六杯目
何で、当事者でも、理由を知っている人間でもない周囲の人々に四の五の言われなければならないのだろう。そんな苛立ちを感じてはいるのに、しとしと雨を降らす空同様、気分は薄暗かった。こんなままでは、数日前に起こった女子特有の『お呼び出し』から下がった気分を戻すことも出来ない。
「ねぇ、智会―――」
「んー?」
机に突っ伏したまま、返事にもならない声を出す。
今日は特に、クラスの一部の女子からずっと睨まれていたし、廊下を歩くたびに好意的とはいえないまなざしを向けられていた。ようやく放課後になったと安心した途端、全身から力が抜けていくのが分かった。知らず全身に力がこもってしまっていたようだ。泰知に興味ないだろうと思っていた女子も、意外や意外。彼へ想いを寄せていたらしくて、じとっとした目線を向けられているのに気づき疲れてしまった。
こちらに、顔を上げる気がないのがわかったのだろう。歌胡は私の態度を戒めるでもなく言葉を続ける。
「あんたたちの間に何があったのか、どんな感情をもって一緒にいるのか私は知らない」
「……そりゃあ、話してないからね」
いっそふてぶてしく答えて見せたというのに、やさぐれた私に構う気はないようだ。
ちらりと視線を向けると、歌胡は眉一つ動かさず真顔のまま頷いた。
「でも、好きな人に必要とされる喜びや有難みなら、ちょっとは理解できる」
淡々と語られた言葉に、思わず息をのむ。
歌胡は「真面目な話は好きじゃない」なんて言ってあまり自分のことを話してはくれないけれど、このまえ数年にわたり片想いしていた幼馴染に失恋したと教えてもらったばかりだった。その相手には仲の良い彼女がいて、敵対心をもつことがいっそ馬鹿らしくなる程に良い子なんだと、呆れをにじませた声で語っていた。
いつも飄々としたイメージのある彼女が、震える声で教えてくれた打ち明け話は、まるで元気を出せと言われているようで胸が詰まった。普段であれば「しゃきっとしろ!」なんて強く背中をたたくのが関の山なのにと、申し訳なくなったのも記憶に新しい。
きっと彼女は、私が落ち込んでいなければそんな話、しようともしなかっただろう。
他に誰もいないとはいえ、教室で夕焼けを睨むようにして涙を流す姿に、これ以上情けない姿は見せられないと、あの日誓ったのを早々に忘れた自分を殴ってしまいたい。
「―――私、あいつに中学入りたての頃、告白されて振ってるんだ。」
「えっ……」
この前は語られなかった事実に驚いて、思わず体を起こす。
ずっと上体を預けていた体は少し軋んだけれど、「ほっぺ赤くなってる」と指摘されて、慌てて頬をこすった。微かに痛みがあるから、確かに赤くなっているのだろう。常とは違う感触をごまかすように「それ本当なの?」と歌胡へ問いかけた。
「本当だよ。あの時はクラスメートたちが急に異性を意識しだして、深く考えずに振ったけど後で死ぬほど後悔した」
ここまで来たら、別に隠すつもりはないのだろう。
淡々と語られる内容が、逆に真実味を持っていて辛くなる。こちらを見ずに語る横顔は、不釣り合いなほど静かだ。
「なんで―――」
「気づいて、すぐに告白しなかったのかって?『やっぱり好きだから付き合いましょう』なんて都合のいい事、言えるわけないじゃん。第一、気持ちに気付いたのは、相手に彼女が出来た時だったしね」
中三の時から付き合って、高ニの今も続いているのだから立派なものだと、他人事のように語る歌胡はおじさんのように仰々しく腕を組む。それはただただ申し訳なく思う私を気遣っているのか、普段しない話をして照れているのか判断が付けられなかった。
彼女の肩先で遊ぶ髪が、少しさびしそうに揺れた気がする。
しかし、感傷的になったのはわずかな間で、次の瞬間には歌胡は普段より大きく胸をそらして声を上げた。
「とにかく!こんな阿呆な後悔している私みたいにならないためにも、とっとと話し合ってあわよくば告白してきちゃいな」
「そ、そんな他人事みたいに……」
「だって他人事だもん!」
すがすがしいほど胸を張って向けられた言葉に、思わず吹き出して笑ってしまう。
先ほどまでの静かな印象が吹き飛ぶような彼女は、いつも見ている姿で安心する。
「『経験者は語るっ』だよ。ほら、分かったらとっととお行き!」
「えぇっ、今日行くの?」
「思い立ったが吉日!」
「あーはいはい、そうですね。年長者の言うことは聞かないとですね」
「ちょっ、たった数か月の差でしょうっ?」
「んー?でも、本気で今すぐは無理だよ」
「なに、まだグダグダ言う気?」
「あー違うって。今日はほら、毎月恒例の絶不調日だから」
「……それなら仕方ないけど、近いうちにどうにかしなさいよ?『あの女』も、いい加減目障りだし」
「うん、せっかく色々発破かけてくれたのにごめんね。あと松崎さんの件は、私のせいじゃないから本人に言って」
松崎さんは、気のある男子や教師にばかり媚びると、いろいろ話題の女の子だ。
勿論それなりに可愛くはあるのだけれど、男をとっかえひっかえしているだとか、何かと話題の絶えない子なのだ。そんな彼女に、泰知はなにかと絡まれているから、歌胡は私以上に気にしてくれている。
「あら、智会が若宮の野郎を絞めるなって頼むから、本人に直接言えないだけで、何時でも私はあの野郎をノス気まんまんよ?」
「うん、ごめん。本気で今の泰知は歌胡にボコボコにされたら、再起不能になっちゃうから勘弁してあげて」
本気で泰知を心配しているのをごまかすように、笑って見せた。
実母に会っているだけだというのにと、言うことなかれ。下手な犯罪者よりも彼の心を傷つけられる存在は、私にとって苦々しい存在でしかない。泰知がフラフラになって帰ってきてから、もう一か月たったのかと驚くほど、この日は私にとっても頭や心を消耗する。
「じゃあ、本気でそろそろ帰るとしますかね」
「んー、コンビニでも寄って、腹ごしらえする?歌胡、ザディバのコンビニ限定イチゴ・オレ飲みたいって言っていたじゃない」
「だから、ぐだぐだ言っていないで、あんたは早く帰りなさいってば」
親友のそんな言葉を後押しに、のろのろと家への道を歩み決意を固めた。
こんな日々は、もうごめんだ。
泰知に対する罪悪感を抱き続けるのも、私たちの関係を知らない女の子に嫉妬されるのも。自ら始めたことだとはいえ、あまりに酷いさまに限界を感じた。もう、今すぐにでも彼を縛るこの手を放してしまおう。思い立ったら衝動を止められなくて、パイを目当てにやってくる泰知にとっとと罪を告白してしまおうと待ち構えることにした。
本当は今日のいやな出来事を面白おかしく聞かせてからにしたかったけれど、冷たい雨は私の心まで冷やしていた。これも、いつまでも煮え切らず嘘を吐く私に見かねて、神様がもう泰知を苦しめるのはやめろと言われているのかもしれないとまで考えていた。
何も知らずにやってきた泰知の顔を見て、嗚呼、どうしようとまだ迷っている自分がいた。彼のことを思えば、少しでも普通に食事ができるように協力するべきだろう。それが今までできなかったのは、彼にとって特別な存在であり続けたいという、私の傲慢さのせいだ。彼の顔色が悪いからなんて、言い訳にしかならない。
その自分勝手な思考を改めるには、まず彼の勘違いを正すのが良いだろう。
鳥の刷り込みのように、私の料理へ絶対の信頼を置いている彼だけど、現実はもっと単純で柔軟に対応できるはずだと、ほかほかのお皿を差し出す。
「はい、ご要望通りのパンプキンパイ」
「あーこれこれ。食べたかったんだよなー」
にこにこ笑いながらフォークを動かす泰知をみると、今日も彼は無事に食事をとれているんだと安心する。
「やっぱり、智会の料理は美味い!」
満面の笑みを見せる彼に対し、ちくりと胸が痛むのを止められなかった。
その棘は、自分が傲慢だと気付いてからずっと心臓を刺激し続けていて、いい加減に抜かないと窒息しそうだった。
「私なんかより、腕のいい人は……たくさんいるよ」
「いーや、お前の腕は一流だな。毎日食べている僕がそういうのだから、間違いない」
「……だから、私の腕はちょっと料理上手な人より、よっぽど劣るんだってば」
「そんな事ないよ」
「ここ数年、私の料理しか食べないように、泰知をわざと誘導していたんだってば!」
黙り込んだ泰知の顔を見るのが怖くて、目線をそらす。
本当はもっと早くに、こうして話し合わなければならなかったのに、私はそれから逃げ続けてきた。自然に任せるべきだとか、本人が嫌がっているのだから強要するべきではないだとか。そんな風にやってきた報いが、ここにきて出てしまったのかと心が痛む。
「ごめんね、泰知が他人の料理は食べようとしないのを利用して、わざとその症状を治そうとしてこなかったの」
「…………」
何も言わない彼に不安になって、さらに言葉を続ける。
おそるおそる顔を見るとやっぱり困惑していて、突然どうしたのかとこちらをうかがっているのがわかる。きっとこの話が終わったときに彼は、こんな近くにいてくれないだろうと分かりつつも言葉を続けた。
「この世には私なんかが作るよりも、百倍美味しいものがあるし、……それどころか、」
私は、彼のお母さんにも届いてもいない。
そうだ。彼は巷では少し名の知れた料理研究家で、そんな得意の料理を使って彼へ毒を盛ったのだ。彼の母親を許せないと思うのと同時に、もしも自分にそれだけの腕があればと願ってしまう気持ちがある。まるで、悪い魔女の力を借りてでも王子をものにしたいと願った人魚姫のようだ。そうまで考えて、あまりにそれは綺麗に言いすぎかと否定する。
こんな私が童話の人魚姫のように、綺麗な泡になって消えられるはずがないのに。
きっと、最後の最後まで無様な姿をさらしながら、彼に縋り付くのが関の山だ。どろりとしたヘドロが光すら通さない深海へ堕ちていくさまを想像して、思わず身震いする。
「僕はそもそも、お前の料理を一生食べていくつもりなんだけど?」
目を合わせることも出来ずに震える私へ、思いがけない言葉が向けられた。
何を当たり前のことを言っているんだと言われた言葉は、余所で聞いたら傲慢に思えただろうけれど、私は紛れもない当事者だった。長く彼の食を担ってきた私にとっては、どうしようもない褒め言葉だ。
「何も、このままでいいなんて思わないけれど、智会の作る料理がうまいことには変わらないんだからさ」
「レストランや、泰知のお母さんの方が……」
「あー、そのことに関しては色々言いたいけれど、とりあえず今は置いておけって。主婦歴半世紀っていう、大家のタエばあにさえ「智会の料理はうまい」って言われてるんだぜ?自信もてって」
「ふふっ、だってタエばあに煮物の煮方教えてもらったんだもん。弟子を褒めるのは当然よ」
「そんじゃあ、その師匠に智会ちゃんを泣かせたら容赦しないって脅されているから、お前は大人しく僕の隣にいてよ」
……そんな、プロポーズみたいな言葉を恋人から向けられて、嬉しくない訳がない。
けれど、私の一世一代の懺悔は、全く本人に伝わることなく流されてしまったようだ。怒ればいいのか、悲しめばいいのか分からない状況に、しょうがないから笑うことにした。
「ごめん、泰知……」
「なんだよ、まだ謝る気?こっちは全然気にしてないから大丈夫だって」
「―――ごめん」
こんな、異常な状態を「当たり前だ」と笑って済ませるほど、放っておいてしまって。本当はもっと早くにどうにかしてあげるべきだったのに、私はこの状況を軽んじた。「自然に任せておけば、いずれ何をしなくても元通りに戻るだろう」と。
大丈夫だと笑う泰知に、涙をぬぐわれて目を閉じる。
唇に触れる温かな感触はいつもと何にも変わらなくて、心の中でひたすら謝罪を繰り返していた。