04 レースの開幕とペイント・イット・ブラック
―― 9:00PM。
チャリンコマンズ・チャンピオンシップ開始1時間前。
山口県長門市、先崎。古くから漁港として栄えてきた地だ。
その港の脇に建設された、新たな観光スポット、センザキッチン。チャリンコマンズ・チャンピオンシップSのスタート地点である。
イカ釣り船の技術を応用してライトアップされた会場には、多くの自転車ファンたちが詰めかけていた。柱にはいくつものスピーカーが設置され、若い女の声で注意事項が繰り返されている。
この時間にこれだけ騒いでも、ご近所からの苦情はゼロだった。山口県が会場に選ばれた理由の一つでもある。タヌキやシカたちには、まだ電話は普及していない。
ときわの思っていた以上にこのイベントは注目されていたらしく、夜9時を過ぎたというのに、人はさらに増えつつある。隣に設置された臨時駐車場も、すでに車でいっぱいだった。
二見ときわはFX3とともに、受付の列に並ぶ。人の波にのまれ、やっぱやめときゃよかったと心が折れかけるが、頬をパンパンと叩いて気合を入れる。
回りを見ると、ときわと同じようなシクロクロスが何台も並んでいた。これなら変に目立つこともあるまい。
ときわはスパッツにジャージというラフな格好だが、周りにはぴっちりとしたサイクルジャージに身を包んでいる人も多い。いわゆるガチ勢と呼ばれる人たちだ。
あそこまでは、ちょっとなー。そう思いながら他に目を移すが、本当にいろんな人がいる。
アニメの仮装をしたお祭り野郎に、登下校時と同じ学校のジャージを着た学生。センザキッチンには、レンタサイクルのお店も入っている。それを借りる当日参加者もいるようだ。
受付でインカムと小型のGPSシステムを受け取ったときわは、さっそく自転車に取り付ける。タイラップ式で取り付けるGPSは、一度外すと再装着はできない。自転車のフレームに取り付けることで、運営に現在位置を知らせるとともに、不正防止にも一役買っている。
インカムを耳に当てると、明るい女の声が流れてくる。先ほどからスピーカーでやかましく聞こえてくるのと同じ声だ。内容は、ルールやスタートについての注意点など。
親友の蛍が事前にネットで調べてくれた情報と、別段違った点はない。ときわは準備をしながら聞き流す。説明がループしたのを確認すると、ボリュームのダイヤルをしぼった。
スタートまではまだ時間がある。FX3を停めるところを探しながらぼんやりと会場を見て回っていると、黒ずくめの男と肩がぶつかる。
「おっと、失礼」
「あ、ごめ……んなさいい!?」
ときわの声が上ずる。
全身黒ずくめのファッションセンスは、無くもないだろう。ジャラジャラとしたシルバーのアクセサリ類は、まだいい。
ぼさぼさで目の下の長さまである前髪も、床屋に行く暇が無かったのかもしれないので、許そう。服に合わせたのか黒の指ぬきグローブも、自転車に乗ることを考えれば考えられなくもない。
腕に乱暴に巻かれた包帯と右目を隠す眼帯は、ほら、あれだ。事故ったのかもしれないし。あとはええと、そのアニメのようなポーズも。
そんなことよりもときわが驚いたのは、彼の横にあった自転車だ。
原型がママチャリなのはすぐわかるのだが、丁寧ながらへたくそな塗装と、横と荷台に付けられた大小のペットボトル。そして、各種の反射板。
特定の時期を過ぎると布団に顔を埋めたくなるような、そんな改造が恥ずかしげもなく施されている。
「あの、それ、あなたの自転車?」
「ああ、我が愛車、『セプテム・ラケーテ』だ……」
「これは、かっちょいい……」
「ほう、セプテム・ラケーテの能力をわかるとは、貴様やるようだな……」
ときわは、ほーとうなりながらしゃがみこむと、角度を小刻みに変えながらセプテム・ラケーテを眺めた。
「我が名はダークネス・ネロ。人は、漆黒の深淵と呼ぶ……」
もちろん本名ではない。このレースではニックネームで登録・呼称されることが推奨されており、そのあたりもこのお祭り感(と怪しさ)に一役買っていたのだった。
ちなみにときわは本名で登録している。
「私は二見ときわ! よろしくね、ネロさん!」
「お、おう……」
ときわが無邪気に笑いかける。首をふるたびに、ナナメに切り揃えられた前髪がさらりと揺れた。少女が握り返してくる柔らかい手の感覚に、ダークネス・ネロの蚤の心臓は振動数を増した。
「こんなに改造してるってことは、ネロさん、もしかして自転車に詳しいんですか?」
「ふん、こんなもの、私の実力のうちのほんの一端でしかない……」
「まじかー! すっげええ! 私の自転車も、こういうの付けたいなー」
そう言われ、ダークネス・ネロはときわの自転車を眺めた。
明らかに自分よりも高価なロードバイクを見て、黙り込むネロ。そう、ネロもまた、クロスバイクとロードバイクの違いはわかっていない。
ただ一つ言えば、心の奥に嫉妬の炎が生まれるのは止められなかった。
ときわは言った。「お父さんが買ってくれたんだー」
無邪気さから出た純粋な言葉に、ネロの炎が少しだけゆらめいた。
父親、か……。
ネロは少しだけ迷って、そして告げた。
「やめておけ……。下手にいじると、魔力のバランスが崩れる。この機体は、そのままが一番美しい……」
適当に煙に巻くつもりのセリフだったが、少女は思わぬところに食いついてきた。
「え、もしかしてネロさんも魔法が使えるんですか?」
「え?」
「ほえ?」
変な空気になりかけた場を、ひときわ明るい女の声がぶち壊す。
『あーあー、テステス。皆さんこんばんはー、私、今大会の解説と実況を務めさせていただきます、リード・スミスと申します。ええ、もちろん芸名ですよ。皆さん、私を呼ぶときは、気軽にミス・リードとお呼びくださーい』
それを幸いとばかりに、ネロは少女に背を向けた。
「で、では、俺は行く。貴様が闇を追うのなら、また相まみえることもあるだろう‥…」
「あ、はい。がんばってねー!」
こうして、ときわの自転車の貞操は危ないところで守られたのだった。
『スタートまで残すところ30分を切りました。参加者の皆さん、お手元にインカムはお持ちでしょうか? ルールは事前にパンフレットなどで説明があったと思いますので、レース前にインカムの使い方の説明をさせていただきますね。
まず最初に言っておきますが、ここ山口県では携帯電話の電波が非常に不安定です。山が多すぎて電波が届きにくいという、地形的な問題なんですけどね。
というわけで公平を期すために、全員に通信手段として、専用のインカムを配布しております。あ、インカムでの連絡を優先させてもらいますけど、個人の携帯電話の使用ももちろんOKですよ。
ちなみにインカム自体は紛失しても失格にはなりませんが、大切に扱うことを強くお勧めしておきます。
というのも、そして今回のレースは夜中に行われます。ただでさえ人の少ないこの地でこの時間に道を間違えた場合、遭難する可能性がひっっじょーーーに高いです。
いえ、笑っている場合じゃないですよ、そこのあなた。いいですか、暗い夜道で崖から転落する可能性があります。ニホンイノシシに襲われる危険もあります。本気で命に関わるんですから!』
笑い声のするほうをときわが見ると、光沢のあるスーツに身を包んだ集団がいた。きっと他県出身の遠征組なのだろう。都会っ子なのだ。
『さて次に連絡方法についてですが、インカムのサイドにボタンがついているのはおわかりでしょうか。ええ、ボリュームのつまみの少し下です。
このボタンはこちらの実況席へのホットラインとなっています。ボタンを押して話せば、私と直接話すことができますよー』
ときわは説明を聞きながら、指でボタンを探る。触れた拍子に触ってしまったのか、耳元にざざっと小さなノイズが生まれた。
『おっときました、第一号はー、えーと、エントリー№056、二見ときわさんですね。花の女子高生ですかー』
「うわっ、ほんとにつながったっ!」
『はい、ほんとに繋がりますよー、テストありがとうございます。せっかくですし、質問はありませんか?』
「え? あーと、えーと、……じゃ質問です。 チャンピオンシップSの、Sって何ですか?」
『ああ、ショートの略ですね。ラブホテルと一緒です。二時間でゴールまでたどり着けるかはあなた次第ですけれど。と、もし今回のレースがうまくいけば、来年あたりにお泊りコースも計画されてい……あれ、それまだ秘密? すみません、忘れてください』
「ら、らぶ? うえっと、ああ、はい」
『ああ、忘れるといえば、うっかりボタンを切り忘れるのには注意してくださいねー。私も以前ウェブカメラのスイッチを切り忘れたせいで、全世界に恥ずかしい姿を配信しちゃいましたからねー』
ときわは下ネタに顔を真っ赤にして、聞こえないふりをしていた。
『おっと。話している間に、そろそろスタート時間が近づいてまいりました。みなさん、見えるでしょうか、あのランプが』
スタートラインの奥には、どこから持ってきたのか、どでかい赤ランプが据え付けられていた。テレビでモータースポーツのスタートに使われているもので、シングルユニットシグナルという、一番シンプルなものだ。
『あのランプが消えたらスタートになります。電気が消えるとともに、皆さん獣になるんですね。きゃー怖い』
機械仕掛けのシグナルは、ミス・リードに塩対応だった。
話をぶったぎり、会場に低い電子音が響く。待ち望んでいた瞬間が、ついに来たのだ。
ときわの手に、じんわりと汗がにじむんでいく。
『それではスタートです!』
漆黒の闇の中、チャリンコマンズ・チャンピオンシップSが幕を開けた。




