十二杯目
ドキドキしながら呼び鈴を鳴らす。
少し緊張しながら名前を言うと、驚いたように泰知があわてる声が聞こえた。中でバタバタ動き回る音が聞こえるけれど、少し落ち着きたい私にとっては好都合だった。……たとえそれが、物や服をその辺に放って、散らかり放題なのをごまかしているのだとしても。
「あ、あれ、智会?」
「ごめんね、突然」
「いや、別にそんなのいいけど。それより、なんで鍵……」
「うん……」
「まぁ、いいや。入って」
そういって彼の家へ招き入れられるのなんて、いつ振りだろうと思いながら足を進める。
鍵をもらっている私は、ここ数年ドアを開けてもらっていない。たいてい呼び鈴を鳴らして少し声をかけたら、自分で扉を開いてお邪魔するのだ。それは中に誰もないと分かっていても同じことで、こうして迎え入れられるのは新鮮な気持ちになる。
もしかしたら、すんなり逢ってはくれないかもしれないという私の不安を裏切って、泰知は何事もなかったように接してくる。でも、今はそれではダメだろうと口を開く。
「―――ごめん、って、まずは謝りたかったの」
玄関に入って早々頭を下げると、ため息を吐く音が響いて肩が震える。
「呆れられて、話しすらできずに終わってしまうだろうか?」と萎縮しだした勇気を知ってか知らずか、返ったのは予想よりも冷静な声だった。
「それは何の謝罪?……まぁ、いろいろ聞きたいことも言いたいことも沢山あるから、リビングまで行くよ」
ほら、なんて腕をつかまれて、リビングまで連れて行かれる。
存外優しい力加減に、拒絶まではされていないのだとほっとした。彼がお茶を淹れようとするのを見て、「私が淹れるよ」「大丈夫だから」なんて会話をしたのちも心配で、じっと背中を見つめてしまったのがよくなかったらしい。「心配しすぎだから」と、苦笑しながらたしなめられてしまった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「嫌いなシナモンなんていれていないから、安心して飲んで」
予想せず振られた話題に、思わずミルクティーを吹き出しそうになる。
「今のは、わざと狙っていったでしょう?」と恨めしげににらむと、「さぁね」と今度も軽く返されてしまう。少しいつもの調子が戻ったと思ったところで、改めて彼が切り出した。
「……それで謝りたいことっていうのは、このまえ制止も振り切って、話も聞かず帰ったこと?それとも、ここ数週間ずっと逃げ続けていたことかな?」
冷静な口調ながら、そこに含まれる怒りに充てられてびくりと体を震わせる。
相手も怯えているのがわかったのだろう。うつむき床を向く私の頭に、苦笑するような声が降り注いだ。
「まさか、本当に僕の食事に毒でも盛っていたの?」
笑いながら告げられた内容に驚いて、バッと顔を上げる。
あまりの勢いに驚いたのだろう。彼は目を真ん丸に見開いて、こちらを凝視してくる。その顔の近さに再び驚いて固まっていると、困惑した表情で彼が口を開いた。
「―――なに?冗談のつもりだったんだけど」
「そん、なじょうだん、」
言えるようになっているだなんて、思わなかった。
彼に食事を作るようになる前は、例の日の出来事を思い出させるような単語すべてに反応していた。酷いときは授業中にすら具合が悪くなって、トイレへ駆け込むこともあったから、こんな軽口たたけるようになっているだなんてと、感動ともとれる感情がじわじわと湧いてくる。
「何その、子どもの成長を喜ぶ親のような表情。僕はとっくの昔に歩行訓練を終えているし、永久歯も生えそろっているよ」
そんなの、右上に親知らずが生えていることすら知っていると思わず笑うと、涙が頬を伝い落ちた。
「あー、もう、マジで何しに来たんだよ!勝手に避けるわ、やっと逢えたかと思えば何も言わず泣くとか」
荒っぽい口調で、袖を使いゴシゴシと頬をこすられた。
向かいの席から腕を伸ばして、心底困ったという表情をする彼に申し訳なくなる。だからそれなりに着古しているであろう部屋着の刺激が強くても、ぎゅっと眉を寄せてされるがままになる。
「ご、ごめ……」
「ほんっと勘弁して。心臓に悪いから。何を謝ってるのか分からなくて、こっちはずっと不安なんだってば」
「ふあん、なの……?」
「そりゃあ今まで散々一緒にいて、迷惑かけ続けていた彼女が突然避けるようになったら、不安にもなるでしょう」
「ごめん……」
「ほら、またそうやって謝るし!」
もう、訳わかんないと笑う彼にまた謝りかけて、本当に謝ってばかりだと思わず笑う。
普段はテレビがついているか、曲でもかかっているというのに、静かなリビングには私たちの声しかしていない。
「泰知のこと、嫌いになったり見捨てたりなんて、あり得ない、よ?」
「もう、ほんっとうに、なんなのお前」
ぐいっと体を引っ張られて、彼の胸に抱きこまれる。
まるで子どもが大事な人形を抱きしめるように、痛いくらいに力いっぱい拘束された体は、微かに震えているように感じた。
いつもトラウマに関すること以外では、余裕な泰知を見慣れていたからちょっと驚いてしまう。まさか私と顔を合わせない程度で、彼がこんなに動揺してくれるとは思わなかった。
大きすぎる背中を、そっとさする。
これでは、小学生のころのほうがよっぽどしっかりしていたのではないか。そんな意地悪な言葉が出てこないほど、縋り付いてくる泰知は可哀想で……ちょっとだけ嬉しかった。
言葉でどれだけ感謝を伝えられても、愛を感じていても。結局もっと泰知にお似合いの女の娘はいるのではないかと、不安だった。これまで学校だけではなく、街中でも年齢を問わず彼にふさわしいのかと審査されてきた。
女の子は辛らつだし、かっこいい男の子の隣に、容姿の劣る女が並ぶことを良しとしない。たとえ自分とは関係ない存在でも、まるで自室に不似合いで好みじゃないインテリアを置かれたかのように、眉を寄せて批判するのだ。必要とあれば、攻撃だってしてくるけれど、みんな自分を正当化しているから罪悪感なんて感じている子の方が珍しい。
そんな値踏みの眼差しが、私を臆病にさせたのだろう。
次にかけられた言葉に、一瞬反応が遅れた。
「なぁ、なんで最近失敗した料理を、出さなくなった?」
「えっ?」
「というより、まともにフライパン煽れるようになったあたりから、失敗作食べていない気がする」
「どうして、いきなりそんな事……」
「いきなりじゃないよ。ずいぶん前から気になっていた」
この機会に、全部言ってしまえと首に腕を回され覗き込まれる。
首の後ろで緩く組まれているだけの手は、驚くほど拘束力があってあらがい難かった。常よりも、ずっと優しいまなざしと声で返答を促されて、私はなぜか無性に泣きたくなる。
徐々に歪み始めた視界越しに見える彼は……それでも馬鹿にすることなく、我慢強く待っていてくれている。カチカチと時計の音がなり、二人の呼吸すら耳に響きそうだ。こんな状況では黙っていることなんて難しくて、震える唇同士を無理やり引きはがす。
「―――だって」
「だって何?」
「だって……貴方を素敵なもので、満たしたかったんだもの」
訳が分からないといった様子で困惑する彼へ、ポツリポツリと言葉をこぼす。
母親が作った『食事』によって傷ついた彼に、少しでもいいものを食べさせてあげたかった。それは値段や希少価値といった物だけではなく、手間や心を込めた物で彼を満たしたかったのだ。それには、失敗して味が濃くなった料理や、焦げ付いたものなど含まれていてはいけなかった。
「別にお金さえかければいいとも、胃袋をつかんでしまえとも思っていないけれど、それが一番の方法だと思ったの」
ここまで話して、やっぱり自分はふさわしくないと確信した。
すぐにでも逃げ出したい気持ちが、行動に現れていたと気付いたのは、たじろぐ自分の足が机にぶつかった時だった。
「っごめ、」
それが、何にかかる謝罪か自分でも分からなかった。
机を蹴ったことか、はたまた他の行動へ対する謝罪なのか。それを冷静に分析できるだけの余裕は残っておらず、私は呼び止める声に見向きもせずにその場から逃げ出そうとして失敗した。
「っっ……」
「なぁ、そんな勝手な思い込みで、僕を置いていくなってば」
「だって、」
「だっても糞もないって。それじゃあ、『あの人』と変わんないじゃん」
自分でも思っていた以上に、彼の発言は衝撃的だった。
「―――えっ、」
「智会にはあまり話したことなかったけれど、あの人があんな事をしでかしてから、しばらく色々なパパラッチとかに追われて大変だったんだ」
泰知の口から出てきたのは、私のきいたことがないような話だった。
彼の母親があんな事件を起こしてから、同情的な声も多かったけれど、どうしてそんな事になるまで放っておいたのかと、彼の父親に対する世間の声も冷たいものだったらしい。
酷い時には療養中の彼の元まで取材は押し寄せて、まともな生活もおくれなくなった。しばらく泰知たちの姿を見なかったのは、一時父方の実家に避難していたからなのだと、この時に初めてしった。そんな経緯もあって、彼の両親は正式に離婚をし、今の関係になったらしい。
「あの人は、何度も言ったよ。離れて暮らすのは泰知のためで、本当は離婚だってしたくなかった。それでも、泰知や親父のことを思えば、私は身を引くしかなかったって」
「…………」
「酷いと思わない?そんなの、相手の勝手な都合だし、僕のせいで離婚したんだって言ってるようなもんだろう」
「そんな事はっ、」
「いや、別に今さら、母親にそんなこと言われたからって傷つかないよ。ただ、勝手に決めつけられて、冗談じゃないってだけ」
「ごめん」
「なに、この前の会話繰り返すつもり?忘れてるなら何度でも言うけど」
ぐいっと肩に両手をかけられて、引き寄せられる。
あまりに突然の事だったから、かなり至近距離に来た泰知の顔に本能的にのけぞりそうになる。けれど、それが気に入らなかったのだろう。器用に片眉をあげると、不満げに唇を尖らせた。
「僕は智会と離れるつもりはないし、例えこの『症状』が治っても、智会の料理をずっと食べていくつもりだよ」
「そんなの、私が先に死んじゃったらどうするつもり?」
「あー、その時は後を追うって言いたいところだけど、今のまま依存していたら、いざ智会が大きな病気したり、事故に遭った時に支えられないからね。治す努力はするつもりだよ勿論」
「そ、そうなの?」
「そうだよ、僕が何のために苦痛ともいえる『あの人』との食事を、懲りずにしていると思ってるの?荒療法だけど、あの原因ともいえる人とまともに食事できるようになったら、他に怖いものはないと思ってトレーニングのつもりだったんだけど」
「いや、それはちょっと冒険しすぎでは……」
「うん、そろそろ無理があるかとは思っている。でも、あの人との面会断ると、学校にまで乗り込んできそうだしさ。どうせ断れないなら、うまく利用してやろうって考えてた」
「…………」
まさか、そんな事を考えているとは思いもよらなかった。
口ではいろいろ言いながら、結局母親を放っておけないだろうと思っていたのに。私が考えるより、泰知はお母さんに対して冷静に対処できていたらしい。むしろ、冷静になれないのは私の方で、つい『泰知を害しようとするのではないか』と必要以上に警戒していた。
「この前も松崎が、見るからに市販品の菓子を自分の手造りだっていってくれるから、食べてみたりしたんだけどさー」
「えっ!」
「そんな、驚くことか?まぁ、結局一口齧ったところで気持ち悪くなって、松崎に向かって思いっきり吐いちゃって、それ以降口きいてくれねぇんだよ。まぁ、いいけど」
わざとじゃなかったんだけどなーと、笑う泰知を信じられない気持ちで見つめる。
自慢じゃないけれど、私はそういう時の対処はすばやいタイプだ。泰知と付き合ううえで、それくらいでは動揺していられない。
私が散々嫉妬したり心乱された出来事は、思いもよらないオチがついていた。泰知の事は私が一番知っていると自惚れていたけれど、まだ全然知らない事ばかりだったみたいだ。
「泰知だいすき!」
「なんだよ、突然。僕のこと散々避けてたくせに」
「離れてたら、寂しくなった!」
「智会の家族に嫌われるとか、一番恐ろしいんだから弟を壁に使うのはマジやめて」
「はい、これからは気を付けます」
大人しく返事をしながらも、また喧嘩するときは弟を盾にしようと心に決める。
きっとあのこなら嬉々として、泰知の邪魔をしてくれるだろう。
「自分のトラウマを克服してでも……絶対、離れてなんてあげないからね」
覚悟しておいてと言ってされたキスは、言葉とは裏腹にとても優しかった。




