11 静かな湖畔とパニック・アタック
『さてさて、トップを独走中のスプリンター後藤選手、一ノ俣温泉郷へと入っていきます。ここは「逆さヒノキ」という名所があるんですよぉ。
ええと、池の中に立ち並ぶヒノキが池の水の面に反射して、まるで逆さに生えているように見えるので、逆さヒノキと呼ばれているらしいですねぇ。今は真っ暗で景色も何もありませんけど、ぜひ明るい時に来ていただきたいものです。
それにしても「尻を舐めろと彼は私を押し倒す」とは、やけに攻めた名前の名所ですねぇ。望むところですよぉ!』
「……ふん、サカサ…ノキだ…? そん……の、どこ…ある?」
『あれ、おかしいですねぇ、通信先が表示されません。もしもぉし、聞こえてますかぁ?』
ふいに入ってきたノイズ混じりの通信。ミス・リードの呼びかけも聞こえているのかどうか、返事はない。
「……のか? もう一度……してみろ、そんな情報は……」
ぶつっと音がして、通信は途中で途切れる。
『あ、ちょっと、待ってくださぁい! 一ノ俣山中にある池で見られるそうですよぉ。ちゃんと深夜の全国ニュースでも紹介されてましたし、ネットでも確認したんですからぁ!』
まったく、おかしいですねぇ。ミス・リードは口をとがらせる。
と、少しだけ不安になり、こそこそと手元のスマホで検索してみる。
「ええと、一ノ俣温泉、逆さヒノキ、……っと。――ほら、あるじゃないですか。変な人でしたねぇ」
ミス・リードは検索結果だけを確認し、スマホを放り投げる。リンクが途切れていることには気付かずに。
実況を聞きつつ疾走する後藤の目に、きらりと光るものが映った。湖面に自転車のライトが反射しているのだ。きらきらと揺れる水面は幻想的で。
しかし彼には、そんなものを見ている余裕はない。
そして彼は山口県民ではない。だから、異変にすぐに気づくことはできなかった。
山村はハンドルを乱暴に傾け、山道の急カーブをドリフト気味に下る。ざざざーっと夕立のような音が響く。
普段はさすがに危ないのでやらないが、レースのために貸し切りだと知っているからこそできる技だ。
軽快に山道を飛ばしながらウキウキ気分の山村だったが、先に進めば進むほど、他の参加者の姿は減っていた。
「あれ、コースまちがってないよなあ」
少し不安になる山本。
ミス・リードに通信を入れようかと迷う山村。エッチなお姉さんは男子高校生のあこがれの的だが、クラスメイトのときわも聞いているとなると、あんまりちょくちょく話しかけるのははばかられた。
なにせこっちが何も言わなくても、お姉さんのほうからセクハラ発言を飛ばしてくるのだから。
インカムのボタンにかけた指を押そうか迷っていたところで、先に小さく白いライトが見えた。
山村は「人がいたっ!」っと叫ぶと、立ち上がりスピードを上げる。が、近づくにつれ、山村の顔に不満が浮かぶ。
「やっと誰かいたと思ったら、お前かよっ! ときわはどーした?」
そこにいたのはシルクハットの殺戮者、デスペナルティだ。
「やあ、もう追いついたのか。ときわって、FX3に乗ってた女の子だよね? あの子なら道を間違えて、どっかいっちゃったよ」
「ふざけんな、お前が蹴飛ばしたんだろ、このっ!」
山村はモンテカルロを並走させると、短い左足を思い切り突き出す。
デスペナルティはあっさりとかわす。
「くそ、よけんなこのやろー!」
はっはっはと笑いながらふらふらかわすデスペナルティ。
もはや完全に子供のケンカである。
「まあ落ち着けよ、君のことは別に嫌いじゃないんだ。どうしてもって言うなら、レースらしくスプリントで勝負しないか?」
「うーん、じゃえーと、この先の一ノ俣温泉グランドホテルまで競争な! 赤い橋の前まで!」
言うが早いか、山村は即座にダッシュをかける。スタミナ配分などあったものではない、とにかく早いほうが早いのだ。
「お、おい、どこだよそれ」
出遅れたデスペナルティは、慌てて追いかけつつもインカムでミス・リードを呼び出す。
『はいはいデスペナ選手、なんでしょーって、え? ああ、ホテルですか。そこから5㎞ほど先ですね、赤い橋? はい、川沿いを緩やかにカーブした後、左手に見えますから』
いきなり飛び出した山村に、せこいなんて言っている暇はない。自分から言い出したことで「やっぱなし」なんて、かっこ悪すぎる。だいたい、文句を言うにもまずは追い付かなければならないのだから。
山村の走りには、迷いが無かった。コースは知り尽くしている。必要があったからだ。どこのコーナーが急で、どこですっ飛ばすか。彼の日常は、遅刻との闘いだった。
対して、コースを知らないデスペナルティは、山村の直後に貼り付くように追っていく。漆黒の闇の中で無理に先行しても、消耗するだけだ。ゴール直前のストレートで追い抜こうという判断からだった。
やれやれ。ため息をつきつつ、なんだかんだで楽しんでいるデスペナルティだった。
後藤が疾走していると、後ろからちらちらと動く光が見えた。数は二つ。
ほぼ同時に、追いかけてくる二人――デスペナルティと山村――も、前を行く後藤に気付いた。
「うおりゃあああ!」
さらにノリノリでペダルをこぎ続ける山村。しゃこしゃこと健気に応えるモンテカルロ。
かなり離したと思っていたが、まさか追いついてくるとは。
悪路とはいえ、後藤とてそうのんびりと走っていたわけではない。少し驚くが、トップを譲るわけにはいかない。
距離を確認しようと軽く振り返った時、後ろにいる男が例のシルクハットであることに気付く。
「貴様も追ってきていたのか!」
「なんだ、お前、まだこんなところにいたのか。これは先行してくれた彼に感謝かな」
にやりと笑いながら、フラフラと後藤の乗るORCA AEROへと近寄っていく。
「……あれ?」
最初に異変に気付いたのは、山村だった。
「やっべえええ! 間違えたぁ!」
叫びながら、きいっと高い音を立て握り込まれるブレーキ。ざああっっっと砂をまき散らし停止するモンテカルロ。
「うおっ、バカ、急に止まるな!」
大人二人は山村を避けるように大きく曲がりつつ、並んで急停止する。
「ったく。……どうした? 少年」
後藤は眼前の黒い悪魔に警戒しつつ、真剣な顔で聞いてくる。ただ事ではないという雰囲気が伝わってきたのだろう。
その空気に、デスペナルティも、舌打ちをしつつしぶしぶ耳を傾ける。
「やっべえよ。たぶん、道を間違えてる。ここ、チャリチャンのコースじゃねえよ」
「どういうことだ?」
あたりを見回す二人。前も後ろも、不気味な木々の立ち並ぶ池が延々と続いている。道はそのほとりを走っているのだが、暗くてとても見通しはきかない。
初めて見る道、しかも夜の山中である。正しいコース上かなど、判断つくはずもなかった。
「わかるのかい?」
「ああ。ここ、おれの通学路なんだ。池の横を通るのは確かなんだけどさ、すぐ池は見えなくなって、こんなに長くないはずなんだよ」
「しかし、そもそも別れ道などなかったぞ」
「俺も一本道だと思ったが」
うーん。腕を組んで頭をくねらせる山村。
コースを外れているというのは、後藤にとってはもちろん、デスペナルティにとっても問題だ。一般道で攻撃した場合、待っているのは運営ではなく警察なのだから。
「仕方ない、リード姉ちゃんに聞いてみようか?」
それしかないだろう。子供とはいえ、彼はばりばりの地域住民だ。素直に任せるべきだろうと、二人の大人も頷く。
「もしもーし、もーしもーし!!!」
『……で、……よぉ。…トップ……、……イク……』
「おーーーい! リードのねえちゃあぁぁあんっ!」
ダメだ。
大声でがなり立てるが、ノイズで話にならない。そもそもこちらの声が聞こえているのかも怪しかった。
「むー、もう少し進んでみるかなあ。ホテルはどうせ川沿いだから、そのうち行きつくだろうし」
「仕方ない、地元の勘を信用するよ」
言いながら、デスペナルティはフィニスのハンドルを前に向ける。
対して、後藤は後ろを向く。
「私は一旦戻る。迷ったときは、前の道まで戻るのが基本だからな。それになにより、こいつと同じ道をいくのがいけすかん」
びっと指をさす後藤に、デスペナルティは薄ら笑いで返した。
それから10分も走ってはいないはずだ。
後藤は、正面に見える二つのライトに、スピードを落とす。
その相手を見て、声を失った。
「お前ら、なぜここに?」
「それはこっちのセリフさ、引き返したんだろ?」
「別れ道はなかったのか?」
「ないさ、ちゃんと確かめながら走っていた」
「こっちもだ」
「これは、本格的に……遭難か?」
ざわざわと木々のざわめきが音を増した。