい。ちょっと浮かれてました」
正直、こちらの分が悪すぎて目をそらす。
新しいコートを買いたかったはずなのに、ついセールという言葉に負けて、他の服も物色する。似たような服を持っていると思いつつも、色の違いや材質の違いで、これをいつものスカートに合わせたらどうなるかと想像する。今日みつけたコートと合わせたら、これはきっとすごく可愛くなる。鞄やブーツを変えれば、大人っぽくもなるだろうし、想像するだけでも楽しい。
歌胡の方も、イチゴ・オレを片手に器用に服を物色している。
ときどき、互いに似合いそうな服やアイテムを探し出すと、一時だけでも泰知のことを忘れられた。
「次はどうする?今日は一緒に、お昼食べられるんでしょ?」
「うん。泰知には、今日のお昼は一人で食べてって伝えてあるから」
「うーん。我ながら、いけない人を好きになった、愛人のような会話してるわ」
「今日は子どもの面倒は親に任せてあるから、夜まで一緒にいられるよハニー」
「まぁ。奥さんより私を取ってくれるなんて、嬉しいわダーリン」
シナを作りながら身を寄せる歌胡の手を握ると、思わず二人噴出した。
お目当ての商品を持ってレジまで行くと、にっこりとした笑顔を返された。それがようやく帰ってくれるというものなのか、ただのプロ根性なのかわからないけれど、注意される前に店を出るに限る。
それからしばらく歩き、おしゃれな黒板で本日のおすすめメニューが書かれた店で食事をとることにした。看板は小さかったものの、黒猫が店名を抱き込むようなイラストも、ちらりと窓からのぞきこんだ雰囲気も好みだった。過度な装飾などされていないのに、どこか西洋を思い出させる。レンガ造りの内装も良かったし、何より店の外まで食欲をそそるにおいがしていて二人顔を見つめてすぐに決めた。
お店に入った瞬間からテンションが高くて、店員にはちょっと視線を向けられた。
「―――でも、本当にいい加減にしないと、なぁーちゃんも若宮も今後大変だと思うよ?」
「今後?」
「だって、就職したら色々お付き合いとかあるだろうし、いっつも張り付いているわけにはいかないじゃない。ましてや、なぁーちゃんが病気したり、怪我で料理を作れない状態にでもなったら、その方が大変でしょう?」
「いざとなったら、無理やり口に突っ込んででも、違う人の料理食べさせないと」なんていう歌胡の言葉は大げさだと思うけれど、確かに一理ある。メニューを一通り見て、自分では作れないパスタを頼む。料理を作るようになってからは、お店に入るたびに頼むのは、普段自分では作れないようなものがばかりだ。自分で作れてしまうものだと、勿論お店の方がおいしくても、少し損をした気分になる。
どうせいつでも食べられる物と目新しい物ならば、ちょっと冒険してでも目新しいものを試してみたくなる。それに、もし自分で気に入ったら、アレンジして泰知に食べさせることも出来るかもしれない。技を盗むなんて大層なことをできなくても、食に関するハンディキャップを持った泰知に、できる限りのことをしてあげたくなる。
「うーん。泰知の主治医に、もう一度相談するのも手かな?」
具がごろごろと入ったパスタを、四苦八苦しながらするする平らげていく。具だくさんなのは嬉しいのだけれど、麺とのバランスを考えながら食べないと、絶対にあとで後悔する。一種のゲーム感覚に陥りながらも味は絶品だった。歌胡とあーでもない、こーでもないと言いながら夢中になって食べていくのだ。
「それで、どうだったの?」
「生ハムが少ししょっぱい気もするけれど、割とおいしいよ」
「いや、パスタじゃなくって、前にお医者さんに相談した時のこと」
真剣にパスタを味わっていたから気づかなかったけれど、料理の七割を歌胡は食べ終えていて正直焦った。彼女の頼んだピザを私も一切れもらったけれど、サラダやパスタは底が見えている。
「どうしよう、あと一枚ピザ頼もうかな……」
「まだ食べるのっ!これからデザートが来るの忘れてない?」
「いや、許されるならまだ入る」
明かりの入るおしゃれな店内には似合わない台詞に、隣にいたカップルも目を見張っている。こんなに細い歌胡のどこに、そんなに料理が入るのか不思議でしょうがない。
唖然とする周囲を気にせず、嬉々としてピザとサラダを一品ずつ注文した。
店員が思わず聞き返し、本気なのかという目で私を見てきたけれど、黙って頷いたら「かしこまりました」と礼をして去って行った。まぁ、思わず確認したくなる気持ちはわかるけれど、彼女の食べっぷりを知っているこちらとしては、『食べきれない』という心配は不要だという事しか答えられない。
「……自分用のサラダ、頼まなくてよかった」
「えーそう?なぁーちゃんが食べきれなかったら、私が食べてあげるから大丈夫だったのに」
「……散々食べた後に言う台詞が、それなの?」
出来立てのピザを見ながらそんな事を言われるけれど、こっちはその光景だけでお腹いっぱいになる。とろりとしたチーズや、トマトソースの香りでだって、ごまかせない満腹感にこちらが唸ってしまいそうだ。
歌胡はと言えば、なにかアレンジをしたくなったのだろう。ピザにサラダを乗せて「サラダピザー」なんて喜んでいるけれど、決してヘルシーにはなっていないと思う。使い古された言葉だけれど、本当にその細い体のどこに入っていくのか知りたいくらいだ。前にそれを口にして「単なる体質で遺伝」といわれて、本気で殴りたくなった過去があるから、言葉にしたりはしないけれど。
デザートのバニラアイスを食べながら、呆れる私に歌胡は続ける。
「それで、お医者の反応はどうだったのよ」
「うーん、始めのうちは心理カウンセラーを紹介するっておっしゃってたんだけど、何人か紹介してもらった人も泰知とあわなくて、仕舞には諦めてた」
「そりゃあ、一時期の何も食べられない状況を思えば、だいぶ回復しているしねー」
「うん、余計な刺激を与えたくなかったんだと思う」
厄介な症例が手におえなくて、見放されたのだとは思いたくない。
「もういっそ若宮をベッドにでも押し倒して、好き嫌いしていると二度と触らせてあげないって、脅してみれば」
「そんな、他人事だと思って……」
どうやら歌胡は、考えるのに疲れたらしい。
びっくりするほど適当なことを口にして、パクパクとピザを頬張りだした。
正直こんな風に、出口の見えない思考に付き合ってくれるだけでもありがたい。他の友だちにはまず言えないことも、歌胡だから口にできる。こんな風に、煮え切った頭をリセットさせてくれる存在だから、つい何でも相談したくないってしまうのだ。これでもしも歌胡がもっと深く考え込む性格だったら、巻き込むのが怖くて軽い相談すらできなかっただろう。
「歌胡、いつもありがとね」
「んー?なんだかよくわからないけど、いいってことよ」
お皿から目を離さない彼女は、本当に気にしていないのだろう。
私の言葉はしっかり聞いてくれているのに、この重たい案件に押しつぶされない存在は貴重だ。
「にしても、本当に歌胡の胃袋はブラックホールだね」
「えーさすがに、私だって限度はあるよ……たぶん」
「多分か!」
「だって、この時期っていろいろ食べ物がおいしく感じない?」
「いや、歌胡の場合、夏場もシャリシャリ君を食べて、アイスうまぁー!って叫んでたよ」
「アイスと麺類は飲み物なので、食べ物には含みません」
「どっかの、大食いか!」
真面目な顔でいう歌胡が面白くて笑った。
それでも、心のもやもやがすべて晴れることはなく。私は昨日から、まともに泰知と会話することが出来なくなった。